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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

銃剣の前には如何なる暴利商人も蒼くなる(『運用漫談』より)

2013-01-17 05:57:05 | 日記

◎銃剣の前には如何なる暴利商人も蒼くなる(『運用漫談』より)

 一昨日、昨日と、大谷幸四郎の『運用漫談』(有終社、一九三四)を紹介したが、今日になって、すでにブログで、この本を紹介されている方がいることに気づいた(桜と錨の気ままなブログ)。同書の全貌については、ぜひそちらをご覧いただきたい。
 同書の関東大震災関係の記述は、紹介が途中なので、本日も紹介を続けることにする。八三~八六ページに相当する部分である。

 戒厳本部として学校では、幹部職員と家族を有せざりし教官と、田浦在住者が当直に当らせる事とし、他鎮守府所属の練習生多数を使役し、万般の業務に当りたるが、之れ又た極めて円滑に行はれたのである。
 震災直後最も痛切に感じたものは、通信連絡と交通路の復旧である。通信連絡に就ては、鎮守府建築科に就き相談したるも、地震の為め工夫〈コウフ〉意の如く出勤せず、何日になれば復旧出来るや不明なりと言ふので、電信線路に精通する技手一名を借り来り、水雷学校の電信兵を使用し、二日間にして鎮守府より軍需部を経て、水雷学校、造兵部、防備隊迄の電話線の仮修理を終へ、更に追浜〈オッパマ〉飛行隊に延ばし、一方は逗子鎌倉等の戒厳事務所との連絡を完ふ〈マットウ〉する事を得た。
 又た九月二日なりしと思ふが、横須賀付近在住の士官にして艦隊勤務中のものに対し、当時判明し得たる家庭の安否を無線電信により打電したるに、之が艦隊としては、横須賀方面より得たる確実なる第一信なりし迚〈トテ〉、其の後艦隊勤務者より深甚なる感謝を受けたのである。震災の如き事変に際し、無線電信の利用は最も有効にして、昭和二年の奥丹震災の際も、第九駆逐隊の無線電信が何よりも効果を挙げた。狼狽は禁物である。平常より注意すべき事である。
 鎌倉から田浦に馳せ著ける際、苦がき経験を自から嘗めたると、昼夜を別たず〈ワカタズ〉右往左往する老若の避難民及び救護者等の苦心を見、道路整理の急務なるを感じ、在校兵員を中心とし一般市民を督促し、各の破損道路の修理復旧に努力せしめたが、三日にして鎌倉より沼津間水道トンネル入口迄、次で葉山迄自動車を運転せしめることが出来るやうになつた。
 然るに自動車運転手が、自宅破損の為め出業を肯んぜざりしかば、運転手自宅は水兵若くは郷党にて修理せしむる事とし、半ば強いて出業せしめたるに、間も無くガソリンの欠乏を訴へて来た。 依つてガソリンは海軍より補給する事としたるに、次には運賃を暴騰せしめたるによつて、直ちに令を発して各区の運賃を一定して再び暴利を貪る〈ムサボル〉能はざらしめた。尚ほ又た徒歩交通者の絡繹〈ラクエキ〉織るが如くなるや、到るところ路傍に牛乳を鬻ぐ〈ヒサグ〉もの続出せしが、之れ亦た暴利を貪るものありし故、一瓶十銭と一定せしめた。
 一瞬にして一切を廃滅に帰せられ、狼狽と恐怖のどん底に堕ちた民心をば、第一に脅やかすものは糧食の欠乏である。九月二日鎮守府に到り、民心安定の為め一日も早く糧食庫を開くの急務なるを説きたるに、経理部当局は稍々〈ヤヤ〉難色ありしが、自分は学校に還へり調査せしめたるに、生糧品は僅々〈キンキン〉一両日分なりしも、貯蔵糧食は約五日分ありしかば、直ちに倉庫を開いて堅麺麭〈カタパン〉及び米麦の袋入りを取り出し、之れを水兵に担がしめ、田浦逗子鎌倉葉山方面を歩き廻はらしめたるに、海軍より糧食来るの声は忽ちにして一般市民の不安を一掃するに足るものがあつた。 為めに水雷学校の倉庫は空虚となり、一寸不安を感じたるも、間もなく鎮守府の倉庫開かれ安心したり。
 地震の地域は案外狭少〈キョウショウ〉なるものである、救援の手は立ち所に到るものである。 然して狼狽せる民心の安定は、一刻の遅延を許るさない。 徒らに杞憂に堕するは取らざる処である。之れ亦た平常より留意を要する点である。
 糧食不足の声は忽ちにして米穀商人の米穀隠蔽と成り、暴利と成るものである。戒厳中、其々商店は多量の米穀を隠蔽し居れりとの密告は屡々来た。依つて衛兵を派して倉庫点検を行はしめたるに、銃剣の前には如何なる暴利商人も、忽ちにして蒼くなるのみであるので、間もなく一人の暴利商をも見ざる様に成つた。戒厳指揮官としては殆んど生殺与奪の実権を有して居る。之を乱用するは沙汰の限りなるも、之を善用せば天下は太平極楽である。善政的専政政治を思ふや切なるものがある。
 東京大地震の報は天下の耳目を聳動〈ショウドウ〉せしめた。東京糧食欠乏の声は、天下を患へしめ、救援の手は八方より東京に注がれたが、一切の陸上交通設備は杜絶せられた為め、海上より輸送が唯一の頼みと成り、而かも其の第一著は海軍艦船に依るのが当然である。然して海軍艦船の東京入港の報が如何に人心に安定を与ふるかを考ふる時、其の入港は一瞬一刻を争ふものがある。然るに当時時某巡洋艦は、某地より救護糧食を満載し来りしが、艦長が夜間東京湾進入に不安を感じ、湾外に一夜を空費して翌日入港したとの噂を聞いた。不慣なる艦長の技倆不足は兎も角〈トモカク〉、船乗りとして事の本末を解せざる不覚者なりとの誹り〈ソシリ〉は到底免るべくもない。海軍々人たるもの、艦船運用の術に就き平素より留意すべき要ある事は、斯様な〈カヨウナ〉時に備ふる為めである。名士連の留意を望む次第である。

 このあたりは、戒厳指揮官という立場からの記述であるが、ほかには、こうした文献はあまり見かけない。その意味では、貴重な史料と言うべきであろう。
 それにしても、使われている言葉が古いというか、難しい。絡繹〈ラクエキ〉などという言葉は、辞書を引かなければ意味がわからない。「道路に人馬の往来が絶え間なく続くこと」を意味し、「絡駅」という表記もあるようである。
 なお、大谷幸四郎という人物は、それほど著名ではないが、海軍水雷学校の校長を務めた軍人には、のちに有名になった人が少なくない。岡田啓介、鈴木貫太郎、南雲忠一などが、その例である。

今日の名言 2013・1・17

◎銃剣の前には如何なる暴利商人も、忽ちにして蒼くなる

 大谷幸四郎の言葉。『運用漫談』(有終社、1934)の85ページにでてくる。上記コラム参照。戒厳令下における軍人のこうした実体験は、昭和初年における軍人の財閥批判、ないしクーデター志向に、微妙に結びついていったのではないだろうか。

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