<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

ある事件

2022-10-23 15:26:21 | 「青春期」
 昭和46年の7月だったと思います。そのとき私は東京で新聞配達をしていました。その新聞店には専業者が数人いて、他は学生のアルバイトでした。配達員は店が借りている近くのアパートに住み込みです。私の場合は三畳間でしたが、個室なので喜んでいました。それまで私の知っていた最小の部屋は四畳半だったので、このとき初めて世の中にこんな小さな部屋のあることを知ったのです。窓ガラスは割れていてテープで止めてありました。私の部屋の前に共同の炊事場があったので湯を沸かしてインスタントコーヒーをがぶがぶ飲んでいたような気がします。ここに5月~8月までの4ヶ月間いましたが、他の部屋の住人の顔を見たことはありませんでした。気配を感じた記憶もないのですが、ガスコンロがマッチで火をつけるタイプのもので、横の缶詰の空き缶にマッチの燃えさしがたくさん入っていたから他に人がいたことは確かです。

 新聞配達の生活にも慣れてきたころ、事件が起こりました。私が店の板間で翌朝の新聞に折り込み(広告のチラシ)を挟んでいると奥の部屋から学生の配達員が出てきました。振り返ると頭から血を流しています。どうしたのかと思っているとばらばらと人が集まってきて病院に連れて行きました。何があったのかは翌日になるまで知りませんでした。
 新聞店の専業者と学生は立場がまるで違います。専業者はその店に流れ込んできたという感じの人たちで、学生は卒業すれば出ていきます。お互いの間には何か疎遠な空気がありました。その日は学生の配達員が将棋盤の上で集金のお金を数えていたそうです。専業者の一人が彼に将棋盤を貸せと言ったところ、彼がもう終わるからと答えたら、いきなりコカ・コーラの瓶で頭をガツンと殴ったらしいのです。そのあと奥から出てきたところを私が見たわけです。
 この件をどうするか。学生の配達員のうち、親しい者5人が集まって相談しました。所長(何故か店長とは呼んでいなかった)に、殴った専業者を辞めさせるように直訴することになり、所長を喫茶店に呼び出しました。そしてその旨を伝え、猶予期間を1カ月としました。もし聞き届けられないのなら全員辞めると告げたのです。所長は了解しました。私たちはこれで解決したと思いました。
 1ヶ月後のちょうどその日、新聞店の様子は普段と何一つ変わりなく、狐につままれたような気分の私。このとき「大人」というものがどういうものかを知りました。私は即座に店を辞めることに決めたのですが、癪だからその前に休みを取ってやろうと思いました。最初の労働条件では10日(?)に一度、輪番制で休みが取れることになっていたのですが、私は4ヶ月間休みなしだったのです。そこでこの際、その分を全部取ってから辞めることにしました。

 8月終わりの1週間、私は周遊券を買って東北の旅に出ました。どういうわけか東北地方に憧れがあり、何のあてもなく盛岡まで行きました。大きめの信玄袋に荷物を詰め込み、友人に借りたジーンズの上着、その下には長袖のシャツで、8月なのにどうしてなのか分かりませんが、旅行に行くときは上着を着るものだと思っていたようです。多分、駅で寝るつもりだったので夜具も兼ねていたのでしょう。途中で、そんなに重ね着をしていて暑くないのかと尋ねられたことを覚えているので間違いないと思います。不思議なのは暑いとは思わなかったような気がすることです。
 夜行で盛岡に着いて駅前の芝生に寝そべって一眠りしました。顔に当たる水滴で目を覚ますと小雨がぱらついていたので駅構内に退避。おそらくそこで小岩井農場のポスターでも見たのでしょう、行ってみることにしました。柵の向こう側にヤギがいました。こちらにやってきたので柵越しに背中の辺りを撫でていると上着を引っ張られる感触がありました。見るとヤギが上着の裾を食べようとしています。危うく借り物の上着をかじられるところ、あわてて引き離しました。帰りがけに売店で牛乳を飲みました。何という濃さだろう、初めて牛乳をうまいと思いました。結局、小岩井農場で覚えているのはこれだけです。
 このあとどうしたのか、記憶は飛んでいるのですが、沼宮内の駅に行ったことは間違いありません。海に行ってみようと思った記憶があります。この駅から国鉄バスで太平洋側の久慈に行こうとしたのです。沼宮内に着いたのは夜でバスは早朝に出ます。私はこの駅で夜を明かすつもりでした。駅のベンチに座っていると下りの最終列車が来て止まりました。私が座ったままでいると駅長がやってきて「最終ですよ」と教えてくれました。私が乗らないと答えると上りはもうありませんよと告げました。「はい」と答えると駅長は怪訝な顔をしたので「明日の朝一番のバスに乗ります」と説明しました。
 今考えてみれば、その当時は山の中の駅だったと思うのですが、そんなところに一人で朝までいるというのは、まあ、ないことでしょう。今なら怪しまれても不思議はないと思いますが、その当時は「不審者」という言葉が使われることはなく、駅長も「若者」らしく感じたようで、駅のまわりの公衆電話や水道の場所など便利なものをいくつか教えてくれました。
 早朝のバスに乗り込み、いざ出発。ですが、朝食はどうしたのだろう。この旅行の間、食事の記憶は一切ありません。このバスが久慈に着くまでには数時間かかるはずです。沼宮内の駅には何もないし、駅を出て買い物に出た記憶もないのです。駅に着いたのは夜だったような気がするのですが、盛岡あたりで何か買い込んでおいたのだろうか、とにかく小岩井農場を出たところで記憶は切れていて、そのあとどうしたのか、おそらく盛岡の駅に戻ったと思いますが、それからどうしたのか不明です。ただ、『海を見たい』と思った記憶はあります。それで沼宮内から国鉄バスで久慈に行こうとしたのですが、それがすぐだったのか、何日か後のことだったのか。さすがに50年前のこととなると断片的にしか記憶は残ってないようです。
 途中に「葛巻」というところがあり、この地名が妙に頭に残りました。そこのバス停から若い女性が乗ってきました。二十歳くらいでしょうか。私は、たぶん、最後部の座席にいたのではないかと思います。その女性は白い半袖のシャツに黒っぽいスカートで、如何にも田舎風の様子で乗り口のところのポールをつかんで立ったままでいました。そして次の停留所で降りたのですが、その白と黒と、斜め後ろから見える彼女の向こうの山並みが「葛巻」という地名の響きと結びついて私の中に濃い印象を残しました。いいなあと思いました。
 久慈の駅でトイレを見るとあまりにも汚くガッカリ、海に行く気もなくなってしまいました。それでどうしたのか。記憶がありません。ただ、そこで日本海側の秋田から山の中を歩いてきたという人に会ったことを覚えているので、おそらくユースホステルのようなところに泊ったのではないかと思います。そこの台所でその人が半分に切ったキュウリをくれて、それをかじったら苦かったのです。「苦い」と言ったらその人が「端まで食べるからだ」と言ったことを覚えています。そしてその人に誘われて平庭高原に行くことになりました。そこで「ジンギスカンをおごってやる」というのです。私は「平庭高原」も「ジンギスカン」も知らなかったのですが翌日バスで一緒に出かけました。
 平庭高原に着いて驚きました。生まれて初めて見る白樺の林。こんな美しいところは見たことがないと思いました。その林の中のレストランでジンギスカンを食べる予定でしたが残念ながら営業していませんでした。バス停のところに売店があったのでそこで何か買って食べたような気がします。帰りのバスまで3時間くらいありました。気が付くと一緒に来た人の姿はどこにも見えず私一人になっていました。ぶらぶら時間をつぶしているとバスの発車時刻近くになって遠くの方に例の人の姿が見えました。どこにいたのか聞くと山に登っていたというのです。そう言ってから出かければいいのに思いながら一緒にバス停のところに行くと大変なことになっていました。崖が崩れて道路がふさがれ、バスが通れなくなっていたのです。乗用車なら通れるということで呼んだのではないかと思いますが、ちょうどやってきたタクシーに相乗りさせてもらって久慈まで戻りました。そしてそのタクシー代で私の財布はからっぽになりました。
 こうなると早く東京に戻るしかありません。三陸海岸沿いに釜石まで行き、そこから東北本線の花巻に出ることにしました。その途中に「遠野」があります。どうもこの地名を知っていたようでそこで途中下車しました。夕方だったせいもあると思いますが、駅の近くをぶらぶらすると材木置き場のようなものがあったりして何か湿っぽい印象を受けました。花巻の駅で一夜を過ごし、翌朝早く宮沢賢治の詩碑のあるところまで行きました。早朝の靄がまだ消え残っている感じがとても印象深かったことを覚えています。

 東京に戻って所長に月末で止めることを告げました。給料の支払いは1カ月後になると言われたので郵送先を伝えましたが、実際は最後の日に払ってくれました。
 直訴した5人で、5年後の9月1日午後1時に駅の東口で会うことを約しました。5年後のその日、そのとき私は大阪にいたのですが、出かけました。誰も来ないだろうと思っていましたが出かけたのです。結果は誰にも会えませんでした。そして50年後の今、この話を書いていて気の付いたことがあります。私が行ったのは「赤羽駅」の東口でした。ここはその後に私が住んだ所で、新聞店のあった場所ではありません。そのことに今まで気付きませんでした。何ということか。そう考えていると次第に「赤羽駅へ行った」の方こそ思い違いであるような気がしてきます。やはり記憶が曖昧です。今更考えても仕方のないことですが、今、連中はどうしていることやら。
2022年10月23日

追伸
 コーラの瓶で頭を殴られた学生の配達員はこの事件のあといなくなりました。私は彼とは事件直前に話をするようになりました。数回話しただけですが、彼もギターを弾いていたようで、音叉で音を合わすとき、音叉を耳のところに持って行き、その音を聞いてハミングのような声を出して音を拾い、それから弦の音を合わせていました。トレモロの話をすると、知り合いにフラメンコをやっている人がいて、その人は「アルハンブラ宮殿の思い出」が難しいということを聞いたのでやってみたら1日でできたようだと言っていました。これからいろいろ話ができると思っていたところだっただけに残念でした。
2022年10月24日



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