<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

忍びの者<罠>

2018-02-28 23:32:43 | 「遊去の部屋」
<その1>は2002年の4月頃に書いたと思われます。<その2>は9月1日となっています。

◇忍びの者 < 罠 その1>

 この話も実話です。今回は悲惨な話ですので苦手な人は読まないで下さい。
 台所の調理台の下に片栗粉がしまってありました。ちょっと訳あって大量にあったのです。大きなバケツ一杯分くらいがポリエチレンの袋に入れてありました。そこは油や醤油のびんなどちょくちょく使うものと土鍋や漬物の甕などめったに使わないものとがしまってあって物置のようになっていたのですが、あるとき戸を開けると床に白い粉がちらちらと落ちているのを見つけました。初めは粉を取り出したときにこぼしたのだなと思いました。というのは片栗粉を使うときはいつもポリ袋の上だけを開け、そこにスプーンを突っ込んで山盛り状態で取り出していたので、きっとそのときにこぼしたのだろうと思いました。しかしおかしいなぁという気もしました。それは、これをするときには、こぼすと粉がもったいないし、それに後の掃除がめんどうです。だから相当慎重にやっていたはずなのですが…。
 まず初め、粉の中にスプーンを差し込んで手応えを確かめます。これは、そこが暗いのと、位置が調理台の下なので低くて見にくいためですが、他にも指先の感覚だけで自分の欲しい分量をピッタリ量り取るというささやかな楽しみもありました。それにはまず突っ込んだスプーンをゆっくりと垂直方向に持ち上げます。そのときあのキュッキュッという片栗粉特有の音が聞こえてくるような感じがありますが、もちろん音にはなりません。指先を通してその感じが伝わってくるだけです。それでもこの感触と重さのおかげで必要な量に合っているかどうかをだいたいの見当がつけられます。少ないときはやり直しますが、多いときにはスプーンを持ったまま人差し指でとんとんと柄の部分を叩きます。そうするとスプーンの先に横揺れを生じ片栗粉の一部がパラパラと振り飛ばされます。こんなものかなと思ったところで息を止めて水平移動をするのです。
 これは簡単そうに聞こえますが決してそんなことはありません。何しろスプーンの先にのっている山盛りの片栗粉は今横揺れを受けたばかりです。あちらこちらにかろうじてくっついている部分があるはずです。これらの部分にとってはほんの僅かな振動も崩落のきっかけになりかねません。そこで空中を滑るように動く技術が必要になってくるわけです。この技の基本は何と言っても腰でしょう。姿勢がしゃがんだ状態なので腰の回転は足首の動きだけで行います。まず息を止めて一方の足をしっかり固定し、もう一方の足の踵を立てた状態から、それをさらにほんの少しだけ起こします。このとき手首、肘、脇は角度を固定したままで体の回転について来るだけにするところがポイントです。とかく初心者はこのときに腕でやろうとする傾向が見られます。手首、肘、脇が体と一体になってそれが腰につながるというのは武道にも通じる身のこなし方であります。それでスプーンが戸棚から出たときに『しめた』などと思ってはいけません。『高名の木のぼり(徒然草第百九段)』です。ここで気を抜かず意識を腰に移してすうーっと煙のように立ち上がり、片栗粉を容器に移して、そこではじめて息をします。
 こうしてかなり慎重にやっていたからこぼすことはまずありません。それなのにこぼれているというのは変だなあと思いましたが、こんなふうにこぼしても気付かないでいるというのを老いというのかも知れないと考えたのでした。
 ところが次に戸を開けたとき、すべては明白になりました。白い粉が床一面に広がっていたのです。こぼすなどというようなものではありません。撒いたとしてもこううまくは行かないでしょう。どうしてこんなに霜が降りたみたいに撒けるのか未だに不思議です。とにかく、少なくとも老いのせいではありませんでした。
 横の隅には片栗粉の大きなポリ袋が置いてありました。袋の下の方を見るとそこにはポチポチと穴が開けられ、明らかに何者かが片栗粉を食べた跡がありました。中には小さな洞穴のようになっているものさえありました。最初はゴキブリのせいかも知れないと思いましたが、いろいろ観察した結果、これは野ねずみのせいにちがいないと結論付けました。対策は後で考えることにして、とりあえず、今日の分は上の方から使うことにしました。まあ、こんなにたくさんの片栗粉をとても全部使いきれるものではありません。だから、野ねずみが下から食べるというのなら別にどうということはないと思ったのでそのときはそのまま放っておきました。
 次に戸を開けたとき自分の考えが甘かったことを思い知らされました。まるで一面雪景色です。それにしてもどうしてこんなことをするのでしょう。食べるのなら食べるで行儀よくするべきだし、運ぶのなら通り道というものがあるはずです。それを何もこんなに丁寧に隅々まで粉を撒くことはないではありませんか。庭作りでもやっているというのでしょうか。それとも挑発しているつもりなのでしょうか。いずれにせよこれではもう放っておくわけにはいきません。私は野ねずみを捕まえることに決めました。
 私は店で「ネズミ捕り」を買ってきました。これは接着剤が紙一面に塗ってあって、その中央には誘引剤と餌としてヒマワリの種のようなものを置くようになっているものでした。私はそれを台所に仕掛けて野ねずみが掛かるのを待ちました。が、しかし、2,3日しても掛からないのでそのまま忘れてしまいました。
 数日後、部屋の隅を小さな生き物が動いているのを見つけました。子ねずみです。小指の先くらいの大きさですが一応野ねずみの形はしています。それが畳の上をよちよち歩いたりカーテンを上ったりしているのです。それを見たとき私ははっとしました。すぐに「ネズミ捕り」を見に行きました。そこで私は思いも掛けない光景を見たのです。
 接着剤の付いた四角い紙の上には親の野ねずみが2匹と小さな小さな子供の野ねずみが3匹貼り付いて死んでいたのです。親ねずみは2匹とも足といわず手といわずべったり貼りついて、その上、身を捩るようにして頭や背中や髭までも紙にくっつけていました。罠から逃れようとしてもがいたためにちがいありません。そしてとうとうピクリとも身動きできない状態になってそのまま息絶えたのでしょう。子ねずみは親が帰ってこないので腹を空かせて、それで巣を出て匂いを辿って親のところまできたのです。さっきの子ねずみの兄弟たちでしょう。
 私は、野ねずみが掛かったら取り外して畑に離してやるつもりでした。死んでしまっては仕方がないからせめて土に埋めてやろうと野ねずみたちを外そうとしたとき自分の考えがとんでもなく甘かったということを知りました。接着剤の強さは半端なものではありませんでした。どうしても野ねずみを外すことができません。何とか外そうと引っ張っているうちにとうとう皮がずるっと動いて一部が体から剥がれてしまいました。私は、この罠を使ったことへの後悔とこのような苦悶の中でこの者たちを死なせてしまったことへの責任を感じないではいられませんでした。ハサミで紙をねずみたちの形に切り取り、そしてみんな一緒に土に埋めてやりました。



◆忍びの者 < 罠 その2 >

 しばらく平穏な日々が続いていたが、いつものように私がギターを弾いていると、目の隅で何かが壁に沿って走るのを見た。
『来たな。』
 もう落ち着いたものだった。
『さて、と』
 私はギターを弾きながら、今度はどういう手で行くかと考えをめぐらした。
『アルコールで行こう。』
 何でも新しい考えを実行する前には予備実験をして様子を見なければならない。どんないい考えでも、それを実際に行うときには予想外の事柄が出てくるものである。私はクッキーを一つ取り出すと台所の隅に置いた。
『これで様子を見てみるか。』
 野ねずみがこれをかじればエサとして使えるということだし、それでエサの場所を教えることにもなる。細工はそれからすればいい。
 翌日、クッキーを確かめた。
『これでよし。』
 私はクッキーを小さな皿の上にのせ、その上に数滴ブランデーをかけた。強烈なアルコールの匂いが台所に立ち込めた。ついでにグラスに少し注いでなめてみると、さすがにブランデーだ、まろやかないい舌触り、楽器ならハープの爪弾きというところ。
『野ねずみにはもったいないが、まあいいか。』
 翌日、皿には細かいクッキーのかけらが散乱していた。そこで、今度は大きなインスタントコーヒーの空きビンを取り出した。これは随分前に買ったものだが、大きいのでまた何かに使えるかも知れないと思って取っておいたものだった。高さは30cmくらいあるだろう。その底に、数滴ブランデーを染み込ませたクッキーを置き、それからビンを横に寝かせ、角材を枕代わりに使ってビンが斜めになるようにした。あとは野ねずみが入ったらビンを立ててフタをするだけだ。ブランデーで酔っ払っているから動作はきっと鈍いだろう。私は電気を消すと仕事部屋に戻った。
 少したってからコーヒーを入れようと台所に行くと何かが風のように走った。
『もう来たのか。』
 意外に早く来たのでちょっと段取りが狂ったが、それならとすぐに態勢を整えた。台所の戸を開け、続きの部屋の戸も開け、それから廊下を通って仕事部屋に行き、そこの戸も開けたままにした。そうしてとりあえず15分ほど待つことにした。それは、野ねずみがすぐ出て来てもクッキーを食べてそのアルコールが体に回るまでには多少の時間がかかるからだ。
 こうなるともう仕事は手につかない。私はそっと廊下を歩いて台所に向かった。耳を澄ましてみるが何も聞こえない。やはりまだ早すぎるかと思いながらそっと台所を覗き込んだ。ビンの中は暗くてよく見えない。戸口のところで身を屈めた瞬間、ビンの中から何かが飛び出した。
『よし、今度はゆっくり待ってみよう。』
 仕事部屋に戻り今度は落ち着いて仕事をした。それでついうっかり罠のことを忘れてしまい普通に歩いて台所に行った。台所の電気をつけたとたんビンから何かが飛び出した。しまったと思ったが、それにしても野ねずみはかなり大胆になっている。これはアルコールが効いているに違いない。にも拘らずあのスピードで逃げるとは。私は冷蔵庫からマーガリンを取り出すとうすくビンの内側に塗った。
『これで飛び出せないだろう。』
 しばらくしてまた台所に行った。確かに気配があった。台所に飛び込むと同時にビンから野ねずみが飛び出した。もう一歩というところで逃げられた。ビンの中にはクッキーのかけらが残り、床には足跡が点々とついている。
『マーガリンはまずかったな。』
 そこで私はもう一枚新しいクッキーをビンに入れると今度はブランデーをたっぷり染み込ませた。それから今度は豆球だけを点けたままにして仕事部屋に戻った。
かなりたってから台所に行った。うす暗い中に異様な気配が漂っている。ブランデーの甘い香りとアルコールの匂いが混じってじめっとした不健康な雰囲気だ。私はそっとビンの方を覗き込んだ。ギョッとした。ビンの底で赤い火が燃えている。小さな二つの赤い炎がじっと私の方を見ていた。全く動く気配はない。間違いなく野ねずみなのだがこちらを睨み据えているだけで逃げようとはしないのだ。ビンのところに行ったら飛び掛かってきそうだった。酒乱は野ねずみにもあったのだ。とにかく私はビンを立ててフタをした。
 翌日、野ねずみを畑に放してやろうとビンの中を見た。野ねずみがビンの底でシャックリをしている。
『しまった!』
 急性アルコール中毒だ。野ねずみは畑に放してはやったものの、あれではだめかも知れない。もうアルコールは使わないことにした。今回も現実はまたも予想を超えたところに落ち着いた。

2002.9.1


★コメント
 今、改めて読んでみて感じたことは、自分は生きものが好きなんだなということです。特に、小さい生きもの、弱い生きものに愛おしさを感じるようです。自分の気質を客観的に見ることができました。
2018年2月28日

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