◎『敵国日本』(1942)とはどういう本か
今月の一日と二日、ヒュー・バイアスの『敵国日本』(一九四二)という本の内容の一部を紹介した。しかし、この本がどういう本であるかについては、詳しく紹介しなかったし、また、創刊当時の雑誌『世界』がこの本を紹介しようとした理由についても触れなかった。
そこで本日は、雑誌『世界』の創刊号(一九四六年一月)が、この『敵国日本』という本を紹介するにあたって、「まへがき」という形で、同書について解説している文章の全文を、引用してみる。
この「まへがき」には、筆者の書名はないが、末尾に「編輯者」とあるので、恐らく吉野源三郎であろう。
まへがき
日米開戦後まもなく、一九四二年二月アメリカで、「ニューヨーク・タイムス」とロンドンの「タイムス」と二大新聞の特派員を兼ねて二十八年間も日本に滞在してゐたヒュー・バイアスの著書「敵国日本」が公けにされた。この書は「日本の国力と弱点」といふ副題が示すやうに、アメリカが新たに敵として迎ヘることになつた日本――今や完全に軍部の集団的独裁下に立つて大胆な賭博に打つて出た日本――の国力を冷瀞に分析し、その軍事力の侮りがたい強大さについてアメリカ人に警告すると同時に、その致命的な欠点を剔抉〈テキケツ〉して終局におけるアメリカの勝利を結論し、最後の章で「如何に日本を打破るべきか」を論じたものである。それはどこまでも冷静な批判に立脚し、決して単にアメリカ人の対日敵愾心〈テキガイシン〉を煽ることを目的としたものではなかつた。だが、それにも拘らず、この書は忽ちに大きな反響を呼んで数十万部の売行を示したといふ。――これについては、現に朝日新聞の中野五郎氏が「週刊朝日」その他で紹介されてゐるので、読者の中にはご承知の方も少なくないと思ふ。こゝに掲げるものは、同書のより詳細な紹介である。
同時にこれは、恐らく読者も興味を抱かれるに違ひないもう一つの紹介の意味をもつてゐる。といふのは、この文書には次ぎのやうな来歴があるからである。――
「敵国日本」の原書は第一回の交換船によつて早くも日本に齎されたのであつたが、戦争の真相を国民に知らせることすら極度に惧れてゐた検閲当局は、軍部の独裁について忌憚のない批判を加へ日本の弱点を指摘してゐるこの書を、無論そのまゝにはおかなかつた。この書は直ちに厳重な禁制書目にの中に入れられ、その内容を国民に伝へることは厳禁された。かういふ検閲方針によつて国民が戦争の最終の日まで如何に盲目にされてゐたか、特に相手国たるアメリカについてどのくらひ理解を欠き、安易極まる観念を植ゑつけられてゐたか、それは今日では白日の下に曝されてゐる。日本人は敵を知らず、己れを知らないまゝ、存亡の大事を決定してゐたのであつた。しかも皮肉なことには、正にそこにこそ、日本の最大の危険のあることをバイアスはこの書で指摘してゐるのである。だが、日本にもこの点についての反省が全く欠けてゐたわけではない。さういふ人々の間で、ひそかにこの書の紹介が企てられた。厳重な監察の眼をくゞつてこの書の抄訳が作られ、騰写によつて僅か数部ではあつたが有力な方面に秘かに回読されてゐた。その際この紹介は、単にアメリカ人が如何にこの戦争を考察してゐるかを知る資料としてだけでなく、軍部の独裁の下に驀進しゝある祖国の運命について憂慮を禁じ得なかつた人々の意思を代弁するといふ政治的な意味をももつてゐたのである。しかし、まもなく、このことは憲兵隊に嗅ぎつかれた。例によつて、筋を辿つて関係者が次ぎ次ぎに拘引され、終に原書も謄写本も発見された限りは押収されてしまつた。そして、たゞ一部の謄写本だけが辛うじて押収を免れて某所に残つた。こゝに掲載するものは、――実はほかでもない、その残存した謄写本なのである。
本書の目次は次のやうになつてゐる。
第一部 日米戦争断想
第一章 日本の意図
第二章 日本海軍政策の変遷
第三章 戦争の規模
第二部 日本の政治制度
第四章 誰が日本を動かすのか
第三部 日本最近の国情と国民心理
第五章 経済的・軍事的地位
第六章 日本に勝つ道
これによつても明らかなやうに、この書は日本の国力を分析するといつても、日本の生産力を詳細に分析することよりも、日本の政治制度の特質の吟味や、最近の国情並びに国民心理の解明に主として力を注いでゐる。そして、その点で敗戦後の今日でも――いや、敗戦後の今日でなほ一層、われわれのよき参考となると思はれる。日本をこの戦争に駆りたてこの悲惨な情況に陥れた原因が単なる偶然的なものではなく、むしろ制度的欠陥にあることを明らかにし、如何なる欠陥が存在したか、また残存してゐるかをはつきりと認織することは、今や諸制度の根本的な革新を当面の問題としてゐるわれわれにとつては、何よりも先決問題である。勿論、制度は公けのものとしてわれわれの前にある。しかし制度の欠陥はその運用において実証されるのに、この運用の真相はわが国〔日本〕では屡々国民の窺ひ知ることのできない霧の中に包まれてゐる。政治において決定的に重要な事柄が、どんなに秘密裡に処理されて来たことか。国民の運命にとつてこれほどまで重大な結果を齎した開戦の決定さへ、そこに至る経緯の真相はまだ国民の前に悉く明らかにされてゐないではないか。――この点で、四分の一世紀以上に亘つてわが国の政治事情を冷静に見守つて来た優れた外人記者の記述から教へられるところは非常に多い。タイムスの東京支局長の位置にゐたバイアスは、外国人ではあるとはいへ、一般の国民よりはかへつてわが国の政治の上層部に知己をもち、その間の事情に精通してゐるし、且つ外国人なるが故に日本人の触るゝことを許されない範囲について拘束されることなく語る自由をもってゐるからである。
本号には全体のうち第四章の半ばまでを掲げた。後半は次号に掲載する予定である。後半において述べられてゐる日米戦争の見通しは、今日これを読みかへす場合、殆ど掌を指すやうに的中してゐる点でわれわれを驚嘆させるのであるが、紙面の都合で残念ながら本号には割愛せざるを得なかつた。(編輯者)
今日のクイズ 2013・2・5
◎1942年にハーバード大学哲学科を卒業し、同年の第一次交換船でアメリカから帰国した人物を、次のうちから選んでください。
1 都留重人 2 武田清子 3 鶴見俊輔
【昨日のクイズの正解】 2 帝蓄工業株式会社 ■帝国蓄音器株式会社は、昭和19年の5月、帝蓄工業株式会社と改称した。
◎日本人は敵を知らず、己れを知らないまゝ、存亡の大事を決定してゐた
雑誌『世界』の創刊号(1946年1月)が、ヒュー・バイアスの『敵国日本』(1942)を紹介するにあたっておこなった解説の中に出てくる言葉。上記コラム参照。
それは先に述べた人物等がそれにあたり、戦争前の日本然り、朴正煕然り、李登輝然りであります。