<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

口の筋肉

2022-07-21 10:08:40 | 「青春期」
 東京暮らしの3年目、私は「何をするべきか」分からなくなっていました。北区赤羽の4畳半のアパートにこもって実存主義の本を読み続ける毎日。キルケゴール、ニーチェ、そして、カミュ、…。物事の本質がはっきりしなくなり、それまでの明解で標語的な価値観はどんどん崩れて行きました。
 私は勘違いしていたのです。大学での哲学の講義が面白かったので夢中になり、すでに大学は休学していたのですが、哲学を勉強すれば自分のするべきことがわかると思いました。そんなわけはないのですが、青春期というのはそのように思い込むところがあります。アルバイトも止めて、金がなくなるまで本を読み続け、金がなくなったらまたアルバイトをするという生活で、昼も夜もなくなってしまいました。あるとき、すっきりと目が覚め、やはり早朝は気持ちがいいなあと思っていたら、話声が聞こえるので外を見ると夕方でした。
 40日くらい経ったときだったか、誰かがドアをノックしました。戸を開けると大学のESSの友人、どうしているのか様子を見に来たというのです。その顔を見たとたんに私の頭の中には話そうと思うことが溢れ出しました。ところが言葉になりません。口が動かない、口の動きが、頭に浮かんだ言葉を発声するのについていけないのです。しかも言おうと思うことが、3つも4つも同時に浮かびます。こんな体験は初めてでした。

 この期間、脳はフル回転していました。しかし言葉を話すことがなかったため口の筋肉が衰えてしまったのでしょう。風邪を引いて3日ほど寝込むと足がふらつくのと同じで、筋肉は使わないとすぐに衰えるようです。考えは一瞬で浮かぶのに、それを言葉にして発声するには時間がかかるわけですが、口の筋肉が弱っていると思うように動かすことができないのでそれだけ言葉の処理能力が低下するわけです。
 焦りました。久しぶりに友人に会って嬉しいのに言葉になりません。だけど10分くらいすると徐々に感覚が戻ってきたようです。部屋でしばらく話をしたあと駅前の酒場へ行ってジンフィズを何杯か飲みました。どちらの顔が赤いか、店のバーテンダーに聞くと「フィフティー・フィフティー」とやられました。なるほどと思ったことを覚えています。そのころには哲学談義はどこへやらで、私の虚無もその程度のことだったのでしょう。

 私は朝、6時前後に目の覚めることが多いのですが、すぐには起きず、横になったままで腹式呼吸法をします。時々ラジオをつけることもあります。その時間帯はFMで「古楽の楽しみ」をやっていました。春になってスイッチを入れるといきなり元気いっぱいの英語が飛び出して来たのです。基礎英語でした。ついにラジオも壊れたかと思いました。FMにセットしてあるのにAM放送が流れているのですから。
 その日はすぐに切ったのですが夜になってラジオをつけると正常です。おかしいなあと思いつつ、2,3日して早朝にラジオをつけるとまた英語です。そのときになって番組の放送時間が変更になったのかと気付きました。そのまま英語を聞いていると簡単な英語なのに聞き取れないところがあります。初歩の初歩なのに、です。それだけにやはり気になります。こんなに分からなくなったのか。それとも前から聞き取れなかったのか。自分で分かると思っていただけなのか。あるいは聞き取れた部分だけを元にして相手の言っていることを推測していただけなのか。

 NHKで「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」という番組があります。いろんな話を5分間にまとめて放送しています。1年くらい前に偶然見つけて、それから「聞き逃し」で聞くようになったのですが、随分多くのことを知ることができました。聞き取れないところは何度でも聞くことができます。だけど、5回聞いても分からない部分はあり、その場合はそのままにするしかありません。そんな箇所でも翌日に聞くと分かったりすることがあるので不思議です。
 録音というと以前はテープでした。語学の勉強に使うにしてもテープを傷めないように気を使っていたので早送りや巻き戻しはできるだけしないようにしていました。それに比べると今はパソコンで秒単位の聞き直しができるのですから隔世の感があります。特に前置詞や複数形の音などを確かめることができるのでピンポイントで何度も聞きます。5分間の番組を聞き終えるのに15分くらいかかることもあり、これはまずいなと思いますが、耳は慣れたはずです。それなのに「基礎英語」で聞き取れない部分があるのにはがっかりしました。

 「聞き逃し」で番組を探している途中、たまたま「英会話タイムトライアル」という10分間の番組を見つけました。タイムトライアル? 何だろうと聞いてみました。こちらには声に出して話す部分があります。話し言葉に出て来る表現が自然だし、声を出してやってみました。『あれ、口が重いぞ。』
 続けるつもりではなかったのですが、何となくやっていると1週間くらいして口の筋肉の変化に気付きました。これは口の筋トレになる。まだ3ヶ月くらいですが朗読がしやすくなってきました。授業をしなくなってから口が動きにくくなったことは感じていたのですが、改めて「筋肉は使わないとだめだ」と知りました。『あのときと同じか。』
 この番組ではイギリス英語の出て来るときがあります。懐かしい響きです。というのは20年前、高校で私の隣の席にイギリス人のALTが1年間いたのです。彼女は大学を卒業したばかりでした。それで私はこの機会に宮沢賢治の「やまなし」のギター朗読英語版を作ろうと彼女に朗読をお願いしました。彼女が日本を去るぎりぎりのところで何とか「The Wild Pear」として録音できました。これが私の最初のCD-Rになり、イギリス英語で入っています。
 この番組では話題としてリバプールの出てきた回がありました。そこで言葉として「ザ・ビートルズ」が出てきたのですが、私には何度聞いても「ルビロ―」としか聞こえないのです。英語の聞き取りでは『自分には限界がある』と思っていたところ、今朝、5時前に起きたのですが天気予報があるかなと思ってラジオのスイッチを入れてみました。そうしたらラジオ深夜便の終わりらしく「最後の曲です」に続いて曲名を紹介しました。それが何と「隆起するモーニング」というのです。また変わったタイトルだなと思いましたが、曲が終わった後で「ビューティフル・モーニングでした」という言葉を聞いた時には、もうどうでもいいという気になりました。

 これから自分の作ったギター朗読作品を録音していこうと考えているのでちょうどよかったです。前は英語も、家で中高生を教えていたので仕事でした。勉強しても分からないことばかりで苦しい仕事でした。それでも教えなければならないというのは辛いです。最初、英語の勉強は楽しかったはずなのに、仕事として受験の英語を扱うようになってから苦痛になったのでしょう。
 やはり自分は外国人ともコミュニケーションを取れるようになりたくて英語に興味を持ったのです。これからそういう機会はなくても、英語の勉強をしていればコミュニケーションを取っているような気分になるので楽しいです。晩年にもいいことはあるようですね。
2022年7月21日


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雛の季節

2022-07-02 12:05:08 | 「遊来遊去の雑記帳」
雛の季節      <2004.5.1>

 この季節になると川で子連れのカモをよく見かけます。親鳥の後ろに雛が一列に並んで川面を泳いでいく姿を見るのはいいものです。今年はまだですが、連休明けくらいにはきっと見られるでしょう。
 カモは冬にこちらに渡ってきて夏には北に帰ると聞いています。とすると春に孵った雛が1,2か月でシベリアまで渡ることが出来るほどに成長をするということでしょうか。このあたりのことは知りませんが、そうなると親鳥も餌を集めるのに随分忙しいことだろうと思います。
 春先には澄んでいた川の水も今は田んぼが始まったために泥が流れ込んで濁っています。先日、いつもの川で、親鳥が二羽、小さな中州の草むらの際にじっとしているのを見ました。川に近寄るときはいつもカモがいないことをそっと確かめます。それから土手を散歩するのですが、その日は草むらから覗き込んだら向こうの方にカモがいたので引き返そうと思いながら眺めていると、そのカモがこちらに近づいて来たのです。カモは気付いていません。水際の草の根元をがさがさ突っつきながらやってきます。草の根を食べているのか小魚を食べているのか分かりませんが、水が濁っていてはやりにくいだろうと思いました。サギなどは目で見て魚を捕っています。この濁りの中でどうやって魚を見つけるのでしょうか。この濁りは八月の終わりまで続きます。鳥たちには人間には想像もできないような能力があるのかも知れません。
 親鳥たちには、ここで充分餌を取って雛を育てて北の大地に渡り、そして冬にはまた戻ってきてほしいものだと思っています。

★コメント
 野生で生きるのはどんな生き物にとっても厳しいことでしょう。いつ何が起こるか分かりません。先日もそんな場面に遭遇しました。
 月に一度くらい山の中の御堂に水を取りに行きます。そこは無住ですが、十一面観音菩薩像などが安置されていて、近くの集落の人たちが月に一度、境内と本堂の清掃活動を行っているそうです。下の道から境内までは石段になっています。30段くらいでしょうか。先月のことですが、石段を上りかけると3段目くらいのところに何かいます。よく見るとフクロウの雛のようでした。かなり大きいです。ハトくらいはあります。そして横には水入れが置いてありました。ペットボトルを切って作ったようです。私は雛を驚かさないように端の方を通って石段を上り、水を取るとまた端を通って降りてきました。雛はじっとしていました。誰かが雛を見つけて水を置いたのだろうと思いました。
 ここは人里から離れています。私がここで人に出会うのは数年に一度です。その日は軽トラックが一台止めてあったので山仕事に来ているかもしれないと思いました。そこから山道を少し歩くと「丹波の里」という場所に出ます。棚田の跡があり、如何にもそんな感じがするので私が勝手に付けました。その辺りで人を見たのはこの30年で5回くらいです。
 その日は棚田跡で老人が草を刈っていました。山道では老婆(?)が石に腰掛けて「スマホ」を覗き込んでいました。何という不似合いな情景だろうと思いましたがこれが現代なのでしょう。私は老人の方に近付いて行き、声を掛けました。70代半ばくらいか。この辺りは鹿や猪だらけです。まさかとは思いましたが、棚田をまた開くのかと尋ねると草が生い茂っているのが気になるので刈っているという返事でした。フクロウの雛の話をすると水を置いたのは自分だということでした。横の木から落ちたのだろうということでした。人間の臭いが付くと親が警戒するかも知れないので水だけ置いてきたと話していました。
 そのあと私は少し山を登り、クヌギの林で気功をしました。すぐに鹿が一匹逃げていきました。夕暮れ近くに山を下りると老人たちはもう帰ったようでした。雛のことを考えながら山道を出て石段の方を見たときです。大きな鳥の後ろ姿にぎょっとしました。距離は5mくらいです。その刹那、鳥も私に気付いたのでしょう。翼を広げて飛び上がると石段に沿って上の方に飛んでいきました。大きい。羽を広げるとびっくりするほど大きいです。フクロウの飛ぶところを始めて見ました。
 鳥のいた所には雛がじっとしていました。やはり親鳥はどこかでずっと雛を見ていたのでしょう。だけど問題は雛を巣に連れ帰れるかどうかです。親鳥が雛を足でつかんで巣に戻すということは物理的には可能だと思いますが、獲物ではない雛をつかむという行為ができるかどうか、これが問題です。親鳥に思いつくのは雛に餌を運んでくるくらいではないかと思います。前に、巣から落ちた雀の子のところに親が餌を運んでくるのは見たことがあります。さっきの親鳥も餌を運んできていたのでしょうか。きっと親鳥はどこかから見ていると思うので雛には近付かず、すぐにそこを離れました。雛の生き残る確率は小さいが、これも自然の掟なら仕方ありません。
2022年7月2日


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