礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

沖縄語の耻は内地で云ふ婦人の耻かし所である

2018-10-27 01:04:02 | コラムと名言

◎沖縄語の耻は内地で云ふ婦人の耻かし所である

 中山太郎の論文「袖モギさん」(『郷土趣味』第四巻第二号、一九二三年二月)を紹介している。本日は、その七回目(最後)。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 柳田國男先生のお話で分けてもらつた沖縄県国頭郡誌を見ると『耻■坂【ハゲオソヒビラ】』と云ふ地名があり、此の地名起原の伝説が載せてある(註十二)。沖縄語の耻は内地で云ふ婦人の耻かし所であるから、此の坂で行倒れとなつて死んだ婦人の局所を掩ふてやると云ふ意味である。大昔の人々は此の行倒れ人の死に対しては非常なる恐怖の念を抱いてゐた。これは独り行倒ればかりでなく、総ての変死に対してさうであつたが就中、行路死者に関しては一層その度が深長であつた。従つて斯かる行路死者のあつた場所を通行する際には、必ずその人は柴をとつて手向けるか又たは木の枝を折つて供へたものである(註十三)。然しそれは後世に形式が略されたものであつて、古くは耻■坂のやうに衣服を掛けてやつたのが元の姿である。推古紀二十一年冬十一月に聖徳太子が大和の片岡に遊びにお出でになり、道の傍らに飢えたる者が臥てゐたので、太子自ら御衣を脱して飢者を覆ひ『しな照る片岡山に』云々と(註十四)。有名なお歌を作られたとあるが、これも又た行路死者に衣を掛けてやると云ふ思想の現はれと見ることが出来る。此の立場から袖モギさんを考へると、此の俗信が大昔の聖徳太子のそれと源流を同じくしてゐることが明白に知り得られる。昔の人々は行路病者があると、その者が瀕死の状態にあつても、息の通つてゐる間は世話などしようともせず、いづれかと云へば寧ろ死ねがしに取扱つて置きながら―勿論これには種々なる事情が存在してゐるが―一度絶息するとその死霊を恐れ、その死霊の疎び荒ぶるのを防くために、これを和め祀る風があつた。そして死骸は多く橋の辺に埋めて橋の流失を守らせるとか――即ち橋姫の起原である―又は往来の烈しい辻に埋めて亡霊の発散せぬやうに絶えず踏ましめるとか―即ち辻祭の起原である――更に坂に埋めて行路の安全を護らせたものである。従つてコホロギ僑が名の示す通り橋に由縁を有し、袖モギさんが同じく橋のあるところ又たは橋に在るのは此の為であると信じたい。それであるから袖モギさんの守護してゐる場所で、躓いて倒れると云ふことは、即ちその守護の怒りに触れたか、又たは凶事のやがて来ることを予め知らされたものと考へ、これを免かれる禁厭【マヂツク】として、その守護となりし死者に対して曽つて行つたやうな所業―即ち片袖を解いて手向けたものであらう。勿論、片袖は衣服全体を代表してゐることは言ふまでもなく、その形式が簡略化されたことも又た言ふまでもない。
 以上が折口氏の高見の大体である。私は太だ物臭い且つ失礼の極みではあるが、これを以て私の結論とする。猶ほ此の場合に袖の禁厭的の説明を加へれば安全であると思ふたが、然し総要を尽してゐると信ずるので擱筆する。終りに望み折口氏に改めて敬意を表する。 (完)

註十二、琉球には此の種の伝説が他にも存してゐる、曽て理学博士草野俊助氏からも斯か る伝説の屋久島にあることを聴いたことがある然し記憶が明確でないのでこゝには保留して置く。
註十三、柴や木の枝を折つて手向ける土俗に就いては、昔私が「柴神信仰」と題して國學院雑誌に管見を載せたことがある、参照してもらへば幸甚である。
註十四、聖徳太子の御歌は「しな照る片岡山に、飯に飢て、臥せる、その旅人あはれ、親なしに、汝なりけめや、さす竹の、君はなき、飯に飢て、臥せる、その旅人あはれ」と云ふので、歌意は自ら明白である。

 文中、■の字が表示できなかった。「敞」の下に「手」がつく字である。
 以上で、「袖モギさん」の紹介を終わる。原文では、註は、論文末尾に一括して置かれている。また、紹介に際し、原文に一定の校訂を施したが、いちいち断らなかった。今回、紹介した原文をもととして、これに、校訂注、ルビ、補注などを加えたものを、いずれ、このブログに載せたいと考えている。

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