礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

殷王朝の崩壊と大日本帝国の崩壊(白川静の初期論文を読む)

2013-01-02 05:12:38 | 日記

◎殷王朝の崩壊と大日本帝国の崩壊(白川静の初期論文を読む)

 今、机上に『立命館文学』の第六二号(一九四八年一月)がある。本文六四ページ、紙質が悪かったらしく、すでに黄色く変色してしまっている。
 そんな粗末な雑誌であるが、白川静〈シラカワ・シズカ〉の初期の論文「卜辞の本質」が載っていることで、私にとっては、万金の価値がある。
 当時の白川静の肩書は、立命館専門学校教授である。ちなみに、歴史家の奈良本辰也〈ナラモト・タツヤ〉は、同誌同号に「石庭雑感」というエッセイを寄せているが、彼の当時の肩書は、「立命館大学教授・立命館専門学校教授」である。肩書においては、年少の奈良本辰也(一九一三~二〇〇一)のほうが、年輩である白川静(一九一〇~二〇〇六)をリードしていたようである。
 白川論文は、二三ページに及ぶ本格的なものだが、以下に、その末尾にあたる部分を紹介してみたいと思う。

 卜辞〈ボクジ〉的世界は、まことに王者が一切を知られざる神の啓示に俟つ〈マツ〉ところの素樸〈ソボク〉なる世界ではない。王はすでに現実的な権威としてあらゆるものに君臨してゐる。神意を啓示すべき亀卜〈キボク〉さへもが、王の権威を支へ、その志向に従ふべきものとされてゐる。神亀の神聖性は王の神聖性の返照であり余映であるに過ぎない。神聖性の主体は窮極的には王の現実的権威であり、その超越性であつた。
「干支卜王」といふ定型をもつ一群の卜辞は、卜辞第二期祖庚祖甲期、第三期廩辛〈リンシン〉庚丁期の時代のものと考へられてゐる。それは前にも述べたやうに一般の辞例と異つて貞卜〈テイボク〉すべき事項を記さず、概ね十次にわたつて連卜され、そのたびに「干支卜王」の四字が刻されてゐる。【中略】亀卜の神聖性はさきにも述べたやうに王者の神聖性に連なる。すでに神亀を聖化する儀礼が存したとすれば、王そのものをも俗より遠離する聖化の儀礼が存したことをも考へられる。全く対象をもたない貞卜といふことは、考へることができないからである。すなはちこれらの卜辞は王者を対象としたものであり、王を修祓〈シュバツ〉し聖化する儀礼に伴ふものと解する外ないと思ふ。
 卜辞第二期第三期は、第一期の武丁期とともに貞卜が貞人集団の手によつて行はれてゐた時代であり、王親卜の形式はまだ見出されない。従つて胡〔光宣〕氏の如く卜王の王を貞人とみ、あるひは王の親卜と解することも妥当でない。第四期武乙文丁期には、いはゆる干支貞形式とよばれで、貞人の名を記さない形式が行はれてゐる。これは卜辞款式上の一つの大きな変化といふべきものであるが、この期に至つて貞人の名が突然見られなくなるのには、何らかの理由がなければならない。思ふに第一期より第三期に至る時代においては、現実約な世界の支配者たる王と、宗教的な世界の担持者たる卜者貞人との間に職掌上の区別があり、両者は分離してゐたと考へられる。王は直接貞卜行為に関与することなく、専ら貞人をしてこれを担当せしめてゐた。王の聖化のために修祓的な意味で「卜王」のごとき貞卜行為が行はれうるのは、かういふ世界に於てでなければならない。しかるに国家生活における統一性の要求が強まるにつれて、二元的な世界はいつまでもそのままであることは許されなくなつた。貞人はその宗教的な地位から引き下され、専ら王の意志を奉戴し、亀版を擁して王者に事へる王官となつた。干支形式は、このやうな聖王による国家統一の志向の上にあらはれたものと考へられる。
 第五期の帝乙帝辛期、すなはち殷王朝の最末期に至ると、王親卜の形式が現はれる。この期においても干支貞形式のものもあり、また貞人として黄冰の二人の名が知られてゐるけれども、王親卜の形式はすでに支配的である。現実的な世界と、宗教的な世界とが、国家のより強い統一性への要求に応じて、ここに王の絶対性は揺ぎなきものとなつた。侯家荘〈コウカソウ〉の遺跡からは第四期第五期の卜辞が最も多量に出土してゐるが、ここに造営された壮大な古陵墓は、当代における王権の著しい伸張を示すものと考へてよいであらう。

 長々と引用したが、紹介したかったのは、殷代における「貞卜」の形式の変遷について、白川静が、どのような見解を示しているかということではない。
 読んでいただきたかったのは、実はこのあとである。白川は、以上のようなことを説き来ったのち、この論文を次のように締めくくっている。

 殷の王朝は帝辛を最後の王として崩壊した。それは歴史時代の諸王朝の滅亡とは大いにその様相を異にしてゐたやうである。殷はその最末期において、王権の伸張その極に達してゐたと思はれる。第四期第五期の卜辞内容は、この期の王者がしきりに盛大な田猟を試み、あるひは遠く征師を起して諸方を征伐してゐるが、殷王朝の崩壊は実に王権がその頂点に達したとき突如として捲き起されたのであつた。それは社会史的政治史的に興味のある課題であるが、より多く精神史的興味を誘ふ。卜辞は単に貞卜行為の残滓〈ザンシ〉たるものでなく、そこには精神史的な意味が包まれてゐるのである。紂〔帝辛〕は周の武王との一戦に破れ、自ら焚死したと伝へられる。殷王朝の急激な瓦解は、古代的神政国家の終焉を意味するものであつた。卜辞において表象されてゐた現実的権威と宗教的権威との古代的統一の世界も、遥かな歴史の彼方に姿を消した。かくして新たに理性的国家、政治的国家としての周王朝が興起する。卜辞の表象する世界は、実に古代的神政国家、古代的帝王の存在性格そのものに外ならなかつたのである。 昭・二〇・五稿・昭二二・一一補

 この文章が書かれた日、および補訂された日に注目されたい。この文章は、敗戦の数カ月前に脱稿され、敗戦から二年以上たってから補訂されている。
 想像するに、論文の最後の段落は、戦後における補訂の際に、付け加えられたのではないだろうか。
 この間、白川静は、大日本帝国の崩壊を体験している。
 大日本帝国はその最末期において、皇権の伸張その極に達していた。大日本帝国は、遠く征師を起して諸方を征伐したが、その崩壊は実に皇権がその頂点に達したとき突如として捲き起された。大日本帝国の急激な瓦解は、神政国家の終焉を意味するものであった。現実的権威と宗教的権威の統一体としての大日本帝国は、遥かな歴史の彼方に姿を消した。
 すなわち白川は、この最後の段落において、あきらかに、殷王朝の崩壊と大日本帝国の崩壊とをダブらせている。
 もちろん、白川が敗戦よりも前に、崩壊に瀕した大日本帝国を実見することによって、この論文の結論に到達したという見方も可能である。だとすれば、白川は、昭和二〇年五月の段階で、最後の段落を含む原稿を完成させていたと考えてもよいのだし、それもまた魅力的な考え方ではある。
 私が、この古びた小冊子を入手したのは、たしか昨年のはじめのことであった。まず白川論文を読み、一驚した。やはりこの人は、ただの漢字学者ではなかったという印象を持った。当時はまだ、ブログというものを初めていなかったため、その感想を書こうとも思わず、また発表するような場所もなかったが、新年になって、この論文を思い出し、紹介させていただいた次第である。

今日の名言 2013・1・2

◎殷王朝の崩壊は実に王権がその頂点に達したとき突如として捲き起された

 白川静の言葉。「卜辞の本質」(『立命館文学』第62号、1948年1月)の最後の段落(41ページ)に出てくる。上記コラム参照。

*昨年、アクセスが多かったコラム* 昨年、アクセス数が多かった日と、その日のコラムについては、12月31日に紹介させていただきましたが、その12月31日のアクセス数が意外に伸びましたので、ランキングを訂正します。順に6位まで挙げます。
1位 7月2日   中山太郎と折口信夫(付・中山太郎『日本巫女史』)
2位 9月20日  柳田國男は内郷村の村落調査にどのような認識で臨んだのか
3位 9月17日  内郷村の村落調査の終了と柳田國男の談話
4位 12月31日 家永三郎の「天皇制と日本古典」にみる国家と宗教
5位 9月5日   雑誌『汎自動車』と石炭自動車の運転要領
6位 12月19日 盛り上がらなかった第20回衆議院総選挙(1937)

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