礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

折口信夫「この戦争に勝ち目があるだろうか」

2021-01-31 05:10:31 | コラムと名言

◎折口信夫「この戦争に勝ち目があるだろうか」

 年末に、片付けをしていたところ、民俗学研究所編『民俗学の話』(共同出版社、一九四九年六月)という本が出てきた。柳田國男門下の錚々たる面々が執筆しており、その掉尾を飾っているのは、折口信夫(おりくち・しのぶ)の「神道の新しい方向」というエッセイ。
 以前、このエッセイを読んだとき、折口信夫というのは、こういうわかりやすい文章も書けたのかと、妙に感心した覚えがある。
 今日、この折口のエッセイは、青空文庫に入っており、誰でも容易に閲覧することができる。念のために、青空文庫を見てみたところ、表記・表現・改行等が、『民俗学の話』所収のものとは異なっていることに気づいた。ちなみに、青空文庫「神道の新しい方向」の底本は、『日本の名随筆』別巻九八(作品社、一九九九)で、底本の親本は、『折口信夫全集』第二〇巻(中央公論社、一九九六)だという。
 このエッセイの初出は、『民俗学の話』だと考えられる。だとすれば、このエッセイを、「初出」の形で紹介しておくことも、意味あることにちがいない。そう思って、本日以降、数回に分けて、このエッセイを紹介してみることにした。なお、原文にある踊り字( \/ )は、相当する文字に直してある。【、、】は、原ルビ(傍点)を示す。また、〔、〕は引用者が読点を補ったことを示す。

  神道の新しい方向     折 口 信 夫

 昭和二十年の夏のことでした。
 まさか、終戦のみじめな事実が、日々刻々に近寄っていようとは考えもつきませんでしたが、そのある日、ふっとある啓示が胸に浮んで来るような気持ちがして、愕然といたしました。それは、あめりかの青年たちがひよっとすると、あのえるされむを回復するためにあれだけの努力を費した十字軍における彼らの祖先の情熱をもって、この戦争に努力しているのではなかろうか、もしそうだったら、われわれは、この戦争に勝ち目があるだろうかという、静かな反省が起って来ました。
 けれども、静かだとはいうものゝ、われわれの情熱は、まさにその時烈しく沸っておりました。しかしわれわれは、どうしても不安で不安でなりませんでした。それは、日本の国に、果してそれだけの宗教的な情熱を持った若者がいるだろうかという考えでした。
 日本の若者たちは、道徳的に優れている生活をしておるかも知れないけれども、宗教的の情熱においては、遥かに劣った生活をしておりました。それは歯に衣を着せず、自分を庇わなければ、まさにそういえることです。
 われわれの国は、社会的の礼譲なんていうことは、何よりも欠けておりました。
 それが幾層倍かに拡張せられて現れた、この終戦以後のことで御覧になりましてもわかりますように、世の中に、礼儀が失われているとか、礼が欠けておるところから起る不規律だとかいうようなことが、われわれの身に迫って来て、われわれを苦痛にしておるのですが、それがみんな宗教的情熱を欠いておるところから出ている。宗教的な秩序ある生活をしていないから来るのだという心持ちがします。心持ちだけぢやありませぬ。事実それが原因で、こういう礼譲のない生活を続けておるわけです。これはどうしても宗教でなければ、救えませぬ。仏教徒であったわれわれの家では、ときを定めて寺へ詣る――そういう生活を繰返しておりますけれども、もうそれにはすっかり情熱がなくなっております。それからその慣例について謙譲な内容がなくなっております。
 ところが、たゞ一ついゝことは、われわれに非常に幸福な救いのときが来た、ということです。われわれにとっては、今の状態は決して幸福な状態だとはいえませぬが、その中の万分の一の幸福を求めれば、こういうところから立ち直ってこそ、本当の宗教的な礼譲のある生活に入ることが出来る。義人【、、】のいる、よい社会生活をすることができるということです。
 しかしときどきふっと考えますのに、日本には一体宗教的の生活をする土台を持っておるか〔、〕日本人自身には宗教的な情熱を持っているか、果して日本的な宗教をこれから築いてゆくだけの事情が現れて来るかということです。
 事実仏教徒の行動なんか見ますと、実際宗教的な慣例にしたがって、宗教的な行動をして、宗教的な情熱を持って来たようにも見えますけれども、それは多くやはり、慣例に過ぎなかったり、または啓蒙的な哲学を好む人たちが、享楽的に仏教思想を考え、行動しているにすぎないというような感じのすることもございます。ことに、神道の方になりますと、土台から、宗教的な点において欠けているということができます。【以下、次回】

 青空文庫とちがって、促音は「っ」であらわされている。一方、「ひよっとすると」、「ぢやありませぬ」は、原文でも、こうなっている。
 文中、「沸って」の読みは、「にえたぎって」、または「わきたって」であろう。また、「詣る」の読みは、「まいる」、または「もうでる」であろう。

*このブログの人気記事 2021・1・31(9位になぜか友田吉之助)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 言論機関を味方にする必要が... | トップ | 宗教的情熱のこれっぱかりも... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事