礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

鈴木貫太郎はなぜ自決しなかったか

2013-04-27 22:24:12 | 日記

◎鈴木貫太郎はなぜ自決しなかったか

 終戦時、首相の地位にあった鈴木貫太郎に、『終戦の表情』という著書がある。著書といっても、正確には、その談話をまとめたものであり、しかも、六四ページの小冊子に過ぎない。表紙には、「月刊労働文化別冊」とある。一九四六年八月、労働文化社刊で、定価は三円五〇戦である。非常に粗末な冊子だが、内容は意外に充実している。
 本日は、その中から、「生き抜く日本」いう一文を紹介する。

 生 き 抜 く 日 本
 終戦後或る人が余に向つて、「あなたは何故自刃しないのです」と詰問されたことがある。
 その時余ははつきりと「私は死なない」とお答へして置いたが、余が自決せぬと決意をしたのは、命が惜しいのでも何でもない。命を始めから問題にして居ない者にとつては、死といふことは、最も容易な方法で、何でもないことだ。
 余は既に二・二六事件の時に一度は死んで居るのであるから、生きられるだけ生き日本の今後の再建をこの眼で見届けて行きたいと念願してゐる。生死はその人の信念の問題である。昔、支那の或る忠臣が友人に後事を托して殉死した時、次のやうなことを言ふて居るが、全くその述懐の通りである。「自分は易しい方をやる、済まぬが君に難しい方を頼む」と。誰もが殉死し、それで責が済ませるものなら問題はないと思ふ。累積する不名誉が嫌だから死ぬといふ考へ方の人もある。さういふ意味からすれば、余などは最も不名誉なものであらう。降参するといふこんな不名誉なことはない、しかも自分の名誉などといふ小さな問題ではない、陛下の、国家の不名誉を招来したのであるから責任は誠に重い。だがその結果民族が残り、国家が新しく再生することになつたのであるから、この民族の将来に対して余は心から名誉ある国家としての復活を願ひ、余生を傾けて真に国家が健全な肉体になつてゆく迄見守つてゆくのが自己の責任だと痛感してゐる。
 そのため余は半歳に渉る流転の生活を続け、かの八月十五日朝、暴徒の難を逃れてから、或る時はせまい他人の家に仮寝の夢を結び、一週間位で慌しく他へ移転するといふ、去年一二月郷里に落ちつく迄数回に渉り転々と逃避の生活を送つたのである。

 鈴木貫太郎が二・二六事件で、一命を取りとめた話については、昨年一一月三〇日のコラム「鈴木貫太郎を蘇生させた夫人のセイキ術」を参照されたい。

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