<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

ヨーグルト人間

2018-12-27 09:21:36 | 「遊去の部屋」
<これは2007年1月に投稿したものです。>

(1) 牛乳パン
 初めてヨーグルトを見たのは小学生のときではないかと思います。誰かが小型のビンから白いどろっとしたものを食べている姿を見たような記憶があります。
 それは透明なビンに入っていて、高さは牛乳ビンの3分の1くらい、肩のところがいやに丸みを帯び、そこで反射される光がガラスの厚みを一層強く感じさせていて、その重量感のあるビンに詰められた白い半固形物は、味はわからないけれどうまくないはずがありません。スプーンですくい取って口に持っていく様子を見ながら、私は、一人、その味を想像していたのだろうと思います。
 牛乳も初めて飲むまでは魅力的な存在でしたが、ヨーグルトは牛乳より格段に上級の食べ物に見えました。
 牛乳については、小学生のとき「牛乳パン」というものを弁当の代わりに買ったことがあり、これが最悪でした。そのときまでに私はおそらく牛乳を飲んだことがなかったのです。ただ牛乳というものの存在は知っていました。飲み物といえば「番茶」しか知らない子供にとって「牛乳」は栄養価の高い高級品でした。「栄養がある」ということは「おいしいもの」でもあったので、その名前のついたパンを買ったときの期待は相当なものでした。昼休みまでは直方体の形をした「牛乳パン」のことばかり考えて過ごしました。昼休みになってそのパンの封を切って食べたときの落胆、それはただの普通のパンだったのです。
 今なら「牛乳パン」の意味はわかります。「牛乳が少し入っている」というところを「牛乳で作ったパン」、あるいは「牛乳の味のするパン」というように解釈して午前中に想像を膨らませた結果、その分だけ落胆も大きかったということなのでしょう。
 考えてみれば、あの頃、パンといえば「コッペパン」しか知りませんでした。そして、「パンを食べる」というとコッペパンだけをむしゃむしゃ食べて喜んでいました。腹がふくれること自体をうれしいと思うところがあったのです。食べるというのはそういうことだと思っていました。
 私が二十歳くらいのとき、ある大学の研究所でアルバイトをしていたのですが、そこで研究をしていた大学院生がカナダの大学に留学し、そこから手紙をくれました。その中に、「食パンを5枚食べたら回りの人が皆腰を抜かした」という一節がありました。そして、そこで彼は、パンというのは一枚かせいぜい二枚食べるくらいで、あとは「オカズ」を食べるのだと教わったそうなのです。つまり、五枚も食べられるというのは「パンだけを食べる」という食べ方をするからです。今なら私もその意味はよくわかりますが、その当時の私の感覚はその大学院生と同じでした。私だけでなく回りの人もそうでした。何もかもが随分変わったなと思います。

(2) 実験「ヨーグルトの作り方」
 実際にヨーグルトを食べたのは大人になってからだと思います。あの甘酸っぱい味は確かに異界の風味でした。とは言っても私が食べたのはあのビン入りのヨーグルトではありません。確か「ブルガリアヨーグルト」の500mlパックで、その頃、盛んに「本物のヨーグルト」というイメージで宣伝されていたものでした。それには顆粒状の砂糖の袋がついていて、好みに応じてそれを適宜振りかけて混ぜながら食べるのですが、初めにたくさん使うと後で足りなくなってしまいます。その頃の私の感覚では砂糖をたくさん使って甘くした方がおいしいのです。しかし、そうすると必然的に途中で砂糖はなくなってしまいます。砂糖なしで食べるヨーグルトの恐ろしさ、その不安ゆえに、結局、いつもベストな甘さのヨーグルトを食べることができずに終ってしまうのでした。普通の砂糖を入れればいいのですが、それは反則で、それをすると「本物の味」から外れてしまうような気がしたのです
 そんなときに大学の実験で「ヨーグルト作り」があるということを聞きました。私は農芸化学科に席を置いていました。この講座の内容については理由があって殆ど興味を失っていたのですが、この実験と「酒作り」だけには歓喜しました。そのときの「作り方」を記した紙は今も私の卒業証書といっしょに保管しています。これだけは失ってはいけないとでも思ったのでしょう。実際には、これらの実験は息抜きを兼ねて生徒を喜ばせるという狙いもあったのだろうと思います。
 ヨーグルト作りは大学の実験で習うくらいだから高度な技術だと思い込んでいました。実験で作ったヨーグルトは「本物」だから味をどうこういうことはできません。すっぱいもの作りたいときには砂糖をたくさん入れるということを聞いて奇妙なことをするものだと思いました。私には「すっぱいヨーグルト」は単に「まずいヨーグルト」でしかなかったのです。しかし、この世界では、どうも、あえてすっぱいものを好む人たちがいるということは事実のようで、そのときの私にはその人たちの感覚の方が本物のような感じがして、それ以来、砂糖を入れることに引けめを感じるようになってしまいました。

(3) 強力乳酸菌
 卒業後、何年かして、ある友達に信じられない話を聞きました。彼はインドに居たことがあり、そこでは簡単に家でヨーグルトを作っているというのです。洗面器のような鍋に残りのヨーグルトを入れ、そこへ牛乳を入れて後は部屋の隅に放っておくだけだということでした。
 大学での実験の大筋は「牛乳を一度沸騰しない程度に加熱して牛乳の中にいる雑菌を殺し、45℃くらいまで下がってきたところで種菌を加えて魔法瓶に入れて発酵を待つ。10時間くらいが目安。」というものですが、途中に「殺菌」という言葉が何度もあり、そういうところから、私は「ヨーグルト作り」は「高等技術」であるという印象を受けました。
 卒業後も私はこの方法でヨーグルトを作っていました。種菌には市販のヨーグルトを使うのですが、何度か使うと雑菌が増えて使えなくなります。そこでまた新しいものを買うわけですが、どうみても買ったものの方が味はいいのです。ヨーグルト作りは、自分で作るという喜びはあるものの、かかる手間とそれに見合うだけの「うまさ」がないために、いつか作るのを止めてしまいました。
 10年ほど前、偶然、「強力な乳酸菌」というのを手に入れました。ある大学の研究室から流れてきたものらしいのですが、なんでもカスピ海周辺で見つけたということでした。驚いたことに、これだと冷たい牛乳に種のヨーグルトを入れるだけでいいのです。そして何度使ってもダメになることはありません。話を聞いたときには信じられませんでした。何しろ、私は「技術」があって初めてヨーグルトは作れると信じていたのですから。試してみたら全くその通り、何の「技術」も要りません。
 しかし、今になって考えてみれば、ヨーグルト作りは、古代に人類が牧畜を始めた頃から行なわれていただろうし、それならインド式の方が自然です。では市販のヨーグルトではどうして「技術」が必要になるかというと、これは想像ですが、乳酸菌に、工場生産に適したコントロールしやすいものを使っているからではないかと思います。コントロールすることで目指す品質を実現するわけですが、それには「野生」的な強さは邪魔になります。つまり、「家畜」化した乳酸菌を使っているため「世話」をしなくてはならないのです。

(4) 思わぬ危機
 私はこの「野生」種の乳酸菌を使うようになってからもヨーグルトを毎日食べるということはありませんでした。それは、以前に毎日食べる習慣がなかったからだと思いますが、ヨーグルトの味そのものも「うまい」とは思えませんでした。砂糖を入れて甘くして、それでやっと「うまい」と思うのです。その砂糖も、ブルガリアヨーグルトに付いているような顆粒状の砂糖ではありません。それに比べると普通の白砂糖は何となく重く、代用品という感じが拭えません。そうなるといくら簡単に好きなだけ作れても食欲が湧かず、つい冷蔵庫に入れたまま忘れてしまいます。もともと、ヨーグルトはどちらかというと高級な食べ物のイメージがあって、それで食べてみたかったわけなので、味が好きで食べたいということではなかったのです。
 冷蔵庫に入れるのは発酵が進むのを止めるためですが、それでも何日か経つと次第に変質してきます。忘れているということは恐ろしいもので、たいていの場合、何時入れたかも覚えていません。何週間前か、何ヶ月前か、それすらわかりません。フタを取ってみるとヨーグルトの表面がオレンジ色になっていました。カビでしょう。それを見たときのショック、ただごとではありません。せっかくの貴重な乳酸菌が台無しです。
 だいたい物事は失いそうになると急に失いたくないという思いが浮上してきます。動機としては不純ですが、それでも簡単にあきらめるわけにはいきません。
まず、ちょっと臭いを嗅いでみます。が、これは殆んど意味がありません。もともと正常な状態の臭いを知らないのですから。とりあえずスプーンで表面をすくい取ってみるとその下はヨーグルトそのものです。とはいえ悪くなっていないとは限りません。そこで、まず、オレンジ色の部分を取ってコロのところに持っていきました。
 これは虐待ではありません。無理に食べさせたら虐待になるでしょうが、私はそれをただコロの口の前に持っていくだけです。もし悪いものならコロは食べないだろうということで、コロの感覚を信頼しているのです。とはいえ、コロも時々何処で何を食べたのか、吐き戻したりしていることがあるので当てにならないところもありますが、ここではコロを信頼するしかありません。
 コロは2,3秒、くんくん臭いを嗅いでいましたが、すぐに尻尾をしきりに振りながらぺろぺろと全部なめてしまいました。これなら大丈夫だと私もチャレンジしました。少し嫌な味がします。ちょっと心配でしたが、少しだけ食べて様子を見ることにしました。悪いものでも少しだけなら腹をこわす程度で済みます。半日しても何ともありません。これなら大丈夫ということでそれを種に次のヨーグルトを作り、残りは食べてしまいました。もちろんコロにも少しあげました。

(5) ヨーグルト人間になるとき
 こういうことがあってから乳酸菌が大丈夫かどうか気になるようになりました。それでそれを確かめるためにヨーグルトの味をそのままみることが増えました。酸味はもちろん、炭酸飲料のような舌の先にじりじりくる感じ、表面の透明な液体部分の癖のある嫌な味、神経を集中してそこから発酵の状況をつかもうとするわけです。当然、砂糖は入れません。そのうちに、作るたびにヨーグルトの味に違いがあることが分かってきました。いいときもあれば悪いときもあります。気がつくと、いつの間にかヨーグルトに砂糖を入れるという習慣はなくなっていました。
 それから次第にヨーグルトを食べる習慣は定着していきました。それでも6,7年の間はそれほどおいしいとは思いませんでした。ところが、この1,2年、ついにヨーグルトなしでは済まなくなってきたのです。しかも、発酵を止める絶妙のタイミングにまでこだわるようになりました。
 しっかり固まる直前のどろっとした状態、ちょうど、「温泉玉子」の白身の状態です。それを知らない人から見れば実に気持ちの悪い趣味と映るでしょう。でもそれでいいのです。これは、結局、ヨーグルトと何年間も向かい合ってきた結果なのですから。
 この味が分かるようになった今、私は、ついに「ヨーグルト人間」になったのだと考えています。喜ぶべきか、悔やむべきか。何か一つ分かるようになるたびに世間一般との間に感覚の新たなギャップが生まれます。
 一つ分かるようになるということはそれまで共感できていたものを一つ失うということなのです。同時に新たな共感者を得ることになるともいえるのですが、数の上では圧倒的に少なくなるし、それにそういう人は癖があり、人柄も難しい場合が多いので単純に歓迎できないことも多いのです。そういう自分もおそらくその傾向はあるでしょうが、こればかりは逆戻りできません。ということで考えた結果、一つの結論に達しました。『自分の周りに「ヨーグルト人間」を増やすこと』――― これがその結論です。

(6) ビン派、それとも、ひょうたん派
 ヨーグルトには高級で近代的な西欧風のしゃれた食品というイメージがありました。ところが最近、アフリカのタンザニアに住むマサイ族がこれを主食のようにしているということを知りました。おそらく、人が牧畜を始めた当初のスタイルを今に残しているものだろうと思います。そうなるとヨーグルトは原始の姿を今に留めている食品といわなければなりません。つまり、「食品のシーラカンス」というわけです。
 マサイ族は牛乳をひょうたんに入れてヨーグルトを作っています。私が子供の頃に見たヨーグルトは厚いガラスのビンに入ってました。つまり、ヨーグルトの近代的なイメージはビンに詰めることで作られていたのです。「中身が大切」とはいいますが、やはりパッケージのような「外観」に振り回されるのが現代の特徴かも知れません。
 厚いガラスビン入りのヨーグルト、実は、まだ食べたことがありません。おそらく甘い味がついていることと思います。この際、これは甘味なままに心にしまっておいた方が良さそうです。

● 今ではこの「野生」種の乳酸菌もインターネットで手に入るようになり一般化したみたいです。

☆ おまけ 「温泉玉子」の作り方
① 鍋に、タマゴがつかるくらいの水を入れて火にかける。
② 温度が上がってきたら火力を調節し、温度計で計って65~68℃に保つ。
③ そのまま30分ほど加熱する。
<原理>
タマゴの成分であるタンパク質は熱を加えると固まりますが、白身のタンパク質と黄身のタンパク質とでは固まる温度がわずかに違っています。白身は70℃以上で固まりはじめ、80℃以上でしっかり固まります。ところが、黄身は65~68℃くらいでも時間をかければ固まるので、65~68℃で加熱すれば黄身は固まり、白身はどろどろというゆでタマゴができるのです。
2007年1月6日


★コメント
 今もこの乳酸菌を使っています。私はこれを20年ほど使い続けていることになりますが、何十億年も分裂を続けて今に至る乳酸菌にとっては20年など一瞬にもならないでしょう。この間に増え続ける乳酸菌に比べてヨーグルト人間はどうでしょうか。種菌を分けてあげても『作って食べる』ことを楽しむ気質が乏しいと暮らしの中に定着するということはないようです。(私の使っている乳酸菌は、一般的に手に入る「カスピ海ヨーグルト」などとは別のようです。)

 「牛乳パン」のところで「弁当の代わりに」という箇所がありますが、その頃はまだ給食がなかったのです。電気釜もありません。それで早朝から薪で米を炊くのが一日の始まりで、女の人は大変でした。おそらくその日は何らかの事情で弁当が作れなかったのでしょう。20円だったか30円だったか覚えていませんが、いくらかのお金を握って家を出て、学校に行く途中でパンを買ったのです。コッペパンが10円だったからそれより高級な牛乳パンにわくわくした記憶はあります。
 ガスが入って台所から竈(カマド)がなくなり、電気釜とタイマーの出現で朝の仕事は楽になりました。それから洗濯機や冷蔵庫などの電化製品が次々と出て、それを手に入れるたびに喜びを味わいました。一人でこれだけ生活の変化を体験した世代はかつてなかったことでしょう。もうすぐ車がそれを飛ぶそうですが、私はそれを見たいとは思いません。これは経済発展の方向性から生まれる結果だと思います。確かに、若いときにはオートジャイロのような乗り物で空を飛んでみたいと思ったこともありました。自分で操縦して空を飛べるというのは夢でした。今は、どこかで線を引かなければならないと思いますが、それを引くことができないのが経済の宿命でしょう。

 畑で間引きした野菜で塩漬けを作ります。細かく刻んだこの漬物をぱらぱらと白米にのせて食べるとき、こんなにおいしいものはないなと思います。ヨーグルトもまたしかり。できれば土間と竈のある暮らしがしたいです。
2018年12月27日


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