<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

ギンナンの失踪

2019-11-30 20:18:50 | 「遊去の部屋」
<2010年4月に投稿>
 秋も終わりに近付くと、私は毎年、ギンナンを作ります。年に一回の作業なので一年分を作ります。イチョウの葉が黄色く色付き、風に舞い始めるとそろそろギンナン作りの季節です。地面に落ちた黄色いギンナンを拾い集め、家に持ち帰って、それを10リットルのポリバケツに入れるとほぼ一杯。これに水を張り、外に置いて実の部分が腐リ始めるのを待つのです。そして、暖かい日をみて、決心し、セーターを着込んで、その上にアノラック、さらに水がかかってもいいように前掛けをしてゴム手袋をはめ、日の当たるところに出てバケツの前に座ります。ポリバケツの中で実を外し、白い種の部分を取り出すとほぼ2リットルのボウルに山盛り一杯くらいの量になります。1~2時間の作業ですが、体の心から冷えてしまい、最後の方は『まだか、まだか』の気力作業です。そのあと、すぐに広げて干しますが、夜は軒下にしまい、それを1週間くらい繰り返すとしっかり乾いて臭いもしなくなり、終了です。
 こうして毎年、ギンナンを作っていると、よほどギンナンが好きなようにみえますが、子供の頃から一度もギンナンをうまいと思ったことはありませんでした。大人になってからも、酒のつまみにいいという話を聞いて焼いてみたことはあったのですが、食べてがっかりしたくらいです。確かに複雑な味はするのですが「これはうまい!」とまではとてもいきません。それなのにどうしてギンナンを作るかというと、ギンナンが自然のサイクルに沿った食材で、そういうものを取り入れた暮らしをしたいと考えているからでした。とりわけ、ギンナンは種ですから、その中には次の命が生まれるに充分な養分が蓄えられているはずで、ナッツ類と同じく、冬に向かっての重要な食材であったはずです。そういうわけで、ギンナンに関しては完全に頭先行型でした。
 元々、ギンナンが好きだったわけではないので初めの頃はたくさん余ってきました。秋にはまた新しいものを作ります。しかし、古いギンナンも命のあったものですから、ポイと捨てる気にはなれません。それでそのまま置きっぱなしになり、2年、3年と経ってしまったりしたのですが、それを水に浸けたりして戻すと問題なく食べられるということを見つけました。もちろん味は新しいものとは違います。新しいものは熱を通すと緑色になりますが古いものは黄色くなるだけです。芽が出るかどうかは試していませんが、芽の出るものもあるのではないかと思います。自然の風雪に耐え、世代を重ねて生き抜き、生命の橋渡しをしてきた生きものの本物の力強さを感じました。
 ギンナンを日常的に食べるきっかけになったのは友人の外国人でした。彼は一時期、韓国に住んでいたことがあり、そこでギンナンを覚えたようでした。私がメールにギンナンのことを書いたので、それで思い出してすぐにスーパーへギンナンを買いに行ったらしいのです。電子レンジに入れて焼いたところ、マンションの階段まで臭いがしたといって喜んでいました。それを聞いてから、私もそんなに珍味なのかなあという気がしてきて日常的に食べるようになったのです。
 去年もギンナンを作りました。ギンナンをポリバケツに浸けたところまではいいのですが、いろいろと忙しく、なかなか種を取り出す気にはなりませんでした。とうとう12月も半ばを過ぎ、寒い日が続きました。そんな中、やっとのことで種を取り出し、早く乾くように板の上に紙を敷き、その上にギンナンを薄く広げ、それを屋根の上に置きました。1週間くらいしてそろそろいいかなと思ったのですが、天気がよかったのでもう1日だけ干そうと屋根の上に上げました。午後から風が強くなったので、少し心配になり、もうしまおうと外に出て屋根を見るとそこには何もありません。ギンナンは全部、板ごと風に乗って塀を飛び越え、隣家の庭へ墜落、そして、そこから四方八方へ散らばっていたのです。
 例年になく手のかかったギンナンでしたが、一部を人にあげ、残りの1年分をザルに入れ、風通しのいい仕事部屋の窓のところに置きました。そこは、朝一番に窓を開けて空気を入れ替え、そこに居ないときはいつも窓を開け放しているので、空気の一番いい場所なのです。
 いつものように窓を開けて、横の机に上に置いたザルのギンナンを見ると、何か少なくなっているような気がしました。今年はけっこう食べたのかなあと思いました。しかし、作ってからそんなに時間は経ってないし、おかしいなあという気はしましたが、自分の勘違いだろう、初めからこのくらいの量だったのだろうと思いました。それから一週間くらいして、朝、窓を開けたついでにちょっと横を見たときです。目から火花が出るかと思いました。ザルに山盛りあったはずのギンナンが、ザルの底にぱらぱらと残っているだけなのです。結局、ギンナンを食べたのは10日間くらいのものでした。
 偶然かもしれませんが、コロがいなくなってから、うちの家の天井裏に得体の知れない生き物が住み着きました。天井裏を走り回っています。その音から察するとかなり体重がありそうです。姿を見たことはないのですが、その痕跡から家の中を自由に動き回っているようです。糞をみると白っぽく、その大きさからも野ネズミではありません。私の小指の第一関節の先くらいあるので、かなり体は大きいに違いありません。そして、ミカンを穿って食べるし、ジャガイモもかじります。イタチくらいの大きさはあるのではないかと考えていますが、肉食のイタチがミカンやジャガイモを食べるとも思えないし、まったく見当がつきません。
 それが犯人であることは間違いないでしょう。それにしても何という大食漢。半端な量ではありません。あの大量のギンナンを全部食べてしまったのだろうか、それとも、自分の巣に運んだのだろうか。これほどの短期間にあれだけの量を食べたら体の大きい人間でもおかしくなりそうです。だけど、そんなことより心配しなければならないのは今年のギンナンをどうするかということです。結局、私はもう一度作ることにしました。またギンナンを拾いに行き、やっとできたのは二月のことでした。今度はザルの上にもう一つザルを被せてフタをして上に重石を乗せたら今のところは大丈夫です。
 4月になり、新年度に向けて仕事部屋の片付けにかかりました。いろんな資料が山積みになっていてそれを選り分けて整理していきます。分類が済み、掃除にかかりました。壁際の机の足元にギンナンの殻が2、3個落ちていました。手に取ると先の方、3分の1くらいが見事にかじられています。リス並みです。あの硬い鬼皮をよくかじったものだなあと感心しました。それで記念にとっておこうと思ったのですが、『どうしてこんなところに』という考えが頭に浮かび、すぐに私は机を壁際から引き離しました。ザァーと軽い音がしてベージュ色の殻が流れ出しました。夥しい量のギンナンの殻。先がかじられ、中は全て空でした。何という奴。ここに運んで少しずつ食べたのか、一気に食べたのかはわかりませんが、そこにあるのは私の一年分のギンナンです。その残骸を前に、やはり、ギンナンは「珍味」だったかと思いました。喜々として食べ続けた様子が目に浮かびます。しかし、もうギンナンを食べることはできません。これからどうするのだろうとちょっと心配になりましたが、そんなことは自分で解決するべき事柄です。私の問題ではありません。

2010.4.10


★コメント
 今年もギンナンを作りました。こちらに引っ越してからギンナンを手に入れるのが難しくなりました。いつもイチョウの木がないか気を付けているのですが、なかなかないものです。個人の家ではだめだし、誰を拾わず落ちたままになっているようなところはありそうで、ないものです。
 昨日、実をほぐし、種を取り出しました。今日は干してありますが、風があったのでよく乾きました。新しいギンナンは茹でるとエメラルドのような美しい緑色になります。今までは食べ方の工夫はしなかったのですが、これからはいろいろ試してみようと思います。将棋の本を読むようになってから徹底的に考え尽くすようになりました。ギンナンにしてもこれまでどうして食べ方を工夫しなかったのだろうと不思議に思います。納屋には10年くらい前の古いギンナンがまだあるし、工夫すればきっとうまい食べ方があるはずです。そうなると酒ですね。晩秋の純米酒はたまりません。

 白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒はしづかに飲むべかりけり   若山牧水

2019年11月30日

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