◎一九四六年元旦の詔書に対する詔勅講究所長・森清人の見解
八月二四日のコラムで、外務省通訳養成所編纂『日米会話講座』第一巻第二輯(日米会話講座刊行会、一九四六)という文献を紹介した。また、八月二八日のコラムでは、そこに、一九四六年(昭和二一)元旦の詔書の英訳が収録されていることを紹介した。
一九四六年元旦の詔書は、昭和天皇が、みずからの「神格」性を否定したことで知られており、「天皇の人間宣言」などと呼ばれることもある。しかし、その冒頭に、「五箇条の御誓文〈ゴセイモン〉」が引かれていることは、意外に知られていないようだ。
実は、この詔書が「五箇条の御誓文」から入っていることには、きわめて重要な意味があった。
昭和天皇は、後年(一九七七)におこなった記者会見で、次のように述べている。
記者:ただ、そのご詔勅の一番冒頭に明治天皇の五箇条御誓文と言うのがございましたけれども、これはやはり何か、陛下のご希望もあったと聞いておりますが。
天皇:そのことについてはですね、それが実はあの時の詔勅の一番の目的なんです。神格とかそう言うことは二の問題であった。それを述べるということは、あの当時においては、どうしても米国その他諸外国の勢力が強いので、それに日本の国民が圧倒されるという心配が強かったから。民主主義を採用したのは、明治大帝の思し召し〈オボシメシ〉である。しかも神に誓われた。そうして五箇条御誓文を発して、それがもととなって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあったと思います。
戦後における「民主主義」の採用は、すでに明治初年の「五箇条御誓文」の中に織り込まれていたという解釈である。もちろんこれは、一九七七年にいたって、昭和天皇によって初めて示された解釈というわけではない。敗戦当時すでに、政府中枢において標準的におこなわれていた解釈だったのである。
たとえば、一九四六年(昭和二一)六月二五日、衆議院本会議で「日本国憲法案」の審議が開始されるにあたって、当時の吉田茂首相は、次のように述べている。
日本の憲法〔ここでは、「大日本帝国憲法」を指している〕は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと云ってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史・日本の国情をただ文字に表しただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります。
明治維新という未曾有の改革にあたって、明治天皇が神盟したのが「五箇条の御誓文」であった。敗戦に伴う未曾有の改革の渦中において、昭和天皇が依拠しようとしたのも、やはり「五箇条の御誓文」であった。保守主義者として知られる吉田茂首相もまた、敗戦直後、「御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります」と強調した。
すなわち、戦後の大変革の中にあって、この大変革を国民に受け入れさせるためには、この「五箇条の御誓文」の存在と、そこに示されている精神には、きわめて大きな意味があったというべきなのである。
ところで、本日、三たび『日米会話講座』を持ち出したのは、同書に引用されている、当時の新聞の投書を紹介したいと考えたからである。これは、東京朝日新聞一九四六年一月九日の「声」欄に、掲載されたものだという。
詔書民主化
○昭和二十年の年頭に際して拝した詔書は、つぎの三点において、全く異例の詔書である。
まづ第一に、君民の関係について「天皇ヲ以テ現御神〈アキツミカミ〉」とすることが「架空ナル観念」として否定されてゐることである。そもそもこの現御神の語は、大宝令の公式令詔書式に五事の別を定めて、詔書の用語例を示し、その第一・第二・第三項に「明神〈アキツミカミ〉」(後世、現御神の字を充つ)の用語例の明示されてあるのに由来するものであつて、爾来〈ジライ〉一千二百余年間の永きに亙り〈ワタリ〉、詔勅用語として使用され来つた〈キタッタ〉語で、特に続日本紀所載の宣命などには、その用例が多い。従つてその否定は、大宝令詔書式の否定といふべく、その影響するところはきはめて大きいと思はれるのである。
○つぎに注意すべきは、このたびの詔書に初めて濁点及び句読点の用ひられてあることである。明治元年以降今日にいたる詔勅の総数は、凡そ〈オヨソ〉一千一百余詔の多きに及ぶが、詔勅に正式に濁点及び句読点を付せられたのは、実に本詔書を以て嚆矢〈コウシ〉とする。この意味においてもこのたびの詔書は、現代仮名交り詔勅文創始以来八十年間の慣例を打破せられた歴史的詔書とも呼ぶべきものである。尤も〈モットモ〉濁点は、昭和十三年七月七日の勅語から同十五年九月二十七日の詔書に至る八詔勅(三詔書・五勅語)には之〈コレ〉をみるが、右は濁点だけであつて句読点はなく、詔勅に正式に濁点、句読点の使用されたのは、全く今回が最初である。従来やゝもすれば一般に硬くむつかしいと思われてゐた詔書文に、親しみと接近感を与へる効果は大きいと思はれる。また詔勅文は元来、法文の模範となるものであるから、近く改正をされる憲法も、今後制定せらるべき法律も、おそらくその文章には濁点、句読点が使用されるに至るであらう。
○最後に注意すべきは、このたびの詔書が、従来のかゝる場合の慣例を破つて、特に詔書の形式をもつて下されてゐることである。従来、政府の奏請等によらず、勅旨により臨時の小事に関して下される場合は、勅語の形式を以てせらるゝのが普通である。けだし之は大宝の制、公式令詔書式に「臨時の大事を詔と為し、通常の小事を勅と為す」とある趣旨によられしものと思はるゝが、このたびは従来のかゝる場合の慣例を破り、特に御名〈ギョメイ〉を親書、御璽〈ギョジ〉をせられて〈ケンセラレテ〉、詔書の形式を以て下されてゐるのである。
以上の三点は、詔書の沿革上全く異例に属するものであり、われ等も、この画期的新時代に対処する覚悟を新たにして、聖旨に応へ奉る〈コタエタテマツル〉ところがなければならぬと思ふ。(東京・森清人・詔勅講究所長)
投書した人物に注目されたい。森清人〈モリ・キヨンド〉といえば、戦前戦中には、よく知られた右翼思想家である。一九三四年(昭和九)年二月七日に、日本精神協会理事の肩書で内務省の中里喜一図書課長を訪ね、能の「蝉丸」を廃曲にしてもらいたいと陳情したのが、この森清人であった(今月一四日の当コラム参照)。
その、森清人にとっては、この「異例の詔書」は、形式・内容とも、許しがたいものであったはずである。ところが、投書の論調は、妙におだやかであり、また、基本的には、この「異例の詔書」を受容するものになっている。
森清人が、新聞紙上で、あえてこのような立場を表明せざるをえなくなった理由については、推測するしかないが、その理由のひとつに、「五箇条の御誓文」があったことは、まちがいない。右翼思想家であり、詔勅研究家でもあった森清人は、「五箇条の御誓文」から始まる「元旦の詔書」に抗する論理を持っていなかったということであろう。
昭和天皇が、詔書の冒頭に「五箇条の御誓文」に置いたことは、重要な意味があったし、またその効果も大きかったと考える。
今日の名言 2012・11・25
◎造本有理
詩人・造本家の平出隆〈ヒライデ・タカシ〉さんの言葉。本日の日本経済新聞「文化」欄より。この言葉は、「造反有理〈ゾウハンユウリ〉」のモジリであるが、すでに「造反有理」が死語になっている今日においては、これがモジリであることが理解できるのは、六〇歳以上の年代に限られるかもしれない。ちなみに、「造反有理」は、中国の紅衛兵運動のスローガンで、「反抗するには理由がある」という意味であった。
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