<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

ミミズ

2020-06-30 16:59:39 | 「雑録」
 風呂場という所は湿気が多いから木造の家には良くない.それで,昔は大抵,風呂場は母屋から少し離れたところにあった.私の家は古いので今も風呂場は外にある.といっても裏口からほんの数歩離れているだけなのだが,それでも冬の寒い日などは,これだけの距離が結構辛い.うちの風呂場には脱衣場がない.それで家の中で服を脱ぐとタオル一枚だけ持って裏口を出る.母屋と風呂場の間は風の通り道になっていて,風の強い日には,そこを冷たい風が吹き抜ける.それで,風の息をみて,ここという時に母屋から飛び出すのだが,どういうものか,風呂場の戸の一歩手前で,強烈な寒風にあおられて息を呑むことがある.また雨の日にはちょうどそこに雨がしけ込む.そこで,タイミングを見計らって飛び出すのだが,その瞬間に,狙い澄ましたように冷たい雨に背中を打たれることもある.しかし天気のいい日は快適だ.暑い日には窓も戸も開けっ放して入るので,湯舟から上がると窓から吹き込んだ風がさっと体を撫でていく.夜は電気を消して風呂に入る.そうすると外は星でいっぱいだ.湯舟につかって小さな窓から夜空を眺めていると時間の経つのを忘れて,つい,うつらうつらしてしまう.また月のきれいな晩には湯舟の中で月がゆらゆら揺れることもある.そんなときには無性に冷酒をきゅっと一杯やりたくなってくる.
 天気のいい日には朝から風呂を焚くこともある.明るい陽射しの中で入る風呂はまた格別だ.湯舟の中でバシャッと手を動かすと,湯の中は無数の細かい泡でいっぱいになる.それらは光を浴びてきらきら輝き,せわしく左右に揺れながら一斉に上にあがってくる.手でバシャバシャやると体中が光の泡に包まれて気分は『極楽,極楽』,実に風呂はいいものだ.というわけで今日も昼前に風呂を焚いてしまった.
 浴槽には3枚の蓋がかぶせてある.端の一枚を少し上げ,手を入れて湯加減をみるのだが,思わず手を引っ込めた.湯はかなり熱い.もう少しだなと思って蓋を閉めようとしたとき湯舟の中で何か動いたような気がした.他の蓋は浴槽の上に置かれたままなので中は暗くてよく見えない.そこで残りのふたを取ってみた.すると,何と,ミミズが一匹,湯舟の底にいる.どうしてこんなところに入ったのか分からないが,ミミズは気持ち良さそうに体をくねくねやっていた.
 温度差のある水は混じりにくいと聞いている.確かに,海で潜ったりすると深さ2mくらいの所で水は急に冷たくなる.それで泡を食ったことも何度かあるが,それにしても上は熱くて手が入れられないというのに,底のミミズが平気でいるのは驚きだ.これはきっと「耐熱ミミズ」に違いない,などと思ってみるが……,どうも力が入らない.とにかく今はまだ,ミミズは底の方で気持ち良さそうにくねくねしているが,既に上の方では煮えているから,それは徐々に下の方に降りて行って,やがてミミズは生きたまま煮られることになるだろう.これは時間の問題だ.が,当のミミズはそれに全く気づかずに,ひたすら享楽の時を過ごしている.まるで現代の人間社会の状況を暗示しているかのようだ.ミミズの場合はやがて訪れる自らの運命を知らないから哀れだが,人間の場合は,実はうすうす明日の自分の運命に気づいている.それでいて,そんなことはないかのように振る舞うのだから性質が悪いというほかない.実に困った生き物だ.が,そんなことより当面の問題はこのミミズを何とかすることだ.助けてやるにも,取り出すには上の煮えた所を通らねばならない.そうすればそこでミミズは釜ゆでになってしまうだろう.そうなれば風呂の湯はミミズのスープになってしまうではないか.そのあとに…,入るのか? もしかすると何か薬効があるかも知れないが,今は取り立てて悪いというところもない.では,湯を捨てる? 折角焚いたのに,それはちょっともったいない.いや,それはかなりもったいない.困ったな.どうする? そう呟きながらも私はうすうす気付いていた.絶対絶命のミミズにもチャンスが一つ残されている.それは湯をかき混ぜてみることだ.湯と水が混ざれば温度はその中間になる.といっても水に近くなるか湯に近くなるかはやってみなくては分からない.もしこのミミズに運があれば助かるだろうし,運がなければ…….そのとき私の脳裏に浮かび上がったのは,かき混ぜた湯の流れにのって湯舟の中をぐるぐる回り続ける,煮えて白く膨れ上がったミミズの姿.だめだ.だめだ.だめだ.そんなことになったらこれから風呂に入る度にそれを思い出すに違いない.私は段々腹が立ってきた.何か助けてやる方法はないものかとこんなに気を揉んでいるというのに,当のミミズは湯舟の底で体をくねくねさせて遊んでいる.いい気なもんだ.これは,TVゲームに熱中する受験生を持つ親の心境と似ているかも知れない.
 突然,そのとき閃いた.これでいい.これなら大丈夫.ほんの一瞬に段取りの全てが見えたのだ.これには些か驚いた.こんなこともあるんだなぁ,これなら俺もまだまだ捨てたもんじゃないと,一人で得意になっていると,ふと,ずっと前に聞いた話を思いだした.『モーツァルトはシンフォニーを一瞬のうちに作曲したのではないか.』これはある作曲家の話だが,モーツァルトの作品を写譜するとモーツァルトがそれを作曲したより時間がかかるらしいのだ.そのことから,シンフォニーは,モーツァルトの頭の中に全体が一瞬のうちに浮かび上がり,モーツァルトはそれをただひたすら書き止めていたのではないかとその人は結んでいる.それなら確かに写譜するよりも速くなりそうだ.というのは,写譜するには楽譜を見なければならないから,それだけ余分に時間がかかるというわけだ.モーツァルトとは大いに違うが,私もこのとき一瞬のうちにミミズ救出作戦の全貌を見た.疑似体験というと叱られるかも知れないが,実際,これで私は,モーツァルトのこの話を,そうかも知れないと思うことができたのだ.
 早速,私は棒を取りに,風呂場を出て裏へ回った.そこには山へ行く度に拾って杖にした棒が立て掛けてある.細目のを一本選ぶと風呂場に戻り,きれいに水で洗って泥を落とした.それを湯舟に差し込んでミミズの尻尾(?)の辺りを突っついた.するとミミズは生意気にも,地団太を踏むように体を左右にぷりぷり振って抵抗する.そんなことをしている場合ではないだろうと言ってやりたかったが相手がミミズではそのかいもない.私はかまわず突っついて突っついてミミズを前に追いやった.そしてミミズを湯舟の底の栓のところまで追い込むと栓につながっている鎖を引っ張った.その瞬間にミミズは排水口に吸い込まれ,あっという間に姿を消した.それから鎖を放すと,それと同時に,今度は栓が排水口に吸い込まれ,水はぴたり.その間わずかに2,3秒.実に見事な幕切れだった.
 湯舟から棒を引き抜くと,水面に波紋が広がった.その影が湯舟の底で揺れていたが,やがてそれが静まると後は何事もなかったかのように治まった.「やれやれ」と呟きながら湯舟に蓋をすると私は杖を戻しに裏へ行った.
   98.9.22


★コメント
 この頃はパソコンにワープロソフトが入れられるようになり、その使い方にも少し慣れてきたあたりです。自分の書いたものが印刷されて活字になることが嬉しくて、プリンターで印刷しては知り合いに見せたりして楽しんでいましたが、相手は迷惑だったかも知れません。
 やはり初期の頃のことだけあって稚拙ですね。小学生の「作文」です。だけど書くのが楽しくて仕方がないという気分が伝わってきます。改行するべきところがたくさんあり、そうすればもっと読みやすくなるのですが、敢えてそのままにします。

 2年ほど前に友人から小学生のときに書いた作文を渡されました。内容は修学旅行の作文なので6年生の時ということになります。原稿用紙に鉛筆書きで塗り付けてあるという感じです。へたなどというレベルではありません。友人のも似たようなものでした。
 クラス全員の作文が彼のところにあったようで、どうも文集のようなものにするために彼に渡されたのではないかと想像しています。それを50年間保存していた友人も偉い。彼は今、機会を見つけてそれを一人一人に返却しています。私にとってこれは6年生だった自分との再会です。そこにいるのはまさに子供の私で、こんな貴重なものはありません。読むたびに笑い転げています。
 今「アンネの日記」を読んでいるのですが、これは彼女が13歳になるあたりから書き始められています。何というレベルの違いでしょう。自分の作文に出会わなかったらこの次元の違いには気付かなかったかもしれません。すごいですね。1日分ずつ読んでいます。このところ近現代の歴史を調べ始めているのですが、唖然とする毎日です。人間の歴史をしっかり見ていく必要のあることが分かりました。
2020年6月30日

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