<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

山のコンサート

2023-09-19 14:57:43 | 「遊去の部屋」
<2002年6月2日に投稿>
 私はよく山で一晩を過ごします。テントを張ることもあれば車の中で寝ることもあります。たまには真っ暗な森のなかでただじっとしているだけということもあります。若いときには山は登ることが目的でしたが、だんだんと歩くことが自体が楽しくなってきて、それからは気持ちのいいところを見つけると、そこで昼寝をしたりして過ごすことが多くなりました。
 あるとき谷川の小さな川原でキャンプをしていました。石を積んで作った炉で飯を炊き、食事は日の暮れる前に済ませます。とういうのは暗くなってしまうと、炉の火にしてもランプの明かりにしても下から照らすので、肝心の食器の内側は暗くて見えないのです。その上、辺りが暗くなってそこだけに明かりがあるわけですから山じゅうの虫が明かりを目指して飛んできます。そうなるともう何を食べているのやら分かりません。
 晩飯のあとはコーヒーです。これは山用に家で粗さを調節して挽いたものを使います。コーヒーを入れるにも道具がないから家でやるようなわけにはいきません。そこで多少の工夫が必要になるわけですが、これはまた別の機会に回しましょう。
 夕暮れが近づいてくると森は急ににぎやかになってきます。鳥たちが鳴きながら盛んに飛び交い餌を取るからです。これは、おそらく、夕方になるとたくさん虫が飛ぶのでそれを目当てに鳥が飛び回るということでしょうが、この短い時間が過ぎるとすうっと鳥のさえずりが治まって夜になります。
 辺りが暗くなるともう動くことはできないので広げたシートの上に寝転んで水の音やら風の音やらを聞いて過ごします。この季節、つまり初夏の頃は河鹿蛙の声が特にきれいです。まさかこれが蛙の声とは誰も思わないでしょう。初めは何の声かわからず、秋でもないのに虫の声とは奇妙だと思っていましたが、それが蛙の声と分かったときには多少がっかりしたところもありました。あまりにも美しい声なのでそれにふさわしい可憐な生き物を期待するのは無理もないことだと思います。
 この季節は蚊もまだ少ないので過ごしやすいのですが、必ずぎょっとさせられることがあるのです。それは闇の中にすうっと光が現れては消えていくからで、もちろんこれは蛍ですが、一回目にはいつもドキッとさせられます。シートの上にはコーヒーやらお菓子やらが手の届くところに置いてあるので暗闇の中で飲んだり食べたりしながら水の音に混じって聞こえてくる様々な音を聞いて楽しんでいます。星もきれいです。気分が辺りの雰囲気になじんでくると楽器を取り出して鳴らしてみることもありますが、だいたいは静かなのが一番です。
 この日はたまたまウイスキーがあったので炉の残り火でツマミを焼いて一杯飲みながらウクレレを弾いていました。ランプは少し離れたところに炎を小さく絞って置きました。というのは明るくすると光の届くところはよく見えるのですがその外側は全くの暗闇になってしまい回りの様子がつかめなくなるからなのです。逆に明かりを消すと次第に闇に目が慣れてきて森の中でもかなり見えるようになるのです。回りが見えると恐怖心が薄らぐので、変な話ですが火を焚けば焚くほど闇は濃くなり恐怖心は募ることになるのです。
 しばらくしてふとランプの方を見るとランプのすぐ横に蛙が一匹来ていました。じっと座ってこちらを見ています。私は蛙が演奏を聞きにきたとは思いませんでしたが、もしそうだとするとおもしろいので、その蛙を観客にコンサートを始めました。ところが1時間たっても2時間たっても蛙は動きません。じっとこちらを見たまま喉の皮をひくひくさせているだけなのです。蛙というのは実に忍耐強い生き物だということをこのときに知りました。そのうち私も蛙のことは忘れてウイスキーを飲みながらウクレレを弾いていましたが、1時間くらいたってふと蛙の方を見るともうそこには何もいませんでした。とうとう行ったかと思いましたが少々さびしい気もしました。妙なものです。それからまたウクレレを弾きかけたのですが、今度はもう何だか張り合いがなくなってしまいました。それで片付けて寝ようと思い、もう一度ランプの方を見るとさっきとは反対の側の方に蛙がいるのです。体はやや斜めになってはいるもののやはりこちらを見ています。私はもう疲れていたので弾きたくなかったのですが、それでもせっかくなのでアンコールを一曲やって終わりにしました。
 次にそこへ行ったときは蛙が出てくるかどうか楽しみでした。日が暮れてランプを点けるとしばらくしてまた蛙が出てきました。すぐ後ろの芦の茂みにでもいたのでしょうか。私はうれしくなってこの日もずっと楽器を弾いたり歌を歌ったりしていましたが、蛙はその間中ずっと座ってこちらを見ていました。
 その次のときはランプを自分から2mくらいのところに置きました。さあ、来るだろうかと期待していましたが、何と、この日は2匹も出てきました。相変わらず喉の皮をひくひくさせています。しばらくして蛙たちが時々体の向きを変えてはまたこちらに向き直るのに気が付きました。何をしているのかなと思って注意しているとすぐに謎は解けました。蛙たちはランプの明かりに集まってくる虫を食べていたのです。ランプに虫が飛んできてぶつかるとひょいと体の向きを変え、虫と真正面に向かい合い、ぴゅっと舌を伸ばして虫を取っているのです。なぜ体の向きを変えるかというと蛙は首を曲げることができないからなのです。だから蛙は常に相手と正面対決をする生き物なのです。この点は私も見習わなければいけないと思いました。そして食事が終わるとまた私の方に向き直り何事もなかったかのようにじっとこちらを見続けるのでした。つまり、蛙たちにはディナーショーだったわけなのです。
 蛙が出てくる本当の理由は今も分かりません。去年は出て来ませんでした。谷川は美しい声で溢れていましたが、蛙は出て来ませんでした。今年はどうでしょうか。ぜひ出て来て欲しいものだと思います。
2002.6.2


★コメント
 この話は、後に、「谷川の小さな河原のコンサート」としてギター朗読作品にしました。そしてコンサートで発表しているので録音があるはずだと思い、捜してみました。すぐに見つかりました。2017年4月23日となっています。ということは6年前になるわけですが、聴いてびっくり、ひどすぎです。この録音を聴かなかったら「うまく行った」と思っていたことでしょう。記憶というのはこのように美化されていくのかと思いました。もしかすると、コンサートの後、録音を聴いていない可能性もあります。最近感じていることは、録音中に聞いている音と、それを再生して聞く音との間にかなりの違いがあることです。自分で「できた」と思っても録音を聞いてみるとできていないということが普通にあります。演奏時に迷いがあり、そのため表現が際立ってこないこともあります。中途半端なデフォルメは意味をなさないことが殆どですが、自制心が働くためそうなってしまうのでしょう。歌舞伎の隈取りを見るとよくここまで来たものだと思います。
 今回録音を聞いて、これは作り直しだなと思いました。それを楽しめるなら一番いいわけで、できればユーチューブに上げて終了ということもできます。その日が来るのかどうかは分かりませんが…。
2023年9月19日

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