礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

吉本隆明のいう「関係の絶対性」は、「脱倫理」の論理

2013-08-08 04:00:36 | 日記

◎吉本隆明のいう「関係の絶対性」は、「脱倫理」の論理

 昨日の続きである。多羽田敏夫氏は、吉本隆明のいう「関係の絶対性」を、「人間の存在の最低の条件である倫理的な責任」として捉えている。これについて私は、昨日、これは恣意的な解釈なのではないかと指摘した。
 本日は、この点について、もう少し述べる。
 多羽田氏は、論文のなかで、「マチウ書試論」について、次のように論じている(傍点は省略した)。

 周知のように、吉本隆明は初期の代表作「マチウ書試論」(一九五四年)において、イエスの歴史的実在を否定した聖書学者アルトゥル・ドレウスの『キリスト神話』に依拠し、ジェジュ(=イエス)をマチウ書(=マタイ伝)の作者が仮構した人物であるとみなし、ローマ帝国の支配的な秩序と結託したユダヤ教に対する激しい近親憎悪と被虐意識を抱いた原始キリスト教の宗教的な抗争を、徹頭徹尾思想的な抗争と読みかえ、そこに「反逆の倫理」を見出そうとした。今日、福音書の実証的な歴史研究の進展によって、イエスの存在の史実性がほぼ明らかにされているが、しかし、吉本にとってそれらの事実は、「マチウ書試論」のモチーフに何ら変更を認めるものではなかっただろう。なぜなら、吉本の関心は、「人類最大のひょうせつ書」を書いたマチウ書の作者にあり、なによりその主要なモチーフは、原始キリスト教の反逆を「関係の絶対性」という視点の導入によって倫理的に救抜することにあったからだ。
《ここで、マチウ書が提出していることから、強いて現代的な意味を描き出してみると、加担というものは、人間の意志にかかわりなく、人間と人間との関係がそれを強いるものであるということだ。人間の意志はなるほど、撰択する自由をもっている。撰択のなかに、自由の意識がよみがえるのを感ずることができる。だが、この自由な撰択にかけられた人間の意志も、人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない。(中略)
 ……関係を意識しない思想など幻にすぎないのである。(中略)秩序にたいする反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である。(「マチウ書試論」)》
 人間と人間との関係を決定するのは、個々の意志を超えた絶対性であるということ。すなわち、人間の意志ではどうにもならない絶対的なものが、人間と人間との関係を決定してしまうこと、それを吉本は、「関係の絶対性」というのである。重要なのは、吉本が、この「関係の絶対性」という視点を導入することによって、「秩序にたいする反逆、それへの加担というものを」倫理的に救抜しようとしていることである。当時勤めていた東洋インキで労働組合の責任ある立場にあり、「壊滅的な徹底闘争」(「過去についての自註」、『初期ノート』、試行出版部、一九六四年所収)に「加担」していた吉本にとって、このモチーフは切実なものであったにちがいない。

「マチウ書試論」のサブタイトルは、「反逆の倫理」である。そこで、吉本は、たしかに「倫理」という言葉を使っている(「秩序にたいする反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは……」)。
 しかし、ここでいう「倫理」とは、すなわち人々を倫理的に「救抜」する論理であり、人々を倫理意識から解除しようとする論理である。いずれにせよ、「倫理」そのものではない。むしろ、「脱倫理」ともいうべき論理である(「倫理への反逆」とまでは言わない)。
 ところが、吉本は、米国同時多発テロ以降、「人間の『存在の倫理』」ということを言いはじめた。これは、主張の内容からみて、文字通りの「倫理」である。
 それはそれでよいのだが、多羽田氏のように、「人間の『存在の倫理』」という概念を、一九五〇年代まで遡らせ、それによって「関係の絶対性」を、「人間の存在の最低の条件である倫理的な責任」として捉えるのは、やはり行き過ぎた解釈ではないのだろうか。
 ところで多羽田氏は、先ほど引用した箇所のなかで、「壊滅的な徹底闘争に加担」という表現を用いていた。
 このことから多羽田氏が、吉本のいう「秩序にたいする反逆、それへの加担」という言葉を、「秩序にたいする反逆、その反逆への加担」というふうに理解していることがわかる。しかし、ここで吉本が言おうとしたのは、「秩序にたいする反逆、あるいは秩序への加担」だったのではあるまいか。これは、細かいセンサクのように思えるかもしれないが、吉本の「マチウ書試論」を理解する上では、かなり重要な論点であると思う。しかし、この点については次回。

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