◎人糞事件を和歌に詠んだ内村鑑三
昨年の一〇月三日、このブログに、「内村鑑三、和歌を引いて黒岩涙香の要請に応ず」というコラムを書いたことがある。一八九七年(明治三〇)初頭、内村鑑三は、『万朝報』〈ヨロズチョウホウ〉の社主・黒岩涙香〈ルイコウ〉から、入社の要請を受けた。最初は固辞していた内村だったが、黒岩のたっての頼みに対し、黙考久しく、ついに頼みを受け入れた。
受諾に際し、内村は、一首の和歌を引用した。
「思ひきや我が敷島の道ならで浮世の事を問はる可しとは」
さすがは明治の教養人である。もちろん私も知らなかったのだが、この歌は、『太平記』にあるもので、二条中将為明〈タメアキラ〉が詠んだものだという。後醍醐天皇の倒幕計画が洩れたとき、その側近であった為明は、「思ひきや我が敷島の道ならで浮世の事を問はる可しとは」(思いもしなかった、和歌のことでなく、浮世のことについて聞かれるとは)と詠み、六波羅探題からの追及を逃れたという。内村鑑三は、その故事を踏まえて、この歌を引いたのである。しかも、これを引いて、涙香の要請を断ったのではなく、逆にその要請を受け、「浮世の事」に関わることにしましょう、伝えたのである。
なかなか味のある話である。内村鑑三という人は、以前から敬愛している人物であるが、この逸話を聞いて、さらに敬愛の度を強めた。
さて、以上は前置きであって、本日は、内村鑑三が詠んだと目される和歌を一首、紹介してみよう。
「陸奥〈ミチノク〉の 雪に黄金〈コガネ〉の 花咲きて 匂ひぞわたる 末の松山」
これは、『東京独立雑誌』第二〇号(一八九九年一月二二日)に掲載されている「末謙人糞事件」に引かれている和歌である。この文章を書いているのが内村であることは間違いないが、和歌が、内村の自作かどうかは、ハッキリしない。ここでは一応、内村の自作ということにしておこう。和歌についての教養があった内村のことであるからして、自分でも和歌を詠んだと考えても、おかしくはない。
この和歌は、憲政党の末松謙澄〈ケンチョウ〉が、青森で人糞をかけられた事件(一八九九年一月一一日)を題材にしたものだという。【この話、続く】
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