<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

怪物くん

2019-12-31 10:00:30 | 「遊去の部屋」
<2010年7月26日に投稿>
 うちに怪物が現れてから1年が過ぎました。その正体は、依然として、不明です。かなり大きな音を立てて天井裏を走り回っているので、いるにはいるのですが、決して姿は見せません。夜は台所にやってくるようなので、かじられそうなものはみんなプラスチックのケースに入れました。お陰で棚の隅の、物置状態になっているところまで、半分くらいですが、掃除をすることになり、とりあえず一区切りつきました。実は、そこは長い間、ずっと気になっていた所だったのです。
 もとは玄関から台所へ直通でつながる通路になっていたのですが、そこの戸を締め切って物置として使うことにしました。そうすると空間としては1m四方ほど確保できたので広くはなったのですが、戸を開けることができなくなったため、光が入らず、風も通らず、あまり気持ちのいいスペースとは言えなくなってしまいました。セメントの床の上に台を置き、その上に大きな味噌樽を2つも置いてしまったので、結局、その奥の、棚の下の方は使えなくなってしまいました。それから20年くらいが経ち、そこを使っていたのは、クモや野ネズミのような連中です。棚の上の方は便利に使っていたので、年月が経つにつれで、下半分はガラクタの上に砂埃が積り、手を触れることさえためらわれる有様でした。つまり、そこは、連中にとってのサンクチュアリー、聖域になってしまったのです。
 台の下に転がり落ちた物は、上の樽などを退けて片付けない限り拾えません。その労力に匹敵するものがそんなところに落ちることなどあるでしょうか。せいぜいニンジンのヘタなどが刻んだときにころころと転がり込むくらいです。それらはすぐに乾燥してカラカラになってしまうので特に問題になることもないだろうと解釈してそのままになってしまいます。しかし、それが20年も続くとは予想外のことでした。

 流しの横にはポリバケツのゴミ箱(45リットル)が置いてあります。もちろん、ポリエチレンのゴミ袋の端がゴミ箱の縁に被さるようにしてあるのですが、その縁の上にバナナの皮が引っ掛かっていることがありました。最初は、バナナの皮を捨てるときによく見ないで捨てたためだと思っていました。こんな不注意なことをするとは自分もボケてきたなと考えたのですが、それにしても、こんな大きなゴミ箱の口の上、30cmのところから投げ入れて外れることなどあるだろうかという疑問も湧きました。これはゴミ箱をきちんと見ないで放り込む以外あり得ません。そういうわけで、実は少し反省までしたのです。
 ところが、その後、ちょくちょく同じことが起こるようになりました。それで私もこれは変だと思い、ある晩、バナナの皮をきちんとゴミ箱の底に入れて寝たのですが、朝になるとその皮はゴミ箱の縁にきちんと腰掛けていたのです。奴のせいか、と思いましたが、一体、何という奴でしょう。バナナの皮を盗む生きものなんて想像できません。ギンナンに始まり、ジャガイモまではよかったのですが、パンはかじらず(ネズミ捕りに仕掛けた)、バナナの皮をゴミ箱の底から引き上げる…、訳がわからなくなりました。バナナの皮の重さからこれを垂直に引き上げるからには怪物の体重もかなりあるはずです。想像は膨らみそうですが、まったく見当がつきませんでした。

 畑でミニトマトが実り出したのでいくつか取ってきて食べました。野草のように育ったせいか、草の香りがします。そこが栽培されたトマトと違うところです。ちょうど真っ赤に熟れたトマトをもらったので味を確かめることができました。私には、味に青っぽさのないトマトはトマトという気がしません。それで自分の畑のミニトマトを半分食べ、残りは明日の朝に食べようとザルに入れて台所に置いておいたのですが、それがなくなっているのです。いっしょに入れてあったインゲンはそのまま残っています。昨日自分で食べたのを忘れてしまったのかと思ったのですが、そういうことが何度か起こりました。もう間違いありません。奴はトマトも食べるのです。
 その後、春に取れたソラマメを食べようと、水に入れて戻すために一晩置きました。朝になってガラスのコップに残っていたのは水だけです。ギンナンも同じ目にあいました。水の深さは5cmくらいあります。コップをひっくり返さず、その中から実だけを取り出すという芸当は動物にとってたやすいことではないと思うのですが。今回はコップの近くに足跡らしきものもありました。流しのステンレスが濡れていたため足の裏の泥が取れたものでしょう。鑑識のため虫眼鏡でよく見ましたが、もともと足跡自体をよく知らないので特定するには至りませんでした。足跡も普段からよく観察しておく必要のあることを知りました。

 ギンナンは別の部屋に置いてあります。風通しをよくしないといけないのでザルに入れ、上にもプラスチックのザルを被せ、怪物に取られないようにしてあります。この半年はそれで大丈夫でした。ところが先日、そこに変化が現れました。ザルの横にプラスチックを削った屑のようなものが落ちているのです。ザルを調べるとかじられています。ちょうど、牢破りのように、ザルの目を切り取るようにかじった痕跡がありました。ついに来たかと思いました。それで、今はザルを金属製のものに変えてありますが、怪物くんにとっては、これは中が見えるだけに少々酷なことかも知れません。
 生きるということは食べ物を確保することに尽きると言ってもいいと思いますが、同時にそれを守りきることだとも言えるでしょう。こうなると自分も怪物くんと殆ど同次元で生きていると感じないではいられませんが、実は、人類の歴史の殆どはこういうことの連続だったのです。そして、その中の最悪の形が、人間が人間の食糧を、軍事的、政治的、経済的に奪い取ることではないかと思います。

 怪物くんの事件まで、ソラマメはただのソラマメでした。「これはうまい」と言えるような食材ではありません。それが、この事件以後、塩茹したソラマメを味わって食べるようになりました。一粒一粒、トーナメントを勝ち抜いて手に入れた賞金のような値打ちを持つようになりました。単に、食べものとの関係が本来の姿に戻っただけのことかもしれませんが、これも怪物くんの存在あってのことであることは間違いありません。
2010.7.26

★コメント
 10年くらい前の古いギンナンを食べてみました。大丈夫なようです。水で戻した後、オリーブオイルで炒めてみました。新しいものだとすぐエメラルドグリーンに変わるので火の通ったことが分かりますが古いものは黄色のままなので多少不安が残ります。味そのものはうまいとは言えませんが、食べられるということだけで驚異です。
 この数日、古い映像を見ています。昭和40年代に記録したものを20年ほど前に再放送したものです。このときにはビデオがあったので録画しました。ところがそのビデオ、ガタガタです。捨てるしかないと思いつつネジを外してケースを開け、アルコールで拭いてカビを取り、テープを引き出してみます。ビデオデッキの方が心配でしたが、デッキはまた買うことができると思い、再生しました。そこにあったのは紛れもない50年前の世界、最初の映像は四国の山地での焼畑の暮らしでした。画像は不安定で、しょっちゅう上下に動きますが確かにその時代を見ることはできました。
 そこでは米は作れません。それで稗や粟、ソバなどを作っていて、それらを俵に詰めて納屋一杯に積み上げてありました。「100年経っても食べられる」と話していましたが、それらは代々飢饉に備えて蓄えられてきたものでした。これがつい最近までの人々の暮らしだったのです。
 このような人々に私は言い知れぬ親しみを覚えます。私の自給自足願望もこの辺りが原点かと思いました。その暮らしによって育まれる『心』に私は惹かれるのだなと悟りました。
2019年12月31日

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