♪♪あなた知ってる?~広島~

HP「広島ぶらり散歩」編集&更新の履歴ブログです。
広島市は“平和都市”のほか“水の都ひろしま”も推進しています。

番外:傘松公園からみる「斜め一文字」

2008年06月30日 11時28分56秒 | 何処へ行っても
傘松公園からみる天橋立が「斜め一文字」と云われていることをはじめて知りました。
股のぞきしながら撮影した画像うまく撮影できていませんでした。
学生時代40年前程まえは銀塩カメラでしたが巧く撮影できたという記憶はないのです。
しかし、デジタルの時代加工というものができるのです・・・


(天橋立)傘松公園

「天橋立・舞鶴ぶらり散歩」編

広島ぶらり散歩
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番外:天橋立

2008年06月30日 10時19分38秒 | 何処へ行っても
2年ほど前に行った天橋立、
学生時代だから40年ほど前に行ったことはありましたが、
天橋立の砂嘴ができた過程というものはそれとなく知ってはいたのですが、
今回編集しながら『籠神社の説明板』を読んで、伝承なるものをはじめて知りました。

天橋立

「天橋立・舞鶴ぶらり散歩」編


広島ぶらり散歩
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中区平和大通り:善導寺形石燈籠

2008年06月30日 01時16分57秒 | 雑関連
説明板によると
『京都市善導寺の六角形石燈籠を模作したもので、この型は江戸時代に生まれたもので、宝珠、笠、中台などの部分が大きくふくらみ、全体的に厚ぽったい感じとなっています 。』とあります。

善導寺形石燈籠

広島ぶらり散歩「石燈籠など」編

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番外:(智恩寺の)「智恵の輪」石燈籠

2008年06月29日 12時27分42秒 | 何処へ行っても
平和大通りの「導標形石燈籠」の頁を編集していて、知恵の輪と呼ばれると説明板にありました。
2年ほど前に天橋立に行った時にみた「智恵の輪」石燈籠を頁に編集していませんでしたので、今頃になって編集しました。
(本丸である)、天橋立の股のぞきの頁も編集してみなくてはと思ってはいますが。

(智恩寺の)知恵の輪・石燈籠

「天橋立・舞鶴ぶらり散歩」編


広島ぶらり散歩「石燈籠など」編
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中区平和大通り:浄瑠璃寺形石燈籠

2008年06月29日 11時38分44秒 | 雑関連
設置の説明板によりますと。
『京都府加茂町、浄瑠璃寺の六角形石燈籠(南北朝時代)を摸作したもので、飾りが少なく簡素で、背が高い蓮弁※.、小さな窓、きつい軒反(のきぞ)りなどに特色があります。』

浄瑠璃寺形石燈籠

広島ぶらり散歩「平和大通り」編

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安芸区:(岩瀧神社の)盃状穴

2008年06月29日 01時05分56秒 | 雑関連
前面に奉寄進した年代が刻まれていましたが、享■で■がどうしても読めませんでした。
享で始まる年代を調べると享徳(1452-1455)、享禄(1528‐1532)、享保(1716-1736)、享和(1801-1804)がありますが可能性の高いのが、享保か享和かなとおもうのですが・・・
大歳神社はこの岩瀧神社の末社だそうですので、両社に盃状穴があっても不思議ではないのでしょうが、
盃状穴を見るたびにこの穴をほじくる行動というか信仰心に驚くばかりです。

(岩瀧神社手水鉢)盃状穴

広島ぶらり散歩「その他」編

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安芸区: (船越)岩瀧神社

2008年06月28日 13時26分00秒 | 神社寺院等
大歳神社を訪ねた後にこの岩瀧神社を訪ねましたが、
こちらが(旧社格)町社で、大歳神社はこの岩瀧神社の末社でした。
社殿も大きく、立派な神楽殿が建っていました。

(船越迫)岩瀧神社

広島ぶらり散歩「神社仏閣など」編・全体

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南区:杏坪頼先生之墓

2008年06月28日 00時30分15秒 | 雑関連
1785(天明5)年藩儒に登用五人扶持。
藩主浅野斉賢の侍講などをへて1811年以後三次、恵蘇、奴可、三上の郡奉行、三次町奉行を命ぜられ250石となる。
殖産を興し、租税を公平にし、賞罰を正し、社倉法を推進するなど、自らの平民出身の経緯を生かし修めた学問の実践に努めたと伝えられています。

頼杏坪

「広島ゆかりの人たちのお墓」編

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南区:(仁保生活資料館の)手押しポンプ

2008年06月27日 01時05分40秒 | 手押しポンプ
手押しポンプが、覆いのシートから少しばかり顔を出していましたので、川崎館長に声を掛け取除き撮影しました。
川崎館長のお話では見学に来る小学生が手押しポンプを知らないことが多く水が出るものにしなくてはとKOYOの手押しポンプを据え付けたということでした。

生活資料館・仁保島村の手押しポンプ

「手押しポンプ」一覧

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安芸郡海田町:加藤缶楽の墓

2008年06月26日 14時52分10秒 | 旧瀬野川町附近
日宇那でみた社倉から海田市の(儒学者)加藤缶楽のことを知ったので、
自転車で(わが町の隣町)安芸郡海田町稲荷町にあるお墓にいって撮影してみようと思ったのです、
案内板が付いていながら墓地になってから場所が判らなかったのです、近所のおばあちゃんが居られたのでお墓の場所を聞いたのです(加藤缶楽のことを知っておられ)もう少し上の墓地ですよと・・・

(海田町の)加藤缶楽

「広島ゆかりの人たちのお墓」編

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(宮島の)大元隧道

2008年06月26日 00時42分50秒 | 雑関連
この隧道は、設置の名版から昭和51(1976)年10月竣工ということがわかりました。
この先にある旧宮島町営(現・廿日市市営)網之浦住宅や清掃センター、室浜の広島大学大学院理学研究科附属宮島自然植物実験所へ利用されているようです。

大元隧道

広島ぶらり散歩「宮島・厳島神社」編

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廿日市市:(厳島神社 末社)養父崎神社

2008年06月25日 09時55分12秒 | 神社寺院等
(厳島神社)御鎮座伝説によると、青海苔浦神社を過ぎすでに島を巡ること半ば以上になったが、御烏は現れない。
久良茂止は粢(しとぎ)団子を作ってお供えし、熱祷すると、はるか御山の松陰から一双の御烏が飛来し粢団子を咋え、さらに進むのでその後に従って行った。
その御烏の霊を祀ったのがこの養父崎神社だそうです。

(厳島神社 末社)養父崎神社

広島ぶらり散歩「宮島の神社」編

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番外:(志賀海神社建立)石造宝篋印塔

2008年06月25日 00時23分00秒 | 何処へ行っても
わたしは、石造宝篋印塔は お墓の形式なのだという認識でした、
辞書を引けばわかっていたのでしょうが、
ここ志賀海神社の石造宝篋印塔・説明板を読んだとき、もともとはお墓ではなかったことを知りました。

(志賀海神社の)石造宝篋印塔

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「何処へ行ってもぶらり散歩」編
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頼聿庵之墓

2008年06月24日 21時32分04秒 | 雑関連
脱藩した父・山陽の息子でありながら、おじいさんに当たる春水を父として若くして藩儒として家督を継がなくてはならぬ運命を、酒におぼれることもあったと伝えられていますが、
山陽亡きあとその著書の出版に力を注ぐなど父を誇りに生きたのでないだろうかと・・・

頼聿庵の墓

「広島ゆかりの人たちのお墓」編

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番外:志賀海神社

2008年06月24日 18時13分50秒 | 何処へ行っても
志賀海神社は、綿津見三神(仲津綿津見神、底津綿津見神、表津綿津見神)を祀り、古来より海の守護神として信仰されてきました。
海上交通の要所である(福岡県の)玄界灘を望む博多湾の入口に鎮座し、海人部の伴造として著名な阿曇族に奉祀されたそうです。

志賀海神社

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「何処へ行ってもぶらり散歩」編
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