礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

終戦を知って宮城前にひれ伏した人々をめぐって

2012-11-19 05:34:35 | 日記

◎終戦を知って宮城前にひれ伏した人々をめぐって

 インターンネットのヤフー知恵袋に、次のような質問が載っていた。

 つい先日の朝日の夕刊にも関連する記事が載っていましたが、皆さん誰しも社会の教科書・資料集等で見たことあると思いますけど、終戦の日に玉音放送を聴きながら皇居前で国民が土下座してる写真がありますよね。あれって、1945年8月15日の正午頃に撮影された写真だとかなり多くのみなさんは信じ込んでると思います。しかも、当日の新聞記事にはさも見てきたような記事まで載ってます。あれってやらせ写真ですよね?【以下略】

 この質問に対して、「ベストアンサー」に選ばれた回答は、次の通り。

 いろいろなご意見があるでしょうが、当時小学校6年生だった私がその後新聞関係に職を得た経験から言えば、問題の写真がいわゆる予定稿であったのか、玉音放送の数時間後に実際に撮影されたものかを現時点で判定することは難しいと思います。つまり、当時の新聞社組織の中で8月15日の天皇放送について何人の人が事前に知り得ていたかが疑問ですし日本の最高国家機密がいくら報道機関であっても写真部長、カメラマンのレベルまで普及していたらば、当然もっと広く拡がっていたと思います。それと、当時の朝日新聞、読売新聞、毎日新聞のそれぞれの東京本社は有楽町近辺に集中しており、皇居まで徒歩で行っても30分とはかからない距離にありました。したがって、当日の午後3時から4時ごろまでに撮影が可能であったし、当時は夕刊の発行がなかったので、翌日の朝刊に掲載するには十分な時間的余裕がありました。私は予定稿ではなかったと信じます。つまり玉音放送後に実際に二重橋前広場に土下座して号泣した当時の都民を実際に撮影したものであると信じます。
 夕刻までに号外は出なかったと信じています。当時は新聞用紙もインクもすべて割当てであり、号外を発行する物的余裕はなかったと思われます。
 さらに、あの写真は「玉音放送を聞きながら土下座」しているわけではありません。当時二重橋広場で玉音放送が拡声器で流された事実はなかったと信じます。したがって、あの光景は放送後に集まった民衆の姿であり、当時の雰囲気をご存じなければ現代の人にはちょっと信じられないでしょうが、当時にはそのような民衆の行動があったのです。彼らは天皇を神と信じていましたから。

 ベストアンサーに選ばれているだけあって、バランスよくまとまっているが、若干不満なところがある。
 ひとつは、「当時の新聞社組織の中で8月15日の天皇放送について何人の人が事前に知り得ていたかが疑問」という点である。ポツダム宣言受諾=敗戦必至の情勢は、八月一一日以降、内務省から各県知事宛に、「治安維持についての機密指令」という形で伝達された形跡がある(後述)。そういう緊迫した情勢の中で、内閣情報局と深く関わっていた報道機関(少なくともその中枢)が、ポツダム宣言受諾の動きをキャッチできなかったはずはない。「天皇放送」についても、報道機関は事前に知らされていたであろう。現に、八月一五日の新聞には、終戦の詔書が載っており、これが、玉音放送が終了したあとで配達されるような措置が採られている。
 もうひとつ不満なのは、宮城前にひれ伏した人々が、動員されたものであった可能性を想定していない点である。
 この「動員」ということは、十分にありうることであって、私は、今から三〇年近く前、法学者の星野安三郎先生(故人)から、「アレは動員だよ」ということを、伺ったことがある。その時、「先生、そのことを示す資料がありますか」と問うと、傍証となる資料はあるので、そのうちにコピーを送ると言われ、数か月後、実際に送っていただいた。本日紹介するのは、その資料である。
 出典は、岡山県労働組合総評議会編(水野秋執筆)『岡山県社会運動史』第11巻「戦火を越えて」である。その一九五ページに、「八月一一日、内務省から小泉知事〔小泉梧郎岡山県知事〕に終戦が決定した場合という前提のもとに、治安維持についての機密指令が送られてきた」とある(「機密指令」そのものの引用はない)。
 さらに同書は、「知事はただちに県下の全警察署長を招集し『詔書必謹』の徹底を指示」したと述べている。この記述が信頼できるものだとすると、内務省からの「機密指令」は、「終戦の詔書」にも言及していたということになろう。
 そのあとに同書は、岡山県知事が、内務部長・警察部長と連名で、各地方事務所長・市長・警察署長に対して発した八月一四日付の機密文書を引用する。以下、これを重引する。

 特検機第二〇三号
現下諸情勢ニ対スル輿論〈ヨロン〉指導ニ関スル件
本日ノ廟議ニ基キ、現下ノ情勢ニ即応シ閣議ニ於テ大要左記ノ通リ輿論指導方針決定セルニ付、右ニ依リ措置シ遺憾ナキヲ期セラレ度〈タシ〉
(一) 一般的要綱
一 政府ハ事茲ニ〈コトココニ〉到ル止ムヲ得ザルノ状況ヲ公表シ、全国民ノ結束ト奮起トフ要望セルヲ以テ之ニ即応スル指導ヲナスコト
二 現下最大問題ハ聖慮ヲ奉戴シ飽クマデ国体ヲ護持シ、君民真ニ一体トナリ全国民一致結束シテ、臥薪嘗胆〈ガシンショウタン〉未曾有〈ミゾウ〉ノ艱難〈カンナン〉ニ堪ヘルコトヲ強調ルコト
三 此ノ未曾有ノ国難ヲ招来セルニ就テハ国民悉ク責任ヲ分チ、上陛下ニ対シ深キ陳謝ノ誠ヲ表シ奉ルト共ニ、皇国伝統ノ精神ヲ遺憾ナク発揮シテ、一切ノ事態ニ対処スルコトノ必要ナル旨ヲ強調スルコト
四 今後ノ難局ヲ打開スルタメニハ、戦争以上ノ苦難ニ堪ユル覚悟ヲ以テ、至難ト共ニ一路皇国興隆ニ邁進スベキヲ強調スルコト
五 時局ニ痛憤ノ余リ、同胞互ニ傷付ケ合ヒ又ハ経済的道徳的混乱ヲ惹起スルガ如キコトアラバ、皇国滅亡ニ至ルベキコトヲ強調スルコト
六 事茲ニ到レルニ付、一般的忿懣〈フンマン〉又ハ悲哀ハ之ヲ認ムルモ、廟議決定ノ方針ニ反スルモノ又ハ国内結束ヲ乱スガ如キハ不可ナリ
七 所謂戦争責任者追及ヲ論議シ直接行動ヲ示唆スル者、又ハ自暴自棄的言動ハ不可ナリ

 これは、特検機第二〇三号「現下諸情勢ニ対スル輿論指導ニ関スル件」の全文ではなく、その冒頭部分と思われる。(一)に対応する(二)以降がないからである。ただし、『岡山県社会運動史』第11巻が引用しているのは、ここまでであった。
 なお、星野先生にいただいたコピーには、(一)の三の頭に手書きで丸印が付されていた。長くなったので、本日はこれまで。【この話、続く】

今日の名言 2012・11・19

◎あの光景は放送後に集まった民衆の姿

 ヤフー知恵袋の「終戦の日に皇居前で土下座している写真は捏造か」という質問に対するmakojiji2003さんの回答の一部。上記コラム参照。

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