礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

松尾正路の紹介で知るプレヴォーパラドルの生涯

2013-08-12 08:25:05 | 日記

◎松尾正路の紹介で知るプレヴォーパラドルの生涯

 昨日のコラムを補足する。『近代思想の成立―フランス・モラリスト―』の著者プレヴォーパラドルという人物について、わかる範囲で紹介してみよう。
 ウィキペディアによれば、Lucien-Anatole Prévost-Paradolは、フランスのジャーナリスト、エッセイスト。一八二九年にパリで生れ、一八七〇年にワシントンで没した。
 松尾正路〈マサミチ〉訳『近代思想の成立―フランス・モラリスト―』(一九四八)の原題は、Études sur les moralistes françaisである。これが、一八六五年に出版された本であることは、昨日のコラムで述べた。
 このプレヴォーパラドルについて、『近代思想の成立―フランス・モラリスト―』の訳者・松尾正路(一九〇五~一九九一)は、同書の巻頭「訳者の言葉」で、以下のごとく、印象的な紹介をおこなっている。

 プレヴオーバラドルは、こういうフランス的な産物の代表的な一人である。彼はエコール・ノルマルの秀才で、特に文学評論に抜群の才を発揮している。同校卒業者の年(一八五〇年)にはベルナルダン・ド・サンピエールに関する論文を書いてフランス翰林院〔アカデミー〕の賞を獲得、文筆によつて立つことを決意した。一八五五年には「エリザベスとアンリ四世」(Elisabeth et HenriIV)、「スウイフト論」(Jonathan Swift)を書いて文学博士となり、間もなくエークス大学の文学教授に任命されたのであるが、翌年にはもう大学教授を辞めて新聞「デパ」に関係、「日曜通信」(Courier du Dimanche)を創設、いわゆる舌端火を吐く名論説に声価を高め、帝政攻撃の陣を張つた。その結果、「日曜通信」は廃刊を命ぜられ、彼は代議土選挙に立つたが、二回とも落選している。しかし、この間、彼れがフランス翰林院の選挙に当選したことは政治生活の不遇を補つているように思われる。ところが、文学者としてこの名誉もなお、彼を文学のなかにひきとどめるには足りなかつたらしい。一八七〇年、彼はフランス大使となつてアメリカに赴任した。そしてこれが、ヴオヴオナルグを評したとき彼自身が引用した言葉をかりるならば、「不幸の絶頂」となることを知らなかつたのである。ナポレオン三世から、ヨーロツパ平和確立の使命を帯びて赴任した彼が、ワシントンで信任状を呈出したその日に普仏戦争勃発の報があつた。名誉を失つた彼は、孤独と懊悩のはて、遂に自殺をとげたということである。
 彼のこの悲劇的な最後は、何故か、その運命を暗示するかのごとく、彼自身の著述「フランスのモラリストに関する研究」に染み出ている。彼のモラリスト研究は、むしろ熱情と死に関するエツセエともいうべきもので、パスカルの場合も、特にヴオーヴナルクの場合にそうであるが、彼の筆が怪しく冴えるのは、いつもこの問題に触れるときである。原文はやゝ勇弁にすぎる名文で流れてやまぬその名調子をそのまゝ日本語に移すことは殆ど不可能である。
 訳は、故手塚教授文庫のÉtudes sur les moralistes français,1865によつた。ワルラスを訳された先生の厳しい学問的良心と熱情に関しては、背に鞭うたれる思いがする。しかし、初版と思われるこの良書を巴里〈パリ〉のどこで買い求められたのか経済学者の好奇心がこのように幸いしたことについては深く感謝の意を表する次第である。

 上の引用で、「故手塚教授文庫」とあるのは、小樽商科大学の手塚文庫のことであろう。これは、小樽経済専門学校教授だった手塚寿郎〈ジュロウ〉教授の蔵書六〇〇〇冊余(フランス語文献が中心)を収めたものだという。訳者の松尾正路も、当然、小樽経済専門学校(前進は小樽高等商業学校、後身は小樽商科大学)関係者ということになる。

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