♪♪あなた知ってる?~広島~

HP「広島ぶらり散歩」編集&更新の履歴ブログです。
広島市は“平和都市”のほか“水の都ひろしま”も推進しています。

中区:中島地区・原爆被災説明板

2024年08月07日 07時33分21秒 | 平和記念公園
-画像が現れていない記事になっていたら、編集頁を見ていただければ幸いです-

広島市中区中島町の平和記念公園内を通る旧西国街道沿いに建立されている「中島地区原爆被災説明板」です。

説明文
『爆心地から約100m~700m。
中島地区(現在の平和記念公園一帯)は、幕末から明治・大正・昭和にかけて市内有数の繁華街としてにぎわっていました。
1945(昭和20)年8月6日、爆心地から至近距離にあったこの地区は、全滅状態となりました。
この日は、多数の学徒と地域や職場から動員された人々が現在の平和大通り周辺で建物の疎開作業のため動員されていました。
顔の判別もつかぬほど焼けただれ、水を求めて川岸に集まった生徒たちは、全員が死亡しました。』

「煉瓦造2階・被爆当時「藤井商事」と「広島県産業奨励館」

今月(8月)1日撮影しましたので、
碑の向側に(通称)平和記念式典用のテントが設置されていました。


(裕編集の)中島地区原爆被災説明板

8月7日(安芸区のわが家付近)天候:はれ。
28.4℃、80%

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中区:広島県産業奨励館・原爆被災説明板

2024年08月06日 06時10分07秒 | 平和記念公園
広島市中区中島町の平和記念公園(中島町側)に建立されている「広島県産業奨励館・原爆被災説明板」です
*原爆ドーム所在地は、同じ平和記念公園ですが、中区大手町1-11に位置しています。

説明文
『爆心地から約160メートル
この建物は、チェコの建築家ヤン・レツル(1880-1925)の設計監督により1915(大正4)年4月に完工し、特徴ある緑色*1のドームによって市民に親しまれていました。
原爆は、この建物の南東約160メートル地点の上空約580メートル*2でさく裂したため、建物は大破・全焼して館内にいた全員が即死しました。
その後、原爆の惨禍を全世界に伝えるとともに、世界平和へのシンボルとして1996(平成8)年12月、ユネスコの世界遺産一覧表に登録されました。
写真説明:被爆前の広島県産業奨励館』

*1)特徴ある緑色のドーム、
竣工時は銅板色の輝きでしたが、年を経るごとに銅錆で緑色になっていったのです。
*2)2001年撮影時には≒58omでしたが、
今(2024年)回撮影時には≒600mと訂正されています。


大手町地区から元安川越に撮影しました。
外国人観光客が、原爆被災板を入れた構図?で原爆ドームを撮影していました。


(裕編集の)広島県産業奨励館・原爆被災説明板

8月6日原爆忌 (8:15 1分間の黙祷を)
(安芸区のわが家付近)天候:はれ。28.5℃、81%

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中区:猿楽町通り周辺・原爆被災説明板

2024年08月05日 06時44分33秒 | 平和記念公園
広島市中区大手町の平和記念公園原爆ドーム東北側に建立されている「猿楽町通り周辺・原爆被災説明板」です。

説明文
『この地域一帯は、藩政時代からの城下町として、能楽(猿楽)師、細工師、医師をはじめ大小の商家が軒を並べてにぎわっていました。
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、人類史上初めての原子爆弾が細工町の島病院の上空約580メートル*でさく裂し、爆心直下のこの一帯は、人も街並みも全滅しました。
焼け跡には、広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)だけが象徴的な姿をさらしていました。・・・』
*2000年撮影時は、≒580mでしたが
今(2024年)回撮影時には、≒600mと改正されています。

この原爆被災説明板の後側の建物は、
2016年9月“広島おりづるタワー”としてオープンし、1Fは物産店でしたが、
今(2024)年2月23日お好み焼き・みっちゃん総本店が開店し、撮影が昼時だったからか入店待ちの列が出来ていました。

(裕編集の)猿楽町通り周辺・原爆被災説明板

8月5日(安芸区のわが家付近)天候:はれ。
28.6℃、86%

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番外:わが家のオリヅルラン

2024年08月04日 06時19分03秒 | いまだ初心園芸
例年、夏になったら涼を呼ぶように玄関を飾ってくれていたのですが。

ことしは暑すぎて、
オリヅルランの世話もしていないので、
(上記画像のように)野放し状態なのです。

近づいて撮影してみましたが、まだまだ撮影未熟です。






(わが家の)オリヅルラン

8月4日(安芸区のわが家付近)天候:早朝の雨)くもり。
29.9℃、84%

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中区:頑張れ!! 被爆アオギリ2024年8月1日

2024年08月03日 07時37分24秒 | 被爆樹木たち
小さい方のアオギリ、(斜めになってきている)大きい方のアオギリ、被爆アオギリ二世

と報道で知りました。
(小さい方の)被爆アオギリが衰弱。
原因:G7広島サミット記念館外壁の照り返し?
応急処置:広島市が記念館外壁に、7月24日遮光ネット設置。

わたしは、8月1日になりましたが、
小さい方の被爆アオギリの葉っぱをみて(種を探してみましたが、見つけられませんでした)
葉っぱの色も弱々しい色合いのようでした。

G7広島サミット記念館を建てるときに、
被爆アオギリへの環境影響調査なんてしなかったことが大きな原因ではと思えてなりません。

×核廃絶をうたったG7広島サミットが、被爆アオギリを枯らすことになったら本末転倒なことだと強く思います。
×既に、被爆シダレヤナギをテロ対策ということで(誤って伐採と言訳していますが)伐採し枯死させたのですから。

大きい方の被爆アオギリの葉っぱをみて(種を探してみましたが、わたしは見つけられませんでした)
みた葉っぱは元気そうですが、種を造る前の花さえ咲かせないほど弱っているのでは?

*記念館外壁の照り返しばかりではなく、
*西側を記念館の布基礎で、北側西側は被爆遺構展示館への園路の土手で3方囲まれているので、
梅雨時を経験したことで(以前のような)被爆アオギリ周りの排水ができず、
根腐れが起きてきていることはないのかなどと思ったりします。

樹木医の方と共に広島市緑地課のもつ知恵を絞りだし、その方策を(予備費を使い)実施に移し、
被爆アオギリを守って行ってもらいたいと、切に願っています。

(裕編集の)被爆アオギリの四季(2024年)

8月3日(安芸区のわが家付近)天候:はれ。
29.5℃、79%

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中区:平和記念公園2024年8月1日

2024年08月02日 07時16分39秒 | 平和記念公園
8月1日(木)10時30分過ぎ、晴れた日で、既に暑くなっていました。

ニュースで既に8月6日(通称)平和記念式典用の日よけのテントが設置されてきていると聞いていたので、
午後からの日赤での定期健診前に立ち寄って撮影してみようと思ったのです。
暑い日でしたが、思ったよりも外国人観光客もそうでしたが日本人の観光客も多く訪れていました。

既に、通称・原爆資料館外壁には、
「令和6年8月6日 広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式」
 看板が取り付けられていました。

(裕編集の)平和記念公園広場の四季(2024年)

今回から会場全体をテントで覆うようになったと聞きます。
わたしが、はじめて参列した2002年には、テントの設置はなかったのです。
(2003年から広島市はちびりちびりテントの量を増やしていきました)

2002年8月6日裕撮影

原爆ドームの右側(東側)にいまは無き市民球場の照明塔が写っています。

8月2日(安芸区のわが家付近)天候:はれ。
28.9℃、79%

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