礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

浅田一と古畑種基(付・浅田一の辞世句)

2012-07-03 05:40:58 | 日記

◎浅田一と古畑種基

 長崎医科大学事件で同大学を退いた浅田一は、戦後の一九四九年(昭和二四)から四年の間、病床に臥し、一九五二年(昭和二七)七月一六日に世を去った。死因は胃潰瘍だったという。
 数年前、私は、古書店から、平島侃一ほか編『浅田一記念』(浅田美知子、一九五三)というガリ版刷りの本を入手した。浅田一の一周忌を記念して編まれた本であった。奥付に「非売品」とあるので、関係者のみに頒布された私家版かと思われる。 
 同書は、「略伝」、「訃報」(訃報・弔辞・弔文)、「追想」、「遺稿」、「解剖所見」、「浅田一執筆録」の六部から構成されているが、弔辞・弔文・追想の占めるページ数が大きい。同書によれば、浅田の死に際して、弔電一一五通、弔信二五六通が寄せられ、三八七氏が弔問に訪れたという。
 この本を読むと、浅田一という人物が、各方面の人々から、尊敬され慕われていたことがわかる。追想を寄せた人物の中には、江戸川乱歩、山田風太郎などの名前も見える。山田風太郎が、東京医専時代、浅田一から法医学を学んだことについては、数日前のコラムで紹介した。
 大阪・北野中学校の同級生と思われる長曽我部督(〈チョウソカベ・タダシ〉と読むのか)の弔辞が載っている。そこには、「人凡て〈スベテ〉があなたの如く立派であり得たならば人類社会は平和で幸福で繁栄あるのみと思う」とある。弔辞とは言え、ここまで誉められる人物は、そう多くはないだろう。
『日本医事新報』第一四七四号(一九五二)から転載された古畑種基の追悼文もある。かなりの長文だが、彼はこれを、浅田の訃報を接したその日の夜に書き上げたという。その追悼文の中で古畑は、浅田を「指導的大先輩」と呼び(年齢は、浅田が四歳年上)、また「唯一の親友」と呼んでいる。今、古畑は、浅田の才能や学殖について筆を費す一方で、浅田の人柄や浅田との交遊については、なぜかほとんど触れていない。「唯一の親友」に対する追悼文としては、行儀が良すぎるといった感を抱かされる。
 浅田の中学時代の同級生・石津作次郎(渓月)も追想を寄せている。その中で石津は、「昭和五、六年頃」、長崎に出かけた折、浅田から、「人間の血液には四種の型のあること」を実験によって示されたと回想している。この実験によって、血液型に関心を持った石津は、一九三一年(昭和六)一〇月、月刊雑誌『血液型研究』を創刊し、戦前の「血液型ブーム」を牽引することになった。【この話、続く】

今日の名言 2012・7・3

◎妻に如く看護菩薩が又あろか

 浅田一の辞世句(辞世の川柳)。「如く」は、〈シク〉と読む。「妻に優る看護菩薩があろうか」。麻生路郎(川柳不朽洞会)の追悼文「浅田博士を悼む」(『浅田一記念』所収)の中で紹介されている。チベット語に通じ、探偵小説を好んだ浅田は、短歌も詠み、川柳もヒネる趣味人であった。またやエスペランティストとしても活躍していた。ちなみに、浅田一のいう「看護菩薩」とは、『浅田一記念』の発行者・浅田美知子さんを指す。

コメント (1)
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