おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

愛、アムール

2024-11-01 06:58:38 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2020/5/1は「ミッション」で、以下「ミッドナイト・イン・パリ」「宮本武蔵 一乗寺の決斗」「ミリオンダラー・ベイビー」「ムーラン・ルージュ」「ムーンライト」「麦の穂をゆらす風」「息子」「無法松の一生」「無法松の一生」と続きました。

「愛、アムール」 2012年 フランス/ドイツ/オーストリア                      

監督 ミヒャエル・ハネケ                           
出演 ジャン=ルイ・トランティニャン エマニュエル・リヴァ
   イザベル・ユペール アレクサンドル・タロー
   ウィリアム・シメル ラモン・アジーレ リタ・ブランコ
   カロル・フランク ディナーラ・ドルカーロワ

ストーリー
パリ都心部の風格あるアパルトマンに暮らすジョルジュとアンヌは、ともに音楽家の老夫婦。
その日、ふたりはアンヌの愛弟子のピアニスト、アレクサンドルの演奏会へ赴き、満ちたりた一夜を過ごす。
翌日、いつものように朝食を摂っている最中、アンヌに小さな異変が起こる。
突然、人形のように動きを止めた彼女の症状は病による発作であることが判明したが、アンヌは手術の失敗で半身に麻痺が残る不自由な暮らしを余儀なくされる。
“二度と病院には戻りたくない”とのアンヌの願いを聞き入れ、ジョルジュは自宅での介護を決意する。
自らも老いた身でありながら、これまで通りの生活を貫こうとする妻を献身的に支えていくジョルジュだったが…。


寸評
物語の導入部にあるコンサートホールの場面を除いて主人公たちはアパルトマンの部屋から外に出て行くことはない。
ジョルジュが外出したりしていることは描かれているのだが、しかし外出先の様子は描かれず常に部屋に戻ってくる場面になる。
そこまで徹底しているのに、なぜか閉塞感を感じない。
彼等の暮らす部屋が広々としていることにもよるのだろうが、描かれている内容が介護の大変さを追求するだけの短時間的な描写にとどまっていない事によるほうが大だと思う。
回想の中で登場するアンヌはとてもしおらしくて気品があり愛らしい。
そしてそのアンヌが登場するシーンがとてつもなくいい。
ショッキングなファースト・シーンから、一転淡々と綴っていく進行ぶりの締めくくりとしてのラストシーンもファンタジックでさえあっていい。
もう少し割愛しても良いのではないかと思わせるぐらい、ジョルジュがやさしく介護する姿が色々なエピソードを交えながら描き続けられるが、描かれる内容は非常に丁寧で上手い。
娘の描き方や義息の描き方も誇張がなくてよい。
僕などは、淡々と描かれるシーンに意識が飛んでしまって、亡くなってしまった祖父母の介護時や母の介護時を思い出して、字幕を追うのを忘れていた瞬間が存在していたぐらいだ。
私の母の入院先は24時間看護の病院ではなかったので、最後の方は家政婦さんに来てもらった。
最初の若い家政婦さんは手際がよかったけれど扱いは乱暴だった。
二人目の家政婦さんは年配だったが、意識が薄れた母に優しく接してくれた。
登場するエピソードを見ながら、当時に最後がその家政婦さんで良かったと思ったことなどを、ついつい思い出していた。

これは年老いた二人の愛の映画で有ると共に、年老いた夫婦の介護問題を捕えた映画でもある。
病気がひとりの人間の肉体と人格を破壊していく様が描き出されている。
在宅介護の切実な問題でもあるのだが、家族の生活まで根こそぎ奪い取っていく様子も描かれている。
夫婦による老々介護で私がいつも思うのは、一方の死でもって終わりが来るのではなく、生き残ったもう一方のその後の不安である。
ジョルジュはその後どうなったのか、どうしたのかを想像すると哀しくもあり怖くもあるのだ。
自分がそうなった時、妻がそうなった時を思わざるを得ない年齢になってきた私だが、誰もがいつかは身近に遭遇しうるという点で恐ろしくもある。
ジャン=ルイ・トランティニャン、エマニュエル・リヴァは流石の演技。
特にエマニュエル・リヴァがいい。
はたして僕はアンヌのように言い放てるだろうか?
ジョルジュのようにやさしく接することが出来るだろうか?
そんなことを想像させるだけでも、優しい映画なのに恐ろしい映画だった。

16ブロック

2024-10-31 07:15:14 | 映画
「16ブロック」 2006年 アメリカ 

                      
監督 リチャード・ドナー                            
出演 ブルース・ウイリス モス・デフ デビッド・モース
   ジェナ・スターン フランク・ニュージェント
   ダイアン・モーズリー エディ・バンカー       

ストーリー
NY市警のジャック・モーズリー刑事(ブルース・ウイリス)は、かつて捜査中の事故で足を負傷、今では酒浸りの冴えない日々を送っていた。
夜勤明けのある日、彼は上司から証人エディ・バンカー(モス・デフ)を16ブロック先の裁判所まで護送してほしいと頼まれる。
15分もあれば終わる仕事と説得され渋々引き受けたジャック。
ところが、車で移送する途中、エディが何者かに襲われる。
間一髪でエディを助け出したジャックは、バーに身を潜め応援を要請する。
しかし、そこに現れた同僚刑事フランク(デビッド・モース)の口からは、意外な事実が告げられるのだった…。


寸評
大阪の梅田から淀屋橋くらいの距離を移送する間に起こる追跡劇で、設定そのものが意表をついていて面白い。
もう少し距離の短さが全面に出ていればもっと緊迫感が出て良かったとは思うが・・・。
ニューヨークに行ったことのない私には、アベニューとかストリートを言われてもイメージできなかった。
設定といえば、モス・デフが演じるエディと、ブルース・ウィルスが演じるジャックの対比が面白さを倍化させている。
エディが最初から最後まで喋り続けているのに対し、ジャックはどちらかといえば寡黙を押し通している。
最後で大ドンデン返しがあるのでなく、小さなどんでん返しを繰り返すことによって、ストーリーの展開に小気味よさを出す演出は的を射ていたと思う。
酒浸り、寡黙な態度などがジャックの人物像を浮かび上がらせて、同じ警察官でも「ダイハード」のウィルスとは違った別人を演じていた。僕はこちらのウィルスの方が好きだ。
ショーン・コネリーもそうだったけれど、渋くなって上手く歳をとっているなあという感じがする。
えっ、なんでそうしないのと言いたくなるシーンは少しばかり有るけれど、一級の娯楽作品になっていた。

エグゼクティブ・デシジョン

2024-10-30 07:39:27 | 映画
「エグゼクティブ・デシジョン」 1996年 アメリカ


監督 スチュアート・ベアード
出演 カート・ラッセル スティーヴン・セガール
   ハリー・ベリー ジョン・レグイザモ
   オリヴァー・プラット ジョー・モートン
   デヴィッド・スーシェ B・D・ウォン
   J・T・ウォルシュ レン・キャリオー

ストーリー
ある日、トラヴィス中佐が率いるアメリカ特殊工作部隊が、テロリストのアジトを襲撃する。
しかし、テロリストの首謀者はアジトにおらず、作戦は失敗する。
やがて、テロリストの首謀者ナジ・ハッサンは、オーシャニック航空343便をハイジャックし、テロリストの指導者の釈放を要求する。
ハイジャックの知らせを受けた合衆国政府は、ハッサンの行方を追っていた政府の要人グラント、トラヴィス中佐、そして航空機に詳しいケイヒルを招集する。
その中で、テロリスト達の本当の目的はワシントンで科学テロを起こすことだと判明し、その化学兵器が航空機に積まれている事も判明する。
その為に、彼ら3人は航空機をハイジャック犯から奪還し、化学兵器を回収する作戦を実行する。
ステルス機に乗り込んだ彼らは航空機とドッキングし、潜入に成功するが、その過程で、トラヴィス中佐は死亡し、爆弾処理担当のキャピーは大怪我を負ってしまい、昏睡状態になり、部隊は絶望に陥る。
しかし、アメリカとトラヴィス中佐のために彼らは立ち上がり、作戦を決行する。
作戦中にグラントは航空機のCAジーンと手を組み、化学兵器を操作するテロリストを探し始める。
一方で、ケイヒルは昏睡状態から回復したキャピーと共に化学兵器の処理を行っていた。
やがて、政府は特殊部隊と連絡が取れないことから、部隊は全滅したと思い、航空機を空中で破壊する方法を取ろうとする。
しかし、グラントが軍用機に部隊が生存している事を伝えたため、何とか一旦は難を逃れるが、タイムリミットは刻々と迫っていた。


寸評
ジム・トーマスとジョン・トーマスの共同脚本が素晴らしいのだろうが、飛行機を舞台にテロリストと戦う作品としては出色の出来栄えだと思う。
この翌年に同じく飛行機でのテロ事件を扱った「エアフォース・ワン」という作品が撮られているが、出来栄えは断然こちらの方が素晴らしい。
テロリストの乗っ取られた航空機を奪還するために特殊部隊が派遣されるのだが、その活躍ぶりがアイデア満載で息をも突かせない。
本当にあるのかは知らないが、ステルス戦闘機のような形をしたドッキング機で、特殊部隊が乗っ取られたジャンボ機に潜入するところから緊迫感が増長されていく。
早くもそこでトラブルが発生してしまい、負傷する者が出てしまう。
そもそもトラヴィス中佐のスティーヴン・セガールは主役の一人ではなかったのかと思っていたのに、早くも死亡してしまい作品から消えてしまうという驚きの展開である。

特殊技能を持った隊員たちがそれぞれ超人的な活躍をするわけではない。
爆弾処理係のキャピーは活躍する前に負傷してしまい身動きできないでいる。
飛行機に詳しいケイヒルも乗り込んでいるが、民間人である彼は臆病で負の存在として描かれている。
主人公はグラントなのだろうが、彼一人が超人的な活躍をするわけではないのがいい。
テロリストはオウム真理教を巨大化したような存在で、化学兵器で首都殲滅を狙っている。
その事をテロリストの仲間も知らないでいて、その事の処理も手際よい。
ハッサンの副官カーリルは逮捕されている指導者を解放させるのが目的と思っていて、過激に走る思想を見せたハッサンに反抗したことで射殺されてしまう。
それを見た他の者は殉教者としてハッサンに従うしかない状況である。
乗客の仲にも観客の憎悪を受けるであろう人物として上院議員を配しているのも納得である。

化学物質を拡散させる為の爆弾と起爆装置も積み込まれているので、部隊は先ず爆弾を処理しなければならなず、起爆装置をやっとのことで発見するが、その起爆装置が厄介なものとなっているのは物語上当然だ。
起爆装置を無力化するキャッピーとケイヒルの共同作業も魅せるものがある。
乗客の中にもテログループの者がいることが判明し、その為に突入を目指す場面も二転三転して飽きさせない。
彼らに加えてCAのジニーまでが加わってくるのだが、初期の段階で警官が乗っていることを示した乗客名簿を始末するところで、彼女の勇敢さが示されていて、後半への伏線としている。
ジニーをヒロイン的に扱っているが、一方で彼女の活躍によって問題が起きるなど手が混んでいる。
政府側では国を守るためにはジャンボ機の撃墜もやむなしとの結論を出す。
実行されれば大統領も、関係者も辞任せざるを得ないだろうと述べているが、アメリカならそのような判断をするだろうなと思うし、我が国の指導者にその判断が出来るだろうかと思った。
テロリストをやっつけることは分かり切っていることなのだが、そこからもう一波乱起こす展開も手際よい。
兎に角、間延びしないことが必須のジャンルである作品だが、その要求は見事にこなしていると言える。
狭い空間を逆手に取り、作品をまとめ切った力量は評価されて良いだろう。


霧笛が俺を呼んでいる

2024-10-29 06:51:47 | 映画
「霧笛が俺を呼んでいる」 1960年 日本


監督 山崎徳次郎
出演 赤木圭一郎 葉山良二 芦川いづみ 吉永小百合
   天路圭子 堀恭子 二本柳寛 内田良平
   深江章喜 沢井杏介 西村晃 木崎一郎

ストーリー
すずらん丸はエンジンの故障で出航を延期し、航海士の杉(赤木圭一郎)は酒場“35ノット”に行った。
船員が女給のサリー(天路圭子)にからんだことから乱闘になり杉はパトロールに連行された。
翌日杉は友人の浜崎に会いに出かけた。
しかし、浜崎は二週間前に突堤で溺死体になって発見されていて、当局は自殺と断定していた。
しかし、浜崎の妹ゆき子(吉永小百合)は殺されたのだと思うと言った。
森本刑事(西村晃)は浜崎が麻薬の売人であったと教えた。
杉が留守の間にサリーから電話がかかってきたが、杉がアパートへ行った時には、彼女は殺されていた。
杉は浜崎の恋人美也子(芦川いづみ)と浜崎の溺死現場に行き、ロープは刃物で切られたことを知り、浜崎は殺されたのだと判断した。
その後、杉と美也子は“35ノット”の支配人渡辺(内田良平)の配下に襲われたが撃退した。
渡辺一味がサリーの友人和子(堀恭子)の命を狙っていたので、杉は和子をすずらん丸にかくまった。
和子はサリーの恋人ジミー(弘松三郎)が浜崎溺死事件の日から行方不明になっていると言った。
杉は浜崎が生きていると考え、浜崎に会わせろと渡辺につめよった。
浜崎(葉山良二)が姿を現わし、彼は杉に事件から手を引けと迫った。
杉がすずらん丸に帰ると森本刑事から封書が届いていた。
浜崎が犯している麻薬密売の証拠写真で、浜崎の住所を教えるようにと書いてあった。
杉は浜崎を自首させようと思った。
一方浜崎は、麻薬をもち出して逃亡の準備をした。
感づいた渡辺一味は浜崎を殺そうとした。
浜崎がかくれ場のホテルに帰ると杉と美也子が待っていて、二人は自首をすすめたが・・・。


寸評
赤木圭一郎はハリウッドスターのトニー・カーティスにどことなく風貌が似ていたことから「トニー」の愛称で呼ばれた人気俳優だった。
「和製ジェームズ・ディーン」とも云われたが、ジミーと同様に自動車事故で亡くなっている。
トニーの場合はセールスマンが持ってきたゴーカートを日活撮影所内で運転中、60キロ以上のスピードで大道具倉庫の鉄扉に激突したもので21歳の若さだった。
当時の日活は石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、和田浩治の4人でダイヤモンドラインを編成し、毎月1本週替わりで主演作が公開されるという量産体勢だった。
彼ら日活俳優には他社の男優にはないカッコよさがあり人気を独占していたと思う。
また日活の俳優は歌手デビューもしていて、石原裕次郎を筆頭に小林旭も赤木圭一郎もヒット作があり、吉永小百合や和泉雅子の若手女優もヒット作がある。
僕は赤木圭一郎のLPを持っていたはずだが、何処へ行ったのかわからずじまいである。
僕はこの映画の主題歌である「霧笛が俺を呼んでいる」が一番馴染み深い。

作品はキャロル・リードの名作「第三の男」のモチーフとそっくりだが、ここでの主人公は船乗りで、ラストで見せる赤木圭一郎の真っ白なマドロス姿がカッコいい。
スタイルと言い、風貌と言い、同じ姿をさせれば彼に勝る者はいないであろう。
相手役の芦川いづみも魅力的である。
明るい笑顔が彼女の一番の表情だったと思うが、さすがにここでは役柄上その笑顔を見せていないのだが、風で乱れる髪を直す仕草などはファンをうっとりさせた。
僕は大ファンではなかったが、日活女優の中では一番好きな女優さんだった。
吉永小百合は1962年に「キューポラのある街」で第13回ブルーリボン賞主演女優賞を受賞し、レコード歌手として「寒い朝」をヒットさせ、さらに橋幸夫とのデュエット「いつでも夢を」も大ヒットとなったから、1962年は彼女にとってエポックメーキングな年となったであろう。
本作は日活入社後の初期作品で、クレジットでは新人の表記が付加されている。

映画はサスペンスとして進行していく。
浜崎は自殺となっているが殺されていることは明白で、犯人が誰かもわかっている描き方で、一体なぜ杉は殺されたのかの興味を抱かせる展開である。
やがて杉と同じ推測をするようになるのは当然の流れで、クレジット上でまだ出てきていない俳優がそうだと推測できる。
ただ恋人だった浜崎と美也子の関係が再会してからも希薄に感じてしまう。
それは杉と美也子の関係に恋愛感情が生まれていると思わせるからだろう。
しかし、二人からは直接的な表現や態度は示されない。
やはりラストは「第三の男」が優れている。
あっけないラストと言えばそれまでだが、トニーの魅力が十分に描かれた作品として記憶に残る。
僕にノスタルジーを感じさせる作品の一つである。

RRR

2024-10-28 07:03:03 | 映画
「RRR」 2022年 インド


監督 S・S・ラージャマウリ
出演 N・T・ラーマ・ラオ・Jr ラーム・チャラン
   アジャイ・デーヴガン アーリヤー・バット
   レイ・スティーヴンソン アリソン・ドゥーディ

ストーリー
1920年、英国統治時代の暴君スコット・バクストンと妻キャサリンは、ゴンド族の少女マッリの歌の才能に惚れて彼女を強引に誘拐してしまったので、この行為に激怒した住民たちは暴動を起こした。
大使館を守っていた警察官のラーマが暴徒たちを鎮圧しようと奮闘する。
村の守護者ビームは、巨大な虎をも倒す屈強な男だった。
マッリを助けるために乗り込んでいったビームは、そこで列車事故に遭遇し偶然ラーマと合流した。
そこで共に力を合わせ事故に巻き込まれた子供を助け出すことに成功した。
この事がきっかけでラーマとビームは仲良くなった。
二人が友情を育んでいる間にも、ビームはマッリを誘拐したスコットの屋敷に侵入する方法を探していたが、厳重な警備のためその方法を見つけることが出来なかった。
ある日、スコットの姪であるジェシーにビームが一目惚れしたことをきっかけに、ラーマがビームとジェシーを近づける作戦を決行し、近づくことの機会を得たビームはジェシーからパーティに誘われることになった。
ラーマとのダンス対決を制したビームは、改めてジェシーからスコットの屋敷に招待されることとなり、お茶をすることになった。
そこで監禁されているマッリを発見したビームは、柵の向こうで泣きながら助けを乞うマリをなだめ、必ず彼女を助け出すことを誓って去った。
その頃、ラーマはビームの叔父を捕まえ、拷問をしてビームの正体と目的を知ることとなった。
戸惑いながらもラーマはビームを追った。
スコットの屋敷でパーティが行われていた時、一台のトラックで屋敷に突っ込み混乱を起こしてマッリを助けようとしたビームの前に、軍服をまとったラーマが現れた。
うろたえるビームにラーマは容赦なく手錠をかけようとし、激しい肉弾戦となった。


寸評
単純に面白い!
インド映画ここにありと言った感じで、3時間に及ぶ上映時間がまったく気にならない。
歌と踊りが必ずあるというのがインド映画だが、本作でも十分すぎるくらいそのシーンが用意されている。
重力無視の大アクションが見どころとなっているが、ストーリーに盛り込まれたテーマがしっかりしていることが本作にたぐいまれなエンタメ性を生み出している。
一つはラーマとビームの隠れた友情物語である。
今一つはイギリスの植民地であったインドの独立運動を描いている点である。
インドの独立にはガンジーによる無抵抗主義が有名だが、実際にはこの様な抵抗もあったのではないかと思う。
ラーマとビームの出会いは、列車事故によって川で孤立し生命の危険にさらされている子供を協力して助け出すことによって成し遂げられる。
宗教や地域を超えて子供を救出する姿は人類愛そのもので、ここで生まれた友情はインド人として共通の精神を有していることの証明でもある。
見終ってみると、そのことはテーマと物語の終結への大きな伏線となっていたのだと悟ることが出来る。

冒頭でインド総督スコット・バクストンの一行がゴンド族の村を訪れ、そこで歌の才能を持つ少女マッリに出会い、マッリの才能を気に入ったキャサリン総督夫人は強引に彼女を総督府のあるデリーに連れ去ってしまう。
投げつけたコインは歌への褒美ではなく、マッリを買い取る金だったのだ。
キャサリン総督夫人はひどい女性だが、彼女の冷酷さは最後に究極的に示されることになる。
ニザーム藩王国の特使アヴァダニがマッリの返還交渉に望み、「マッリを引き渡さなければ、彼らの守護者がイギリス人に災いをもたらす」と忠告する。
それはこれから起きる事の予言でもあるのだが、ビームが守護神の化身であることを暗示している。
僕はインドの伝説に詳しくはないが、おそらくインドの人たちは守護神の化身は誰なのかをもっと明確に予想できたのではないかと思う。
ゴンド族のビームが話す言葉とジェニーが話す英語がかみ合わない小ネタには笑ってしまう。
デリー近郊の警察署では、逮捕した独立運動家の釈放を求めるデモ隊が押しかけていて、そこでラーマは警官であることがわかるが、デモ隊鎮圧に功績のあったラーマをイギリス人署長は功績を認めず昇進させない。
ラーマが悔しがることで、イギリス人のインド人への差別が手短に語られている。
後半では物語が終局に向かって一気に走り出す。
マッリの救出にビームが動き出し、ラーマの目的も明らかになってくる。
何でもありの大アクションが繰り広げられるが、そのアイデアは満載であっけにとられながらも堪能できる。
そしてついにラーマとビームはイギリス軍に立ち向かっていく。
武器は銃でもナイフでもなく肩車と言うのも奇想天外だが、ラーマのライフル扱いはジョン・ウェインも真っ青だ。
ラーマ―は武器を手に入れ故郷に帰りシータと再会する。
ラーマ王子とシータ姫の話はインドにあるようで、それもインドの人たちは承知のことだったのだろう。
まったくの架空物語ではなく、伝説や歴史が組み込まれているようで、やはり文化や歴史は他国の人にはまだまだ理解が及ばないことが多いのだと思う。
でも誰が見ても楽しくなってしまうのがインド映画の素晴らしいところだ。

The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛

2024-10-27 07:11:42 | 映画
「The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛」 2011年 フランス


監督 リュック・ベッソン                                       
出演 ミシェル・ヨー デヴィッド・シューリス
   ジョナサン・ラゲット ジョナサン・ウッドハウス
   スーザン・ウールドリッジ ベネディクト・ウォン                 

ストーリー
ビルマの独立運動に尽力し、民衆から慕われながらも政敵の凶弾に倒れたアウンサン将軍を父に持つアウンサンスーチー。
英国のオックスフォード大学で学んだ彼女は、やがてチベット研究者のマイケル・アリスと結婚、2児の母となる。
1988年ビルマ――。
英国で幸せな生活を送っていたアウンサンスーチーは、母の看病のため久しぶりに祖国・ビルマに戻ることになった。
そこで目にしたのは学生による民主主義運動を軍事政権が武力で制圧する惨状・・・。
そんな中、「ビルマ建国の父」と死後も多くの国民から敬愛されるアウンサン将軍の娘の帰国を聞きつけた民主主義運動家たちがスーチーのもとに集まり選挙への出馬を懇願する。
不安を抱きながらも民衆の前で立候補を決意するスーチーだったが、それはビルマを支配する軍事独裁政権との長い闘いの始まりであり、愛する家族との引き裂かれた辛く厳しい人生の始まりを意味していた。
危機感を抱いた軍事独裁政権は、次第にスーチーへの圧力を強めていくが…。

寸評
ノーベル平和賞受賞者で、ビルマの民主化運動の指導者アウンサンスーチーさんの半生を描いたドラマなのだが、彼女がまだ事をすべて成し遂げてはいないので伝記映画とするには時期尚早と思われるので、内容は偉人伝というよりもスーチーさんと夫マイケルとの夫婦の絆を中心とした家族の愛のドラマとなっている。
導入部の描き方からその演出テンポは小気味よくエンタメ的な盛り上がりにも長けていた。
このテンポの良さが最後まで崩れなかったので作品の完成度を高く見せている。
私はアウンサンスーチーの名前と活躍は知っていても、その家族状況と家族に起きていた出来事は知らなかったので、夫のガン宣告から彼の回想に入り、そして現在へと進む展開は、最初から残り少ない時間の中でこの家族はどうなるのだろうとの思いを抱かせてくれて、副題が納得できるものだった。
どこまでが事実でどこからが演出的なのか分からないけれど、軍事政権のボス、ネ・ウィン将軍の憎々しいワルぶりなどがこの映画のエンタメ的性を高めていた。
軟禁を警護している兵士が善人に改心するような演出をしていないところも良いと思うし、引き上げる兵士が前に描かれていたむごい行為のポーズに憎悪感をもたらす演出もいい。

ビルマは(ミャンマーという国名をスーチーさんは認めていない)まだまだ完全な民主化がなったとは言い難く、この映画に対する協力者の実名も明かせない状況だ。
自らは出席できないノーベル平和賞の受賞スピーチを聞く感動的場面も用意されているが、ビルマの状況が改善して、ようやくノーベル平和賞を自分の手で受け取ったスーチーさんの近況までは描かれていない。
そして最後に今も民主化のために世界中の助けを求めている彼女の言葉が示される。
場内ではすすり泣きも漏れ聞こえていたが、最後のテロップに場内から拍手が起きたのは感動的だった。
見ているうちにミシェル・ヨーが本当のアウンサンスーチーに見えてきて、その成り切りぶりはメリル・ストリープのサッチャーさんよりも本物らしい(マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙)。
最初の軟禁状態の開放に英国が奔走するのは分かるけど、日本が貢献していたなんて意外だったなあ。
日本の配給収入を見込んだサービスとはうがった見方かな?

追記
劇場で見た時はそのような感想だったのだが、その後ロヒンギャに対する政策を見ていると単純に美化できないなとの気持ちも湧いた。

69 sixty nine

2024-10-26 08:01:47 | 映画
「69 sixty nine」 2004年 日本


監督 李相日                     
出演 妻夫木聡 安藤政信 金井勇太 太田莉菜
   星野源 井川遥 水川あさみ 村上淳
   嶋田久作 柴田恭兵 原日出子 岸辺一徳

ストーリー
ベトナム反戦運動が高まり、大学紛争の激化で東大の入試が中止になった1969年、楽しく生きるをモットーにする長崎県佐世保の高校生ケン(妻夫木聡)は、いつものように掃除をサボり、仲間のアダマ(安藤政信)、イワセ(金井勇太)と屋上から女子生徒のマス・ゲーム訓練を眺めていた。
「何かを強制される集団は醜い・・・」アダマの真面目な言葉に都合よく乗っかったケンは、「そうだ!女子の弾力ある肌は波打ち際を黄色い声を挙げながら走る為にあるのだ!彼女たちを解放しよう!」と、映画と演劇とアートとロックが一体になったフェスティバルの開催をぶち上げる。
同時に、成り行きから、学校のバリケード封鎖を思い立つ。
すべては、憧れのレディ・ジェーン(太田莉菜)を主演女優に据えて映画を撮れば、監督兼主演男優として大手を振ってイチャイチャ出来るという、しょうもない野望のために始めたことだったが、事態はケンの思惑を越えて、ついにはマスコミをも巻き込み、警察が乗り出す大騒ぎになってしまう。
ケン達の運命は!?
フェスティバルの行方は!?…。


寸評
妻夫木聡主演の学園ドラマとなると「ウォーターボーイズ」を思い出すが、それよりもコミカルで大笑いが出来る。
そして我々の年代のものにとってはノスタルジックで、脇の下をくすぐられるような快感がある。
でもその小道具はなんだかセコくって、大きな50円玉だったり、青春のバイブルとでも言うべき雑誌「平凡パンチ」を会話の中に登場させたり、はたまたちょっとセクシーだった歌手の奥村チヨの綴じ込みグラビアを登場させたりといった具合だ。
巨大セットを組んで、当時の風景、風俗を再現しているわけではない。
お色気番組の「11PM」の登場シーンや、「若松孝二を知らないのか?」などという会話に笑わされるのだ。
そのチマチマした快感が心地よい映画だった。
劇場は妻夫木ファンなのか若い男女が多かったし、子供の姿も見受けられた。
内容的に彼らも大笑いしていたけれど、この映画の本当の面白さは団塊の世代が一番わかるのではないか。
そう言えばワンカット流れていたピンク映画は大和屋竺の「荒野のダッチワイフ」だったらしい。
エンドクレジットで大和屋竺の名前を見つけ妙な快感を得た。

題名になっている69とは1969年の事で、学園闘争がまっさかりの頃で、前年には原子力空母・エンタープライズの入港阻止にからんだ佐世保闘争があった頃だ。
あの頃の大抵の男たちの青春は、この映画に描かれた高校生達と大差はなかった筈だ。
学園闘争と政治の世界に真剣にのめりこみ、どうすれば世の中が良くなるのか真面目に考えていた一方、女、女、女と下半身に神経を集中させる毎日だった。
退屈なんてどこかに置き忘れたような愉快な毎日だったことを思い出させる。
彼らが「朝立祭」を企画したように、私も当時「深夜祭」なるオールナイト企画を実行しピンク映画を学園で上映した経験を有している。
その時の団交で「学園で深夜にピンク映画を上映して、実際にピンク映画まがいの事が起きたらどうするのだ!」と訳の分からない理屈を I.K 教授にいわれた事を思い出し、嶋田久作演じる先生がダブった。

挿入歌も懐かしく、新谷のり子の「フランシーヌの場合」やハニー・ナイツの「オー・チン・チン」など、よくぞこんな歌を引っ張り出したものだと感心した。
「朝立祭」というネーミングにしろ、「あのチンポコよどこ行った・・・」と唄う「オー・チン・チン」など、この映画のテーマそのものと思わせるに十分な小道具で、宮藤官九郎の脚本が光る。
オープニングのアニメーションに乗っかって処理される、クレジットタイトルの心地よい事・・・。
音楽と共に一気に引き込まれてしまう。
久しぶりにシャープなオープニングを見た。

柴田恭兵が昔は先生をしていたらしい親父を好演し、指紋のない中村を演じた星野源が抜群におかしい。
校長室だかの机の上で下痢のウンコをするシーンなんて包括絶倒だ。
妻夫木、安藤が抜群のコンビネーションを見せ、それに金井が絡んで、それぞれのキャラクターを熱演している。
面白い、実に面白い青春映画だ。
マドンナのレディ・ジェーンこと松井和子さんといい雰囲気になりながらキスもせずに、冬の海に行く約束をするシーンは、プラトニック・ラブもまた大いなる青春だった事を思い出させ、後日談は夢を語ってほのぼのとさせる。
僕は矢崎剣介君と松井さんのデートシーンはすごく良かったと思っている。
彼らは結局のところ、きっといいお友達で終ったと想像している。

見終わった率直な感想は、あの頃はみんな生き生きしていて、パッションがみなぎっていたなという感慨。
そして、世の中の皆が何かに夢中になっているようなエネルギーが満ち溢れていたな、といったような今はもしかすると無くなってしまったかも知れない世の中の雰囲気へのあこがれだった。
だから、今の人がこの映画を見ると、もしかすると物足りなさを感じるかもしれない。
だけど団塊の世代の人は、きっと感じるものが有る筈だ。
その意味で、ボクにとっては◎作品だった。

SAYURI

2024-10-25 07:30:49 | 映画
「SAYURI」 2005年 アメリカ


監督 ロブ・マーシャル                                              
出演 チャン・ツィイー 渡辺謙 コン・リー ミシェル・ヨー
   桃井かおり 工藤夕貴 役所広司 大後寿々花

ストーリー
貧しさゆえに9歳で花街の置屋へ売られた千代は、下女として働いていた。
ある日、辛さに耐えられず泣いていた千代は、「会長さん」と呼ばれる紳士から優しく慰められ、いつか芸者になって会長さんに再会したいと願うようになる。
時が経ち、15歳になった千代は、芸者の中でも評判の高い豆葉に指導を受け、「さゆり」としてその才能を開花していく。
そしてついに、会長さんと再会することになるが…。


寸評
かつて日本のイメージの代名詞だった「ふじやま」「げいしゃ」の内、芸者の世界を西洋人の視点で描いた作品だが、彼等なりの解釈で丁寧に作られている。
日本人でありながらも、僕だって芸者遊びをした事がないので、芸者の世界は知らないし、置屋のしきたりも知らないのだから、映画を見てああそうなんだと教えられる事もあって、特別な粗捜しの目で見ない限り違和感のないシーンで綴られていたのは何よりだった。
数々の日本ロケ・シーンに加えて丁寧に作られたセットがもたらす花町の雰囲気が全体を引き締めていたと思う。
千代役の大後寿々花が見せる笑顔は秀逸だった。
ずっと暗い顔を見せていてついに見せたという感じの笑顔が、会長に対する深い思いが生まれた事を象徴していて素晴らしかった。
この映画に登場する全ての女優の中で一番きれいに感じたシーンだった。
さゆりを演じたチャン・ツィイーよりも、この千代を演じた大後寿々花がいたからこの映画が際立ったのではないかと感じている。

愛と憎しみ、信頼と裏切りが交差して、それぞれの欲望がうずまく愛憎劇だったが、もっとどろどろしたものであっても良かったのではないかと思う。
その意味では、初桃を演じたコン・リーと、おカボを演じた工藤夕貴の存在が秀逸だった。
初桃のコン・リーは浩市と逢い引きを重ね、野望を剥き出しにして、相手をおとしめる悪役を引き受けて演じていた。
工藤夕貴演じるおカボが、ずっと仲良くしていたさゆりを裏切るシーンは、予想は出来たもののそれまでの流れからしてこの映画のテーマの一つを代表していたと思う。
桃井かおりは当然ながらの存在感だった。
ところで、さゆりが豆葉に言われるままに太腿にナイフで傷をつける意味は何だったのだろう?
豆葉の言われるままに何でもやったことは解るが、そのこと通じて初桃に肩透かしを食わせるはずだったと思ったが、それは描かれていなかったと思うので不可解だ。

4分間のピアニスト

2024-10-24 07:09:47 | 映画
「4分間のピアニスト」 2006年 ドイツ 

                              
監督 クリス・クラウス                  
出演 モニカ・ブライブトロイ ハンナー・ヘルツシュプルング
   スヴェン・ピッピッヒ リッキー・ミューラー
   ヤスミン・タバタバイ シュテファン・クルト
   ヴァディム・グロウナ ナディヤ・ウール

ストーリー
ピアノ教師として刑務所を訪れたトラウデ・クリューガー(モニカ・ブライブトロイ)は、机を鍵盤代わりに無心で指を動かしている女性に目を留める。
彼女の名はジェニー(ハンナー・ヘルツシュプルング)。
天才ピアニストとして将来を嘱望されながらも道を踏み外してしまい刑務所暮らしの日々に心を固く閉ざしていた。
衝動的に暴力を振るう彼女は刑務所内でも札付きの問題児。
それでも、ジェニーの才能を見抜いたトラウデは所長(シュテファン・クルト)を説得して特別レッスンを始める。
幼い頃から神童と騒がれながらも愛を知らずに育ったジェニー。
初めて愛した人が若くして亡くなって以来、音楽だけに人生を捧げてきたクリューガー。
来るべきコンクールでの優勝を目指し、厳しくも情熱をもって指導に当たるトラウデに、ジェニーも次第に心を開き始める。
しかしある日、クリューガーを慕う看守の ミュッツェ(スヴェン・ピッピッヒ)の仕組んだ陰謀にはめられ、ジェニーは暴力事件を起こしてしまう。
大会を前にしてピアノを禁止されるジェニー。
果たしてジェニーは、晴れの舞台に立ち、自由の切符を得ることが出来るのか・・・。


寸評
憎悪あるいは怒りともいえる敵意をむき出しにして、その感情のすべてをピアノに叩きつける様はヒロインの人生そのものであり、其れを表現したラストの10分間が素晴らしい。
鍵盤だけでなく、ピアノの弦を爪弾き叩き、鍵盤のカバーでリズムを取り、ピアノのボディを叩き、椅子を蹴り飛ばし、そしてステップを踏む。
およそクラシック音楽とは程遠いその演奏は前衛音楽でもあり、彼女の鬱積した気持ちの吐露でもあったのだろう。
観客の喝采に応える彼女の表情が其れを物語っていた。

難をいえば忌まわしい過去を持つ二人が引き寄せられていく過程が少し物足りないように感じたが、それでもジェニーはクリューガーが下劣という旋律を奏で、彼女が見事なまでに演奏しきるシーンは迫力十分だった。
去っていく父、押し寄せる警官たち、演奏にうっとりするクリューガー、万来の拍手に微笑むジェニー。
それらを次々と映し出して、生きてきたこと、これから生きるという事、人間の尊厳を見事なまでに突きつけた。

CUT

2024-10-23 07:46:27 | 映画
「CUT」 2011年 日本 

                                    
監督 アミール・ナデリ                 
出演 西島秀俊    常盤貴子 菅田俊
   でんでん 鈴木卓爾 笹野高史

ストーリー
映画監督の秀二(西島秀俊)は、いつも兄から金を借りて映画を撮っていたが、どの作品も商業映画として映画館でかけることさえできずにいた。
秀二は忘れ去られようとしている名作の上映会をビルの屋上でやっている。
そんなある日、秀二は兄が借金トラブルで死んだという知らせを受ける。
兄はヤクザの世界で働いていて、そこから秀二のために借金をしていたのだった。
秀二は何も知らずにいた自分を責め、兄のボスである正木(菅田俊)から、残った借金額を聞かされる。
しかし、秀二には金を返す当てもない。
彼は、殴られ屋をすることで返済することを決め、ヤクザの事務所内で働く陽子(常盤貴子)と組員のヒロシ(笹野高史)を巻き込みながら、殴られ屋を始める。
殴られるたびに自分の愛する映画監督たちが撮った作品を思い浮かべる秀二。
だが、借金返済はそれほど簡単なものではなかった……。


寸評
最初から最後まで西島秀俊が殴られ続けていると言っても過言でないような作品だ。
殴られることで現金を得る=殴られ屋が登場する映画は今までもあったと思うのだが、ここまで徹底した作品はなかったのではないか。
主人公は兄が殺された場所で殴られ続ける。
それは兄が自分の映画制作のために借金してくれていた為であり、兄が命を賭けてくれた映画製作を続けるためにはその場所である必要が有ったのだろう。
殴られ続ける秀二役の西島秀俊が渾身の演技。
メイクもすごい。もしかすると本当に顔面を腫らしていたいたのかもしれない。
かつての映画は芸術と娯楽が共存していたのに、今の映画は娯楽しか追求していないと叫ぶ。
殴られながら思い浮かぶ作品をつぶやき、監督をつぶやき、製作年度をつぶやく。
彼が居住する部屋は、開催した上映会の作品名と監督名を記したチラシで埋め尽くされ、ポスターと監督達の写真で埋め尽くされている。
黒澤の墓を訪れ「先生、これで良いのでしょうか」と問いかけ、溝口の墓では刻まれたその作品リストをなぞる。
小津の墓ではその墓碑銘の「無」に同化しようとする。
いい映画を撮りたい、自分が納得する映画を作りたいと追い続けているのだ。
秀二にとって映画は「薔薇のつぼみ」だったのだろう。
再び借金を申し込むところでは、ATG映画を思い出して1000万と言うかと思ったがそうではなかった。
この時見せる常盤貴子の微妙な笑みがたまらない母性を感じさせて、このシーンのために彼女がキャスティングされたのだとも思わせた。
無声映画への郷愁なのか、エンドロールが流れる間はまったくの無音であった。

シネコンに架かる商業映画を否定しているけれど、それもまた映画だし、何とか名画座系とロードショー系、リバイバル館が共存してくれないかと願っている。
旧作品を上映する映画館が少なくなってしまったけれど、旧作品はDVDで見ろという時代になってしまったのかもしれない。
ラストで主人公が100発殴られる間に挿入される映画タイトルと監督名は英語表記になっていて僕には全てを読み取ることが出来なかったが、それでも次々表示される作品はオールタイム・ベスト100を見ているようでワクワクした。
ベスト1は「市民ケーン」で第2位は「8 1/2」ということだったのだろうか?

芸術と娯楽の共存作品は今でも存在していると思うが、特に日本映画において質的低下をもたらしている原因の一つは五社協定の崩壊だと思っている。
半ば強制的にスケジュールに乗っかって作品が撮られ続けていた五社体制時代は、五社の制約もあったかもしれないが、自社のスターや監督を育てようという情熱も映画会社の中にあったと思うのだ。
プログラムピクチャーの中から数々の名作が世に送り出されてきたし、監督達は先輩から技術を学び、新たな演出を試みていたと思う。
その代表が黒澤、溝口、小津だというのは少々短絡的すぎるとは思うのだが、それでもあの頃の映画は良かったと思うのは、私が齢を重ねたためかも知れない。
製作、配給、上映とその役割がシステム化されて、ファンドを初めとする巨大資本のもとで産業の一分野として存在している映画界から、かつてのヌーベルバーグやATG運動の様なエネルギーが再び湧きあがってくるのだろうか?
是非そうあって欲しいものだ。

0.5ミリ

2024-10-22 06:57:24 | 映画
「0.5ミリ」 2013年 日本                                                          

監督 安藤桃子                                                   
出演 安藤サクラ 坂田利夫 津川雅彦 草笛光子
   角替和枝 織本順吉 木内みどり 土屋希望
   井上竜夫 柄本明 東出昌大 ベンガル
   浅田美代子
           
ストーリー
天涯孤独な介護ヘルパーの山岸サワ(安藤サクラ)は、派遣先の家族からおじいちゃんと一晩過ごしてほしいと依頼される。
当日の夜、思いもよらぬ事故が起こり、サワは家も仕事も失ってしまう。
しかし、カラオケ店の受付でまごつく老人(井上竜夫)を見つけるや、強引に同室となって楽しく一夜を過ごす。
貯金もなく窮地に立った彼女は、駐輪場の自転車をパンクさせる茂(坂井利夫)や、書店で女子高生の写真集を万引きする義男(津川雅彦)ら癖の強い老人を見つけては家に上がり込み、強引に彼らのヘルパーとなる。
彼らもはじめは面食らうものの、手際良く家事や介護をこなし歯に衣着せぬ彼女に次第に動かされる。
不器用なため社会や家族から孤立した彼らは懸命にぶつかってくるサワと触れあううちに、生の輝きを取り戻していく…。


寸評
監督が安藤桃子で主演が安藤サクラという安藤姉妹による作品だが、エグゼクティブ・プロデューサーに奥田瑛二、フード・スタイリストに安藤和津が名前を連ねているので安藤一家総出の映画になっている。
オマケに安藤サクラが柄本佑と結婚したので、 この作品に出演している柄本明と角替和枝はサクラの義父母ということになり、一家親戚あげての作品と言うことも話題の一つかな。
その事は作品の出来には関係ないのだが、なかなかどうして本年屈指の快作になっている。
映画は老人の生と死を見つめ、介護、家族という社会問題を描き、さらには老人の性にも切り込んでいる意欲作だ。
しかも暗くて重くなりがちな内容なのに、エンタメ性に富んだ時々笑いも起こる196分作品に仕上がっていた。

主人公の山岸サワは派遣先で寝たきり老人と寝てほしいという依頼から起こった事故により無一文になったことから始め出す「おしかけヘルパー」である。
半分脅迫とも思える手段を講じるサワだが、実にやさしい女性である。その優しさから、老人の冥土の土産として添い寝を承諾してしまう。
依頼した片岡一家は家庭崩壊していて、明日の命をも知れぬ寝たきり老人がおり、さらに子供のマコトは読書しかせず全く口を利かなくなった引きこもりだ。この家族には希望がない。
一人で家庭をきりもみし、面倒を見てきた父親の最後の願いを成就させた雪子(木内みどり)は結論を出す。
ショッキングな出だしである。
行き場のなくなったサワは老人の康夫と出会うが、これをやっているのが吉本新喜劇の竜ジイこと井上竜夫で、次にはアホの坂田が呼び名の坂田利夫が登場してくる。
大阪人の僕としては、高知が舞台の映画なのに大阪弁を駆使する二人の登場で自然と親近感が湧いた。
康夫は親切にしてもらったと最後にサワと握手をするが、そこには康夫の気持ちがこもっていた。
今までの苦労と努力で蓄えてきた財産を持ちながらも、それのみを当てにされている孤独な老人の姿がサラリと描かれた。
茂を演じた坂田利夫は流石の芸歴と言うか、見なおしたと言うべきか、絶妙の演技で存在感を示す。
登場と同時に見せる芝居は、大阪人にとっては見なれた芝居で館内には安心した笑いが起きた。
彼等はただ生きながらえているだけのようにも見えるが、何とか自分の存在を示そうとしている。
茂は通っている喫茶店の自分の席を譲ることはしない。そこは自分の席だと主張して先客をどかせる。
自分の意地を通しても孤独が解消されるわけではない。
その孤独をいやしてくれる斎藤君(ベンガル)が詐欺師にもかかわらずかばい続けてしまう。
かれは淋しさを自転車のパンクや収集で紛らわせているが、サワと出会って短い老い先を考えるようになるが、その結論も悲しいものがある。
しかしサワにはそれをどうすることもできない。
サワは心底からの愛を与えるが、その見返りとしてわずかばかりの施しを手にする。サワの姿はまるで女神か聖職者だ。
津川雅彦の長回し台詞は、僕は少しばかり唐突感を感じたが戦争を経験した人の叫びだったのだろうか。
サワは最後にある老人から思いもよらぬ施しを受け取る。それは赤の他人に対する遺産であった。
与えるばかりで施しを受けることのなかったサワが得た愛でもあった。
サワが慟哭するこのシーンは出色だ。
老人たちはほんの少しのことで生きる喜びを得るが、それは又サワ達にも共通することだ。
マコトの秘密も明らかになって、二人はわずかな希望を得て明日へと向かう姿も大げさでなく心に染みた。

2度目のはなればなれ

2024-10-21 07:05:28 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2020/4/21は「マラソンマン」で、以下「マルサの女」「マルサの女2」「万引き家族」「ミクロの決死圏」「ミスティック・リバー」「水の声を聞く」「水の中のナイフ」「道」「未知との遭遇」と続きました。

「2度目のはなればなれ」 2023年 イギリス


監督 オリヴァー・パーカー
出演 マイケル・ケイン グレンダ・ジャクソン
   ダニエル・ヴィタリス ヴィクター・オシン
   ウィル・フレッチャー ローラ・マーカス
   エリオット・ノーマン

ストーリー
1944年6月6日、フランスのノルマンディー海岸で決行された「Dデイ」と呼ばれる上陸作戦は、第二次世界大戦において勝機が連合国側に大きく傾いた分岐点となった。
この作戦から70年目の2014年6月6日に、元戦地ノルマンディーで各国首脳の列席のもと記念式典が開かれることになった。
イギリス・ブライトンの老人ホームで人生最期の時を過ごすバーニーとレネの夫婦が取ったある行動が世界中でニュースになる。
70年前のDデイでイギリス海軍下士官だったバーニーは、イギリスの町ブライトンの高齢者施設を無断で抜け出し、フェリーに乗り込みドーバー海峡を渡ってノルマンディーを目指したことが判明したのだ。
捜査にあたった警察は、SNSでハッシュタグ「#TheGreatEscaper」を付けて行方をツイートした。
“脱獄もの”映画のクラシックとして名高い『大脱走』(1963)の原題(The Great Escape)をもじったこのハッシュタグは瞬く間に拡散。
ところがスマホを持たずSNSとも縁遠いバーニーは、自分が一躍時の人となっていることをまったく知らない。
2人が離ればなれになるのは、人生で2度目。
決して離れないと誓った男が、妻と離ればなれになったのにはある理由があった・・・。


寸評
何か大きな事件が起きるわけでもない静かな映画だ。
主人公のバーニーが旅している所は第二次大戦中に激戦が行われた場所だ。
海もノルマンディーの海岸も美しい映像でとらえられていて、世の中は平和でなければいけないと感じさせる。
バーニー夫婦は歩くのもままならなくなってきている老夫婦だ。
今でも愛と信頼で結ばれている素晴らしい夫婦と言える。
映画の一方はこの老夫婦の愛情物語でもある。
交わされる会話がウィットにとんだものでイギリス映画らしい。
派手な作品が多い昨今だが、僕はこのような静かな作品が好みである。

バーニーは戦場で経験したことを妻のレネに話していなかったのだろう。
レネは、はなればなれになっていたバーニーが戦場から帰ってきた時は固まっていたと言う。
過酷な経験をしてきたことを察したレネは何も聞かなかった。
バーニーが心に秘めていることがあると悟ったレネは申し込みが遅れたバーニーにDデイの式典に行くべきだと告げる。
そしてバーニーは誰にも告げずフランスへ旅立つ。
施設の人たちは大騒ぎするがレネはお見通しでとぼけている。
レネのバーニーに寄せる信頼の度合いが感じられる。

バーニーは途中で、やはり第二次大戦で空軍パイロットだったアーサーと知り合うのだが、このアーサーという退役軍人もなかなか良い人で、同じ境遇を辿った人ならこんなにも親切になれるのかと思ってしまう。
ふたりが秘めた思いがもう一方の物語である。
アーサーの弟はレジスタンスに助けられてある町まで逃げて来ていた時、アーサーはその街を爆撃して壊滅させ、弟はそこで亡くなった。
もしかすると自分が落とした爆弾が弟を殺したのかもしれないとの思いがある。
バーニーは戦友が戦死したのは自分が励まして送り出したからなのではないかと思っている。
二人には悔恨と贖罪の気持ちがある。

バーニーは亡くなった仲間を弔うためにDデイの記念式典に参加しようとしているドイツの退役軍人と出会う。
そしてお互いが同じ戦場でまみえていたことを知り慟哭するドイツ人を、バーニーは手を取りお互いに無言で慰め合う。
そしてお互いに生き延びて良かったなと敬礼を交わす。
感動的な場面で、やはり平和でなくてはいけないと痛感するいいシーンだ。

二人はためらいながらも、それぞれの相手が眠る戦没者の墓を訪ねる。
やっと胸につかえたものを取り除くことが出来たのだと思う。
レネが言うように、亡くなった者は運が悪かったとしか言いようがないのが戦争なのだろう。
バーニーは「無駄な死だ!」と叫ぶが、全くその通りだ。
元アフガン戦争兵でフェリー従業員のスコットという若者も登場するが、彼ら退役軍人が抱えるPTSDのメンタルケアというシビアな問題も提起されている。

レネは2回目のはなればなれを経験したわけだが、次は私もいっしょに行くと言う。
実話の映画化で、バーニーが逝った後すぐにレネもなくなったことが知らされる。
レネは本当に一緒に行ったのだと思う。
二人は些細なことをしながら過ごしてきたのだろうが幸せな夫婦生活だったと思う。
イギリスは福祉が充実しているのかもしれないが、あのような施設があるなら僕も入所しても良いかなと思ったりした。

17歳の肖像

2024-10-20 06:04:39 | 映画
「17歳の肖像」 2009年 イギリス

                                             
監督 ロネ・シェルフィグ                                       
出演 キャリー・マリガン ピーター・サースガード
   ドミニク・クーパー ロザムンド・パイク
   アルフレッド・モリナ カーラ・セイモア
   エマ・トンプソン オリヴィア・ウィリアムズ
   サリー・ホーキンス マシュー・ビアード

ストーリー
1961年。ジェニーは、ロンドン郊外のトゥイッケナムの学校に通う16歳の少女。
父・ジャックと母・マージョリーは、成績優秀なジェニーがオックスフォード大学に進学することを期待している。
楽団でチェロを弾き、フランスに憧れ、ロマンティックな恋を夢見るジェニーの今のボーイフレンドは、生真面目だが冴えない同級生のグラハム。
そんなジェニーは大学に入ればもっと自由に好きなことができると信じていた。
楽団の練習の帰り道、どしゃぶりの雨に見舞われたジェニーは、高級車を運転する見知らぬ大人の男性から「君のチェロが心配だ」と声をかけられる。
自宅までのほんの僅かな距離を行く間に、彼の紳士的な態度と柔らかな物腰、ウィットと教養に富んだ言葉がジェニーの心を捉える。
それがデイヴィッドとの出会いだった。
数日後、ジェニーは街角でデイヴィッドを見かけて声をかける。
デイヴィッドが彼女を音楽会と夕食に誘うと、ジェニーはその申し出を喜んで受け入れた。
デイヴィッドの友人で美術品取引の仕事仲間のダニーとその恋人ヘレンを紹介されたジェニーは、彼らが足を運ぶナイトクラブや絵画のオークションに同行、洗練された大人の世界にすっかり魅了されていく。
生まれて初めて“人生を楽しむ”ということを知った彼女は、これまでの自分の人生が急に色褪せたものに思えるのだった。
それを教えてくれたデイヴィッドにますます恋をしていくジェニー。
そしてデイヴィッドもまたジェニーの聡明さに惹かれていく。
初めての真剣な恋に夢中のジェニーは、17歳の誕生日をまもなく迎えようとしていた。
だが、もう後戻りできない大人の入口で、彼女は大切な選択を迫られることになる。
ジェニーが自ら最後に選んだ道とは……?


寸評
みずみずしい作品で懐かしさを感じさせる作品だ。
今を表現する作品ではないが、かつて見たことが有るような気分にさせる秀作だと思う。
思春期の子供から大人になっていく境目の心と肉体の微妙な状況を描いた作品は永遠のテーマなのか数多く存在していた。
いたと過去形で思うのはこの手の作品が少なくなってしまった為だと思う。
ジェニー役のキャリー・マリガンが化粧をし着飾ることで見違えるように美しくなり、すっかり魅力的な大人になるのは見ている私をもうっとりさせた。
ジェニーがはじめてその裸身を晒すシーンでもその乳房を映し出さない演出をはじめ、じつに丁寧に描いていて真正面から描き続ける構成の完成度は高いと感じた。

ジェニーはオックスフォードを目指すラ成績優秀な(ラテン語を除いて)女子高生である。
イギリスの女子高生の喫煙度は知らないが、煙草も吸っているので全く品行方正なお嬢様というわけではない。
しかし父親は自らの劣等感から何がなんでもオックスフォードへと思っている。
その劣等感が判断を狂わすのだが、より上流の生活を夢見るための変貌ぶりが面白い。
平凡な家庭の頑固な父親と、娘を心配ながらも見守り、時として見方する母親の姿もごく自然に描かれる。
この手の作品では最後は挫折を味わい、その挫折から再び立ち上がって未来に向かって歩き始めると言うのが常套であるので、どんな形でそうなるのか見ていたが、そのあたりの描き方も丁寧で、その丁寧さは首尾一貫していた。
彼女がオックスフォードを訪ねるあたりから、男の胡散臭さが判明してくるのだが、その胡散臭さの描き方がサラリとしていたことも、作品に気品をもたらす効果を上げていた。
又、彼女が慕うディビィッド役のピーター・サースガードの抑えた演技もこの作品を際立たせる一因だった。

物語的には、彼女の担任であるハイミスの先生の存在が教育ということの重大さと、教育者の存在の重大さを示していて救いとなっていた。
少々一時代前の作品の感じがしないでもないが、少し老けこんできた私としては、このような作品を面白くなく感じたり、彼女の感情を理解できないようになったら映画を見るのをやめようと思わせる映画だった。

この自由な世界で

2024-10-19 07:54:53 | 映画
「この自由な世界で」 2007年 イギリス / イタリア / ドイツ / スペイン      
                              
監督 ケン・ローチ                        
出演 カーストン・ウェアリング ジュリエット・エリス
   レズワフ・ジュリック ジョー・シフリート
   コリン・コフリン レイモンド・マーンズ

ストーリー
一人息子のジェイミーを両親に預け、職業紹介所で働くシングルマザーのアンジーは、ある日突然解雇されてしまう。
そこで彼女は、ルームメイトのローズを誘って、自ら職業斡旋の仕事に乗り出すことに。
こうして、行きつけのパブの裏庭を集合場所に、外国人労働者の斡旋業をスタートさせたアンジーだったが、ある時、不法移民を働かせるほうが儲かると知り、気持ちが大きく揺れてしまう…。


寸評
シングルマザーと外国人労働者という二つの問題が描かれている。
わが国においても外国人労働者は増えていて、不法就労者もかなりの数に上っていそうである。
企業は安い賃金に引かれ、過酷な労働でも自国の貨幣価値に比べれば高い円に引かれる人々が問題を抱えながらも生活しているのが実態ではなかろうか。
そこには搾取もあり、闇の世界の介在もあるのかもしれない。
保証もなく不安定で劣悪な労働環境に甘んじながら労働市場の底辺を支える外国人雇用の実態を描くが、私が知る縫製業界でもそのような実態を垣間見ることがある。
そもそも労働集約産業的な職域での日本人労働者は減少しつつあるのではないか。
当然ながら自国の労働者は、より条件の良い職域に向かうであろうから、その結果としてできる空洞を外国人労働者が埋めることになる。
映画の中でも仕事にあぶれた外国人労働者の姿が描かれる。
そして暗に闇の世界の存在を匂わせている。
とてもイギリスの話と割り切ってみているわけには行かない切実感がある。
一方アンジーは派遣事業を起こすが、その仕事は尋常ではない。
勝気な性格もあって成功を収めたかに見えるが、その強引なやり方は父親も疑問を持ち、ついには労働者とトラブルを起こす。
ついには社会のルールを破るまでに至ってしまう。
それでも悪人には見えないのは必死に生きる彼女の姿があり、子供を思う母の姿があるからに他ならない。
彼女を見守ってくれる周りの人間たちの存在もあることも一因だと思うし、血も涙もない人間の側面を見せながらも、困っている人を助けてあげるような人の良さも持ち合わせているからだと思う。
誰もが自由にことを起こせ、自分の才覚で自分自身の幸せを得ることができる自由社会の中で、強く生きる女性を描きながらも拝金主義的に生き、あるいは金に翻弄される人間の弱い部分を描いた映画でもあった。
その姿はわれわれが生きているこの社会そのものの縮図でもあった。

おだやかな日常

2024-10-18 06:43:30 | 映画
「おだやかな日常」 2012年 日本 

                                                        
監督 内田伸輝                                         
出演 杉野希妃 篠原友希子 山本剛史 渡辺杏実 小柳友
   渡辺真起子 山田真歩 西山真来 寺島進 志賀廣太郎
   古舘寛治 木引優子 松浦祐也

ストーリー                        
福島の原発事故の影響が明らかになり始める東京近郊のマンション。
マンションに住むサエコ(杉野希妃)は夫から一方的に離婚を突きつけられ、幼い娘を一人で育てなければならなくなる。
そんな彼女は放射能の恐怖から幼い娘の清美を守りたい一心で様々な行動に出るが、それが幼稚園の他の母親たちとの間に軋轢を生んでしまう。
一方、同じマンションの隣人ユカコ(篠原友希子)も放射能への危機感を募らせ、サラリーマンの夫に引っ越しを迫るのだったが…。


寸評
東日本大震災による原発事故をテーマにした映画で、放射能の恐怖におびえ追い詰められていく2人の女性を描いている。
マンションの隣人同士のサエコとユカコの二人に共通するのは福島からやってくる放射能への恐怖。
二人の行動はドラマの展開とともに、どんどん過激になっていき、、その行動は賛否が分かれるところだと思うのだが、作り手側もその行動を短絡的に肯定しているわけではない。
関西在住の僕は、正直、そこまでやると浮くんじゃないかと感じてしまうのだが、しかしサエコは突然夫から離婚を切り出されて一人娘を育てねばならない事情や、ユカコにも過去に負った事情などが、その異常性を納得させる背景となっている。
離婚を突き付けられているサエコの事情はストレートだが、一方のユカコの方は夫の務める会社では業績不振のためのリストラが始まっていて、妻には言いにくい転勤、転職事情が裏にある。
「地震の時にどれだけ不安だったか、あなたに分かる?」と問い詰められて「その時、どれだけお前のことを心配していたのか分かるのか」と切り返えさせたりしているのは、男としては生活維持のために背負っている苦しさもあるのだと代弁しているようで、このあたりの背景がこの映画を単純構造にしていないのだと思う。

原発事故を描いた映画なのだけれど、杉野希妃、篠原友希子の熱演もあって、母性を描いたドラマとして見応えがあった。
それぞれの恐怖や焦燥感は当事者でない僕にはオーバーに感じられたのだが、その感情そのものが”おだやか”すぎるのだろう。
考えてみれば水俣病だって、政府は当初チッソは関係ないと発表していたのだし、国民は少なからず今回の安全宣言も怪しいものだと感じているのではないか?
そして5年後、10年後に彼女達が恐れているようなことになると、結局泣きを見るのは子供たちだ。
水俣病と同じように、国家補償が得られたとしても、国家は賠償金を支払って終わりかもしれないが、苦しむのは当事者たちで、その苦しみは救いようがない。
同じことが起きないと誰が断言できるのだろう。
やはり、子供を守る気持ちが強いのは母親が一番なのだと思い知らされた。
自分のことは自分で守るしかないのだが、昨今の震災がれきの受け入れ問題と言い、時間がたつと周りは無関心になっていき、そこには”おだやかな日常”だけが有るようになってしまうのだろう。
当事者たちには軋轢、偏見、風評被害も生じているのだろうが、なんとか国家として救えないものかと思う。

舞台を福島でなく東京にしているのも微妙な感情を起こさせ、手持ちカメラを多用したドキュメンタリータッチで、少々堅苦しかったのだが、ユカコの夫に何事もなかったように暮らすことへの違和感を表明させ、かすかな希望をともすエンディングを用意していたので、このラストでもって一気にドラマとして昇華した。
最後の10分はいい。