アンダンテのだんだんと日記

ごたごたした生活の中から、ひとつずつ「いいこと」を探して、だんだんと優雅な生活を目指す日記

ベルマークをちょきちょきする時間

2021年03月21日 | 小学生活
NHK webの記事でこんなのが
ベルマーク アナログ作業は 変わるのか
あったのですが…

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皆さん、やったことありますか? ベルマークちょきちょき。子どもが通った中で、保育園や中学校以上にはなかったですけど小学校はありましたね。

この記事の漫画にあるように「仕事わざわざ休んで学校に集まって1日作業して228円」みたいな事態になるわけですが…そして確か図書室に壁掛け時計がついたんでした。まぁ時計つけてもいいと思いますけど…それが必要だったというよりは、集まったベルマークの範囲でなんとか捻り出す感じでした。

ベルマーク活動が「強制」みたいになってくるとこの記事の下のほうにあるように、「ベルマークがフリマに出品される」ということが起こったりします。ベルマークを提出しなければいけない(あるいは整理した状態で提出しなければいけない)ということで困った人がこういうのを利用するわけですけど、「ベルマークを運営する財団は、活動の趣旨に反するとしてアプリ運営会社に売買をやめるよう申し入れました」…いやいや、この取引でいったい誰が困るんですかね。禁止することで困ってる人が困ってるままになるんですがそれが活動の趣旨ですか?

ベルマークの提出にしても整理にしても強制するんじゃほんとヒドい話で、「じゃ228円寄付するから勘弁して」と思う人がいるのも当然です。

元々、この漫画の話でいうなら「1日一人228円を稼いだ」ということですらなく、ベルマークでもらえる商品の原資は、ベルマークのついていた商品を購入した人が払ったお金の一部です。それがプールされて…ベルマークやるほうだって事務費がかかりますから、そのコストを差し引いて「壁掛け時計」とかになるのです。空しい。

では、そもそもベルマークの「活動の趣旨」はなんだったのかというと、もちろん学校になかなか必要物品が揃わないという状況から生まれたわけですけど、「壁掛け時計」が必要だから頑張ったということでなくて、今やベルマークいくらいくら集まりましたけどどうしましょう、ってなって、じゃ、壁掛け時計でも買う? って順序になるとほんとどうでもいい感じです。性質が変わってきます。

そういうわけで、じゃ、ベルマークやめます、というPTAが増えてくるのですね。そりゃそうだ。

ということを考えたときに、思い出したことがあります。ベルマークの話ではないんですが、保護者会で、「じゃ、やめちゃう?」ってなったときの話です。

--------はなひめ0歳児クラスで保護者会会長をしたときの日記より「保護者会総会」:
去年の活動報告、決算報告やら役員の承認やらはなにも議論の余地もなく、「いや、待ったぁ!そんな役員構成ではなっとくいかない!!ぜひ私が…」なんていう人がいるわけもなく、しゃんしゃんと進んだ。このまま型どおり進めて終わらせてしまったら、せっかく都合つけてきてくださった方々に申し訳ないじゃないかぁ。。

今年の活動になって、「なにかお気づきの点は」としきりに水を向けると「そういえば、リサイクルされた布団カバーはいつ配布していたんでしょうか?私もほしかったんだけど…」といったあたりから徐々に口がほぐれてくる。運動会のこと(「大玉ころがしなんてやってみたいけど。無理かなあ?」)、夏祭りのこと(「ペットボトルは飲みかけをしまえるからよかった」)…細かいこともだんだんでてきた。

いい雰囲気になってきたところで、今年の予算の説明。去年と違うところは「親睦会費の廃止」である。これはクラスごとの自主行事で使うためのお金(といっても子供一人当たり300円)、例えばピクニックとかおやつパーティーとか文集とかに使うためのもの。会の趣旨からいってもわりと重要なものだとは思うのだけれど、活用されていない実態(ただ繰り越しておいて卒園の謝恩会で使うなど)があり、廃止を提案していたのだ。

ところが、新旧役員のいずれでもなく、ふらりと参加してくださったAちゃんママの発言、「うちは今年からこの園に来たのですが、前のところ(公立園)ではずっと前からそういうのあって、ずっと続いていました。集まる日を決めたりするのは大変だけど、集まってみると楽しくて。それで親しくなって、中学生になってもときどき集まったりしていますよ」…それはすごーい。みんなちょっと魅力を感じた様子。

「うちのクラスでも、ピクニックをやって、しゃぼん玉を配ってみんなで飛ばして遊んだりしました。それだけでも、各自持参したお弁当しかないよりは盛りあがるし、予算あるから使わなきゃってプレッシャーで企画したしね」「役員会でも、総会でも人数が少ししか集まらないわけだから、それで今まであるものをつぶしちゃわないほうがいいのでは」。なんか、流れが変わりました。

それで活発な話し合いになり、
・やはりなくすには惜しい魅力がある。
・なくすにしてももっと広く意見を確認してからにしよう。今年は現状維持で、今年度のアンケート項目に入れる。
・もっと活用してもらえるように趣旨を広報する。
・親睦会用に役員と別の係を立てるのはすぐは難しいかもしれないけど、クラス懇談会のときなどに「親睦会担当してくれるひと」と募ってみれば案外、「役員はやりたくないけどそういうのなら」っていってくれる人もいるかも

というような話になった。なんか望外の展開。。「いやー私も、あの年の保護者会で親睦会費つぶしたんだよねとかあんまりいわれたくないですし、個人的にもぜひピクニックのような機会がほしいですから…(会計さんに)ごめんなさいね、削ったりまた戻したり」。会計さんは「いやぁ、元に戻すだけだから」。別の人も「なくそうかという話を出したからこれだけ議論できましたよね。漫然と続けてても活用されないで予算くさらせるんだから、紆余曲折へてよかったじゃない」

というわけで、カタチだけでない総会。になったかな
--------

保護者会/PTAの活動の目的って、(1)子どもたちのために何かやる (2)保護者(+先生)でコミュニケーションを取る の両方があると思うんですけど、クラス行事予算なり、ベルマーク集計なり、なんらか「口実」があって集まる、何かいっしょに取り組む、というのが基本ですね。

たとえばお祭りに屋台を出すとか、集まって手芸品を作ってバザーで売るとか、わいわい集まって楽しく作業して親しくなって、収益が多少なりとも出れば学校に寄付できるとか、まぁふだんからそういうことで関係が作れていれば、子ども同士の問題とか、学校の問題とかあっても対処できますしね。だから「口実」のひとつとして「ベルマーク」があってもいいのかもしれないですが…

ただ個人的には、ベルマークつまらなすぎる(^^;; からやめたらと思うんだけど…何の作業なら比較的楽しめるかとか、どういう時間帯なら比較的都合つけやすいとか、それぞれに好みや都合があるわけで、嫌でなく参加できるようにいろんな活動があるほうがいいかも。ベルマークやりたい人がそこそこいれば成立、いなければ不成立ということで。そして、いろいろ選択肢があってもやっぱりどれもやりたくない場合に強制することではない、というのが大原則。嫌々集まっても親睦深まらないし意味ない。

ベルマークってなるとつい強制的な風土になっちゃうんだったら、それはぜひ廃止した方がいい。

そして、実際に物品を学校に寄付する必要があるなら、別のやりかた(寄付金集めるとか、バザーなどほかの方法で収益を上げるとか)で一番やりやすい(嫌でない人の人数が集まる)方法を考えたほうがいいよね。上記の記事で紹介されているウェブベルマークは、損する人もなく、いい仕組みだと思うけど、「口実があって集まる」とは関係なくなりますね。

----- 今日の録音
ドビュッシー/喜びの島(暗譜練習)

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「公文、D教材の壁を越えて」後日談

2019年09月04日 | 小学生活
今でも読まれている古い記事に後日談を書くシリーズ~
公文、D教材の壁を越えて」というのは2009年の記事ですね、10年前です。

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それでも「人気記事」に表示されたりするってことはつまり、公文の「壁」に悩んでいる親御さんがいらっしゃるんでしょうね、たぶん。

公文は私たち世代が子供のころからありました。よしぞうは公文算数やってたそうです。中受勉強が山場になる前に。
そういうのがスタンダードな利用方法かと思います。計算をすらすらにしておいて受験勉強に向かう、という…
実際、よしぞうは計算に強かったんで効果はあったというか(あるいは素質か)

私は公文やってなかったんで算数と数学がイマイチだったのか(あるいは素質か)
実は大人になってから、というかまたろうとこじろうのダブル受験が終わったときに、自分で公文数学やってみたことがあります。中学生範囲から。
もちろん中学生範囲の公文数学ならわからないところはありませんが、なにしろそんなの(手で文字式計算するとか)何十年ぶりか、ほんっっとに錆びついていますので最初はのろいし間違えるしですごかったんですけど、しばらくやっていると急速に整ってくるんです。

どういうふうに注意を向けると速く正確に計算できるか掴めてきて、鉛筆すらすら動かして処理できるのが快感(笑)

公文の醍醐味は、そこいらへんにあると思います。すらすらできる快感。習熟度を高め、その先の見通しが良くなる。

2009年に書いた記事にある「壁」にぶち当たったときの公文は、最悪です。すらすらいかないプリントがそのまま(まったく同じもの)繰り返し宿題に出てきて、面倒なうえにつまらなくて、まったく役にも立ちませんし(何か新しいことが学べるわけでも習熟できるわけでもなく)勉強が嫌いになり親子関係が険悪になる以外の効果はありません。

それでも「壁」になっているプリントを出し続けた公文の先生が何を考えてたのかわかりませんが(大きな教室だったので個別対応が面倒だったのかも)、公文は教室指導者による違いがけっこう大きいので、ほかのやり方をしている先生も多いでしょう。「すいすいすらすら」を大事にすることを考えれば、
・大きく戻す
・いっそ先に進めてしまう
のいずれの手もあり、場合によっては効果的だと思います。あるいは、「壁」があまり深刻でなければ「枚数を減らす」でやる気が回復できるかもしれません。

はなひめの場合は、しばらくしてD教材の壁を越えてその先は多少スムーズに進みましたが、じゃあ「壁」を避けずにあくまでそのまま取り組んだことで何か得たかというと、時間と(親の)気力を削られたくらいで何もいいことはなかったと思います。何でも逃げればいいってことではないけど、取り組む(真剣になる、労力をかける)価値のある課題ならもっと実りあるものが世の中いくらでもあります。公文の「壁(プリント)」は単純すぎてうま味がない。

私は、あまりそのときはなひめに手をかけたくなかったためしばらく公文にこだわってしまったけれど、多少とも面倒を見る時間があるならば、調整のきかない公文より、中学受験用教材のほうがよほど使いやすいです。

中学受験するにしたって、結局のところ、計算力必要なんですがね。でも、公文くらいできなくちゃ困るでしょってことでもなく、もっと複雑でおもしろいことがいっぱいあるので、まぁそれはそれで難しさ別物というか、公文で落ちこぼれる子が中学受験(塾)で落ちこぼれるかっていうと違います。

中学受験塾に通ってもやっぱり計算練習しなくちゃいけないんですが(^^;; 公文と違って親が直接、本人にちょうどの問題を選ぶこともできますし、速さや正確性についても丁寧に見ていけますから効果も上がります。つまり、丁寧に見る必要のあるような子は、ということです。こじろうの場合、そこいらへんはケアする必要なかったので。

小学一年生ではコラショの算数に落ちこぼれ、小学三年生では公文の算数に落ちこぼれ、それでも中学受験ではN偏差値60くらいの女子校の算数ではそこそこ稼げるようになり、さらに高校では数学と物理が得意になって理系に進むんだから人生わかりません(公文では占えません)。

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こんな宿題なら

2019年05月13日 | 小学生活
宿題の話をちょっと書いたついでに、じゃあどんな宿題ならいいかなということをつらつら考えてみた。

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はなひめが六年生のときは、「自由勉強」という宿題が多かった。
つまり、なんでもよくって、なんかノートに書いて出せばいいの。

はなひめは、どのみちやるようなこと…
たとえば、計算練習であるとか、漢字練習であるとか(いずれも塾の)を書いたり、
憲法の条文を写して、それの解説を書いたり、
まぁそんなことをしていて、

うちとしてはたいへん助かる(無駄な時間を取らなくて済む)し、特に困ることもないからいいなと当時は思っていたんだけど、
本当のところ、真面目に考えれば、この宿題って積極的な意味はない。

学校の「宿題」という形をとってくれなくてもどうせやることなのだし、
どちらかといえば、散発的に学校提出用のノートのほうに勉強するというのは、散逸するから不便なだけで、何も役に立っていない。

あと、自由勉強といわれても何をしていいかわからない子とか、無理やりノートになんか書く、ってことになると
あまり有効でない宿題になっていた可能性もありそう…どうフォローされていたのか(フォローされていなかったのか)わからないけれども。

そもそも、宿題を出す目的というものを考えてみると
(1) 学習内容の定着
(2) 学習習慣をつくる
(3) 将来の自立した勉強への道筋をつける
ということだろうか。(現実問題、無意味な課題やルールを押し付けることによって先生への忠誠度を測るなどという使い方をされているような気がするがそれは置いておくとする)

(1)であれば、やはり内容は学校で今やっていることに沿うほうがよいだろうから、まったくの自由勉強よりは、「こういうことをするとよい」という提案程度があってもよいと思う。そのうえで、やり方については大幅に裁量を持たせ、自分の身につくよう、役立つような取り組み方を工夫させる。

その工夫させることがなくては、(2)や(3)には結びつかないのはもちろん、学習内容の定着だって果たせないだろう。

そして、まったくやらない子がいる場合はどうするのか…

罰を与えるとかいう発想が無意味なことはいうまでもない。脅されてカタチだけこなす宿題は学びとはなんの関係もないから。

学習内容の定着についても、学習習慣についても、もうとっくにできていてただ宿題をやらない子だったら公立小の先生としては放っておいて何も問題はないと思う。お互い困らない。強いていえば、その子もやってくるような発展的な課題の提案をしてもよいかもしれないけど、そこまで面倒みるほど暇ではないだろうから…

一方、宿題というか課題がそもそも難しすぎて取り組めないとか、そもそも家庭環境が宿題やるような感じじゃないとか、そういう子であれば罰が無意味なのはいうまでもない。罰ではなくサポートとして、放課後に個別に見てくれるという「神」対応の先生は少ないけれどいた。実はまたろうもそのお世話になったことがある(どうしても文章を自力で書けなくて、親は書くべき内容がわからなくてフォローできないから)。

宿題は、やらなきゃいけないものじゃなくて、やったほうがお得なもの。自分でやり方を工夫して、わかるように、できるように、なったらそれは楽しいし、テストでもいい点がとれて、提出したら先生がコメントくれる(認めてくれる)。

そうでなかったら、何の意味もないでしょう。そうできないなら、宿題なんて出さず、学校の授業内だけで集中して学習内容の定着を図ったほうがなんぼかマシ。


おおたとしまささんのブログ「宿題は出さないほうが子供は自ら頑張るようになる」に紹介されている本『いま、ここで輝く。〜超進学校を飛び出したカリスマ教師「イモニイ」と奇跡の教室』では「宿題」じゃなくて「おみやげシステム」と呼ばれています。「宿題って効果があるのか疑問だし、自分は宿題なんてやったことなかったし(笑)。あと、これもハッキリ言えますが、宿題じゃないのに自主的にやることで、自分の学びに誇りがもてるんですよ。だから宿題にするよりおみやげにするほうが結果的にみんなちゃんとやってくるし、時間もかけてくれる。」そんな感じ。

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「政治はPTAを放置してきた」

2019年04月05日 | 小学生活
いいことも悪いことも悪いこともたくさんある(たぶん)PTA、現状にフィットしないところもあるしどうにかしようと思っても、既にどこから解きほぐしていいかわからない。

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無駄にたいへんなところをやめるように改革しようと思っても、改革しようと思った人は、唯々諾々と「こなす」よりずっとたいへん(^^;;

我慢がまんしてればそのうち子どもは大きくなる、それまで待つほうが早い!!

そんなわけで、いろんな人に嫌がられながらも根本的な解決を見ないまま平成も終わりに近づき、
ちょうどこのシーズンはあちこちの保護者会がまた
「シーーーーーーン」
役員選びの重苦しい沈黙に閉ざされることでしょう。

たまに自力で画期的な改革にたどり着くPTAもあるけれど。

大半は、人だけ常に入れ替わり学習能力の発揮されない状態が続いていくのですね…

と思っておりましたところ、画期的と思ったニュース:
「政治はPTAを放置してきた」 異例の公約掲げた市長

「「変えよう」と提案すると「自分でやれ」と言われかねない。「それなら1年間我慢しよう」となり、いつまでも変わらない。ならば、長期的に取り組める行政がなんとかする必要があると考えました。」
…すばらしい!!

「「PTAって任意の組織でしょ?」という突っ込みが入りました。確かに、任意の組織を市長が変えるのはおかしい。でも、あり方を見直すきっかけをつくることはできます。」

そう、別にPTAで何をするかなんて市長さんに面倒みてもらうことではないんだけど。

「PTAって任意の組織でしょ?」

まさにココではないでしょうか。任意の組織としておかしい部分だけは行政になんとかしてもらう。

具体的にいえば、
・自動(強制)加入、退会拒否など
・委員・役員の強制(プライバシーに深入りするなど)
・非加入/非協力の親子の差別
など、それやっちゃダメでしょということだけは指導してもらう。市から指導されれば市立の小学校中学校(のPTA)はさすがに改めるのではないかと。

やりたい人がやれる範囲で協力するPTAにさえ戻せば、何をするかはそれぞれ話し合ってもらえばいいし、そうやって本来の「任意の組織」に立ち戻って何ができるかやるべきか考えればそう無茶苦茶なことにならないはず。

加入が任意で、かつ非加入/非協力の親子の差別をしてはいけないことがハッキリすれば、自ずから限界というか線引きも見えてくるはずで、給食費の不払い家庭分の穴埋めをPTA会費からさせるとかそりゃとんでもないってことがわかる。卒業式のコサージュとかも、別にPTAがやらなくたっていいし、やるなら希望者に実費販売するというやり方だってある。

そもそもどうーしてもPTAがしなきゃいけないことというのは基本的にはないはずで、その学校教育に必要なことであれば学校の予算とスタッフでプロとしての運用が行われるはずなんだからね。

どうしても必要、とまでいかなくても、やってよかったと思う活動は何だったかと思い返すと…

・水曜朝(全校職員会議で先生が教室に不在)の読み聞かせボランティア
・給食試食会

とかかなぁ。逆に、やめとけと思ったものは

・ベルマーク
・不審者情報の電話連絡網(平日日中は不在だらけでまともに回りゃしないのに、延々と留守電に「30代くらいの男性、黒のジャンパー、公園の砂場にいた女児におしっこをかけて…」などと吹き込まなきゃいけないやつ)
・校外イベント(講演会、他校卒業式など)のサクラ/来賓の頭数提供するやつ

とか。

まぁ、どんな活動に意義があると思うかは人によって違うだろうし、やりたい人やれる人がいて状況的にも可能であればそれはそれで。結局、なんだかんだやってるうちに保護者同士が仲良くなっておくってことに一番の意義があるような気もするし。今の状況じゃ仲良くなるどころか逆の場合もあるわけで(爆)

というわけで、任意の団体に戻そう!! 話はそれからだ。と思うんです。


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発達障害の輪郭は周囲の環境が決めている

2018年10月10日 | 小学生活
昨日読んだ記事で「「発達障害」取材した私も「当事者」だった…「生きづらさ」受け止める社会を願う」というのがあるんだけど、

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この中に
「今でも2桁以上の繰り上がり、繰り下がりのある足し算と引き算の暗算ができません」
というのがあって、「そういや私もできないな」と思った。

昔からワーキングメモリーが小さいタイプだという自覚はあって、他の人がなんでもなくできることの中でたまにできないことがあるんだけど、そんなことはさておき、外部メモリー(紙など)を使う要領ならめっちゃ磨いてきたので、総合的にいって事務処理能力はかなり高いほう。これまで大きな顔をして世間を渡ってきた(笑)

暗算なんかできなくたって書けばいいじゃん?

----- 上記記事より引用:
しかし、姫野さんが子どものころ、「発達障害」は、まだまだ一般に知られていなかった。元塾講師だった父親は、姫野さんに何度も計算ドリルをやらせた。しかし、うまくいかず、怒鳴りつけられた。

「いくら勉強してもできないわけです。下半身不随で車椅子に乗っているのに自力で歩けと言うようなものです。それがわかっていれば、あんなに算数の勉強で苦しまなくてもよかったのに…」
-----

私が子どものころにもしも、私ができないことをピンポイントに突いてきてそれをしつこく掘るような親に当たっていたらば同じことになっていたかもしれないけど(幸い、そのへんに関してはアバウトな親だった)。

「発達障害」と呼ばれる範囲は、やや漠然とした感じがあるけれど、あえて定義するなら
「発達に凸凹があることで生きづらさがある状態」
というふうに思っている。

同じ凸凹を持っていても、なんとなくなんとかなってて生きづらくないなら障害と呼ぶ必要はない。
ある凸凹が生きづらさを生むかどうかは、周囲の環境によって大きく左右されます。

なんかやたら発達障害の人が増えているように見えるとしたら、そりゃー世の中が、環境が、世知辛くなっているということなんでしょう。

またろうが保育園から小学校一年生にかけて、とても仲良くしてた(波長の合う)子がいて、まぁぶっちゃけ似ているというか、診断をつければADHDということなんだろうけど、彼がお父さんの転勤についてアメリカに行って数年して、一時帰国で会ったらお母さんが言ってた。「言葉の壁があるから不自由な部分も多いけど、あっちにいるほうが全体的には楽なんですよ。別に特別な子、ダメな子って扱われないから」

特にアメリカのほうが発達障害的な子に寛容なのかというと、一般的にそうとまではいえないだろうけど、少なくともどういう特性を持っていると生きづらいかの形は違っていて、彼の場合はOKということだったらしい。

また、こじろうが小学生のときは明らかに彼の特性(凸凹)により生きづらさを抱えていたんだけど(*) 中学受験を経て中学に入学してからは突然、それは障害ではなくなった。ちょっと不思議ちゃんでも生暖かくそのまま受け入れてもらえるようになったから。

過度の同調圧力とか、空気読めとか(^^;; そういうのが強まると「発達障害」に括らなきゃいけない人の割合はどんどん増えてしまう。それって全体にみんながなんとなく生きづらい、息苦しい環境じゃないのかなぁ。

上記の記事では、「それぞれの生きづらさを受け止めてあげる」とかいう方向へ話が進んでいくけど、そもそも、なんでもかんでも生きづらくなるのは環境のほうのつくりがうまくいってないんじゃないだろうか。たとえば…発達障害の話とは違うけど、生まれつき茶髪だったら元々はただそれだけの話なのに、黒髪強制(無理やり染めさせてでも!!)という高校だったらそれは生きづらさに直結してしまう。ほんとにあほらしい。



(*)…語彙の発達は年齢なりだったけど、文法の習得ができず、言葉がつながらなかった。文脈理解のほうもぜんぜんダメだったので「授業」ならなんとかわかるけど「雑談」がうまくできず、休み時間が怖かった。中学からは安心できる環境で過ごすうち、中三くらいのときに何かが突然つながり、今となってはまったく痕跡なしノープロブレムです。


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