礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「小野武夫先生の思い出」入交好脩

2013-11-07 06:57:15 | 日記

◎「小野武夫先生の思い出」入交好脩

 先日、必要があって社会経済史学会の機関誌『社会経済史学』のバックナンバーを見ていたところ、その第一六巻第一号(一九五〇年四月)に、小野武夫博士を追悼する文章が三つ載っていた。順に、野村兼太郎〈カネタロウ〉「小野武夫博士を憶ふ〈オモウ〉」、古島俊雄「小野武夫博士の学的業績」、入交好脩〈イリマジリ・ヨシノブ〉「小野武夫先生の思い出」である。
 最初のふたつは、かなり長いもので、入交好脩のものは比較的短い。しかしその入交のものが、一番心がこもっているという印象を受けた。本日は、その入交の追悼文を紹介してみよう。

 小野武夫先生の思い出  入交好脩
 農学博士小野武夫先生には、昭和二十四年六月五日朝、再発された脳溢血を以て長逝された。享年六十四歳である。洵に〈マコトニ〉先生の長逝は、唯に日本経済史学界の損失であるのみならず、広く日本の学界のもつた在野の一碩学〈セキガク〉を喪つた〈ウシナッタ〉という意味に於いて、寂蓼の感一入〈ヒトシオ〉に深いものがある。
 先生は、大分県大野郡百枝〈モモエダ〉村大字川辺に明治十六年八月三日呱々の声を挙げられ、同県立農学校を卒業後は、笈〈キュウ〉を負つて東都に上られ、昼間は農商務省雇〈ヤトイ〉として勤務されつゝ、夜間は一国民英学会及び法政大学夜間専門部政治科に通はれ、所謂苦学力行、されつゝ農業経済及び農学史の基礎知識を涵養された。大正二年、帝国農会に入られて永小作〈エイコサク〉慣行の調査に当られ、同九年よりは農商務省に移られて永小作問題の本格的調査に参画された。かくて数年間文字通り驚異的精力を以て全国各地を実地踏査され、実証的史料に基いて多数の特別研究、即ち「深野新田永小作」、「吉野川沿岸の永小作問題」、「旧鹿児島藩の門割〈カドワリ〉制度」、「旧佐賀藩の農民土地制度」等を発表され、遂に帝国学士院の研究補助の下に、不朽の慣行調査たる「永小作ニ関スル調査」を完成された。また、その副産物たる「郷士制度の研究」は当時の東京帝国大学農学部に学位請求論文として提出され、大正十四年農学博士の学位を授与さるゝに至つた。先生が法政大学の出身であり、しかも当時全く在野の一学究であつたにも拘らず、学閥の五月蝿き〈ウルサキ〉東京帝国大学に於いて、かゝる栄誉を享受されたといふことは、先生の原史料による実証的研究が如何に前人未踏の分野を開拓せられたものであつたかを物語るものであらう。
 爾来、先生は逝去の日に至るまで全生涯を通じて研究に没頭せられ、「農民経済史研究」、「徳川時代の農家経済」、「日本村落史考」、「農村社会史論講」、「土地経済史考証」、「日本村落史概説」、「日本兵農史論」、「日本農業起源論」、「日本荘園史論」、「明治前期土地制度史論」、「地租改正史論」等々の著書並に〈ナラビニ〉「徳川時代百姓一揆叢談」(二冊)、「近世地方経済史料」(十巻)、「日本農民史料聚粋〈シュウスイ〉」(未完)等の編纂を完成され、その総数五十余点等身大に及ぶと謂はれてゐる。洵に、先生の御生涯は努力の結晶であつて終生学問の研究を捨らるゝことがなかつたことは、或ひは現実の政治の面に関与され、或ひはまた学校行政の面に参画さるゝことの多い日本の学者としては稀有〈ケウ〉の例であらう。勿論、先生の六十余年の御生涯の上に於いては、前記の如き誘惑が絶無ではなかつたが、しかし直接関与されたものゝ大部分は、社会経済史学会や日本学術振興会等の如き研究団体であつたことは、学者としての先生のために幸であつたと謂はなければならない。かゝる意味に於いて、曩に〈サキニ〉先生の還暦を記念するため、社会経済史学会を中心として東洋・西洋・日本経済史学会の新進・中堅・大家の労作を網羅したる「農業経済史研究」(四巻)が編纂されたことは、斯学界が如何にその学績を高く評価されたかを実証する記念塔であると謂ふべきであらう。【以上が前半、後半は明日】

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