礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『支那問題解決の途』(1944)に解決の道は見えない

2013-02-23 08:13:42 | 日記

◎『支那問題解決の途』(1944)に解決の道は見えない

 昨日、神保町の古書展で、東亜調査会編纂『支那問題解決の途』(毎日新聞社、一九四四年九月)という本を入手した。三〇〇円だった。
 戦争末期の本であるが、紙質も装丁もそれほど悪くない。
 ここには、松本鎗吉「帝国政府対支態度の回顧」など、四本の報告・論文が収められているが、どれも読みごたえがあり、また「史料」としての価値があるように思った。
 本日は、田中香苗「支那戦線の現実と支那問題処理」という文章から、その一部を引用紹介してみることにしたい。筆者の田中香苗は、東亜調査会理事で、毎日新聞東亜部長である。

 こゝでの武力闘争は、勿論抗日勢力と日本といふ単純な形式が、今や日本と米英及び米英化せるものとの闘争となつて来て、戦闘の生態、性格共に苛烈徹底したものとなつてゐる。過去においても、抗日軍との戦ひに見たものは、重慶や共産党の同族たる支那民衆を犠牲にしての酷烈なものであつた。退却に際して彼等は街を、郷村を焼いた。彼等とともに戦はざるものを反逆者として処理すること酸鼻を極めた。第一線雑軍が蒋直系軍の督戦を受け、甚だしきに至ては退却出来ざるやうに、第一線要地防衛の兵は足をくさりで繋がれてゐた。同族にして同じ戦列にある戦友が、その意思に基かず強制によつて死の防壁たらしめられたのだ。かゝる死の防壁の背後で、一切の人間が抗日以外に出路がないやうに仕向けられて来たのである。彼等は日本に憎悪を燃やさしめられ、その民族的な戦ひへと変質せしめられて来た。土地も人民もありとあらゆるものが、彼等の抗日戦争手段となつてゐた。そこに戦つてゐるもの以外の支那人の存在を許さず、ために郷村は荒廃し死の苦闘を続けたのであるが、これを重慶は強要した。欧州の彼方に死闘を繰返す独ソ戦線において、ドイツはソ連の戦ひを目して「生ける屍の戦線」といつたが、まさしく重慶側の戦ひは、「支那の生ける屍の戦線」であつた。而して独ソ戦線に見るものは双方の徹底した戦ひである。惨烈に徹した戦ひである。一方支那におけるそれは、重慶側は「生ける屍の戦線」たることによつて示されるごとく、戦ひそのものも、戦ひの政治性においても惨烈さにおいても徹底した戦ひであつた。これに対し日本は、支那人を愛し、敵をも含む支那人の中から抗日勢力のみを限定してこれを打倒するといふ、極めて困難且つ複雑な戦争方式であつた。そこから戦ひそのものが、戦争の政治性に相当の作用を受けてきた。これは重慶軍との、戦ひにおける性格的対照をなしてゐる。武士道的な戦ひを異民族の中で戦つて来てゐるのだ。いはゞ戦ひそのものの形からいへば日本は不徹底戦争をやつて来たのだ。徹底戦と不徹底戦とのギャップはかなり大きいものがあらう。しかも、重慶の性格は米英の進出とともに益々大東亜の異質的存在化し、今日においては日本と米英との運命的な決戦が、そのまゝ日本と重慶との関係になつて来てゐる事実を直視せねばならない。こゝに、支那問題解決のみの面から見る武力闘争においても、徹底戦とならざるを得ぬこと及びその重圧継続的強力さが、対重慶闘争の決定的要件を構成することを知らねばならぬ。

 かなりリアルな現状報告になっている。「徹底戦と不徹底戦とのギャップはかなり大きいものがあらう」という婉曲な表現によって、筆者(田中香苗)は、この戦争(日中戦争)においては、最初から日本に勝ち目がなかったことを匂わせている。
 ここで筆者は、「支那の生ける屍の戦線」という言葉を使っている。ひとごとではない。このあと日本本土においても、東京で、沖縄で、広島で、長崎で、「生ける屍の戦線」が展開されるであろうことを予期しなかったのだろうか。【この話、続く】

今日のクイズ 2013・2・23

◎戦時中の「重慶」という言葉について、正しいものはどれでしょうか。

1 蒋介石政権の本拠地の地名をとって、蒋介石政権あるいは蒋介石軍を意味した。
2 中国共産党政権の本拠地の地名をとって、共産党政権あるいは共産党軍を意味した。
3 汪兆銘政府の本拠地の地名をとって、汪兆銘政府を意味した。

【昨日のクイズの正解】 3 飯田橋の東京逓信病院■東京都千代田区、最寄駅は、総武線飯田橋駅。

今日の名言 2013・2・23

◎戦ひそのものの形からいへば日本は不徹底戦争をやつて来たのだ

 田中香苗の言葉。『支那問題解決の途』(毎日新聞社、1944)の237ページに出てくる。上記コラム参照。

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2 コメント

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Unknown ( 金子)
2013-02-24 01:11:15
 1です。
Unknown ( 金子)
2013-02-24 01:22:11
 近衛内閣は、国民政府を相手とせず云々と述べましたが、実際に日本を相手にしていなかったのは蒋介石のほうですね。彼にとっては日本との戦争よりも、共産党の掃討こそが先決課題でありましたからね。
 蒋介石は、孫子を愛読しておりましたが、彼の用いた策略(離間の計)で功を奏したものの一つが中ソ対立であると思います。彼は、毛沢東とスターリンの間に楔を打ち込むことを忘れませんでした。手始めに長男の蒋経国を人質という形でしたが、モスクワに留学させ、スターリンは蒋を毛沢東に対する抑止力に使おうと考えていたのです。

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