<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

まつろわぬ青春の日の行方(8) <畑を始める>

2021-09-30 15:27:45 | 「学生時代」
 子供の頃、家の裏は畑になっていて、祖母がそこで野菜を作っていました。子供の目には随分広く感じましたが、実際はせいぜい50坪くらいのものでしょう。小学生の間はよくそこで遊びました。そして遊びながら見ていた祖母の野菜つくりが私の「畑」のすべてでした。祖母の手伝いをしながら親しんだ野菜畑がいつか私の原風景となったのでしょう。

 初めて借りた畑は溜池のすぐ横にありました。草の生い茂る1反の休耕田は、そのときの私には「荒地」でした。そこの草を抜きながら少しずつ畑にしていくことを私は「開墾」だと思っていました。今からみると馬鹿な話ですが、その時は本当にそう思っていたのです。「開墾」するために鎌を買い、「畑」をするために備中鍬(4つ鍬)と平鍬を買いました。これで私の財政は殆どからっぽになったはずです。なけなしの金を出して買ったこの3つの農具は今も使っていて、高かったけれどもかなり質のいいものだったのではないかと思います。何しろ、その頃にはまだ「ホームセンター」というものはなかったのですから。
 最初は一人で草抜きを始めました。記憶はないのですが、「畑の日誌」を見るとそれがわかります。つくづく紙はすばらしい記録媒体だなあと思いました。と同時にこれほど忘れてしまうものなのかと驚いてもいます。日誌を見るとそのときの様子を思い出せるところと全く思い出せないところがあるのですが、もしかするとこれはその部分の脳細胞が壊れてしまったのかもしれません。そうなるともう二度と思い出すことはないわけで、これは想定外でした。
 これまで思い出せないのは脳内の記録されているところと回路がつながらないためだろうと考えていたのです。記録自体は脳の中にあるのだからそのうちにつながるさと楽観していましたが、記録場所の脳細胞が壊れてしまうことは考えていませんでした。こうなると日誌の価値は格段に上がります。そこに書かれていることは事実であり、かつて実際にあったことなのですが、その多くが今や思い出せなくなっていることに気が付いたというわけです。
 22歳以降の日記は今もあるのですが、それ以前の日記はありません。それはすべて自分で焼き捨ててしまったからです。いろいろな思いがあったとはいうものの、本当のところはそういうまねがしてみたかったということでしょう。つまらないことをしたなと思います。

 日誌には、5月の半ば頃から懐かしい名前が出て来ます。そのとき私は大学のクラブの農問研(農業問題研究会)に属していたのですが、そこのメンバーや同級生の名前があるのです。私が畑を始めたと知って草抜きを手伝いにきてくれたのだと思います。殆どは1回だけなので、そのせいかもしれませんが、まったく記憶がありません。『そんなことがあったのか、いや、確かにあったかもしれない』、その断片がチラッ、チラッと頭の中をかすめるだけで、ノートのありがたさが身に沁みます。
 最初に植えたのは「ピーマンの苗5本、里芋5個、それからジャガイモの皮一枚」です。ジャガイモの皮?おそらく調理中に取り除いたジャガイモの芽をうえてみたのでしょう。これが昭和51年6月12日の出来事です。ジャガイモの皮のその後についての記録はありません。

 次は大豆を播きました。それから4日後、畑に入って行くとハトが飛び立ちました。畝のところに着くと大豆の芽がすべて食べられ、白い軸だけになっています。キュウリなどの他の野菜も鳥や虫の害を受けました。全滅、全滅、全滅の繰り返しだったようですが、「8月16日までに、キュウリが16本とピーマンが10個取れた」と書いてあります。
 すぐ横の畑をやっている爺さんにハトのことを話すとその対策を教えてくれました。畝の上に10cmくらい離して白糸を2本張るというものです。理由を聞いてみると、「鳥は羽が糸に当たるのを嫌うから」ということでした。実際にやってみると効果はあるような、ないようなというところでした。それから40年この方法を続けてきましたが、今の畑で決定的瞬間を目撃してしまいました。大豆の畝に近付いて行ったハトは白糸の前で足を高く上げるとその足で白糸を踏んで押さえ、畝を横切って行ったのです。それ以来、大豆は本葉が出るまで育苗ポットで育て、それから移植するようにしています。ハトは「大豆もやし」の状態ではうまいので食べに来るけど、本葉が出るともううまくないので食べに来ないということを知りました。

 こうしてノートをみると、当時は何も知らなかったことがわかります。私の中の「農業」は祖母の畑であり、それを見ていただけで自分では知っているつもりでいたようです。それから45年が過ぎた今、やはり何も分からないというのが正直な感想です。だけど自分の畑で取れたものを食べて生きているのだから何も分からないということはないのでしょうが、「百姓は何年やっても一年生」という伯父の言葉が身に沁みます。
2021年9月30日

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