<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

コロちゃん<アッバーーーッ>

2023-06-21 20:15:51 | 「遊去の部屋」
<2009年6月6日に投稿>
 コロが死んだ。家の中が静かになった。新聞をめくる音や畳を擦る音がいやに大きく響くのだ。これまでもこんなに響いていたのだろうか。流しに落ちる水の音、ガスレンジにヤカンを置くときの音、火をつけるときの音も、何もかもが無機的で、あまりにも無機的で、ただ、物体から発せられただけの音。自分とは何の関係もない。
 コロは外にいた。だから、家の中は何も変わらないはずなのに、空気がまったく違うのだ。しーんとしていて物の動く気配がない。コーヒーをすする音、カップを盆に置いたとき、こんなに大きな音がしてたのか?

 コロの死因は窒息だ。牛乳をたっぷり含ませたパンを喉に詰らせた。
「アッバーーッ、アッバーーッ!」
ああ、また、やった。この一週間、食べるたびにこの訴えを繰り返す。私はただ食べ物が喉につかえて、胸につかえて降りていかないために苦しんでいると考えていた。前の晩も、私がコロの体を半分抱き起こし水を飲ませるとコロはごくりごくりと飲んだのだが、その直後、急に叫びながら「アッバーーッ」と訴えた。息が止まるかと思ったが、背中を叩いたり、体を揺すったりしてようやく細い息を確保した。
 コロはもう食べ物を飲み込むために必要な舌の動きも思うようにできなくなっていた。食べ物を飲み込むのも水を飲み込むのも楽ではない。改めて、自分も無意識のうちに凄いことをやってのけていることに気がついた。その前の日までは、一回に3口くらいは飲み込めた。それ以上やるとおかしくなるようだ。だから、回数を増やしてやればいい。だけど、さらにその前の日には、御飯を手で小さく握って、手を皿代わりにして口のところに持っていくとがつがつと食べ、1回に茶碗半分くらいは平らげた。
 変化は日毎にやって来た。昨日良くても今日はだめ。見る見る枯れ木のようになっていく体を見ながら、私は飢えの辛さを思い出していた。
 コロがまったく動けなくなってから3週間くらいだろうか。それまでは立たせてやると何歩か歩くことはできたので、私がコロのドンブリを持ち、立たせたままで体を支えて食べさせた。御飯にスープと牛乳をかけたものなので立たせないと食べさせることができない。朝と晩にドンブリいっぱいをぺろりと食べる。体は動かなくなっていても胃だけは極めて丈夫というところがコロらしい。
 足は後ろ足から崩れ始めた。立っていることができなくて、しゃがむこともできなくて、後ろに倒れこんでしまうのだ。支えようとしてもぐにゃぐにゃでは支えようがない。そうして、ついに、コロは寝たきりになった。ウンコもオシッコも垂れ流すしかないのだが、コロ自身、それが嫌なのだろう、催すと1時間でも2時間でも泣き続ける。昼でも夜でも泣き続ける。そしてとうとう垂れ流し、やっと収まることの繰り返し。それが分かるまでに何日もかかったが、それはそうだろうと私も納得した。
 オムツを使うことを思いついた。人間用のオムツを適当な大きさに切って腰の下に敷いてやる。寝たきりで殆んど動けないので簡単だ。うまく吸い取ってくれるので助かった。寝たきりが便利なこともあるものだと思った。夜は玄関に入れるのだが、朝方になるとまた泣き始める。今度は自分の小屋に入れてくれという注文だ。だけど、まだ、近所は眠っているのでそれはできない。何度も何度もなだめすかすが泣き続ける。周りが日常生活を始めてから小屋に入れてやると、だいたいはおとなしくなる。こんな小屋でも終の棲家か。慣れた所がいいのだろう。しかし、この作業はかなりきつい。とうとう私も腰を痛めてしまった。気をつけていたので軽く済んだのが幸いだった。
 その日、朝、二度目のパンのときだ。例によって3切れを牛乳に浸して食べさせた。それから少しして、「アッバーーッ、アッバーーッ」 背中を叩いても何をしてもだめだった。口を開けて手を突っ込むと指先に何かが当たったので取り出すとさっきのパンだった。奥まで手を突っ込んで3切れ全部取り出したが、すでにコロの息は止まっていた。最後にあんな苦しみを与えてしまったことを考えると心が痛い。あの声が消えることはないだろう。

 その日は、たまたま、1日休みだった。コロを風の通る庭に出して寝かせた。日の光を浴びて眠っているようで、もしかすると息をしているのではないかと目を凝らしたくなる。実際、息をしているように見えるのだ。しばらくすると蟻がやって来た。蝿も何処からかやって来た。昼から埋めに行かねばならない。
 私は簡単に部屋と廊下とトイレを掃除して雑巾で拭いた。帰ってきたとき床がざらざらしていてはあまりにも哀しいではないか。これからは、コロは私の心の中にしかいないのだ。薄汚れたところでコロを思い出したくはない。
 いつもコーヒーの水を取りに行く山に埋めることにした。コロをシーツに包んで抱きかかえ、山道を歩く。腕がしびれる。そのとき、ふと、思い出した。私はこの半年くらい軽く腕立てと腹筋を続けていた。もしかすると無意識のうちにこのことが頭にあったのかも知れない。斜面を登って高台になったところに出た。気持ちのいいところだ。ここならいい。再び、車に戻り、スコップを取ってくる。山の土はかたい。木の根を切り、石を割りながら土を掘る。1時間半ほどかかってやっと穴を掘った。これは体力作りをしてなかったらできなかっただろう。東の方に顔を向けてコロを寝かせた。「お前がいて良かったぞ。ありがとう。」

 家に帰るとしーんとしていた。何だ、この静けさは。腕が疲れて手に力が入らない。風呂に入って早く寝た。夜中に時々目を覚ましたが充分に寝たはずだ。それなのに、早朝からまったくすっきりしない。腰もガタガタだ。みそ汁を作ったが、水で戻したワカメを刻むのを忘れていた。こんなことは初めてのことだった。味は悪くないのだが、あまり食べたいという気持ちが湧いてこない。しかし、仕事があるから食べなくてはいけない。意識できないことが自分の中で起こっている。16年もいたものがいなくなれば変わらない方がおかしいだろう。これからはもう自分の心の中でしか生きられないのだから、忘れないようにしなくてはいけない。コロの前にいたリンやクリや、しばらくいて何処かに行ってしまったポン太のことも忘れてはいけないと思う。みんな一緒にいて、私の時間に彩りを与えてくれた仲間なのだから。
2009.6.6


★コメント
 コロが死んだのは6月4日なので、この記事はその2日後ということになる。それから14年が経った。その間、私はこの記事を一度も読んだことはない。それは葛藤のためだった。
 最期の時、コロは息を吸おうとしたのだが、そのとき牙が剥き出しになったのだ。凄い牙だった。私は一瞬ためらった。3秒くらいか。そのあと意を決して手をコロの口の中に突っ込んだ。パンを一切れ取り出したときコロはまだ息を吸おうとしていた。私はあわててまた手を突っ込むとそこにはまだ別のパン切れがあったのだ。それを取り出す途中でコロは息を吐き出し、諦めた。もう一度手を突っ込むとさらにもう一切れが残っていた。その後で何とか息をさせようとしてみたがだめだった。まだ死んではいないだろうと思ったが再び息を始めることはなかった。
 私がためらった3秒間。これがなければコロは死ななかったのではないかという思いが私の心の奥深くに刻まれた。このとき、確かに、噛むかも知れないと思ったことは事実だが、私は同時にここで死んだ方がラクなのではないかという考えが頭に浮かんだことも事実なのだ。結果的に、苦しそうなコロの様子を見ていることに耐えられなくなって手を突っ込んでみたのだが、コロは噛まなかった。そしてパンを一切れ取り出したとき、これでコロの苦しみはまた続くなと思ったのだ。このときどうするべきであったのか。自分の心の底を覗くとき、そこには自分で未だに受け入れられないものがある。

 25年前に父が亡くなった。90歳でした。容体が悪くなって入院させたとき、医者から延命治療をするかと聞かれたが、父の意思でもあり、兄弟でも相談して「しない」と医者に告げた。ところが容体が悪くなった段階で病院は救急治療室で延命治療を始めていた。連絡を受けて病院に行ったときは既に人工呼吸器が装着されていた。医者に事情を尋ねたところ、自分はそのとき病院にいなかったので別の医師が対処したという。そして一度装着したら外すことはできないとの説明と受けた。
 それから父は打ち続ける点滴で水膨れのようになり「生きている」だけの状態が続き、私は「溺れて浜に打ち上げられた豚」のようだと思いました。中学生のときに浜辺で見た光景が甦ったのです。それが1カ月くらい続きました。人工呼吸器の酸素濃度は少しずつ高くなって行きました。もちろん意識はありません。私はまだ耳は聞こえるのではないかと思ってMDに録音した音楽をイヤホーンで聴かせていましたが、ずっと反応はありませんでした。
 あるときたまらなくなり早く死んでほしいと思い、チェロの演奏でレクイエムを聞かせました。そうしたら頭がぐらぐらと動いたのです。反応したことに驚いたのはもちろんですが、そのとき私は音楽を続けるべきかどうかの選択を迫られた形になりました。それまでは父の喜びそうなものを掛けていたのです。心を読まれたのではないかと思いました。私は続けました。2,3秒で反応はなくなりました。そのとき、父は止めてほしい、聞きたくないと思ったのかも知れないという思いが私の中に残りました。

 母が死んだのは私が18歳のときです。もう50年以上も前のことですが、最期の時、近親者が詰めかけている病室に医者が呼ばれました。医者は周りに者に母の体を押さえるように指示し心臓にカンフル剤を打ちました。私は母の腕を押さえたときぎょっとしました。どこにこんな力あるのかと思うほどの抵抗をしたのです。みんなが押さえている間に医師は注射を終えましたが、その直後に母は亡くなりました。あれは「もう何もされたくない」という母の意思表示だったのでしょう。押さえるべきではなかったという後悔の念が今も心の奥底に残っています。

 コロの話からとんでもないところに飛んでしまいましたが、自分で処理できない思いを残してしまったからこそ、今も自分の中で生き続けているのかも知れないと思います。終わりにならないということなのでしょう。
2023年6月21日


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