<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

フトンがふっ飛んだ!

2021-11-30 09:25:26 | 「遊去の部屋」
<2006年7月30日に投稿>

(1) フトンは干し始めると止められない
この冬は冷え込む日が例年より多かったように思います。その割には温かく眠れる日が多かったのですが、それには、実は、理由(ワケ)があるのです。
 底冷えのする夜は背中からじーんと冷え込みがきて、犬のように丸くならないとなかなか眠れません。その度に春を待ち遠しく思うのですが、この冬は、そんな日は2,3日くらいのものでした。去年までは、冬ならそんなことは当たり前。では、今年は何があったのかというと、そこで、「フトンがふっ飛んだ」ということになるのですが、実は,これ、日本で(もちろん日本に決まっていることですが)一番人気のあるシャレだそうです(個人的には好きではありませんが)。
 この家に引っ越してきてからはよくフトンを干すようになりました。何しろ、敷地の南側には塀があって、その向こうは畑や田んぼになっているので、その塀はフトンを干すのにちょうどいいのです。はじめの頃は天気がいいと干していましたが、だんだんと曇りの日にも干すようになり、ついには、雨の日以外は毎日干すというところにまで行き着いてしまいました。
 雨の日には干せないのでそのまま寝ることになるわけですが、別にじめっとするような感じはありません。それなら毎日干さなくても良さそうなものなのに、何故干すかというと、眠っている間に体から出た水分は湿気となってフトンの中に溜まります。それを外へ干すと太陽の光と風がその水分を大気の中に戻してくれる、つまり、自分の体が自然の循環の中にあるという感じがするのです。もちろん、ふわふわしたフトンに寝たときの気持ち良さが一番の理由ですが、冬の曇りの日などは、干すと却って冷たく感じられることもあります。それでも僅かな光や風を求めて干すというのは実質的な意味以上のものを感じているからなのでしょう。

(2) 天気のいい日はうらめしや
 ところが、年に一時期、4月の初めだけは天気が良くてもフトンを干すことができません。この時期には柿が一斉に新芽を出し、するとそれに4,5日遅れて毛虫が大発生するのです。自然界のこのタイミングの見事さにはあきれるほかありません。小さな新芽が薄緑のやわらかい葉に広がって行くときに毛虫はそれを食べて成長します。葉は大きく広がると、今度は次第に緑が濃くなり、だんだんかたくなってごわごわしてきます。小さな毛虫はその前に充分大きくなっておく必要があるのでしょう。
 発生時の毛虫はせいぜい2,3mmですが、その名の通り全身に毛が密生しています。そして口から糸を出し風に乗って飛ぶようです。実際には、糸を出してすーっとぶら下がったところ、体が余りに軽いので風に乗って糸をつけたまま吹き上げられ、そのまま飛行をすることになってしまうのかも知れません。そんなときにフトンを干すとフトンが毛虫だらけになるので、この時期の1,2週間はじっと我慢をするしかないのです。
 そういうわけで天気のいい日には却って気分が塞いでしまうことにもなるのですが、時々、「もう今日あたりは大丈夫じゃないか」という気がして、我慢できずに干してしまうことがあります。大抵の場合、大丈夫ではありません。でも、そんなときにはピンセットがあれば大丈夫、50匹くらいならわけなく取れます。しかし、取り残しが1匹でもいると刺されることにもなりかねないので慎重にやらなければならず、なかなかやっかいであることには変わりありません。
 クモはこの時期には生き生きしています。何しろ、空中に掛けられたクモの巣には毎日無数の黒い毛虫がかかります。連日の大漁に次ぐ大漁でクモはどんどん成長するのですが、しかし、このクモも、多くは、やはり、蛙やトカゲに食べられることになるのでしょう。それが自然の掟です。
 
(3) 嵐の後はだらりと過ごす
 春先には暴風雨のような日が周期的にやってきます。私はこれを勝手に「春の嵐」と呼んで楽しんでいます。その翌朝は、湿気をたっぷり含んだ生温かい空気が地を覆い、その下の黒い土から立ち上がった靄が斜めにもうもうと流れたりして、いかにも「いよいよ春」という風情です。
 こんなとき雨戸の隙間から差し込む光の筋をフトンの中から眺めていると、子供のときに風邪を引いて寝ていたときの熱っぽい感じを思い出したりもします。私にとって「春の嵐」はノスタルジーと結びついていて、それは、学んだ知識と共に形成される後の人格以前に持っていた本来の自分の「感覚」のようなものを思い出させてくれるのです。
 成長と共に、あるいは教育と共に脱ぎ捨ててきた、自分の皮膚によく馴染んだ衣服のような感触を取り戻すのは容易なことではありません。目新しいものにあこがれてそれらを追いかけているうちに、手に入れた物は増え続け、それらで溢れ返る中にいて、それでも何か満たされない、何か違う、という感じがするときには、きっと、心の皮膚呼吸ができないでいるのです。
 そんなときには意識的に「じ~~~っと」してみるといいでしょう。頭で考えず、風呂の湯をみるときのように手を入れて「じ~~~っと」みる、服などもデザインを目で見るだけでなく布の感触を手で触って「じ~~~っと」みる、料理も目で楽しんだ後はほんの少し口に入れ、今度は舌で「じ~~~っと」味をみる、建物などの場合でも、自分がそのまましばらくそこに居たいと感じているかどうか、というようなところを「じ~~~っと」みるのです。そして、子供の頃、どんなものが好きだったか、どんな感じがしたかというようなことを「じ~~~っと」思い出してみることは、さらりと流してしまっている日常の自分の感覚に「手ごたえ」を取り戻すいい方法だと思います。

(4) フトンも空を飛ぶことがある
 前日の春の嵐で前の田んぼは水が溜まって池のようになっていました。空は少し曇っていましたが風があったので昨日の湿気が取れるかなと思ってフトンを干しました。時々、ひゅーっと強い風が吹いています。私は奮起して春の大掃除に取り組んでいましたが、雨が降り出さないか気になってちょっと窓の外に目をやりました。すると、田んぼの中に、ちらっと何か白いものが見えました。『風で飛んできたんだな、看板かなぁ、…』
 フトンでした。確かにフトンでしたが、まさか自分の干したフトンだとは思いません。何しろ、フトンを干したところからは25mくらいも離れていて、田んぼの向こう側の畦の手前にあるのです。空飛ぶじゅうたんではあるまいし、あんなところまで飛んでいくはずがない。ということは他所の家のフトンが飛んできたということになりますが、それはもっと考えにくいことなのですぐにフトンを見に行きました。塀のところに行くと敷き布団も掛け布団も2枚ともありません。塀の向こうを見ると池のような田んぼの中にフトンが2枚ともおぼれるようにして浮いていました。
 水を吸ったフトンは半端な重さではありません。田んぼに入り、フトンのところまで行き、冷たい水の中をずるずる引きずってくるしかありません。この重さではとても持ち上げて塀を越えさせることはできません。遠回りでも一旦農道まで運ぶしかないでしょう。仕方なく、水の中でフトンを畳んでから農道のところまで引きずり、そこで上からゆっくり圧力をかけて水を押し出しました。おぼれた人に水を吐かせているみたいです。そこからは地面を引きずるわけには行かないので担架の代わりに広げたダンボールに乗せて家まで引きずりました。

(5) 「窮すれば通ず」(易経)
 泥にまみれて溺死体のように庭に広げられた2枚のフトンを見れば、これは「干す」というような穏やかな手段では到底回復の見込みがないことは明らかです。私はすぐに家の中に入って行き電話帳を開きました。職業別の電話帳を開けたのは殆どこれが初めてのことでした。毎年きちんと届けてくれるので決まった場所に大切に保管してあるのですが、その割にはこれまで使う機会がありませんでした。
 早速、ふとん店を捜し、電話で「フトンの丸洗い」のことを尋ねてから車に積み込んで持っていくと、店の人は何でもなさそうな様子で費用のことを言ったのですが、それは私が考えていた値段の2倍以上のものでした。一応、私は別の店の値段表を見てあったのでそのわけを尋ねると、クリーニングの仕方にもいろいろあるのだということでした。私は近くということでこの店に持ってきたのですが、この値段の違いにちょっと迷ってしまいました。
 この店は全体が小さな製造工場になっていて、その一角にフトンが展示してあり、店構えも普通の商店のような感じではありません。店の人も作業服を着ていて自分で製造しているようでした。その様子から、私は信頼しても良さそうだと思いました。
 ところが、つい、「しかし、それだけの値段を出すのなら…」と考えてしまったのです。「それだけの値段を出すのなら、この機会に打ち直しをした方がいいんじゃないか」私がそう思って尋ねると、「そうですねぇ、クリーニングすれば大丈夫ですが、フトンは古いけどいい綿を使っているから打ち直しをしたらすごく良くなりますよ。この際、皮も替えた方がいいですね、赤にしますか、それとも青に…」ということで、結局、打ち直しをすることになりました。「綿は多めに足しましょうか、それとも少なめに…」
 打ち直しの値段は殆ど新品が買えそうなくらいのものでしたが、打ち直しのときには新しい綿を足すということだし、何よりもまだ使えるフトンを捨てなくてもいいのです。こんな状況になったのはすべて私のせいで、こんな風の強い日にフトンを干した私が悪いのです。フトンに責任はありません。それなのに、値段の点からみて、古いものはどうせだめになるのだし、この際、新品に替えた方が結局は得になるのではないかという理由で、泥水に浸かったみじめな姿のまま捨てるのは許せない気持ちがありました。
 打ち直しもこの店の中でやっているようだし、店の人がフトンを大事に思っている感じがしたので、この機会に打ち直しをお願いすることにしました。綿は、冬場のことを考えて「多め」に足してもらうことにしました。

(6) 「アア、コノ ニオイ …」
 その晩は古いフトンを出してきて寝ました。ずっと押入れにしまってあったので、ぷーんとかび臭い匂いがします。 アア、 ムカシ ノ フトン ノ ニオイ ガ スル … その瞬間に、昔のあの重いフトンの記憶が甦りました。

 50代以上じゃないと体験がないから分からないだろうと思いますが、昔の、厚くて、重くて、がばがばしたフトンに入って温まるのはかなり時間のかかることでした。もう今ではその頃のフトンの中の寒さの感じについてはよく覚えていませんが、コタツを入れていたところをみるとコタツなしではやはり足が寒くて眠れなかったのでしょう。
 コタツといってもそれは陶器でできた箱のようなもので、中に炭を入れて使うのです。火鉢をフトンの中に入れても大丈夫なように改良したものだと思えばいいでしょう。大きさはランドセルより一回り大きいくらいだったと思います。それを足元のところに一つずつ置くのでそれぞれのフトンの足のところは小山のように盛り上がっています。
 子供のことですから、寝る前にはフトンにもぐり込んでそのコタツを抱きかかえるようにして温かさを喜んだものでした。そのまま眠ってしまったら一酸化炭素中毒になっただろうと思いますが、そのせいか、いつも、やかましく「フトンを被って寝てはいけない」といわれたのを覚えています。
 その後、コタツは「豆炭のあんか」に変わりましたが、私の足には、この「あんか」でした火傷の痕がまだ何ヶ所も残っています。湯たんぽは祖母が使っていましたが私は使った記憶はありません。
 今考えると、その頃は寝るときにフトンの中が温まっているということだけで幸せだったようですね。今と比べると、物が豊かになった分だけ喜びは確実に薄まっているのではないかと思います。

(7) この厚さ、恐るべし!
 数日後、フトンを受け取りに行きました。厚さは30cmくらい。皮も新しくなっていたので見る限りでは新品です。中には前のフトンの綿が入っているわけですが、この厚さから考えると元の綿の3倍くらいは足してありそうです。車に積み込むのも一苦労でした。代金は安くはなかったけど、それ以上の値打ちがあると思いました。
 これでフトンに対しても面目が立つというものだし、冬場に寒い思いをしなくても済みそうなのはありがたいことでした。ただ、これから気候は暖かくなるところなので、このフトンの威力を試すには次の冬まで待たなければなりません。試しにちょっと敷布団の上に寝転んでみましたが、背中にかかる体重が畳に届かず、中途半端なところでふわふわしていて、薄いフトンに慣れた体には少々落ち着かないところがありました。それに下からこもったような熱に包みこまれる感じがあったので今から使うにはやはり少々温かすぎるようでした。
 それで冬までしまっておくことにして、押入れに入れようとすると厚すぎて一枚しか入りません。仕方がないので別の部屋の押入れを片付け、何とかそれぞれ別の押入れに一枚ずつ納めることができました。

 冬が来て、あの敷布団を取り出しました。さすがに違いました。とにかく暖かい。フトンというのはこんなに暖かいものだったのかと思いました。それにしてもたくさん綿を入れてくれたものです。3つに折りたたむことができません。仕方がないので丸めるようにして押入れにしまうことにしたのですが、そうすると毛布をいっしょにしまうことができません。結局、冬の間、毛布などは籐椅子の上に積み上げておくことになってしまいました。
 フトンを干すときにも南側の塀のところに行くには狭い通路を通らねばなりません。フトンを抱えると前が見えないので、そこを通り抜けるのがまた一仕事です。釘に引っかけてかぎ裂きを作らないように気をつけて通り、干した後はフトンが膨れるのでさらに注意が必要になりました。あれやこれやで手間は確かに増えましたが、この暖かさのことを考えればそれくらいのことは何でもありません。
 寒い冬に暖かくぐっすり眠れるなら寝ることそのものが楽しみです。一日の終わりに楽しみが待っているということは一日の最高の締めくくりと言えるでしょう。これもみな、元はと言えば、「フトンがふっ飛んだ」からなのです。何が幸いするかということは、こんなことを例に取っても本当にわからないものですね。

2006年7月30日


★コメント
 思い出しました。知り合いから「記事が長いのでどこまで読んだか分からなくなる。小見出しを付けたら。」と言われました。確かに長いです。この頃は<長い方が内容がある>と感じていたところがあります。別に短いものも書いていたのでHPには長いものを書いていたのでしょう。小見出しを付けるのはかなり苦しい作業でしたが、こうして分割しなかったらとても読む気にはならないなと思いました。
 このフトン、2枚とも今も使っています。敷布団は薄くなりましたが、掛け布団にはまだ厚みが残っています。こちらに引っ越してからは室温が0℃になるのでさらに布団を重ねています。そうするとすごく暖かいです。こちらに来るまでは布団を重ねることはしなかったようです。若い時は布団が上下一組しかなく、毛布だけでは寒くて、布団の上にコートを掛けたりして寒さを凌いでいました。ずっと後になっても布団を買えばいいということは思いつかなかったようです。
 暖かい布団で眠れるということは幸せです。その代わり早朝、布団から出るのは辛いです。なかなか踏ん切りがつかないのは本来の性分でしょうか。
2021年11月30日
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