礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

津村秀夫、『カサブランカ』を酷評する

2014-03-08 07:39:58 | 日記

◎津村秀夫、『カサブランカ』を酷評する

 昨日の続きである。映画評論家・津村秀夫の『映画の美』(光風館、一九四七)に収められている「カサブランカ」という文章の後半。アメリカ映画『カサブランカ』(一九四二)についての映画評である。

 ――けれども第三に、之こそカアテイヅの頭を知るに重要な点だが、つまりこの映画監督に真実の「涙」がないことだ、抒情の美しさもないことである。たとへば主人公がベルクマンの昔の女に邂逅して懊悩する深夜の描写。その女が訪れて亦忽然と帰つてゆくあたりはカアテイヅとしては珍しく湿り気がある。しかし紡局のところはこの主人公の苦悩を抉り〈エグリ〉得てゐないので、たとへばパリに於ける男女の楽しかりし追憶描写でのふくらみも閃めき〈ヒラメキ〉もないそのタツチを見よ。このベルクマンは渡米後まだ多く作つてゐない初期の頃の彼女に属する一が、(多分四、五本目)それにしても矢張りベルクマンを能く使ひこなしてゐるとはいへない。これだけのベルクマンなら、最初の登場に於ける微笑の美しさ位で、決してをどろくべき女優でもない。しかしこれは寧ろカアテイヅが後半のやうな心理的もつれを深く抉り得ない能力に帰すべきであらう。従つてベルクマンの鉱脈を全面的に発掘し得なかつたのであらう。何しろこの作品の男女には、激烈な火花が散りさうでゐて、実はつひに発火しないのが物足らない。
 マイケクル・カアテイヅ。彼も又ひとたびアカデミイ賞を得た以上はハリウドの一流大監督である。しかし、この人の頭には何か機械的な確実さと同時に硬さが感じられる。もしジヨン・フオオドを真に生粋〈キッスイ〉のアメリカ的精神に富む映画監督とすれば、カアテイヅは決して純粋にアメリカ的とはいへないかも知れない。彼には西部の精神はない。けれどもカアテイヅもまたより新しいアメリカを表す意味ではアメリカ的といへるかも知れないのである。少くとも、その映画構成の形式に於て、その神経に於てはアメリカ的なものを表してゐる。「何んでも屋さん」だつた雑駁な彼にしては兎に角〈トニカク〉これは出色の作に違ひないのだが、しかし、その半ば以上は脚本の特異な趣向、即ち情景の採り方や物語の目先の変つた御膳立に負ふ所が大きいことも確実である。組立は実にガチリと均整がとれてゐて、そしてカアテイズも破綻なくまるめあげ、奇麗に割り切つて見せてゐるのだが、その割り切り方がむしろ気になる位である。しかしそれ以上を彼に求めるのは無理であらう。ちなみに、アメリカで作られた日本版故に撮影効果は矢張り美しい調子が出てゐて、「エイブ・リンカーン」などとは、くらべものにならない。が、矢張りあのスウパアインポーズ〔字幕〕の横書き形式や翻訳の拙さは甚だしく鑑賞の妨げとなると思つた。

 後半になると、このように厳しい評価になっている。これは、今日、定着している『カサブランカ』評と比べたとき、酷評が過ぎると感じられる方もあるかもしれないが、先入観を排して読めば、この映画評は、実に鋭いところを衝いており、出色であると思う。ただし、マイケル・カーティス監督に対する津村秀夫の評価は、やや攻撃的と思えなくもない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 津村秀夫、『カサブランカ』... | トップ | 内田百間と「漱石全集校正文法」 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事