広島市中区中島町の平和記念公園(中島町側)に建立されている「広島県産業奨励館・原爆被災説明板」です
*原爆ドーム所在地は、同じ平和記念公園ですが、中区大手町1-11に位置しています。
説明文
『爆心地から約160メートル
この建物は、チェコの建築家ヤン・レツル(1880-1925)の設計監督により1915(大正4)年4月に完工し、特徴ある緑色*1のドームによって市民に親しまれていました。
原爆は、この建物の南東約160メートル地点の上空約580メートル*2でさく裂したため、建物は大破・全焼して館内にいた全員が即死しました。
その後、原爆の惨禍を全世界に伝えるとともに、世界平和へのシンボルとして1996(平成8)年12月、ユネスコの世界遺産一覧表に登録されました。
写真説明:被爆前の広島県産業奨励館』
*1)特徴ある緑色のドーム、
竣工時は銅板色の輝きでしたが、年を経るごとに銅錆で緑色になっていったのです。
*2)2001年撮影時には≒58omでしたが、
今(2024年)回撮影時には≒600mと訂正されています。
大手町地区から元安川越に撮影しました。
外国人観光客が、原爆被災板を入れた構図?で原爆ドームを撮影していました。
(裕編集の)広島県産業奨励館・原爆被災説明板
*原爆ドーム所在地は、同じ平和記念公園ですが、中区大手町1-11に位置しています。
説明文
『爆心地から約160メートル
この建物は、チェコの建築家ヤン・レツル(1880-1925)の設計監督により1915(大正4)年4月に完工し、特徴ある緑色*1のドームによって市民に親しまれていました。
原爆は、この建物の南東約160メートル地点の上空約580メートル*2でさく裂したため、建物は大破・全焼して館内にいた全員が即死しました。
その後、原爆の惨禍を全世界に伝えるとともに、世界平和へのシンボルとして1996(平成8)年12月、ユネスコの世界遺産一覧表に登録されました。
写真説明:被爆前の広島県産業奨励館』
*1)特徴ある緑色のドーム、
竣工時は銅板色の輝きでしたが、年を経るごとに銅錆で緑色になっていったのです。
*2)2001年撮影時には≒58omでしたが、
今(2024年)回撮影時には≒600mと訂正されています。
大手町地区から元安川越に撮影しました。
外国人観光客が、原爆被災板を入れた構図?で原爆ドームを撮影していました。
(裕編集の)広島県産業奨励館・原爆被災説明板
8月6日原爆忌 (8:15 1分間の黙祷を)
(安芸区のわが家付近)天候:はれ。28.5℃、81%
ありがたいですね。特に元の姿はこうで
あったという風景が見られるのがありが
たいです。
「原爆被災説明板」編を編集しだした思いを前文で書いていますので、よければ見てください。
http://masuda901.web.fc2.com/page7d.htm
心にも身体にも癒えないキズを負う
核という忌まわしい兵器
未だ核兵器禁止条約に参加しない為政者
被爆者達の思いは何時になったら届くのでしょうか
こんばんは、ガーベラさん。
岸田首相(池田も首相でしたが間違っていたので訂正しました)、
核兵器禁止条約締結国会議へのオブザーバー参加さえ口に出せないのが今の日本政府です。
背景は、米国の核の傘に依存しているからで、米国から不参加の圧力があるからです。
ほぼトラと云われる前大統領が復権したらまだまだ自国防衛の圧力をかけてくるでしょう。
核兵器禁止条約批准には、
わたしたち国民の覚悟が問われているのかもしれませんよね。
その一つが、いま以上の物価高にアップアップしてもなどなど・・・