4回生のとき、私は就職活動をしませんでした。というのは、その年度内に卒業に必要な単位の半分を取らなくてはならず、それで教育実習の単位を取ることができなかったからでした。そうなると翌年に取るしかありません。就職したら教育実習のために2週間の休みを取ることなどできないからというのが就職活動をしなかった理由でした。その時には教職に就くつもりでいて、夜学で教えて昼は畑をしようと考えていました。それにしても卒業しなければなりません。それに必要な70単位ほどを1年間で取った時、「大学の制度を見直す必要があるな」と講座の助教授に言われました。
一年間アルバイトをして過ごそうとも考えたのですが、ちょうどそのとき、体を壊して療養していた兄貴が新しくプレスの仕事を始めることになり、手伝ってほしいということなので、一年間だけの約束で引き受けました。本当はしたくなかったのですがなかなか断れるものではありません。まあ、兄貴の工場は田舎の山間地にあったので、豊かな自然の中で暮らしてみたいという気持ちもありました。ただ、プレスの機械で指を落とさないようにしなければという意識だけは脳裏から離れませんでした。指を落としたらギターが弾けなくなってしまいますから。
兄貴に住む家を探してもらっておいてそこに引っ越しました。大家の屋敷とはつながっていましたが隠居所のような感じで、玄関も風呂も、広さ一畳くらいの台所もありました。やっと風呂のある暮らしができるようになって嬉しかったです。しかもその風呂は五右衛門風呂ときています。感動しました。子供の時は五右衛門風呂だったのでいろいろなことを思い出しました。底板を浮かした状態で風呂を焚き、沸いたら底板を沈めるのですが子供の体重は軽いのでなかなか板を押さえ込めないし、子供の腕は短いので最後は顔を湯に浸けないと届かないのです。そこで息を止めて顔を浸けたまま押し込んだ底板を横に回して鉤に引っ掛けるのですが底板は浮き上がろうとするものだからうまく回せません。いつも何度かやり直しました。また焚口の灰の中にサツマイモを埋めておいて焼き芋を作ったこともありました。またやろうと思いました。
住み始めるとすぐに子供を教えてほしいと頼まれ、塾の形で小中学生15人ほどを家で教えることになりました。始めたばかりの兄貴の工場は仕事が切れることが多く、そんな時は山や川で遊んでいました。潜って鮎を取ることを覚えたのもそのときですが、給料の未払いが増えて行ったので収入は殆ど塾だけになりました。
子供達も今とはまるで違います。授業はするにはしますが、まるで遊びに来ているようで無茶苦茶です。せがまれて釣りやキャンプに連れて行ったりすることもありました。しょっちゅう遊んでいたような記憶しかありません。事故がなくて良かったです。
生徒の一人が私に言いました。「てるちゃんとこのパンはカビが生えとるで気ぃつけな。」「てるちゃん」というのはうちの大家の奥さんの名前で、60歳くらいだったと思います。大家は食料品店を営んでいて、家の一角が、10坪くらいの広さでしょうか、店舗になっていました。そこの食パンにはカビの生えていることがよくありました。その地区の人はみんなそれを知っていて手に取って確認しながら買っていくのです。その頃はまだ賞味期限や消費期限という言葉はない時代でした。その村には食料品を売っている店が他に2軒ありましたが、どこも同じくらいの規模で、「この地区の人はこの店に行く」という形がほぼ出来ていて、私もそこの家を借りている手前、他の店には行きにくいところがありました。だけど他の人のようにじろじろ見て調べるようなこともしにくいところがあって、何度かカビの生えているパンを買ってしまったことがあります。
それまで田舎で暮らしたことのない私はどうすればいいのか戸惑うことがかなりありました。風呂も五右衛門風呂なので薪を手に入れなければなりません。兄貴に椅子を作っている家を教えてもらいそこで木切れをもらうことになったのですがお礼をどうすればいいかが分かりません。兄貴に聞くと「盆・正に何か持って行けばいい」と言います。付き合い方が難しいなと思いました。
田舎の人は、相手が気分を害するようなことは面と向かっては言わないので本当はどう思っているのか分からないところがあります。その点、子供に聞くと何でも教えてくれるので助かりました。子供は親が話していることを聞いているのです。そうして村の事情に通じていくわけですが、政治的に利用すれば密告社会が可能になるわけで、そのように利用されてきた例は世界中にたくさんあります。
トイレは汲み取り式で家から少し離れた所にありました。溜まると「てるちゃん」が汲み取りをしてくれました。長い柄杓のようなもので汲み取るのですが、きちんと全部汲み取らないのです。液が残っていると便をしたときにオツリが戻って来ることがあります。長い間忘れていた記憶が蘇りました。これは本当に嫌でした。その頃愛読していた「なだいなだ」氏の本にも出ていて共感しました。氏は子供のとき2階のトイレからすればオツリは来ないだろうと思って朝早く学校に行き2階のトイレから試したというのです。そうしたらやはりオツリが来たと書いています。本当だろうと思うのですが、私は今も信じられません。氏は「ウンチクを傾ける」ことの意味が分かったと締めくくっていますが、私もこれで便壺が便器の真下から少しずらせて設置してあることの意味に気付きました。それまでは設計・施工がいい加減なんだと思っていたのです。
今となっては昭和の名残りともいえる暮らしですが、子供の頃は汲み取りも自分のところでしていて裏の畑の肥壺に運んでいました。させられたこともありますが、運ぶときふらふらして危ないのですぐに代わってくれました。ぶちまけられたらそれこそ後始末が大変だと思ったのでしょう。今は浄化槽でシャワートイレになったので隔世の感がありますが、その時代のことを忘れてはいけないと思います。とはいうものの逆戻りはできないですね。トイレをきれいに保てるというのはありがたいです。
てるちゃんの店のような規模の店舗は消滅しかけています。複雑な気持ちです。が、私自身もどうしても大型店の方に足が向いてしまいます。通販で買うことも増えました。家まで届けてくれるのだからやはり便利です。だけどこの方向でいいのかなという危惧が残ります。人間関係が希薄になるのも当然です。
先日、図書館で「岡本太郎の沖縄」という写真集を借りてきました。見て、読んで、衝撃を受けました。人間、人間、人間、…。これが人間なんだなと思いました。暮らすというのは実に生きるということなんだなという実感があります。だけどとてもここには戻れそうもありません。
また、つい最近ビデオテープ見つけました。「ヤノマミ」というアマゾンの奥地に住む原住民の暮らしのドキュメントです。これも凄い暮らしです。中学生の時にアフリカや南米のジャングルで暮らしたいと考えていた私ですが、知らないということは実に怖いことだと思いました。生まれたところで暮らすのがいいようです。
2023年11月21日
一年間アルバイトをして過ごそうとも考えたのですが、ちょうどそのとき、体を壊して療養していた兄貴が新しくプレスの仕事を始めることになり、手伝ってほしいということなので、一年間だけの約束で引き受けました。本当はしたくなかったのですがなかなか断れるものではありません。まあ、兄貴の工場は田舎の山間地にあったので、豊かな自然の中で暮らしてみたいという気持ちもありました。ただ、プレスの機械で指を落とさないようにしなければという意識だけは脳裏から離れませんでした。指を落としたらギターが弾けなくなってしまいますから。
兄貴に住む家を探してもらっておいてそこに引っ越しました。大家の屋敷とはつながっていましたが隠居所のような感じで、玄関も風呂も、広さ一畳くらいの台所もありました。やっと風呂のある暮らしができるようになって嬉しかったです。しかもその風呂は五右衛門風呂ときています。感動しました。子供の時は五右衛門風呂だったのでいろいろなことを思い出しました。底板を浮かした状態で風呂を焚き、沸いたら底板を沈めるのですが子供の体重は軽いのでなかなか板を押さえ込めないし、子供の腕は短いので最後は顔を湯に浸けないと届かないのです。そこで息を止めて顔を浸けたまま押し込んだ底板を横に回して鉤に引っ掛けるのですが底板は浮き上がろうとするものだからうまく回せません。いつも何度かやり直しました。また焚口の灰の中にサツマイモを埋めておいて焼き芋を作ったこともありました。またやろうと思いました。
住み始めるとすぐに子供を教えてほしいと頼まれ、塾の形で小中学生15人ほどを家で教えることになりました。始めたばかりの兄貴の工場は仕事が切れることが多く、そんな時は山や川で遊んでいました。潜って鮎を取ることを覚えたのもそのときですが、給料の未払いが増えて行ったので収入は殆ど塾だけになりました。
子供達も今とはまるで違います。授業はするにはしますが、まるで遊びに来ているようで無茶苦茶です。せがまれて釣りやキャンプに連れて行ったりすることもありました。しょっちゅう遊んでいたような記憶しかありません。事故がなくて良かったです。
生徒の一人が私に言いました。「てるちゃんとこのパンはカビが生えとるで気ぃつけな。」「てるちゃん」というのはうちの大家の奥さんの名前で、60歳くらいだったと思います。大家は食料品店を営んでいて、家の一角が、10坪くらいの広さでしょうか、店舗になっていました。そこの食パンにはカビの生えていることがよくありました。その地区の人はみんなそれを知っていて手に取って確認しながら買っていくのです。その頃はまだ賞味期限や消費期限という言葉はない時代でした。その村には食料品を売っている店が他に2軒ありましたが、どこも同じくらいの規模で、「この地区の人はこの店に行く」という形がほぼ出来ていて、私もそこの家を借りている手前、他の店には行きにくいところがありました。だけど他の人のようにじろじろ見て調べるようなこともしにくいところがあって、何度かカビの生えているパンを買ってしまったことがあります。
それまで田舎で暮らしたことのない私はどうすればいいのか戸惑うことがかなりありました。風呂も五右衛門風呂なので薪を手に入れなければなりません。兄貴に椅子を作っている家を教えてもらいそこで木切れをもらうことになったのですがお礼をどうすればいいかが分かりません。兄貴に聞くと「盆・正に何か持って行けばいい」と言います。付き合い方が難しいなと思いました。
田舎の人は、相手が気分を害するようなことは面と向かっては言わないので本当はどう思っているのか分からないところがあります。その点、子供に聞くと何でも教えてくれるので助かりました。子供は親が話していることを聞いているのです。そうして村の事情に通じていくわけですが、政治的に利用すれば密告社会が可能になるわけで、そのように利用されてきた例は世界中にたくさんあります。
トイレは汲み取り式で家から少し離れた所にありました。溜まると「てるちゃん」が汲み取りをしてくれました。長い柄杓のようなもので汲み取るのですが、きちんと全部汲み取らないのです。液が残っていると便をしたときにオツリが戻って来ることがあります。長い間忘れていた記憶が蘇りました。これは本当に嫌でした。その頃愛読していた「なだいなだ」氏の本にも出ていて共感しました。氏は子供のとき2階のトイレからすればオツリは来ないだろうと思って朝早く学校に行き2階のトイレから試したというのです。そうしたらやはりオツリが来たと書いています。本当だろうと思うのですが、私は今も信じられません。氏は「ウンチクを傾ける」ことの意味が分かったと締めくくっていますが、私もこれで便壺が便器の真下から少しずらせて設置してあることの意味に気付きました。それまでは設計・施工がいい加減なんだと思っていたのです。
今となっては昭和の名残りともいえる暮らしですが、子供の頃は汲み取りも自分のところでしていて裏の畑の肥壺に運んでいました。させられたこともありますが、運ぶときふらふらして危ないのですぐに代わってくれました。ぶちまけられたらそれこそ後始末が大変だと思ったのでしょう。今は浄化槽でシャワートイレになったので隔世の感がありますが、その時代のことを忘れてはいけないと思います。とはいうものの逆戻りはできないですね。トイレをきれいに保てるというのはありがたいです。
てるちゃんの店のような規模の店舗は消滅しかけています。複雑な気持ちです。が、私自身もどうしても大型店の方に足が向いてしまいます。通販で買うことも増えました。家まで届けてくれるのだからやはり便利です。だけどこの方向でいいのかなという危惧が残ります。人間関係が希薄になるのも当然です。
先日、図書館で「岡本太郎の沖縄」という写真集を借りてきました。見て、読んで、衝撃を受けました。人間、人間、人間、…。これが人間なんだなと思いました。暮らすというのは実に生きるということなんだなという実感があります。だけどとてもここには戻れそうもありません。
また、つい最近ビデオテープ見つけました。「ヤノマミ」というアマゾンの奥地に住む原住民の暮らしのドキュメントです。これも凄い暮らしです。中学生の時にアフリカや南米のジャングルで暮らしたいと考えていた私ですが、知らないということは実に怖いことだと思いました。生まれたところで暮らすのがいいようです。
2023年11月21日