<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

栄養失調

2021-07-30 15:19:49 | 「青春期」
 東京暮らしの3年目だったかと思います。その頃、少し雨に濡れただけでもすぐ風邪を引くようになりました。夜中に呼吸が苦しくなったりしてよく目を覚ますこともありました。金縛りが頻繁に起こり、ついにどうすれば金縛りが解けるか、その方法まで見つけてしまいました。体は動かないから意識をどちらかの手の小指の先に持って行きます。そしてそこに意識を集中して小指を動かそうとしてみるのです。そして小指がわずかにでも動いたらその瞬間に金縛りは解けました。
 その頃は体力に自信があったので自分の体が悪いとは考えていませんでしたが、風邪が治らないので近くの医院に行くと、医者は少し様子を見て「栄養失調だ」と言ったのです。そしてビタミン注射を打ってくれました。お金を払おうとすると「君からお金をもらおうとは思わない。調子が悪かったらまた来なさい」と言われました。
 私の様子がよほど困窮しているように見えたのでしょう。自分ではそうは思っていなかったのですが、一般的な目から見ればそうだったのだろうと思います。しかしながら今もってうれしく思うのはそういう医者がいたことです。昭和という時代性も重ね合わせて今も懐かしく思い出します。

 そこは私が初めて借りた部屋で、場所は赤羽、ここに2年間住みました。「四畳半・台所付き」となっていましたが、台所と言っても半畳の半分、つまり畳4分の1のサイズです。それでも嬉しかった。流しの横にガスコンロが一つあるだけでしたが、ここで自炊生活をしました。
 それまでは住み込みだったり、新聞配達員用に新聞店が借りている3畳一間のアパートであったりで、そこに案内されたときには自分の目を疑いました。それまでに私の知る最小の間取りは四畳半だったからです。そのスペースでも暮らせるということを知ったことはいい経験になったと思います。その部屋を見た瞬間から私の夢は「四畳半の部屋に住むこと」となりました。条件が厳しいと夢も簡単に具体化するようです。そして1年後、私は夢を実現したのです。

 東京に出たばかりのときにはきちんと食事をしなければ死ぬと思っていました。家にいた頃には料理はあまりしませんでした。インスタントラーメンを作ったり、卵を焼くくらいがせいぜいのところです。東京に出て1週間くらいしたころ、体の調子が悪くなって来ないのでどうしてなのかなと思いましたが、そのうちに実生活がばたばた始まったのでそういうことは忘れてしまいました。

 今から考えると3年間もよくもったものだと思います。自炊と言っても米を炊くくらいで、おかずは殆ど漬物のようなものばかりです。大きな鍋にカレーを作ってそれを延々と食べ続けるというような食生活でした。味噌汁も味噌を溶いただけでした。近くの八百屋でその話をすると「騙されたと思ってネギを入れてみろ」と言われました。その八百屋ではいつもモヤシ10円分を買うだけでしたが、その日はネギも買い、刻んで味噌汁に入れてみると湯気とともに立ち昇る薬味の香りに感動しました。

 これが50年前の自分の姿です。今の自分につながる流れはこの線上にはありません。やはり大阪に出て学生生活(農学部)をやり直し、自分で畑を借りて野菜を作り始めたことが今につながっています。そしてそこで借りたアパートは六畳間と台所が板間で三畳分のスペースありました。私にとっては大躍進でした。
2021年7月30日

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