♪♪あなた知ってる?~広島~

HP「広島ぶらり散歩」編集&更新の履歴ブログです。
広島市は“平和都市”のほか“水の都ひろしま”も推進しています。

安芸区:吉田松陰詩詠の地・説明板

2017年01月31日 07時53分53秒 | 旧瀬野川町附近
安芸区上瀬野町上大山の河島橋少し西側の旧西国街道沿いに建立されている「吉田松陰詩詠の地」説明板です。


明治維新の指導者を育てた吉田松陰(1830-1859)は、ここ瀬野を四度も往来しています。
一度目は、1851年3月参勤交代の長州藩主・毛利慶親の列に加わっていましたが、
あとの三度は、罪人としての往来でした。
紹介の詩は1859年5月29日安政の大獄により萩の野山獄舎から江戸の伝馬町獄舎へ護送される途上この地で詠んだものです。
この五ヶ月後の10月27日惜しくも三十歳の若さで刑死しました。

(裕編集の)吉田松陰詩詠の地・説明板

1月31日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

コメント (2)

中区:被爆したアオギリ2017年1月28日

2017年01月30日 11時40分01秒 | 被爆樹木たち
ことしもアオギリを四季折々みていこうと思っていますのでよろしければお付き合いいただければ幸いです。
(背が低い)竹の柵に囲まれた中には、
西側(画像で左側)に小さいほうの被爆アオギリ、中央に2004年台風で倒れた被爆アオギリ、東側に被爆アオギリ2世の三本が現在植えられています。


二本の被爆アオギリの被爆による傷跡に(特に)目が行く季節で、立ち止まってみるわたしは目頭が熱くなりながら撮影しました。
歳のせいでしょうか、だんだんと涙もろくなってきているようです。

(裕編集の)(被爆した)アオギリ2017年

1月30日(安芸区のわが家付近)天候:(雨上がりの)くもり


今朝までの雨でだいぶ融けてしまった谷間の残雪。
コメント

中区:平和記念公園2017年1月28日

2017年01月29日 10時53分11秒 | 平和記念公園
ことしも四季折々平和記念公園の広場を見て季節の移ろいを感じていきたいと思っていますが、
通称・原爆資料館の耐震工事が本格的に始まることから(南側)ピロティー下などから広場を撮影はできなくなります。
ことしは、平和記念資料館本館と東館をつなく空中廊下の中間柱付近からを定点にしようかなと思っていますが(最初の画像です)。
*通称・原爆資料館=広島平和記念資料館・本館

新聞報道で知った、
(耐震工事前の)被爆時の発掘作業は終わったというものの、その層の下に江戸期のものとみられる土葬墓の跡が見つかったと知りましたので、発掘調査の状況を少しでも撮影できたらと思っていました。
*現在、平和記念公園になっている中島町は、戦前広島市の繁華街と云っていいほどの地域で、被爆後、盛り土をして公園に整備しています。
∴耐震工事で被爆時の遺構を破壊するということで、発掘調査が行われたのです。


(裕編集の)平和記念公園広場の四季(2017年)

1月29日(安芸区のわが家付近)天候:くもり


谷間の残雪を少しアップで撮影しました。
コメント (2)

番外:わが家のシンビジウムはまだまだ・・・

2017年01月28日 09時10分28秒 | いまだ初心園芸
昨年12月に蕾が膨らんで年内に咲くかなと思ったのですが、
どうもこの冬は寒いのか、咲くまでには至っていません。

ただ、ナメクジ、アブラムシの活動が少ないからでしょう、蕾に食べられた痕はありません。

(わが家の)シンビジウム

1月28日(安芸区のわが家付近)天候:はれ


コメント (2)

安芸区:根切神社

2017年01月27日 09時01分25秒 | 神社寺院等
安芸区上瀬野町に鎮座の「(瀬野上大山)根切神社」です。

上瀬野信号所跡から少し上った処に創建されています。
1725年神社指出帳に「大山の内小祠一宇。祭神:荒神(竃の神)、社号:根切。祭日:3月27日。」とあるそうで、
瀬野川域郷土史懇話会発行「瀬野歴史散歩マップ」に、竃の神とあります。
*祭神はと考えた時、竈三柱神の奥津日子神 、奥津比売神、火之迦具土神と考えられ、
南区仁保に鎮座の“竃神社”の祭神が:奥津日子神と 奥津比売神ですので、ここ根切神社もそうかなと(わたしは)思ったのですが。


(裕編集の)(瀬野上大山)根切神社

1月27日(安芸区のわが家付近)天候:くもり


コメント (2)

安芸区;上瀬野信号所跡

2017年01月26日 08時48分46秒 | 乗り物関連
安芸区上瀬野(かみせの)町大山に開設されていた「上瀬野信号所」で、現在はその残り香はほとんどありませんが。
瀬野川域郷土史懇話会発行「瀬野歴史散歩マップ」に紹介があるので、訪ねてみようと思ったのです。

明治27年8月10日山陽鉄道により糸崎駅~広島駅間が単線で開通しました。西条駅-瀬野駅。
大正元年11月20日八本松駅-瀬野駅間(連続急勾配区間)に上瀬野信号所が開設されました
 ※単線での輸送量増強のため待機線として(10.6km間のほぼ中間地に)設置されたようです。
大正12年3月30日八本松駅-瀬野駅間が複線化。(事実上信号所としては廃止)
昭和14年8月21日上瀬野信号場廃止になったそうです。

1月26日(安芸区のわが家付近)天候:はれ


コメント

安芸区:旧丸畑橋跡

2017年01月25日 08時52分21秒 | 橋梁
安芸区瀬野と瀬野南の町を繋ぐために瀬野川に架かっていた「(旧)丸畑橋跡」です。
現在の丸畑橋の上流側に旧丸畑橋の親柱が残っています。

上画像は、北詰の残されている親柱をみました。
下画像は、南詰から北詰の方を見た処です。


(裕編集の)旧・丸畑橋跡

県北は大雪と聞きますが、(県南、安芸区の)わが家付近には雪が積もることもありません。
谷間の残雪、日中の温度が上がれば融けるのでしょうが・・・

1月25日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

コメント

安芸区:丸畑橋

2017年01月24日 09時00分12秒 | 橋梁
安芸区瀬野と瀬野南の町を繋ぐ瀬野川に架かる「丸畑橋」です。
昭和42年3月竣工であることが竣工版でわかりました。

2016年暮れ久しぶりに撮影しました。
(2006年撮影時にはなかった)西側の手摺梁にアングルを加工した補強材が取り付けてありました。


(裕編集の)丸畑橋

昨日少し雪が舞うときもありましたが、谷の残雪の変化はあまりない?

1月24日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

コメント

安佐南区;(広島土砂災害後の)細野神社

2017年01月23日 09時02分06秒 | 神社寺院等
(2014年8月20日未明に起きた土砂災害に飲み込まれた細野神社の回りの状況です)

最初の画像は、
2017年1月12日国道54号線を走る車の中から(太田川越に)細野神社の方を撮影しました。
『下部法面工事も(ほぼ)完了しているようでした。
あとは、拝殿が流失するなど被害が大きい細野神社の復興工事に取り掛かることになるのでしょうが、多額な費用が予想できますので、工事予定などの報道に(わたしはまだ)接していないのですが。』と編集頁に書きましました。

*(その後)1月20日中國新聞に記事がありました。
『・・・細野神社では今(1月)月下旬、全壊した拝殿の再建が始まる。10月下旬までに完成し、同月21日、22日には4年ぶりの秋祭りを開く、・・・』とありました。

2016年8月27日撮影。上部法面工事用の仮設通路が撤去されていました(ので、下部法面工事が始まるようでした)


2015年10月30日撮影。鎮守の森が本殿を護ったようですが、拝殿は流出していました。
上部法面工事用に本殿上に仮設通路が設置されていました。


(裕編集の)(広島土砂災害に遭った)細野神社

1月23日(安芸区のわが家付近)天候:(いまは太陽顔出す)はれ


きょうも溜め水に氷が張っていましたので、谷間の残雪も氷状になっているのかもしれません。
コメント (2)

番外:「被爆 」と 「被曝」

2017年01月22日 08時41分37秒 | 雑関連
「被爆」とは、爆撃によって被害を受けること及び、原子爆弾や水素爆弾で被害を受けることです。
「被曝」とは、核実験や原子力事故で放射能・放射線に晒(さら)されることを云います。

例文『被爆者の放射線被曝量を推定し、健康影響との関係が調べられてきました。』 


*2000年頃から編集しだしたHPの「広島ぶらり散歩」では、“ひばく”と云えば「被爆」でありPC変換も憶えてそう出てきていました。
2011(平成23)年3月11日午後2時46分頃、三陸沖を震源とするM9.0の東北地方太平洋沖地震が発生し、福島第一原子力発電所で運転中の1号~3号機(および、停止中の4号機にも)重大な被害をもたらし、
広範な地域に放射能汚染をもたらしたことで、「被曝」という言葉をしばしば見るようになりましたので「被爆」との違いを取り上げなくてはと思っていました。
2017年のいまになりましたが用語集に加えました。

(裕編集の)「無知からはじめた豆知識集」編

1月22日(安芸区のわが家付近)天候:くもり


屋根屋根の雪はなくなり、日陰の残雪もほとんどなくなっていますが、谷間の雪は多くなっているようです。
コメント (4)

番外:わが家のシャコバサボテン

2017年01月21日 09時40分00秒 | いまだ初心園芸
わが家のシャコバサボテン、久しぶりにわずかですが咲きました。
ここの処根腐れなどで、わが家のシャコバサボテン育てる鉢も少しづつ減り、残った鉢も元気がなかったのです。
この冬はわずかですが蕾を付け、咲きましたので撮影しました。

(過去のわが家の)シャコバサボテン

1月21日(安芸区のわが家付近)天候:くもり


昨夜、小雪が舞っていましたが、屋根屋根にうっすらと積もっています。
コメント (6)

南区:頼山陽詩板

2017年01月20日 09時05分48秒 | 各種記念碑等
広島市南区(復元された)猿猴橋の北詰(猿猴橋町側)に設置されている「頼山陽詩板」です。
文政八年、頼山陽(らいさんよう)が京都から広島に帰省し、広島城下東端の猿猴橋(えんこうばし)にさしかかった時に作った「郷に到る」という漢詩です。


*この漢詩と同じ石碑が昭和45年に中区東平塚町の鶴見橋西詰南側京橋川緑地帯に建立されています。
広島市は、説明板ではなくその石碑をこの地に移設した方がよかったのではとわたしは思ったのです。

(裕編集の)(猿猴橋北詰建立)頼山陽詩板

1月20日(安芸区のわが家付近)天候:くもり(靄っています)


(靄っていてよくわかりませんが)谷間の雪は、わずかですがあるようです。
コメント

南区:(新設された)猿猴橋案内板

2017年01月19日 08時52分27秒 | 雑関連
猿猴橋の復元に合わせて広島市によって北詰(猿猴橋町側)に設置された説明板と被爆親柱モニュメントです。
※猿猴橋(えんこうばし)をこの説明板英語表記では「Enko-bashi Brige」としていますが、“Enkou”としなくてはと(わたしは)思います。
*南詰(的場町側)には2008年に設置された“猿猴橋と西国街道”の説明板があります。(編集頁の中にリンク先があります)


被爆した橋と云う事で(わたしは)この猿猴橋を2000年はじめて撮影し、頁を編集しました。
1兆円になんなんとする市債という大借金都市広島市が、架橋当時の猿猴橋の姿に復元するには被爆70周年事業のひとつとして予算を付けるのではなく、別予算(たとえば、まちづくり・賑わいつくりなどという)で行われるのが筋ではと思うのです。
猿猴橋の復元が単に懐古趣味と云われないようにするのが必要ではないのかと思いながら説明板を読んだわたしでした。

(裕編集の)北詰新設・猿猴橋・案内板

1月19日(安芸区のわが家付近)天候:くもり


屋根屋根の雪は融けましたが、谷間に少しの残雪が
コメント

南区:復元工事中の猿猴橋

2017年01月18日 09時09分20秒 | 橋梁
昨日このブログで紹介した、(復元した)猿猴橋にする工事をしている2015年に撮影したものです。

猿猴橋は2015年、戦前の姿に復元されるべく、主に親柱、高欄(こうらん≒欄干:らんかん)の工事が行われています。
1945年8月6日被爆した猿猴橋は、戦時中の金属供出で、親柱の金属製の飾り、金属製であった欄干が石造に取り替えられていました。


画像でもお分かりになると思いますが、
被爆70周年事業のシールが貼ってありましたので、その一つとして復元工事が行われていることを知りました。
この工事が被爆70周年事業なのかと思わずにはおられませんでした。
それは、被爆橋梁として未来の広島市民に残す事業ではない(むしろ被爆した橋の部分を撤去する工事)と思うからで、昔の姿の猿猴橋を復元することは、まち賑わいつくりというような別の事業でなされるべきではなかったのかと(わたしは)思ったからです。

(復元工事中の)猿猴橋

1月18日(安芸区のわが家付近)天候:はれ


陽が当たらない屋根面にはきょう朝もまだ雪が残っています。
コメント (2)

南区:(復元された)猿猴橋

2017年01月17日 08時54分13秒 | 橋梁
1945年8月6日被爆した猿猴橋(えんこうばし)でしたが、その姿を修復されたのではなく
建造時の橋姿によみがえった「猿猴橋」です。
※(金属供出後の)被爆した姿で今日に至っていた猿猴橋の修復ではなく、橋の建造当時の姿への復元です。


被爆橋梁として未来の広島市民に残す事業ではない(むしろ被爆した橋の部分を撤去する工事で)、
昔の姿の猿猴橋を復元することが時代を逆行する復古主義にならないことを願いながら(わたしは)みました。

(裕編集の)(復元された)猿猴橋

1月17日(安芸区のわが家付近)天候:はれ(屋根屋根にはまだ雪あり)


コメント (2)