u t a u k u j i r a
詠う鯨 - Whale that sings -
次女出産記opt
奥さんは体も心もかなりのダメージを負ってしまったが,本当に頑張ってくれた。
次女が退院してから大きなトラブルがなかったのも,母乳で育ったことが少なからず影響していると思う。
本当にありがとう。
余っちゃった冷凍した母乳
処分するときはもの凄く残念な気分だった。
長女は寂しい思い,ツマラナイ思いを沢山しただろう。それでも聞き分けてくれて,妹ができたことを一番喜んでくれた。
我々が挫けそうになった時,長女の笑顔にどれだけ助けられたことか。
本当にありがとう。
仕事は,次女が生まれた日から3日間休んだのだが,その間,同僚の方々がキッチリ フォローしてくれた。
その後も何かと休まなければならなかったが,『こっちは任せて下さい!』と,言ってくれた。
本当にありがとうございます。
病院の皆様には,大変お世話になりました。
本当にありがとうございます。
最初にかかっていた産婦人科医院,最低限の仕事もできないなら,止めた方がいい,つーか,ヤメロ。
奥さん,次女に万一のことがあったら,確実に潰したぞ。
そして次女,君が一番頑張ったと思う。
本当にありがとう。
11月頃,寝返りしてバタバタしている。
後頭部は擦れて毛がなくなっちゃった。今でもここは薄い。
一緒にいるのはくじらGOODS 54のクジラ
次女出産記12
肝臓については、10月頃まで検査が続いた。
α-フェトプロテインの値は正常値となる。
腫瘍は何回目かのエコーで、
「見つからないんですよね・・・」
と言われる。研修医っぽかったので、単にヘタクソだからかとも思ったのだが、次も見つからない。
恐らく血管内皮腫だったと推測される。要するに血の固まり。自然に縮退したらしい。
気が付けば長いシリーズになってしまった。カテ分けする事にしよう。
これから続けると、出産記ではなく「子育て記」になっちゃうので、ここでclose.
もう少しで4歳、次女は元気です。
次女出産記11
いつしかGCUの主になっていた。
7月も終わりに近づいた頃、先生より説明がある。
「肝臓の腫瘍らしきものは大きくはなっていませんね。α-フェトプロテインの値も正常値に近づいています。」
・・・安心していいのかな? でもなぁ・・・
「そこでですね、やはりお母さんや家族と一緒にいた方が、お子さんにとってもいい環境だと思うのですよ。特にお母さんとのスキンシップは大切ですから。」
・・・それは我々も望むところだ。
「肝臓については定期的に検査することにして、退院としましょう。」
かくして退院することとなる。手放しで喜べないのが辛いのだが。
8月3日、143日間の入院の後、退院する。
次女出産記10
次女は「チョット小さい赤ちゃん」状態に。体重も2500gを超えている。
4ヶ月で体重3倍以上、このままいったら1歳になったら10kg超える、
・・・ワケはないな。
7月頭、ミルクもほ乳瓶で飲むようになり、奥さんのオッパイを吸う練習も始めていて、呼吸補助用のチューブも外れている。ボチボチ退院かな、と言う雰囲気が漂う中、先生から説明がある。
「体重も十分増えましたね。眼底の血管の発達具合、手首の骨は、まあ、大丈夫かな、と言う具合です。血液中の鉄分はやや低いので、しばらく鉄剤は続けることにしましょう。」
はいはい、もう大丈夫と言うことですよね。
「で、退院しても大丈夫だろうと言うことになりまして、昨日、総合的な検査をしたのですが・・・」
・・・?? なにかあったのかな?
「腹部のエコーをしまして、これは腸や腎臓とかを見る為だったのですが、たまたま肝臓も一緒に写ってまして・・・」
・・・??
「肝臓に腫瘍らしきものが見つかりました」
!!!!!
「まだはっきりとは言えないのですが、肝芽腫の可能性があります」
肝芽腫、子どもの肝臓に発生する悪性腫瘍(要するにガンである)のうち、最も頻度の高いもの。
小児の腫瘍タイプのガンとしては,神経芽腫、ウイルムス腫瘍(腎芽腫)に次いで多いそうだ。
日本における肝芽腫の年間発生数は、およそ30~40人程度。乳児数万人から数10万人に1人の割合だが、超低出生体重児では約40倍、発生しやすく、進行している例が多い。
因果関係は不明だが、新生児期や乳児期に酸素投与すると肝芽腫が発生しやすくなるらしい。
低出生体重児に肝芽腫が発生しやすい理由は、今のところ不明だそうだ。
私も奥さんも言葉を失った。
長い沈黙の後、先生が続けた。
「一応、経過を見たいので、退院はもう少し先にしたいと思います。」
我々はうなずくしかなかった。
「今はそれほど大きくありません。1cm程度です。今後は血液中のα-フェトプロテインという成分の値と、エコーを定期的に行います。」
肝芽腫と確定すれば、化学療法や外科治療を行うことになるだろう。
次女は笑うようになっていた。
次女出産記9
!! いない
「あ,こちらですよ~」と看護婦さんが声をかけてくれる。
次女はGUC(回復期集中治療室)に移っていた。
と言っても隣の部屋で,入室は今までどおり殺菌&防護は必要なのである。
密閉な箱から,オープンな箱に入っている。チューブとコードは同じように付いているが,抱くことができるようになった。
抱いてみる。小さいな~ ついつい長女と比べてしまう。
周りを見ても,やはり一番小さい。
ミルクは1回30~40ccを4,5回あげているそうだ。いっぱい飲んで早く大きくなってくれ。
「おむつ交換してみますか?」と,看護婦さんから言われる。
はいはい,任せてください!
長女の時と比べると,2まわり位小さいおむつを交換する。
当然手際は良いぞ。
一緒に入っている他の子のお父さんやお母さんは,チョット苦労している。
『何なのだ?? アイツは?』という視線を感じる(W
6月も中旬を過ぎた頃,先生より説明を受ける。
「眼底の血管と手首の骨は,ほぼ順調に発達しています。ただ,血液中の鉄分が低いので,鉄剤を入れています。」
やはり,いろいろあるな・・・
「体重は増えていますが,増え方がイマイチなので,今月末の退院はちょっと厳しいですね。」
はいはい,焦らずいきましょう。
「今月末か来月頭にまた状況を説明しますね。」
よろしくお願いします。
口から胃に入っていたチューブも抜け,呼吸補助用のチューブも様子を見ながら外すようになっていた。もう少しだ,頑張れ!
「乳首(ほ乳瓶に付いているヤツ)吸うの,あまり上手じゃないんですよね~」
看護婦さんが言っていた。う~ん・・・
次女出産記8
4月中旬には投薬用のチューブも足(!)から抜け、肺に入っていた呼吸用のチューブも抜けた。
ミルクを入れる為のチューブが口から、呼吸用補助用のチューブが鼻の穴に張り付き、心拍モニターの電極が背中に貼られ、体温モニター用のセンサーが足の裏に巻かれているだけになった。
・・・こう書くともの凄い重装備に思えるが、初めから比べるとかなり身軽になっているのであった。
平日は長女の幼稚園があったので、奥さんはなかなか面会できなかった。
流石に大学病院だけあり、面会時間は厳守。平日は3時から7時まで、土日は1時から7時までだった。
幼稚園が終わるのが2時過ぎ。幼稚園児に病室の前で一人で待っていろ、と言う訳にはいかない。
母乳を運んで面会無し、ということが多かった。
そのため、毎土日は病院へ通うこととなった。私もこの時にしか会えない。
面会は
私と奥さんが1~2時間で交代するというパターンだった。
長女は退屈だったろう。待っている間は、なるべく遊んであげるようにした。
・・・おかげで病院の内外を隅々まで探検できた。
次女は順調! とまではいかないが、育っていった。体重はソコソコに増えていった。
「退院の目安は、出産予定日から1ヶ月位ですかね」
先生より説明を受ける。
「基本的には体重が2500g以上が目安です。あと、眼底の血管の発達具合と、手首の骨の発達具合もみます。」
6月末か7月頭か・・・ まあ、あわてて退院してもしょーがない。じっくりといこう。
次女出産記7
次女が産まれたとき、長女は幼稚園の年中さんだった。
3月13日は「もうすぐ春休み」だったので、そこで年中終了とした。
わずか5歳だったが、母親がいなくても聞き分けがよく、妹の誕生を本当に喜んでくれた。
我々はかなり励まされたと思う。
次女の命名だが、お腹にいるときから長女が『ジャスミンちゃん(仮名)』と言っていた。
女の子なの?
「そう、いもうと」
ジャスミンちゃん?
「そうだよ、ジャスミンちゃんだよ。おねーちゃんだよ。はやくあそびたいね。」(奥さんのお腹をなでる)
名前はこれにすることとした。
当然のことながら、長女は漢字は解らないので、字画を合わせて命名。
次女の名付け親は長女なのだ。
3月末、奥さんが退院することとなった。
母乳は思ったより出るようだ。
これからは、母乳パックに入れて冷凍し、病院に届ける事になる。
次女はよく泣く、と、看護婦さんが言っていた。
声は出せないが、いっぱい泣いて、体力をつけてくれと思う。
「なんでこんなに暖かいの!? 桜咲いているし。病院入ったときは寒かったよね!?」と、奥さん。
季節は春になっていた。
桜と長女
次女出産記6
栄養は点滴から母乳になった。
次女は、当然のことながら自力では飲めない。そのため口から胃にチューブを入れられていた。
自力呼吸も厳しいため、鼻からは肺にチューブが入っている。
泣いても声が出ないのだ。これはかなり痛々しい。
母乳は最初は5cc、しばらくして10ccという感じで徐々に増やしていく。
「初乳だけは絶対にあげたい」と奥さんは頑張って搾っていた。
次女が退院するまで、ほぼ母乳で育てることができた。
奥さんの方も、1週間くらいで落ち着いてきた。しかし、目はやはり網膜剥離一歩手前、血圧はしばらく薬が必要とのことだった。
「3月頭から、ほとんど見えなかったんだよね・・・」
失明しなくて本当に良かった。
「これ、渡されたけど、どうする?」
出生証明書だ。
そうか! 名前つけなければ! 全然考えていなかったぞ・・・
次女出産記5
症状はむくみ、高血圧、尿タンパクで、このうち1つもしくは2つ以上の症状がみられるもの。
詳しい原因は未だに不明だそうだ。フツーの生活をしていて発症するのは、「運が悪い」としか言いようがない。
担当の先生から説明がある。帝王切開した人とは別。産科、小児科は完全に分かれているのである。
「お子さんは今のところ安定しています。」
よかった・・・
「しかし、こういう場合、脳内出血を起こす事が多いです」
!! そういうことになったら・・・
「我々もできるだけの事をしますので。」
・・・お願いします
「そこでですね、万一の事があると、輸血もしなければならないので、一応、同意書にサインをお願いしたいのですが。」
・・・はあ
「あとですね、週数からいって、心臓の右左をわける壁が完全ではありません。」
・・・!! 大丈夫なんでしょうか?
「そこでですね、インドメタシンを入れると、早く心臓が完成されるという臨床結果があります。で、投薬したいのですが、これについても同意書をお願いします。」
同意書を取るという事は、万一の時があっても何も言わせないと言う事だ。
やはり大学病院だな、と思う。患者であると同時に、臨床例でもある。しかし、それを認めた上でお願いするしかない。
お願いします、と言う以外無かった。
「さわってみますか?」
看護婦さんから声をかけられる。
え、大丈夫なんですか?
「大丈夫ですよ、ここから手を入れまして(保育器には面倒をみる為の穴が2つ開いている。開閉式)、終わりましたらしめて下さいね」
チューブやコードが抜けそうな気がしたので、そーっとさわる。
息をしていた。鼓動がわかった。あたたかかった。
次女出産記4
その看護婦さんから話を聞いた。
奥さんは自分で自分のことを責めていたそうだ。
何で妊娠中毒症になったのだろう、何がいけなかったのだろう・・・
1日でも長くお腹に置いておけなかったのだろうか・・・
気の利いた慰めの言葉など、何も出なかった。
気持ちは痛いほどわかる、が、本人の痛みはこの何万倍、何千万倍か・・・
いまは、無事、子供が育つよう、できる限りの事を、しよう。
さてさて、次女が生まれた日の夕方、NICU(新生児集中治療室)に入れるとのこと。
奥さんはまだ起きあがれなかった、帝王切開だから当然。
入り口でまずコール。インターホンで氏名を言う。確認OKなら、扉が開く。
ホイホイと入っていく訳にはいかない。基本的に親以外は入室禁止。
・・・厳重にやっておかないと、じーさんばーさんが平気で入ってくる。
当然土禁。スリッパに履き替える。
廊下を行き、更に奥にも扉。またインターホンでコール。
扉が開く、が、まだ室内ではない。前室。
ブラシでの手洗い、殺菌済みの白衣、帽子、マスクを付ける。ほとんど手術前の外科医って感じ。
「これからはこのようにして入室して下さいね」と、看護婦さんに言われる。
次女のところへ案内される。
保育器の中にうつぶせになっていた。
投薬器が3個、呼吸器、心拍と体温のモニタ、それと次女を繋ぐチューブとコード・・・
ヒモだらけだった。
それでも確かに生きていた。
次女出産記3
それだけパニくっていたという事で。
病院に着き、早速検査が始まる。
約1時間後、私が呼ばれる。
・・・奥さんが泣いている。なぜ、もしや・・・
先生の説明を聞く。
「奥様にはお話したのですが、簡単に言うと妊娠中毒症です。」
!! はい? なんで・・・??
「血圧は危険な数値です。目ですが、網膜剥離を起こしかけています。」
頭の中、マッシロ・・・
「赤ちゃんですが、しばらく前から栄養が行っていない状態です。成長できていません。」
・・・ もう、何も言えない、考えられない
「このままですと、母子ともに命にかかわります。」
!!
「ですので、赤ちゃん、出します」
この後、あまり記憶にない。『手術に同意します、失敗しても文句言いません』のような内容の書類にサインして、泣いている奥さんを見送ったと思う。
手術室の前で待っている間、既に子供は諦めていた。奥さんだけは生きてくれ、という思いでいっぱいだった。
どの位時間がたったのかも、よくわからなかった。
手術が終わり、先生が来た。
「手術終わりました。もう少ししたら奥さん出てきますね。」
無事ですか・・・?
「はい、大丈夫ですよ。目の方は眼科で改めて見ることにします。」
ありがとうございました・・・
「赤ちゃんはNICUに移しましたね。今日見られると思います。後で担当寄こしますね。」
・・・はい??
・・・無事なの??
・・・生きているの??
「産声もあげましたよ。無事ですよ」
よかった~
・・・本当はこんなありきたりのチンケな言葉では表せない気持ちだったのだが。
3月13日 次女誕生。
誕生時、28週目 体重、838g 極超未熟児に分類される
次女出産記(タイトル変更)
・・・読んでいる人はいるのか??
次女の予定日は,5月30日だったので,11月末から定期検診に行っていた。
年が明けた頃から,奥さんが『調子悪い・・・』と言うことが多くなった。
事がコトなので,やはり悪阻だろう,と思っていた。検診でも特に問題がある,と言う話はなかったし。
2月末の検診後あたりから,寝込むことが多くなった。
そして3月12日の深夜・・・
『・・・少し出血しているみたい』
! 大丈夫か??
『あまり痛くはないから,明日病院行ってみる』
俺もついて行くよ
『明日,外せない会議あるんじゃなかったっけ?』
午後からだから大丈夫だろう
『それじゃお願い・・・』
3月13日
朝一番で産婦人科へ。事情を話す。
で,基本的な検査。
終わった後,先生が,
「大きな病院で見てもらった方が良いですね。ウチでは対応できないです」
!! なに~ !!
「あまり具合が良くありません。血圧は200超えているし」
!!!
「市内の総合病院へ連絡とりますね」
非常に危険な状態だった。2月末の検診では何も無かったのに・・・
「市内の病院でも対応できないそうです。」
!!!! どーすんだよ!!!!
「ちょっと遠いのですが,自治医科大学病院わかります? そちらで受け入れてくれるそうです」
自治医大病院なら,水戸やつくばへ行くよりずっと近い。
早速向かう。揺れないよう,安全運転で全力疾走。
病院を出るとき,先生がボソっと,
「前の検診の時,タンパクでてたなぁ 血圧も高かったなぁ」
!!!!! テメ~ キチンと言えよ!! これで何かあったらコロス!
と,心で叫んだ私だった。胸ぐらつかんでいる暇はない。
(・・・続きます)
出産
あの宮内庁病院がついていても、雅子ちゃんの場合もあるから、キコちゃんには気を付けてもらいたいモノだ。
ウチの場合は・・・
長女は2900gと、チョット小さめだったが、出てくるまで時間がかかった。
陣痛から出産まで、丸2日と半日。幸い母体も子供も問題なかった。
病院の方針で、陣痛促進剤は極力使用しない。まあ、安易に使うと子宮収縮が激しくなりすぎ、エラいことになる場合もあるから、それはそれでよいのだが、
2日以上はないだろ!!
おまけに黄疸がちょっとあったので、母子共に退院、はできなかった。3日遅れ。
この産婦人科、ダイジョーブか?? とちょっと思ったのだが、院長先生の評判は昔から上々だし、看護婦さん達もそれなりによくやってくれたので、ヨシとした。
次女が懐妊したときも、『同じ病院でいいか』と、ここに通院していたのだが、長女から次女までの間に、院長の代替わりや看護婦がほとんど入れ替わったりと、色々あったようだ。
検診も、長女の時は2時間とか待たされた事もあったようだが、次女の時はほとんど待ちがなかったようだ。
早い話、客が減っていた。新しい病院ができたとかではない。
今思えば、評判が落ちていたのだろう。
(・・・続きます)