<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

ペンパル

2023-01-20 13:59:54 | 「少年期」
 中学2年の時でした。英語の授業で英文手紙の書き方を学ぶ課があり、それを見たとき私は手紙を出してみたいと思ったのです。その結果、1967年1月16日、一通の手紙がうちに届くことになりました。封筒には赤いスタンプが押されていて「料金不足42円」とあり、宛名が筆記体ですらすらと書かれていました。端の方には鉛筆書きで住所と私の名前がカタカナで記されています。郵便局の職員がメモしたのでしょう。それは今も手元にあります。
 うちでは大騒ぎです。兄貴がそれを手に持って自分のもののようにはしゃいでいます。何しろ外国から手紙が来たというのですから大変です。42円払わされたわけでもあり、親にもお前は何をしたのかと聞かれました。当人の私はすっかり忘れていたと思います。手紙は船便で来ている上、英文手紙の書き方に興味を持ったのは1学期(?)のことで、それについていろいろやったのはそれに続く季節のこと。いつまでやっていたのかは覚えていません。とにかく子供の1年は恐ろしく長く、次々と興味が移っていき、出来事は車窓の風景のようにどんどん後ろに飛び去っていきますから。

 自分が何をしたかは覚えています。それまで手紙を書いたこともないのに文通をしたいと思ったのです。外国には興味がありました。つまり、知らないものを知りたいということで単純な好奇心からといっていいでしょう。そうなると違いの大きいものに興味を惹かれるのは自然なことです。そこで「南半球」、つまり赤道の反対側にあるオーストラリアという国が頭に浮かびました。
 これは想像ですが、おそらく教科書のその課の内容が「ペンフレンドを求める」という設定になっていたのでしょう。それでその文章をまねして英文手紙を書くことができたのです。中2で、しかも、勉強のまったくできない私に英文の書けるはずがありません。所々辞書で引いて単語を入れ替えて書いたのだと思います。「初級コンサイス和英辞典」というものも買ってもらいました。定価220円となっていて、今もあります。親にとってはこれも出費でした。
 さて、手紙は書いたもののどうしていいか分かりません。そこで思いついたのはそれをオーストラリアの新聞社に届けてもらうことでした。そこで、それを持って自転車で新聞店に行くと「ここは配達所だから新聞社に持っていかないとだめだ」と言われ、その場所を教えてくれました。その足で支社に行くと受け取ってくれたのですが、私のしたのはそこまでです。その手紙は、おそらく、支社から本社に行き、そこからオーストラリアの新聞社に行って掲載されたのでしょう。その記事を見て14歳の少女が手紙を出してくれたのです。

 封を切ると中には便箋が2枚、筆記体で書かれていてまったく読めませんでした。その字も学校で習った字とはかなり違っていました。それで夜、その手紙を持って英語の先生の家に行きました。その先生は担任でしたが、その手紙のことを教室で話すのも嫌だったし、ましてや職員室に行くなどということは考えられませんでした。その頃の私には職員室は叱られるときに行く所だったのです。それで夜にこっそり訪ねて行ったわけですが、先生はまったく嫌な顔をせず自分の部屋に上げてくれました。
 手紙を読むと「お前は何をしたのか」と聞かれました。それでその経緯を話すと感心した様子で、日本語訳を書いてくれることになり、手紙を預けて帰りました。翌日だったか、ルーズリーフに万年筆で書かれた訳文を渡されました。そこには書き直しがいくつかあり、分かりにくい部分のあったことを窺わせます。今自分で読んでみても読めない文字があります。こうして私の文通は始まったのですが、この辺りから勉強に関心が向き始めたようで、次第にそれまでの自分とは違った不自然な成長を始めることになったと思っています。

 文通は高一まで続きました。2年くらいでしょう。手元に10通ほどの手紙が残っています。もっとあったのですが、55年も前のことだから仕方がない。今残っているものも封筒はボロボロです。中の便箋は大丈夫なので読んでみました。驚きました。文字の印象をはっきりと覚えています。アラビア文字のような筆記体なので今でも所々読めない部分はありますが、内容を覚えているのです。その当時、読めたのだろうかと疑わしいことを考えるとよくやったものだと思います。文字の読めるところは辞書で引けますが読めないところは勘・想像ということになります。
 返事は自分で書きました。最初は自分の紹介や学校や地域のことなどだったので辞書などの例文を直して書けたのですが、それが終わるとすぐに行き詰まりました。本屋に行って例文をメモしてきたこともあります。今なら図書館に行きますが、そのときには思いつきませんでした。
 苦し紛れに簡単な日本語を教えようと書いたこともありました。自分の書いたことは殆ど覚えていないのですが、相手の手紙からいくつかは思い出すこともできます。何か送ったこともありました。向こうからも可愛いコアラのぬいぐるみや雑誌などを送ってくれました。それがコアラを知った最初で、何という可愛らしさだろう、とても野生動物とは思えないと感動しました。オーストラリアにはカモノハシなど独特な動物がいると知って是非とも行ってみたいと思いましたが残念ながら実現していません。
 その辺りの紹介的なことが終わるともう書くことがなくなってしまいました。私は海や山で毎日遊んでいるだけの暮らしなので自分の考えや意見などは元々持ってないし、書こうとしてもそういうことになると例文などもなくなってしまうので書けなくなってしまいました。そのあと「手紙を書いてください」という手紙が来ましたが無理でした。この手紙は手元にないのですがそう書いてあったことは覚えています。今考えると毎日の出来事を書けばよかったのだと思います。「お父さんが庭で茶色の蛇(ブラウンスネーク)を見た」と書いてあったこともあるので、この手紙も今はありませんが、相手は普段着で手紙を書いていたのでしょう。どうも私は意味を求めて物事を深刻に考える傾向があるようです。

 私にとって、この文通を通じて良かったことは、担任の先生と個人的に話が出来たことです。学生の頃までは帰郷すると先生の家を訪ねたものですが、そのときに先生の専門は中国語だったことを聞かされ、あの時は多少焦ったのではないかと思ったこともあります。その後、自分が生徒に接するようになったとき頭にあったのはこの先生のことでした。生徒にはきちんと相手をしなければいけないと常に思っていました。やはり人間は人との出会いが大切だなあと思います。自分が高齢者になって若い時の自分を振り返ってみると、まさに箸にも棒にも掛からぬ人間だったことが分かります。年配の人たちはそんな若者の相手をきちんとしてめんどうをみてくれたのです。今はそういうことが難しい時代になってしまいました。しかし挫折なしに精神の成長など考えられないことを思うと、社会としても、ここは踏ん張らないといけないところでしょう。関わり合いになりたくないという気持ちが強くなっているのは事実ですが…。
2023年1月20日


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