<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

サンスのパバーナ

2022-08-20 12:52:54 | 「遊去の部屋」
☆これは2002年1月頃、「遊去の部屋」に載せた話です。このホームページに掲載した3つ目の話で、方向性も対象もはっきりしない手探り状態のときに書いたものなので、クラシックギターをやってない人には混乱するところがあるかも知れません。

            サンスのパバーナ
 <ガスパル・サンス>
スペインの作曲家、ギタリスト、オルガニスト。1640年アラゴンのカランダに生まれ、1710年マドリードに没する。音楽と古典文学の研究を行い、サラマンカの大学で神学と哲学を学んだ後、イタリアに行きオルガニストとして活躍する。同時に、ローマやナポリの音楽学校で有名なギタリストに会い、技法を学ぶ。帰国後はスペイン国王フェリペ4世の庶子のドン・ファン・デ・アウストリアのギター教師となる。
  ~~~~~~~      ~~~~~~~     ~~~~~~~

 サンスの残した「パバーナ」は、クラシックギターをやる人なら誰でも知っている曲である。この曲は3つの部分からできているのだが、弾かれるときは、たいてい前の2つの部分だけで、3つ目が弾かれることは殆んどない。曲集にも3つ目の部分が載っているものは少ない。なぜだろうか。

 私が、はじめてこの曲を聴いたときの印象はかなりひどいものだった。10代の終わり頃のことと思う。もしかすると楽譜で見て弾いただけだったかもしれないが、重く、暗く、どちらかというと葬送行進曲のような印象を受けた。
『一体、誰がこんな曲を弾くんだろう。こんなものを弾いて、ひとり、ため息をついているとは、……。』
 その頃は、まだ自分自身の能力も、もちろん限界も知らなかったから、やれば何でも出来そうな気がしていた。だから、こんな挫折感を漂わせるような曲に心を惹かれることはなかった。
『こんな曲を載せて。スペースの無駄だ。』
果ては曲集にまで文句をつける始末であった。しかし、そう思いながらも、その、殆んど音階のようなメロディーラインは一度頭に入るとなかなか取り除くことが出来ず、そのまま心の片隅に残ることになってしまった。

 サンスの曲で最初に心を惹かれたのはスペイン組曲の中の「エスパニョレータス」だった。そのとき、すでに30代後半、その間、いくつか挫折も体験した。そのためか、どちらかというと、はかないものの方に心を惹かれるようになっていた。この曲は、ぜひ、ランプの光の中で弾きたいと思い、家でそんなコンサートを開いたこともある。ちょうど骨董のランプを買ったので思いついたのだが、実は、これが大失敗。
この曲は楽譜がやさしいのでかえって暗譜しにくいところがある。それで本番も楽譜を見て弾くつもりでいた。今から考えれば本番の前に一度リハーサルをやっておけば何も問題はなかったことなのだ。
 この日のコンサートは昼間だったのでカーテンを閉めてランプをつけるつもりでいたのだが、実際にやってみるとカーテンだけでは夜のように暗くはならない。それで仕方なく雨戸を閉めた。中は真っ暗。外は3月、早春の健康な光に溢れていた。ランプをつけたが暗かった。昼の明るさに慣れた目にはランプの明かりでは何も見えない。部屋の中はいっぺんに病的な空間になった。全体に何となく緊張感が広がった。お互いに知らない人たちが何人かずつ、雨戸を閉ざした部屋の中でランプの周りにじっと座っている。お互いに、まずいところに来てしまったという様子が見て取れた。まるで秘密結社か何かの儀式のようだった。
 ランプは一つしかなかったので、客と演奏者の間に置いた。楽譜を立てて弾こうとすると楽譜が見えない。ランプが楽譜の向こう側にあるからだ。こんなことならコピーを取っておいたのだが、曲集のままではどうすることもできなかった。コピーなら行灯の紙に書いた絵のようにランプの光に透かして読めたかも知れないが、それにしても異様だろう。ランプを楽譜の前に置けば、観客は、闇の中に赤く浮かび上がった私の顔を見るだけである。そうなればもう音楽どころではない。それでランプはそのままにして、楽譜を壁際に立て、私は体を壁に向けて演奏した。

 サンスの曲が気になるようになったのはその頃からだ。それまでの、色彩豊かに光り輝くルネッサンスの世界とはまた違ったバロックのモノクロームの語り口にも魅力を感じるようになった。それにサンスの音楽にはルネッサンスの名残があった。ちょうど祭りの終わった後の無人の広場を眺めているような気分がある。そうしてだんだんとサンスという人物に親しみを感じるようになった。
 例のパバーヌをもう一度見てみようと思ったのはそんなときだった。特にむずかしいところもないのですぐに弾ける。しかし、弾いてみるとやはり重い。暗い。いい曲だなあとはとても思えない。だけど、サンスが書いているからには、ただ重い、暗いだけではないはずだと思った。弾きながら音に耳を澄ますと何かサンスの言葉が聞こえてきそうな感じがあった。それを体で受け止めながら弾き続けるうちに体の方がだんだん馴染んでいくようだった。やはりサンスはいいと思った。

 1つ目、2つ目は何も問題はない。ところが3つ目になると様子がまるで違っている。異質なのだ。実際、曲は前の2つの部分で完結している。そのせいもあるのか、続けて3つ目を弾くと、まるで間が抜けたように聞こえるのだ。まさに蛇足としか思えない。3つ目にどういう意味を持たせればいいのか分からないから,どう弾き出せばいいのか決まらない。それで、試しにプレリュードのように一番前に置いてみたが特に意味があるようには聞こえなかった。それで速く弾いてみたり、ゆっくり弾いてみたり、いろいろテンポを崩してみるのだが、なかなかこれだという所には行き着かない。どの曲集も3つ目を載せてないのはこういうことかと合点がいく。もしかすると、3つ目は元々ここになかったのではないかと疑ってみるのだが、バロックを研究している人が現にこの形で演奏しているからその可能性は低いだろうと思う。しかし、実際、そう思いたくなるほど違和感があるのだ。

 では、なぜ、私がこれほどこだわるかというと、実は、それが、単に、サンスがそんな意味のないことをするはずがないというだけのことなのだ。信念というほどのことではないのだが、そんな気がするというだけのこと。それだけで10年以上もこんなことを続けている。私は、小説を読むときも、絵をみるときも、もちろん音楽を聴くときでもそうなのだが、いつも、作品の向こう側にある作者の顔を見ることを楽しむところがある。作品そのものを味わうのはもちろんなのだが、作者にはみんな癖があって、それが作品の端々に顔を覗かせる。それを見つけると、『ああ、またやっとるわ』と思ったり、『まだやっとるわ』と思ったりする。そうしてだんだんと作者の人となりに親しみを覚えるようになってくると、今度は欠点までも好意的に見ようとしてしまう。
 サンスの場合も同じだ。一度好きになると、たとえ少々おかしなところがあっても、これにはきっと何か理由があるにちがいないと考えて、それで見落としているところがないか捜したり、あるいは、その曲を書いた背景を知らないからではないかと思ったり、つまり、おかしいのは自分の方に原因があるように思ってしまうのだ。今回もそんなことを考えながら何年も過ぎてしまった。そしてようやく今の自分の形になったのだが、これが、また、大変な代物になってしまった。作りたいイメージはあるのだが、実際に弾いてみるとそうはならない。自分でも何をやっているのか、どこを弾いているのか、わけが分からなくなってしまう。

 ギターの場合には下の弦ほど音が高く、押さえる位置はボディーに近づくほど高い音が出る。ところが低い弦の高い音を使うと高音弦より高い音が出てその音色にも違いを持たせることができるのでギターでは良く使う。今回は同じ音やその近辺の音を違った弦で出すことによって音の重なりを作ろうとした。それで高い弦を弾いたときに低い音が出たり、低い弦を弾いたときに高い音が出たりすることが頻繁に起こるようになってしまった。
 鍵盤の場合には、右の方を押すと高い音が出て、左の方を押すと低い音が出る。だから、右のキーを押すときは自然に高い音を期待する。体はそのように馴染んでいる。このとき、もし低い音がしたらどうだろうか。分かっていても恐らくハッとするだろう。重いと思って持ち上げたヤカンが空だったときのように拍子抜けするに違いない。右に行くとパラパラと音が上がっていくという感覚が体に染込んでいるから、途中で突然低い音が鳴ったりすると、物にでも躓いたような気分になってしまう。それがあちこちで出てきたら、それこそ階段を踏み外したようなものである。目に飛び込んでくる階段の断片を何とか捉えて体勢を立て直そうとしているうちに板が目の前いっぱいに広がってそのまま真っ逆さまに床に激突。もう音楽どころではない。一体今までの練習は何だったのだ。そんなことを呟いてももう遅い。勝負は決した。後の祭りである
 それなら楽譜を見て弾けばいいようなものだが、これがなかなかそうは行かない。音の重なりを生むために通常使わない弦ばかり使うのでとっさの判断が利かないのだ。だから、ただひたすら覚えるしかなかった。円周率の3.14159265358979…を暗記するのと似ている。ようやく覚えたと思っても元々自然な流れじゃないから突然忘れてしまったりする。さっきまで弾いていたのに全く思い出せないということがどれだけ練習しても起こってくる。ましてや本番ともなれば緊張するから、それこそ、いつ、どこで抜けてしまってもおかしくはないのだ。ここは最後まで辿り着くことをただ祈るのみである。

 先日、この形で「パバーナ」を弾く機会があった。手が冷えていたので摩擦をして温めた。犬の散歩はもっと前に行くのだったと思いながら弾き始めた。最初の和音がかすれた。一度に弾くかアルペジオにするか迷いながら弾いたのが悪かった。こんなことを考えたためか次のトリルで指が当たらなかった。早くもちょっと焦ったが気を取り直し次の8分音符4つを弾きにかかった。この流れが曲想を決める。それでちょっと誇張しようとしたら爪が引っかかってリズムを崩すつもりが崩れてしまった。こうなると弾きながらも気持ちの不貞腐れてくるのが分かる。何とか1つ目が過ぎ2つ目も終わりに近づいた。今日はここで止めとこうかなという気持ちが湧いてくるのを押さえながら、次のテンポをイメージした。3つ目に入ってすぐに速すぎると思った。そう思った瞬間、どこを弾いているのか分からなくなった。分からなくなったが指は動いていた。やはり練習は積むものだと思った。ピンチは脱したものの気分は重かった。やろうと思ったことの半分もできなかったのだから当然だ。再び最初の1つ目に戻り、今度はさらりと流したが、やはり葬送行進曲のようだった。

 家に帰ってからもう一度弾いてみた。確かに重く暗いがいい曲だ。またやってみようと思った。何といってもサンスの書いた曲だから……。


★コメント
 これは20年前の記事になります。知人が、私のために「遊去の部屋」というホームページを作ってくれました。「何か文章を書いたらここに載せるから送ってくれ」と言われ、私の投稿が始まったのでした。
嬉しかったです。それまで個人の書いたものが不特定の人の目に触れるということは出版でもしない限り無理でした。これ以来、書くことを楽しんでいます。

 一つ目が「夢のコンサート!」、二つ目が「駅伝にはご用心!」で、この2つは既に掲載しています。そして次が今回の「サンスのパバーナ」です。この曲は、その後、ギター朗読作品の「人知れず山懐に花は咲き」に使いました。「エスパニョレタス」もここで使っています。サンスの曲は心に原風景のイメージを呼び起こすようなところがあり、それが「話」になったと言ってもいいでしょう。出来ればこれも録音してユーチューブに上げたいと思っていますが、何しろ70分もあるので厳しいです。だけどこのような形で自分の人生を整理できる方法のあることは感謝しなければならないと思っています。
2022年8月20日


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする