<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

丸虫

2020-07-31 11:17:26 | 「雑録」
 ある夏の日の朝,私は台所で食器を洗っていた.洗った茶碗を置こうとすぐ横の水切りカゴを見ると,丸虫が一匹その中にいた.本当の名前は知らないが,普通,ダンゴ虫と呼んでいるもので,節だらけの体に足がいっぱい付いている.黒紫色をしたその殻は鎧のように見えるのだが,箸か何かで突っつくと,一瞬のうちに丸まって,ちょうど正露丸くらいの大きさになる.それから後はもう何をされても動かない.その丸虫が,四角いプラスチック製の水切りカゴの中にいた.私は洗った茶碗をカゴの中に置き,次の皿を洗いながら,さてどうしようかと考えていた.丸虫は,格子状のカゴの目を上の方に登っていたが,動きが少し変わっていた.ちょっと動いては止まり,またちょっと動いては止まっている.よく見ると一段上がっては止まって頭をちょこちょこと動かし,それからまた一段上がるというふうである.どうも一段ごとにカゴの目をのぞき込んでいるようなのだ.《ははぁーん》 私は皿を洗いながら考えていた.《向こう側に行こうというんだな》 カゴは上の方が少し大きくなっている.だから目の幅も上に行くほど広くなる.私は感心した.丸虫はそれを知っているのだ.それで一段上がっては体が通るかどうか確かめているというわけか.人間なら,一段上がるとどのくらい幅が広くなるかを考えて,後は計算で何段上がればいいかを出すところだが,丸虫ではそうは行かない.それでこうして上がる度に確かめているのだろう.
 もう頭がカゴの目に入り始めている.つっかえたので頭を引き戻すとまた上へ.一段ごとに頭が深く入っていく.ようやく肩のあたりまで入り始めた.丸虫の体は細長い楕円形をしているので胴のあたりが一番太い.さあ,もう少し.いつか私は丸虫を応援していた.惜しかったが通れない.丸虫は一段上がって再びカゴの目に頭を突っ込む.ああ,残念.もう少しのところでつっかえた.この次あたりかなと思って見ていると丸虫の様子がどうもおかしい.頭をカゴの目に突っ込んだままなかなか戻って来ないのだ.見ると体が水平になっている.体の横がカゴの目に引っかかって,宙吊りになってしまったのだ.そのままブラシのようなたくさんの足を波打つように動かすのだが足が何処にもかすらない.《丸虫,ピンチ!》 そんな言葉が頭に浮かんだが,丸虫にとってはそれどころではない.足を掛けることができなければ,いつまでもこの状態が続くことになる.手を貸してやりたいが自然の成り行きに安易に手を加えることは慎まなければならない.困ったなぁと見ていると,突然,ガクッと動いてバランスが崩れた.もがいていたが足が引っ掛かったのか,それから後はもぞもぞ体を動かして後ろ向きに這い出てきた.こうして丸虫は自分で危機を切り抜けた.
 丸虫は元の体勢に戻ると何事もなかったかのようにカゴを登り始める.そして一段登ると,さっと次の目に潜り込んだ.こういうのを楽天家とでもいうのだろう.丸虫は失敗から学ぶということはないようだ.従って不安とか反省とかもないのだろう.行動様式は極めてストレートで迷いというものが見られない.人間なら,いや,そうでもないか,中にはこういう人もいるにはいるが,大抵の人は多少なりとも考える.そして同じ過ちを繰り返さないようにするものだ.犬でも猫でもそうだし,蛇でも亀でも,魚でさえも考える.そして身の回りの危険に対して警戒を怠らない.ところが丸虫の場合は違っている.丸虫はいつでも平気である.危険にぶつかるまでは平気である.そして一度危険にぶつかるとパニックを引き起こす.だが,後の対応は極めて速い.というのも,取る行動はただ一つ.取りあえず丸くなる.考えることがないからその分だけ速くなる.危険が何であっても,取る行動はいつも同じ,丸くなる.高等動物も反射運動は行うが,その後の対応のために何が起こったのか知ろうとするからそれだけ動作は遅れていく.けど,これは大切なことなのだ.これ,丸虫,聞いとるか.
 私の心配をよそに丸虫はカゴの目の中に入って行く.さあ,今度は通り抜けられるかなと見ている私にも力が入る.もうあと2,3段でカゴの上に出てしまう.上に出ればもちろん向こう側に行けるわけだが,ここまで試み続けてきた丸虫には,この方法で何とか通り抜けを成功させてやりたい.それが人情というものだ.さあ頑張れ.そんな私には目もくれず,丸虫はひたすら深くカゴの目に潜り込む.胴のあたりまで入ったがまたもやそこでフン詰まり.それ見ろ.今度は深いぞ.丸虫は完全に挟まってしまった.足は空しく宙を舞うが,体はピクリともしない.だから言わないことじゃない.《オー,プアー,丸虫,ここがお前の最後のねぐら》とシェークスピア風に言ってはみたものの,実際,これでは形無しだ.丸虫にもプライドというものはあるだろう.そして丸虫にも悔いというものがあるとすれば,能力を持ちながらも,それを発揮することなく空しく命を消耗していくこと以上に悔しいものはないだろう.ここでこうしてもがきつつ,やがて生涯を閉じるのか.何とかしてやりたいが,こういう場合に安易に擬人化してヒューマニズムを持ち込むことを私はためらう.とはいうものの,目の前で,もがき続ける丸虫を傍観するのはやはり心穏やかなものではない.さて,どうしようかとしばらく見ているとカタンと丸虫の体が左右に傾いた.カゴの目は長方形になっている.体が左右に傾くと,それは対角線の方向になるので横幅より広くなる.丸虫は少しの間もがいていたが何とか擦り抜けて向こう側に出て行った.
 人の運勢には計り知れないものがある.幸運に恵まれ順調な人生を送りながら最後で暗転する人もいるし,その逆の人もいる.どちらがいいかというようなことは言えないが,大抵の場合は小さい失敗を繰り返しながら少しずつ成長していって,実力が充実してきた頃にそこそこの機会に出会うようになっているものだ.だから特に若いときは小さな失敗や挫折を繰り返す.それらは当事者にとっては大変なことなのだが,後から考えると解決策は他にもいろいろあったことが分かるものだ.基本的には失いたくないという思いが執着を強め,それが自分を苦しめる.実際は,失えばそこから新しい一歩が始まることになるのだが,無くなってさっぱりしたという心境にはなかなかなりにくいものである.だから誰でも若いときには口に出すのもはばかられるようなことの1つや2つはあるものだ.そういうときに誰かが尻拭いをしてくれて事なきを得るというのは決して珍しいことではない.しかし,中にそういう些細なことで躓いて取り返しのつかないことになってしまう人がいるものだ.そういう人こそ運の無い人というべきだろう.丸虫の今回の騒動もそういったものの一つかも知れない.
 私も残りの食器洗いに戻ったが,心は不思議な充実感に包まれていた.洗う動作も気のせいか前よりてきぱきしている.そして,今なら何でも出来そうな気さえする.勇気のようなものまで湧いてきた.よし,やるぞ.特に今,差し当たって取り組むようなことはないのだが,冒険映画を見た後のように,どういうわけか体に力がみなぎってくる.しっかりと信念をもって弛まず進めば何事によらず成就するに違いない.そう思いながら洗った皿をさっきの水切りに置いた.そして,丸虫は何処へ行ったかなと回りを見たがその辺りに丸虫の姿はない.おかしいなあ.そんなに遠くに行けるはずはない.それで,もう一度水切りを見た.すると水切りの向こう側の面を何かが動いている.カゴの目を向こう側からこちら側を覗いては一段ずつ下に降りていく.今度は向こう側からこちら側へ通り抜けようというわけだ.下に行けば行くほど幅は狭くなるというのに,そんなことにはお構いなく丸虫は無心に同じ動作を繰り返している.《あ~あ,もう~っ》 私は思わずそう呟いたが,考えてみればこれは余計なお世話というものだ.丸虫には丸虫の論理があるだろう.それに人間の論理を当て填めようとする方が身勝手というものだ.お節介は止めて自分の心配でもした方がいい.そう思って食器洗いを続けたが,洗う動作はもうすっかりいつもの自分に戻っていた.
 
●丸虫談話
 言っときますが,私たちは決して好きで丸くなるわけではありません.ちょっと考えてもみて下さい.もし,いきなり体にショックを受けたとしたら一体私たちに何が出来るでしょう.どういうものか,私たちは何の前触れもなく,はじき飛ばされることがあるのです.それで取りあえず身を守るために丸くなって構えます.考えるのはそれからです.といっても,わけも分からずはじき飛ばされたのですから,先ずは状況を掴むことが先決です.が,悲しいかな,私たちは丸まると目も内側に入ってしまうのです.そこで全身を耳にして情報収集に努めるわけですが,ああ,実にこのときほど世界に音の溢れていることを実感することはありません.ですが,今は音を楽しんでいる場合ではありません.何しろいきなり突き飛ばされたのですから非常事態です.4,5秒間は様子を探りますが,それ以上長く丸まっていることはありません.そこは決して安全な場所ではないのですから.すぐに私たちはその危険地帯からの脱出を計りますが,そのときどれほどの勇気がいるかお分かりですか.逃げるためには円構えを解かなくてはなりません.わけの分からぬショックを受けたばかりの場所で一か八かの賭けに出るわけです.そうやって私たちは命を擦り減らしながら生きています.それが分かったら,もう箸や棒で突っつくなどという非道な行ないは今後一切止めて頂きたいものです.

98. 5.17


★コメント
 日付からみると、これは前回の「ミミズ」より前ですね。へたですね。もう少し読みやすく書き直したくなりますが、「ミミズ」同様、敢えてそのままにしておきます。今は自分の書いたものを『へたくそだなあ』と思いながら読むのは楽しいです。
いくつか書いていくうちに、だんだんうまく書きたいという気持ちが出てきて全く書けなくなってしまった時期がありました。その時期を抜けるのに5年くらいはかかったと思います。何を書き始めても『おもしろくない、だめだ』と感じるのでその先が書けなってしまうのです。そこを突破するのに始めたことは、絶対に書けるもの、ということで「食事の記録」でした。その日に食べたものを書くだけですからうまいもへたもありません。それなら書けるだろうと考えました。
最近は、初期の頃のように、楽しんで書けるようになりつつあります。食事の記録は今も続けていますが、こちらは次第に難しくなりつつあります。いつも寝る前に記すことにしているのですが、その日何を食べたか、それを思い出すのが苦しくなってきたこの頃です。

2020年7月31日

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ミミズ

2020-06-30 16:59:39 | 「雑録」
 風呂場という所は湿気が多いから木造の家には良くない.それで,昔は大抵,風呂場は母屋から少し離れたところにあった.私の家は古いので今も風呂場は外にある.といっても裏口からほんの数歩離れているだけなのだが,それでも冬の寒い日などは,これだけの距離が結構辛い.うちの風呂場には脱衣場がない.それで家の中で服を脱ぐとタオル一枚だけ持って裏口を出る.母屋と風呂場の間は風の通り道になっていて,風の強い日には,そこを冷たい風が吹き抜ける.それで,風の息をみて,ここという時に母屋から飛び出すのだが,どういうものか,風呂場の戸の一歩手前で,強烈な寒風にあおられて息を呑むことがある.また雨の日にはちょうどそこに雨がしけ込む.そこで,タイミングを見計らって飛び出すのだが,その瞬間に,狙い澄ましたように冷たい雨に背中を打たれることもある.しかし天気のいい日は快適だ.暑い日には窓も戸も開けっ放して入るので,湯舟から上がると窓から吹き込んだ風がさっと体を撫でていく.夜は電気を消して風呂に入る.そうすると外は星でいっぱいだ.湯舟につかって小さな窓から夜空を眺めていると時間の経つのを忘れて,つい,うつらうつらしてしまう.また月のきれいな晩には湯舟の中で月がゆらゆら揺れることもある.そんなときには無性に冷酒をきゅっと一杯やりたくなってくる.
 天気のいい日には朝から風呂を焚くこともある.明るい陽射しの中で入る風呂はまた格別だ.湯舟の中でバシャッと手を動かすと,湯の中は無数の細かい泡でいっぱいになる.それらは光を浴びてきらきら輝き,せわしく左右に揺れながら一斉に上にあがってくる.手でバシャバシャやると体中が光の泡に包まれて気分は『極楽,極楽』,実に風呂はいいものだ.というわけで今日も昼前に風呂を焚いてしまった.
 浴槽には3枚の蓋がかぶせてある.端の一枚を少し上げ,手を入れて湯加減をみるのだが,思わず手を引っ込めた.湯はかなり熱い.もう少しだなと思って蓋を閉めようとしたとき湯舟の中で何か動いたような気がした.他の蓋は浴槽の上に置かれたままなので中は暗くてよく見えない.そこで残りのふたを取ってみた.すると,何と,ミミズが一匹,湯舟の底にいる.どうしてこんなところに入ったのか分からないが,ミミズは気持ち良さそうに体をくねくねやっていた.
 温度差のある水は混じりにくいと聞いている.確かに,海で潜ったりすると深さ2mくらいの所で水は急に冷たくなる.それで泡を食ったことも何度かあるが,それにしても上は熱くて手が入れられないというのに,底のミミズが平気でいるのは驚きだ.これはきっと「耐熱ミミズ」に違いない,などと思ってみるが……,どうも力が入らない.とにかく今はまだ,ミミズは底の方で気持ち良さそうにくねくねしているが,既に上の方では煮えているから,それは徐々に下の方に降りて行って,やがてミミズは生きたまま煮られることになるだろう.これは時間の問題だ.が,当のミミズはそれに全く気づかずに,ひたすら享楽の時を過ごしている.まるで現代の人間社会の状況を暗示しているかのようだ.ミミズの場合はやがて訪れる自らの運命を知らないから哀れだが,人間の場合は,実はうすうす明日の自分の運命に気づいている.それでいて,そんなことはないかのように振る舞うのだから性質が悪いというほかない.実に困った生き物だ.が,そんなことより当面の問題はこのミミズを何とかすることだ.助けてやるにも,取り出すには上の煮えた所を通らねばならない.そうすればそこでミミズは釜ゆでになってしまうだろう.そうなれば風呂の湯はミミズのスープになってしまうではないか.そのあとに…,入るのか? もしかすると何か薬効があるかも知れないが,今は取り立てて悪いというところもない.では,湯を捨てる? 折角焚いたのに,それはちょっともったいない.いや,それはかなりもったいない.困ったな.どうする? そう呟きながらも私はうすうす気付いていた.絶対絶命のミミズにもチャンスが一つ残されている.それは湯をかき混ぜてみることだ.湯と水が混ざれば温度はその中間になる.といっても水に近くなるか湯に近くなるかはやってみなくては分からない.もしこのミミズに運があれば助かるだろうし,運がなければ…….そのとき私の脳裏に浮かび上がったのは,かき混ぜた湯の流れにのって湯舟の中をぐるぐる回り続ける,煮えて白く膨れ上がったミミズの姿.だめだ.だめだ.だめだ.そんなことになったらこれから風呂に入る度にそれを思い出すに違いない.私は段々腹が立ってきた.何か助けてやる方法はないものかとこんなに気を揉んでいるというのに,当のミミズは湯舟の底で体をくねくねさせて遊んでいる.いい気なもんだ.これは,TVゲームに熱中する受験生を持つ親の心境と似ているかも知れない.
 突然,そのとき閃いた.これでいい.これなら大丈夫.ほんの一瞬に段取りの全てが見えたのだ.これには些か驚いた.こんなこともあるんだなぁ,これなら俺もまだまだ捨てたもんじゃないと,一人で得意になっていると,ふと,ずっと前に聞いた話を思いだした.『モーツァルトはシンフォニーを一瞬のうちに作曲したのではないか.』これはある作曲家の話だが,モーツァルトの作品を写譜するとモーツァルトがそれを作曲したより時間がかかるらしいのだ.そのことから,シンフォニーは,モーツァルトの頭の中に全体が一瞬のうちに浮かび上がり,モーツァルトはそれをただひたすら書き止めていたのではないかとその人は結んでいる.それなら確かに写譜するよりも速くなりそうだ.というのは,写譜するには楽譜を見なければならないから,それだけ余分に時間がかかるというわけだ.モーツァルトとは大いに違うが,私もこのとき一瞬のうちにミミズ救出作戦の全貌を見た.疑似体験というと叱られるかも知れないが,実際,これで私は,モーツァルトのこの話を,そうかも知れないと思うことができたのだ.
 早速,私は棒を取りに,風呂場を出て裏へ回った.そこには山へ行く度に拾って杖にした棒が立て掛けてある.細目のを一本選ぶと風呂場に戻り,きれいに水で洗って泥を落とした.それを湯舟に差し込んでミミズの尻尾(?)の辺りを突っついた.するとミミズは生意気にも,地団太を踏むように体を左右にぷりぷり振って抵抗する.そんなことをしている場合ではないだろうと言ってやりたかったが相手がミミズではそのかいもない.私はかまわず突っついて突っついてミミズを前に追いやった.そしてミミズを湯舟の底の栓のところまで追い込むと栓につながっている鎖を引っ張った.その瞬間にミミズは排水口に吸い込まれ,あっという間に姿を消した.それから鎖を放すと,それと同時に,今度は栓が排水口に吸い込まれ,水はぴたり.その間わずかに2,3秒.実に見事な幕切れだった.
 湯舟から棒を引き抜くと,水面に波紋が広がった.その影が湯舟の底で揺れていたが,やがてそれが静まると後は何事もなかったかのように治まった.「やれやれ」と呟きながら湯舟に蓋をすると私は杖を戻しに裏へ行った.
   98.9.22


★コメント
 この頃はパソコンにワープロソフトが入れられるようになり、その使い方にも少し慣れてきたあたりです。自分の書いたものが印刷されて活字になることが嬉しくて、プリンターで印刷しては知り合いに見せたりして楽しんでいましたが、相手は迷惑だったかも知れません。
 やはり初期の頃のことだけあって稚拙ですね。小学生の「作文」です。だけど書くのが楽しくて仕方がないという気分が伝わってきます。改行するべきところがたくさんあり、そうすればもっと読みやすくなるのですが、敢えてそのままにします。

 2年ほど前に友人から小学生のときに書いた作文を渡されました。内容は修学旅行の作文なので6年生の時ということになります。原稿用紙に鉛筆書きで塗り付けてあるという感じです。へたなどというレベルではありません。友人のも似たようなものでした。
 クラス全員の作文が彼のところにあったようで、どうも文集のようなものにするために彼に渡されたのではないかと想像しています。それを50年間保存していた友人も偉い。彼は今、機会を見つけてそれを一人一人に返却しています。私にとってこれは6年生だった自分との再会です。そこにいるのはまさに子供の私で、こんな貴重なものはありません。読むたびに笑い転げています。
 今「アンネの日記」を読んでいるのですが、これは彼女が13歳になるあたりから書き始められています。何というレベルの違いでしょう。自分の作文に出会わなかったらこの次元の違いには気付かなかったかもしれません。すごいですね。1日分ずつ読んでいます。このところ近現代の歴史を調べ始めているのですが、唖然とする毎日です。人間の歴史をしっかり見ていく必要のあることが分かりました。
2020年6月30日

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横断歩道

2019-04-30 17:17:45 | 「雑録」

 駅前の広い道路の横に小さな信号がある.そこは時々バスが通ったり,駅前で客待ちするタクシーが通るくらいで,一般車は殆ど通らない.それでもその信号は横の本通りの信号と同期しているらしく,歩行者用信号も一人前に青になったり赤になったりしていた.駅前のバスターミナルでバスを降りた客は,その信号を無視して,7mほどの横断歩道を渡り駅に急ぐのが普通になっているのだが,その日はその横断歩道の横に一台のパトカーが止まっていた.ぴったりと横断歩道に横付けし,正面をバスターミナルの方に向けている.前の座席には制服を着た2人の警察官が前を向いて座っていた.バスを降りて横断歩道を渡る客はその2人の警察官と正面から向き合うことになるわけだ.

 ターミナルに入ってきた1台のバスのドアが開いて,中から5人の乗客が降りてきた.そのうちの2人は年配の婦人で,年の頃は60くらいか,内側に服を着込んで,その上に上着を着,さらに上から外套を羽織っている.丸く着膨れした襟元からはスカーフがはみ出して,見るからに田舎まる出しの格好だった.両腕には,いっぱいに押し込められて今にも破れそうになった買い物袋が片手に2つずつ下げられている.2,3歩遅れて,2人の後ろから,黒っぽい地味なコートを着てほっそりとした初老の男性が3人,タバコを吹かして小声で何か話し合いながら付いていく.田舎から何かの用事で町に出てきて,そのついでにごっそりと買い物をして帰るところらしかった.

 私は自転車で,その一団のすぐ後ろにいた.すぐに私はパトカーに気づいた.横断歩道までは10mとない.信号は赤だった.いつもなら無視する信号を,今日はパトカーと向き合って青になるのを待つのかと思うと,もうそれだけで不愉快な気分がした.警官も仕事でそこにいるのだろう.それはよく分かっている.仕方のないことだ.しかし,パトカーが居るだけでも効果の上がる場所なら他にいくらもありそうだ.このようにして信号を守らされるというのには多少の屈辱感さえ伴う.あえて守りたくないという気持ちにもなる.警官はこちらを見ていた.前の一団はオバチャン2人を先頭にどんどん前へ進んでいく.大声で話に夢中になっていてパトカーには全く気づいていない.いや,それよりはパトカーの存在を無視していると言った方がふさわしい.このオバチャンたちにはパトカーもただの車でしかないようだ.『邪魔なところに止めて!』というくらいにしか思っていないのだろう.

 警察官というのは一つの職業である.が,ちょっと特殊な職業である.昔,ある友人から聞いた話であるが,彼は色々な事情から警察官を嫌っていた.それは彼の父親が警察官であり,その私生活の波紋が家族に落とした影によるものだった.実際には,それは父親個人のものであったのだろうけど,たまたま父親が警察官だったものだから彼は警察のような制服組を馬鹿にした.彼は母親を慕う一方,子供ながらに父親を疎ましく感じていく.彼は父親の庇護を抜け出して,というよりは振り捨てるようにして都会生活を始め,大学に進学をすることを考えながらも生活費を稼ぐためにいろんなアルバイトをしていく.そして数年が過ぎてしまい,とうとう将来の方針を決めなくてはならない時が来てしまった.いろいろ考えた末,彼は警察官になろうかと思ったのだ.それで父親の知り合いであった警察官のところにその相談をしに行ったのである.その警察官は彼に質問をした.もし,お前が警察官になって,自分の父親が何か犯罪を犯していることに気づいたら,そのときお前はどうするか.そのことを知っているのはお前だけで,黙っていれば誰にも知られないで済むとしよう.彼が何と答えたかは覚えていない.もしかすると言わなかったのかも知れない.「お前ならどうする」と彼は矛先を変えて,こちらに切り込んできた.私は少し考えたが,結局,もし自分なら黙っているだろうと答えた.その警察官の話では,昔,志願者の面接のときにこの質問をしたらしい.当然,最終的な答は2つである.逮捕するかしないか.これはなかなか厳しい質問だ.試験官の前でどちらかを答えねばならない.犯罪を見逃すことは警察官としての義務を怠ることである.自分の父親を逮捕するのは,いくら犯罪を犯したとはいえ道義上問題がある.つまり,これは何を尋ねているかというと,あなたは義務の遂行に当たっては自分の情緒的な感情を抹殺することができますかと聞かれているのである.

 1960年~1970年代にかけては,安保闘争をはじめ学生運動の燃え上がった時期であった.これは日本全体を巻き込む政治状況であったように言われるが,私はそうは思わない.この時期,日本はちょうど高度成長のさなかにあり,大多数の国民は自分の生活を確保して新しいものを手に入れることに躍起になっていた.テレビ,洗濯機,冷蔵庫,そして一家に一台自家用車‥‥.生活は随分楽になりつつあったが,それでも大学に行くというのはまだ少数である.ただ,今とは事情が違っていて行きたいと思えば充分に自分の力で行くことはできたのだが,それよりも早く働いて家の暮らしを助けるというのが普通であった.だから働いているものにとっては,大学生というのはどこかチャラチャラした若者に映ったろうし,実際そういうものも多かったと思う.学生運動はだんだんとエスカレートして,デモ隊は次第に機動隊と衝突を繰り返すようになっていく.それは戦後生まれの世代に,警察は誰のためにあるのかという疑問を浮かび上がらせることになった.警察は社会の秩序維持のために働く.社会体勢が逆転すれば今度は逆転した側のいう秩序維持のために働くのだ.個人の信条で行動することを許されない職業ということになる.それに比べて学生は自らの信条で行動していると,少なくとも自分では思っているだろう.そしてその信条こそが正義であるからそれに対立する物は悪だという論理で何をしてもいいという方向に発展していく傾向がある.だが,彼らの行動には自分の鬱憤のはけ口をそこに見い出したとしか思えない場合もかなりある.実際,学生も警察も相当にひどい.だが,衝突というのはそういうことなのだ.学生は警察を口汚く罵倒する.そして何を言われても表情を変えない機動隊員の顔がテレビ画面に映し出される.マスコミはコントラストを濃くして事件をメディアに流していた.

 友人は私に,お前は合格だと言った.時代が時代であっただけに私はちょっと複雑な気持ちだった.その警察官の話では,『父親を逮捕します』と答えるものは警察官として最も不適格だと言っていたそうだ.道義的な問題でつまずきそうな人間でなければ,なかなかこの仕事はやれるものではないとまるで反対のことを言うのだ.では義務を怠りますと答えたものが正しいかというとそれはもちろんそうではない.つまり,警察官としての資質を供えているかどうかを見ているということなのだろう.では正解はないのかと私は尋ねた.そして模範解答を聞き,唖然とした.父親の犯罪を見つけたら,それを見逃すことは義務違反である.だから,それは絶対にいけない(実際はどうか知らないが…).そこで警察に事実を報告に行く.『父親がこういうことをしました.』そして誰かを逮捕に差し向けてもらう.それから自分は辞表を提出する.これが正解らしいのだ.この話は人によって幾通りにも読み解けるだろうが,警察官の世界の一面を象徴的に窺わせるものを持っている.これを聞いて,私は『20年後』という0.ヘンリーの短編を思い出した. ‥‥‥‥‥.

 二人のオバチャンたちはあたりの様子など一切気に掛けるふうもなく,大声でしゃべったり笑ったりしながら信号に向かって歩いていく.暮らしのひとつひとつを切り盛りしてきた母親の逞しさが窺われた.この人たちにも若い娘時代があったことは間違いないのだが,きっと生まれたときからこうだったのだと思ってしまいそうになる.一体,何人の子供を育て上げたのか,毎日毎日せっせと家事をこなして合間合間に畑仕事をする.手間仕事で稼ぐわずかなお金はその日のうちに消えてしまう.子供がよその子に石をぶつけたといっては頭を下げて謝りに行き,また肥え溜に嵌ったときには汚物を洗い流してやりながら,自分の苦労が大成することはなさそうだとうすうす感じないではいられなかった.まあ,しかし,この子も自分の子供では,それも仕方のないことかと思いながら40年も田舎でこういう暮らしを続けると人間は芯から強くなる.

 私は一団のすぐ後ろにいた.これはまずいぞ.どうなるだろう.正面にはパトカーがいる.白と黒とのデザインは何処にいても一目でわかるほど,あたりと不調和に異質な光を放っている.制服の警官は座席に座ったまま表情を変えない.あと5歩くらいか.私は急に気が重くなった.「おいおい,おばやん,あんたら前をよう見やんかいな.赤やで!」そう言って止めようかと思ってパトカーの方を見た.ところが,ちょっと様子が違うのだ.運転席の警官がややうつむいている.私はおかしいなと思った.あの警官は確かに眼鏡を掛けていたが,今は帽子の陰に顔が隠れて口あたりから下しか見えてない.居眠りをしているような,何か手元で手帳でも見ているようなそんな様子で,ずっと前からそうしていたようにしか見えないのだ.あと3歩で足が横断歩道に掛かろうとするとき,助手席の警官の顔がゆっくりと動き始め,横断歩道とは反対の方に回っていった.実に自然な動きであった.視線の先には駅前に停車しているタクシーや駅に出入りする人々の姿がある.それは退屈な日常の風景であった.その雑踏をただ何ということもなく眺めている横顔は,この退屈さこそが平和ということの証なのさとでも言いたげであった.そうしてパトカーも風景の一つになっていた.一団の人たちは全く速さを落とすこともなく横断歩道に踏み込んだ.続いて私も横断歩道に入っていった.渡り終えてから私は信号を見たが,それはやはり赤のままだった.駅前では何一つ変わりなく人の流れが続いていた.


★コメント
 日付がないのでいつ書いたのかわかりませんが、98年頃だと思います。ワープロで書くのを楽しんでいた時代で、友人に見せたりして遊んでいたのでしょう。といっても、せいぜい2,3人です。
 先日、知り合いと話しているときにこの出来事が話題になり、そういえば何か書いたなと思い出したわけです。捜してみると出てきたのですが、改行が殆どなく、詰まっていて読みにくい。手を入れたくなりますが、それをすると切りがないし、自分に於ける「ワープロ初期」の時代のレトロな雰囲気が変わってしまうのでそのままにしておくことに決めました。
2019年4月30日


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クリちゃんのカレーライス

2019-03-31 20:00:34 | 「雑録」
 クリちゃんはカレーが大好きです.それで誕生日に,「今日は何がいい?」とお母さんが聞くと,迷うことなく「カレー!」と答えます.お母さんは,あきれて,「たまには違うものにしたら?」と言いますが,クリちゃんには,誕生日にカレー以外のものなど考えられません.
 今日は誕生日でカレーだと思うと,もう嬉しくて嬉しくて,それで,裏口の戸をガラリと開けたときには勢いがつきすぎて,戸が奥にぶつかり大きな音を立ててしまいました.裏口のすぐ横には犬小屋があって,そこには,ちょうど屋根の庇の影が落ちていました.暑い陽射しを避けて,そこに寝そべっていた犬のリンは,前足の上にちょこんと顎を乗せて,いかにも気だるそうにしていましたが,音がすると戸口の方に向いた耳だけをぴんと立て,そして,そこからクリちゃんが出てくると寝そべったままで尻尾の先だけを2,3度,ゆらりと動かして答えました.クリちゃんは,前にしゃがむとリンの肩をポンポンと叩きました.するとリンはまた尻尾の先を2,3度,ゆっくり動かして,それから,ため息をつくと,今度は欠伸をしながら同時に伸びをして,最後に妙な声を出すと体をぶるぶるっと震わせました.クリちゃんはリンが大好きですが,リンの顔を見ると,どういうものか,黒い鼻を摘んだり,上唇をずり上げて牙をむき出してみたり,また,耳をいじくっていると,何故か,引っ張ったりせずにはおれなくなってくるのでした.リンもしばらくは好きにさせていましたが,やがてゆっくり起き上がると鎖を引きずりながら自分の小屋の中に入って行ってしまいました.

 庭の続きには納屋がありました.それはコールタールで黒く塗られた大きな小屋で,中には鶏がたくさん飼われていました.クリちゃんは入り口の戸に両手を掛けると,体重をいっぱいかけて横に引きました.ゴロゴロという音といっしょに戸が開くと,ぷ~んと生き物のにおいがしました.鶏の餌の挽いたとうもろこしのにおいもします.中は暗く,じめっとしていますが,クリちゃんはここが好きでした.というのは,ここには何でもあったのです.板壁には鋸やら鎌やら針金などが掛けてあったし,道具箱には金槌や釘など,田舎の生活に必要な道具は何でもここにありました.時々,ひよこがいることもありました.ひよこは,空気穴を開けた段ボールの箱にぎっしり詰められてピーピーピーピー鳴いていましたが,鼻を近づけると,温かく湿りを帯びた粉っぽい匂いがして,何だか懐かしい気持ちになりました.
 納屋の中には100羽くらいの鶏がいましたが,1羽ずつケージに入れられ,階段状に上下2段に吊り下げられて,それがずらりと横に並んでいます.クリちゃんが納屋の重い戸を開けはじめたときから鶏はそわそわしはじめ,どうも落ち着かない様子でしたが,クリちゃんがケージに近づいていくと,最初に近くの鶏がクォックオッと鳴きながら羽をばたばたっとしました.すると,それが伝染して,あちらでもこちらでもクォーックォクォックォーッと鳴いてケージの中を動き回り,羽をばたばたさせ始めました.納屋の中の緊張は次第に高まってきましたが,外の明るい光に慣れたクリちゃんの目には,小屋の中は暗くてよく見えません.でも中のことはよく知っているのでクリちゃんは平気でした.ケージの方に無造作に歩いていくと,いきなりガシャンという音がしました.ケージの手前に置いてあった,鶏に水をやるバケツにつまずいてしまったのです.バケツの水は前に飛び出し,バランスを崩したクリちゃんの手は空中を泳ぐようにもがきました.が,すんでのところでケージに引っかかり,何とか倒れずに済みました.しかし,ケージの鶏はたまりません.逃げることのできない鶏は,片足をケージに掛け,首を外に突き出して,引きつったように,クワァーークワァクワァと叫び声を上げ,ケージにへばりつきました.それを合図に,小屋中の鶏は一斉に飛び上がり,頭を打ったり,羽をケージに挟んだままで,もがいたり,小屋の中は大混乱.クリちゃんもびっくりして思わず駆け出してしまいました.そうすると両側のケージからは,キーともギーともつかない叫び声や羽ばたきの音が起こり,それはクリちゃんの少し前を先に走りましたが,突然,目の前がぎらぎらとしたと思ったら,もう小屋の外に飛び出していました.
 クリちゃんは外の明るさに目が眩んだので,思わず手のひらを太陽に向けて目を覆い,そこにしゃがみ込みました.そしてしばらく足元の地面を見ていましたが,よく見ると,あっちでもこっちでも黒い蟻がせかせかせかせかと歩き回っています.クリちゃんはじっとその様子を見ていました.が,どうもわけが分かりません.蟻は少し進むと突然止まり,ちょっと方向を変えるとまた進み,進んだかと思うとまた立ち止まって,向きを変えるとすぐまた進むという具合で,何を考えているのかさっぱり分かりません.それに蟻は,クリちゃんには全く関心を示さず,まるで存在しないかのようでした.クリちゃんはおもしろくありません.それでそっと手を伸ばすと近くにあった石をよいしょと持ち上げました.そして,蟻の進行方向をよぉーく見て,その少し前の方に石をそっと置きました.蟻は石の前まで来ると立ち止まり,頭を上げ下げしながら触覚で触って石を調べています.何んだ,これは.こんなところにこんな石があったかなぁとでも考えているふうで,背伸びをしたり,横の方に回り込んだりしています.そんな蟻を見ていると,クリちゃんは,もう,たまらなくなってきました.それで,石の上の方にそっと指を当てると,いきなり蟻の方にぐらっと揺らせました.驚いた蟻は一度腰を抜かしたように後ろに転げましたが,すぐ立ち直ると,大慌てで反対向きに走り出しました.たくさんある足のリズムはばらばらで,横に転がったり,躓いたりしながら走って行きます.クリちゃんはその様子をしばらく見ていましたが,さっきの石をそっと持ち上げると,その蟻の行く先を見定めて,少し前に静かに置きました.それで蟻はまた巨大な壁にぶつかることになりました.蟻は石の前にピタッと止まると,また触覚を動かし.頭を上げ下げしています.おかしいぞ,これはどこかで見たことがある.どこで見たのかなぁと考えているふうでした.そこで,クリちゃんはまた石の上にそっと指を置くと,見計らって,いきなりぐらっとやりました.蟻は肝を潰したように転げながら走り出します.しばらくクリちゃんはその走る方向を見ていましたが,石を持ってそちらの方に歩いていくと,また蟻の行く道にそっと置きました.蟻は石にぶつかると,今度はもう何も調べようとはせず,いきなり反対を向いて逃げ出しました.それは,もう,助けてくれ,助けてくれと叫んでいるとしか見えません.それを見るとクリちゃんはちょっと可哀想なことをしたなという気がしてきて,もう蟻の前に石を置くのは止めました.

 「はい,クリちゃん」と言って,お母さんはクリちゃんの前にカレーライスを置きました.それはクリちゃん専用の,きれいな花の絵がいっぱい画かれているほうろうの皿に盛られています.白いご飯の上をトロリとおおうカレーからは,やわらかな湯気が後から後から立ち上っていました.さあ,どこから手をつけようか.クリちゃんは迷ってしまいます.皿の端の方にポタリと滴が落ちていたので,そこをスプーンの先で少し擦り取って口に入れました.すると,じわぁ~とカレーの味が口全体に広がりました.『うう~っ』 カレーの味が口の中に広がると同時に嬉しさがこみ上げてきます.次にクリちゃんは少し黒っぽく見える肉をスプーンですくいましたが,それは口には入れずに向こうの方に押しやりました.クリちゃんは肉が大好きです.ですが,それを食べるにはまだ少し時期が早すぎるのでした.この楽しみはもう少しあとに回して,まずは,じゃがいもを口に入れました.じゃがいもは大きく切られているので食べるときには注意が必要です.外側はちょうどいい具合に冷めているのですが,噛んで,じゃがいもの形が崩れると内側は目の玉が飛び出るほど熱いのです.そうなると,もう,口を閉じていることもできなくて,少し口を上に向けて開けたまま,ふうふうしなくてはなりません.それで用心して食べるのですが,実は,このじゃがいものホコホコしたところもクリちゃんは大好きでした.それを呑み込むと喉の中をホコホコしたものが動いていきます.そして,す~っとお腹の方にいくとそこでホコホコしたものが消えて,今度は体全体がホコホコしてくるような気がするのでした.
 『さあ,入ったぞ』とクリちゃんは呟きました.クリちゃんの考えでは,お腹はいくつかの小さな部屋に分かれています.それは,じゃがいもの部屋とかニンジンの部屋とかで,他に玉ねぎの部屋やお肉の部屋もありました.つまり,カレーの材料に合わせて,クリちゃんのお腹にはそれぞれの部屋が用意されているのです.クリちゃんがカレーを一口食べると,それは喉を通り,お腹に入っていきますが,そこからは通路の両側にじゃがいもの部屋やニンジンの部屋が並んでいるので,カレーがじゃがいもの部屋の前を通るとじゃがいもはそこに入って行き,ニンジンの部屋の前を通るとニンジンはそこに入って行きます.玉ねぎも,お肉もそれぞれの部屋に入って行って,それですっかりなくなってしまうというわけでした.
 『さあ』と本格的に食べようとしたときです.クリちゃんはカレーの中にいつもと違うものを見つけました.それは濃い緑色をしていて,あちこちにいくつか散らばっていました.これまでのカレーは黄色をベースにして,半分透き通った玉ねぎ,少し黒っぽい肉,スプーンで割ると乳白色の顔を見せるじゃがいも,そこに唯一カラフルな味を加えているのが赤いニンジンという顔ぶれで,クリちゃんは,これはこれで嫌いではなかったのですが,ちょっと幼稚っぽい気がしていたのでした.そこへ今日は何か知らないが緑が仲間入りしています.それは一気にカレー全体の色彩を引き立てて,一種の調和を生み出しているように見えました.
 「お母さん,これ,何?」
 「ああ,それ? それねぇ,それはピーマンよ.」
 「ピーマン?」
 それはクリちゃんが初めて聞く名前でした.
 「今朝,お隣のおばあさんに頂いたの.裏の畑で取れたんですって.」
 「ふ~ん.」
 クリちゃんはカレーを一口食べました.よく噛むと,口の中でじゃがいものホコホコにカレーがピリッと絡み,そこを玉ねぎの甘味がとろっと包んでいます.クリちゃんは思わずにっこり,そしてシアワセ気分で噛んでいましたが,喉の方がごろごろ鳴ってきたので,仕方なく,ごくりと呑み込みました.カレーは食道の中を降りて行きます.そして,お腹に入ると,ふっと感触が消えました.『入ったな』と思いながらも,クリちゃんの目は,もう,皿の上を走って,これから食べるところを探しています.次にクリちゃんがスプーンを入れたところには,ニンジンと一緒に小さなピーマンの一片がありました.クリちゃんには保守的なところがあります.好きになるとそればっかりなのですが,新しいものにはそれほど積極的ではありません.ピーマンの緑色は,黄色いカレーの中の人参の赤を,実によく引き立てているのですが,味の方はどうなのか見当がつきません.それで用心深く味を見ましたが,どうもよく分かりません.人参の味が強いのとピーマンの切れが小さすぎたのです.それでひとまずそれを呑み込んで,もう少し大きいのを食べてみようとスプーンの先でピーマンをほじくっていましたが,さっき呑み込んだのがお腹の中に入ると『ああっ』と小さく呟いて,クリちゃんはスプーンと止めました.
 『じゃがいもはじゃがいもの部屋に入っていく.ニンジンはニンジンの部屋に.玉ねぎも,お肉もそれぞれの部屋に入っていくけど,ピーマンはどうなるんだろう.ピーマンの部屋は,ピーマンの部屋は‥‥‥ない.ないって言ったって,それは困る‥‥.じゃがいもがなくなって,ニンジンがなくなって,玉ねぎも肉もなくなったら,ピーマンは,ピーマンは行くところがないから残ってしまう‥‥.』
 クリちゃんの頭の中はぐるぐる回り始めました.ジーーーッという虫の鳴くようなような音が聞こえ,辺りは白くなって何だかクラゲのように空間を漂っている気分です.
 『そうか,すると,そこがピーマンの部屋になるんだな.何んだ,そうか.そうだ,そうだ,きっとそうだ.』
 クリちゃんは,ちょっと安心して,スプーンの前にあったピーマンの大きな一片を掬って口に入れました.ちょっと噛んでみましたが,味はどうもよく分かりません.まあ,いいや,と思ってゴクリと呑み込んでしまいました.そのとき,また,クリちゃんのスプーンが止まりました.
 『ピーマンを食べたらピーマンの部屋ができるということは,椎茸を食べたら椎茸の部屋ができるということで,ナスビを食べたらナスビの部屋ができるということか.』 クリちゃんは,実は,これまで自分の考えはカレーにしか当てはめていませんでした.
 『新しいものを食べると新しい部屋が一つできるということは,新しいものを食べるたびに部屋が一つずつ増えていくことになる.そうなるとお腹の中は部屋でいっぱいになってくるぞ.けど,そんなに部屋を作れるのかなぁ.お腹の大きさは決まっているし‥‥‥,ということは一つ一つの部屋が小さくなれば‥‥いいんだ‥‥な.』
 何かすっきりしませんでしたが,スプーンが,さっき向こうに押しやった肉のところにきたので,少し時期が早いという気もしましたが,頭が混乱していることもあって,思わず口に入れてしまいました.じわ~っと口の中の隅々にまで味が広がって行きます.肉を噛んだ瞬間に肉の端にくっついている粒々の脂身が潰れて,ピリッとしたカレーの刺激をやわらげ,そこに玉ねぎの甘味がまろやかに絡んで絶妙の舌ざわり.思わずクリちゃんの頬っぺたがほころびます.一日の終わりの夕映えを見ているときのような満足感が心に広がって,危うくピーマンのことを忘れそうになりました.
 『しかし,待てよ,部屋が小さくなれば,そんなにたくさんは入らない.ということは,新しいものを食べると,それだけ,少しずつしか食べられなくなるわけか.これから色々なものを食べていくと,どんなにおいしくて,もっともっと食べたくても少ししか入らない.それでも,もっと色々食べたら‥‥,あああっ,お仕舞には何も入らなくなるじゃないか‥‥‥』
 「クリちゃん,クリちゃん!」
 お母さんの呼ぶ声でクリちゃんは我にかえりました.そして,お母さんにさっきの自分の考えを話しました.お母さんはにっこり微笑むと言いました.
 「クリちゃん,それはね,一番初めが違ってますよ.」
 「ええっ,あっ,そうか.ええっ,ああ,なぁ~んだ.よ~かった!」
 クリちゃんは,そう呟くと,さっきまでの険しい表情は何処へやらで,嬉しそうに,目をきらきらさせてカレーを口に入れました.

    98.12.2

★コメント
 これは、パソコンでワープロソフトが使えるようになって、文書をプリンターで印刷することが普及し始めた頃に書いた話です。ワープロソフトも実用的なものになり、自分で書いた文章をプリンターで「活字」にできるようになったので単純に喜んでいました。まさに書いて楽しんでいたのです。
 
 最近になって読み返してみました。20年ぶりです。やはり物事は楽しんでやるのが一番だなと思いました。その気分が文面に残っています。今ならいくらでも直せますが、このときの気分が新鮮なので、あえて手を加えないことにしました。

2019年3月31日

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