◎ラ・ボエシー「自発的隷従を排す」(16世紀)について
最近、理由があって、ルネサンス期のフランスの文人ラ・ボエシー(一五三〇~一五六三)の「自発的隷従を排す」という論文を読んだ。
これが、実に興味深い。二一世紀の今日読んでも、全く古くさくない。むしろ、二一世紀の今日、読まれるべき文章ではないかと感じた。
本日は、その冒頭に近い部分を、少し、引用してみたい。
今ここでは、かくも多くのひとびと、町、都市、国家が、ただひとりの圧制者の存在を一度で忍容してしまうことがどうしてあり得るのか、それだけを知りたいと思う。この圧制者は、彼等が彼に与える権力しか持たないし、彼等が彼を忍容しようとする気持をそれほどに持つのでなければ、彼のほうから彼等を害する力は持ってはいないし、また、彼等が彼に抗議するよりも彼を許容するほうを好むのでなければ、彼等にどのような損害を加えることもできないだろう。たしかにこれは大問題だ。しかし、非常にありふれたことなので、百万ものひとびとが首に軛〈クビキ〉をかけられてみじめにも隷従している姿を見てさらに嘆き悲しむのは随分なことだし、またあきれかえらずにいるのもなかなか大変だ。彼等はあるひとつのより大きい力によって強制されているのではなく、「ひとり」の名前だけによって何とはなしに(と思われるが)魔法をかけられ魅惑されているのだ。彼等はそのひとりの権力を、彼がただひとりである故に、恐れるべきではなく、また彼等はそのひとりの資質を、彼が彼等に対して非人間的であり野蛮である故に、愛すべきではない。しかし、われわれ人間たちの間にある弱さは、しばしば力の前には従わなければならないほどのものだ、時を待つことは必要で、われわれは常に最も強いものではあり得ない。それ故、もしあるひとつの国家が、独裁者三十人党に従ったアテーナイ市のように、戦争の力によってひとりに隷従させられるとしても、その隷従に驚いてはならず、そのような事態をこそ喚くべきなのだ。いやむしろ、驚いても嘆いてもならず、忍耐づよく不幸に耐え、よりよい幸運の伴う未来を待ちうけなければならないのだろう。
荒木昭太郎氏の訳。出典は、世界文学大系74『ルネサンス文学集』(筑摩書房、一九六四)である。タイトルの「自発的隷従を排す」は、翻訳に際して付けられたもので、正式には、「自発的隷従論」だという。【この話、続く】
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