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♪♪あなた知ってる?~広島~

HP「広島ぶらり散歩」編集&更新の履歴ブログです。
広島市は“平和都市”のほか“水の都ひろしま”も推進しています。

中区:中国配電株式会社・原爆被災説明板

2025年04月22日 09時15分15秒 | 被爆建造物等
広島市中区小町の中国電力前に建立されている「中国配電株式会社・原爆被災説明板」です。
※爆心地から約680mに位置していました。

『1945(昭和20)年8月6日(月)午前8時15分、原爆の爆発と同時にこの鉄筋コンクリート5階建の建物は外形だけを残して破壊炎上し、内部は焼失しました。
強烈な爆風により、鉄の窓枠が頭や胴体に突き刺さり吹き飛ばされるなどして163人の犠牲者が出ました。・・・・』


(裕編集の)中国配電(株)原爆被災説明板

4月22日(安芸区のわが家付近)天候:くもり。18.7℃、55%

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西区:(旧県立広島第二中学校)被爆したプール

2025年03月04日 09時13分16秒 | 被爆建造物等
広島市西区観音本町の観音小学校に建立されている「旧プール・説明板」を取り上げました。
※被爆したプールでしたが、1995年夏までありましたが、解体されました(ので現在は、説明板しかありません)。
『観音小学校の旧プールは、前身の広島県立第二中学校(通称・広島二中)のプールとして、1933年9月多くの人々から拠出金・資材の提供を受け、全校生徒・教職員による勤労奉仕によって竣工しました。
全長50m×幅15mのプールは、県内初の日本水泳連盟公認プールとして、数多くの名選手を生み出し、広島の水泳会を支えてきました。
1945(昭和20)年8月6日8時15分広島市上空で原子爆弾が炸裂し、
爆心地から約1.9kmの広島二中はすべて焼失し、残ったプールに数えきれないほどの傷ついた人々が水を求めたと云われています。・・・』

しばらくみていなかった被爆したクスノキたちを2024年兄とみに来たのです。
わたしは、ここで取り上げた説明板に気が付かなかったのです。
しかし、兄がこの辺りに旧制・広島二中のプールがあったようだとこの説明板をみて、わたしに声をかけてくれたので、撮影しました。
説明板の写真しかありませんが、頁を編集することにしたのです。
(裕編集の)(旧県立広島第二中学校)被爆プール・説明板

3月4日(安芸区のわが家付近)天候:雨、10.8℃、56%

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西区:(旧県立広島第二中学校)被爆した門柱・塀

2025年03月03日 09時01分32秒 | 被爆建造物等
広島市西区観音本町の観音小学校に残されている「被爆した旧県立広島第二中学校の門柱・塀」です。
※爆心地から≒1,790m。
被爆当時町名は西観音町2丁目でした。


いまは使われていない東門で、
門扉は戦後のものです.


2008年撮影して頁を編集しました。
久しぶりに昨(2024)年撮影して頁を更新しました。
(裕編集の)(旧県立広島第二中学校)被爆した門柱・塀

・茶化す彼 口論仕掛け 怒る君
・今朝キョウの雨 大船渡市へ 飛んで行け!

3月3日耳の日
(安芸区のわが家付近)天候:雨、18.5℃、63%

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中区:(被爆建物)旧広島文理科大学

2025年01月27日 10時33分11秒 | 被爆建造物等
【画像が現れていない記事になっていたら編集頁を見てやってください】

広島市中区東千田町に(現在利用もされず)残されている「広島大学旧理学部1号館」です。
※もともとは広島文理科大学の校舎でした。

被爆時の名称 広島文理科大学
  (爆心地から1,420m)

この建物は、広島大学の前身広島文理科大学の本館として〔1931年6月竣工〕建てられました。
1945(昭和20)年8月6日の原爆により、外郭だけを残し内部は焼失しました。
学生の大半は学徒動員されていたので構内にはいませんでしたが、一部理科系の学生と南方特別留学生などが犠牲になりました。


・2003年撮影して頁を編集した時は、まだ保存の方向性は決まっていませんでした。
・広島市企画総務局で被爆建物として保存計画を公表しています(2024年5月2日更新の公開資料あり)。
「被爆建物である旧理学部1号館を活用しつつ、新たな時代に向けて『知の継承』を図る」ということですが、
約63億円(現在ではもっとかかるでしょうから)もかかるとされることから実施への動きはいまの処ないのが現状のようです。
(裕編集の)旧広島文理科大学

1月27日(安芸区のわが家付近)天候:くもり(午後から雨模様との予報で)。洗濯もの部屋干し.。11.7℃、47%

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中区:福屋百貨店・原爆被災説明板

2025年01月14日 10時11分17秒 | 被爆建造物等
【画像が現れていない記事になっていたら編集頁を見てやってください】

広島市中区八丁堀の広島第一ビル前に建立されている「福屋百貨店・原爆被災説明板」です。
*原爆被災説明板は、福屋百貨店の電車通りを越えた斜め前の位置に建立されています。
『爆心地から約710m
鉄骨鉄筋コンクリート造地上8階、地下2階建ての建物は、原爆の炸裂による強烈な爆風と震動を受け、すべての施設、器具類が吹き飛ばされました。
また、全館が炎の海と化し、建物の中にいた多くの人が亡くなり、建物は骨組みと外郭だけを残すだけになりました。』

原爆被災説明板が見ている建物たちをみました。
正面:テナントが“Standard Products”に代わっています。
左側:“Tokyu HANDS”の看板ですが、2020年からは“ハンズ広島店”とか。

中國新聞2025年1月9日報道
『生活雑貨のハンズ広島店は1月9日、中区八丁堀の広島店の営業を2月24日に終え、移転すると発表した。中国地方初の東急ハンズとして1995年10月開業。
2025年3月5日にイオンモール広島府中(安芸郡府中町)、3月24日に新しいJR広島駅ビルの商業施設ミナモア(南区)に新店をオープンする。』

(裕編集の)福屋百貨店・原爆被災説明板

1月14日(安芸区のわが家付近)天候:(現在)うす曇り。
8.4℃、49%

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中区:高所から見る原爆ドーム

2024年12月03日 09時33分08秒 | 被爆建造物等
広島市中区大手町の平和記念公園に残る原爆ドームを地上からではなく「(各所の)高所からみた原爆ドーム」です。

2000年から原爆ドームを地上から(わたしは)撮影しだしました。
昨日このブログで」紹介しましたが
2023年になり、広島県主催の“ひろしまたてものがたり”で商工会議所9階から撮影できたのです。

2003年(ホテル)サンルート15階から平和記念公園を撮影したのがはじまりだったのです。
〔現在サンルートは身売りし別のホテルになっていますが〕


現在の原爆ドームは、
・1915年4月5日廣島縣物産陳列館として竣工した建物で、鉄骨入りレンガ・石造り、3階建(一部5階)地下1階。高さ82尺(≒25m).。セセッション様式の建物でした。
・1945年8月6日原爆によって建物本体部分がほぼ全壊しましたが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存しました。
・その形からいつしか「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。

(裕編集の)原爆ドームを高所からみる

12月3日(安芸区のわが家付近)天候:はれ。冬なりの洗濯日
14.2℃、53%

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中区:広島商工会議所からみる原爆ドーム

2024年12月02日 09時24分17秒 | 被爆建造物等
広島市中区基町の広島商工会議所9階からみた大手町の平和記念公園に残る原爆ドームをみました。

わたしは、2000年からHP「平和記念公園」編を編集しようとして“原爆ドーム”を地上から撮影しだしました。

それ以来撮影角度によっては、ここで取り上げた商工会議所(ビル)が写りこむのです。
その商工会議所(ビル)から見下ろした構図で撮影出来たらと思っていましたが、
商工会議所関係者に縁がなく撮影できなかったのです。

2023年になりましたが、
広島県主催の“ひろしまたてものがたり”で商工会議所9階から撮影できることを知り、兄を誘って撮影したのです。
≒四半世紀も願っていた商工会議所から撮影出来たのです。(上画像)

2000年1月10日デジカメではじめて撮影した原爆ドームです。(下画像)
商工会議所、市民球場の照明塔が写っています。

ご存じですか?
原爆ドームのドーム部分は楕円形ということを。
2000年撮影をはじめた当初、ドーム部分が楕円形だということを知りませんでした、つまり円形だと思っていたのです。
ドームが楕円形であったことに気がついたのは、しばらく経ってからでしたからわたしは観察力というものを備え付けていなかったのです。


(裕編集の)広島商工会議所から見る原爆ドーム

12月2日(安芸区のわが家付近)天候:はれ。
13.2℃、52%

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中区:広島電鉄株式会社・原爆被災説明板

2024年08月09日 08時01分16秒 | 被爆建造物等
広島市中区東千田町の広電本社・電車棟前に建立されている「広島電鉄株式会社・原爆被災説明板」です。

説明文
『爆心地から約1.9キロメートル
1945(昭和20)年8月6日〔午前8時15分〕、人類史上最初の原爆投下により、一瞬にして木造の本社屋は半壊し、修理工場や車庫では多くの職員が倒壊した建物の下敷きになって押しつぶされました。
ラッシュアワーで混雑する乗客を乗せて走っていた電車やバスの中でも、多数の犠牲者が出ました。
このように交通機関も壊滅的な状態でしたが、関係者の懸命な努力により、その3日後には早くも西天満町~己斐間の電車の運行が再開されました。動き始めた電車の姿は、うちひしがれた市民の気持を大いに力づけました。
写真説明:半壊状態の広島電鉄本社 撮影・川本俊雄氏』

ここ広電原爆被災説明板は西向きなので取り換えられているかもしれないと思っていたのですが、2002年撮影した時のものと同じでした。

(裕編集の)広島電鉄株式会社・原爆被災説明板

8月9日 長崎・原爆忌
(安芸区のわが家付近)天候:はれ。28.5℃、73%

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東区:(被爆建物)鶴羽根神社・手水舎

2024年07月18日 07時13分26秒 | 被爆建造物等
-画像が現れていない記事になっていたら、編集頁を見ていただければ幸いです-

広島市東区二葉の里の鶴羽根神社の被爆建物「鶴羽根神社の手水舎」を取り上げました。
※2014年11月に広島市の被爆建物として登録されています。

爆心地から1,810m
この手水舎は、1945(昭和20)年8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日に残しています。     

2004年以来鶴羽根神社を撮影していたわたしは、
この手水舎が被爆建物とは考えていなかったので撮影していなかったのです。
2014年11月になって広島市が被爆建物として登録したことを知ったので、
2016年撮影して頁を編集しました。
昨年久しぶりだったので撮影し頁を更新しました。

(裕編集)(被爆建物)鶴羽根神社手水舎

7月18日(安芸区のわが家付近)天候:はれ(洗濯日)
25.6℃、83%

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中区:広島瓦斯株式会社跡原爆被災説明板

2024年07月09日 08時31分25秒 | 被爆建造物等
(日本語での説明文)
原爆被災説明板 --広島瓦斯株式会社跡--
爆心地から約210(※250と現在広島市は云っています)メートル
鉄筋コンクリート造り地上3階、地下1階のこの建物は、
原爆の一撃により、南側の一部を残して崩壊し、屋内にた35人の職員は、全員が死亡しました。すさまじい爆風圧によって、各階の床と天井が1枚になって崩れ落ちました。
写真説明:広島瓦斯株式会社跡 佐々木雄一郎氏撮影

広島市中区大手町の元安川緑地帯に広島市によって建立されている「広島瓦斯株式会社跡・原爆被災説明板」です。

(原爆被災説明板や慰霊碑周りが綺麗に整備されているのは)
このような清掃員の方々のおかげでしょう


2000年に撮影して頁を編集していましたが、
2023年清掃員の方をみたので撮影したのです。
(裕編集)広島瓦斯株式会社跡原爆被災説明板

7月9日(安芸区のわが家付近)くもり。風あり
29.2℃、67%

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南区:仮設パネルでの広島駅・原爆被災説明板

2024年03月25日 09時10分10秒 | 被爆建造物等
広島市南区松原町の(南口)駅ビル建替え工事中の仮囲いに貼りだされていた「広島駅・原爆被災説明板」のパネルです。

2020年からはじまった駅ビル建替え工事で、
広島市によって南口広場に建立されていた「広島駅・原爆被災説明板」碑は撤去され、2025年春工事が終わったら再度南口広場に設置されるものだろうと勝手に思っていました。

(3月20日彼岸の中日の墓参りの後、息子たちと昼食を摂り、天候も悪く早々に芸陽バスで帰宅しようとしましたが、待ち時間があったのでバス停近くの広島駅構内をぶらりしたのです。)

ところが、工事中の仮囲いに「広島駅・原爆被災説明板」パネルが貼りだしてあったのです。
ここは、工事中いままで何度となく市内電車へバス停へとこの通路を通っていたのに、2024年まで迂闊なことに気が付かなかったのです。

撮影している時、2人の外国人観光客がこのパネルに気が付き足を止め熱心に見ていました。

広島市民のわたしは気が付くまでに大層時間をついやしましたが。
はじめて訪れたであろう2人の外国人観光客はすぐに気が付き近づき英語の説明文を読んでいるようでした。

(裕編集の)広島駅・原爆被災説明板

3月25日(安芸区のわが家付近)(湿っぽい)くもり。
14.3℃、67%


------------15:45追記
広島地方気象台は(3月)25日、サクラの開花を発表しました。
時期としては平年並み、去年より6日遅い発表です。
25日午後3時前、広島市の縮景園では気象台の職員がソメイヨシノの標本木を確認し開花を発表しました。
気象台によりますと、桜は開花してから1週間から10日で見ごろを迎えるということです。
(裕編集の)(広島の桜)標本木
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西区:己斐駅・原爆被災説明板

2024年01月09日 09時08分57秒 | 被爆建造物等
広島市西区己斐(こい)本町のJR西広島駅前に広島市によって建立されている「己斐駅・原爆被災説明板」です。
※1969年己斐駅から西広島駅に駅名が改称されています。
※爆心地から≒2,400m。

※経年変化で、みにくい陶板の原爆被災説明板になっていたので、
新しく取り換えられていました(下画像)。
説明板の文章趣旨は変わっていませんが、文章が変わっているところがありました。
『1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、原爆により駅舎の大部分が一瞬にして倒壊しました。
しかし、8時前に上りの列車も下りの列車も出たところだったので駅構内で被爆した人は少数でした。・・・・』

2023年駅前広場の整備工事をしていましたが、橋上駅は開業していました(明日このブログの記事にします)。
原爆被災説明板の前に位置していた交番が、駅舎の方に移転していました。

(裕編集の)己斐駅・原爆被災説明板

1月9日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
7.2℃、48%


-------
八代亜紀さん(1950-2023.12.30)が亡くなったニュースに接しました。
音痴なので歌えませんが、いい歌を唄われていました。
年下の方が亡くなるのは、妻をなくしたわたしには堪えることですので。
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南区:(稲荷町稲生神社)被爆した瓦

2023年11月01日 07時42分54秒 | 被爆建造物等
広島市南区の駅前通りの的場町に稲生神社の“被爆瓦ときつねの説明板”が設置・展示されています。
説明板にある被爆したきつね像は、現在の(稲荷いなり町の)稲生いなり神社の境内に展示されています。

*被爆瓦は、その説明板の前に展示されていますので撮影しました。

被爆した事はわかりましたが、資料には掲載がなく、
戦前から稲荷町は京橋川左岸側に存在していましたが、稲生神社の位置が(戦前の)地図上になく(いまのわたしには)爆心地からの距離がわかりませんが。
稲荷町電車専用橋(≒1,350m)より少し遠く、京橋町の専立寺内(≒1,590m)よりも近いと考えています。

★上記gooブログ記事の画像が出ていない時は、
下のHPでの画像を見てやってください。
(裕編集の)(稲荷町稲生神社)被爆した瓦

11月1日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
15.7℃、58%

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京橋川:京橋(きやうはし)

2023年10月31日 07時45分55秒 | 被爆建造物等
広島市中区橋本町と南区京橋町を結び京橋川に架かる「京橋」です。
*タイトル:京橋の読みは橋名板の(旧かなづかい)「きやうはし」を使用しています。

現在の京橋は、1927(昭和2)年8月国道橋として架橋されました。
1945(昭和20)年8月6日原爆で親柱の上部がずれた程度で、通行には支障はなく、被災者が続々と渡ったそうです。
爆心地から≒1,380mでした。

2000年撮影して頁を編集しました。
この橋の後側に写る街並みには変化があるのです。
最初の画像は、2022年10月撮影したものです。
〔左岸(画像では右側)に建設中だったビルが完成しています。〕
下の画像は、2019年3月撮影したのもです。
〔左岸(画像では右側)に建設中のビル〕

★上記gooブログ記事の画像が出ていない時は、
下のHPでの画像を見てやってください。
(裕編集の)京橋

10月31日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
16.2℃、57%

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広島原爆遺跡

2023年10月21日 08時53分30秒 | 被爆建造物等
『10月20日、国の文化審議会による答申を受け、
広島市内の六つの被爆建物が「広島原爆遺跡」として“国の史跡”に指定される見通しになったそうです。』
それぞれの建物の頁を編集していますので、
興味を持たれたら時間あるときに見てください。
1)平和記念公園レストハウス
2)旧日銀広島支店
3)本川小平和資料館
4)袋町小平和資料館
5)旧防空作戦室
6)多聞院鐘楼
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