<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

奥多摩のこと

2023-08-20 13:14:58 | 「青春期」
 昭和48年の初夏の頃ではなかったかと思います。買い揃えた山の道具を持って奥多摩へ行きました。これが一人で山に登った最初です。子供の頃は里山で遊んでいましたが、500mくらいまでの低い山です。その頃、姉や兄はキスリングを担いで山に登っていましたが、そんな重い荷物を持って山に登る気持ちなど全く理解できませんでした。

 私が山に興味を持ち始めたきっかけは、アルバイト先で、夏に平標山(新潟と群馬の境にある山)に連れていってもらったことでした。学生時代に山岳部に入っていた人が企画して、いくつかの部署から顔見知りの男女10人くらいが参加しました。知らないうちに私の着るアノラックやザックや寝袋まで用意してくれてあって何も分からないまま出かけました。
 一泊の予定で元気よく出かけたのですが、テントを張る場所に着いたときにはみんなへたばっていて、私は元気そうに見えたのか、リーダーと一緒に水を汲みに行かされました。かなり下ったところで水を汲み、タンクを背負子に結わえて急坂を上り始めたのですが、どうもうまく歩けないのです。背中で水が揺れるため体がふらつきバランスを保てません。あっという間に体力を消耗しました。10mくらい上ったでしょうか。危険だと思ったのでしょう、リーダーは私を止め、私のタンクを外すと、それを自分のタンクの上に積みました。合計40㎏はあるでしょう。そしてそれを自分で背負うと、一歩一歩急坂を上りテント場まで行きました。25歳くらいの痩せた人でしたが、凄いものを感じました。
 平標山は1984mあります。これが山なんだな、と思いました。里山とはまるで違います。ガスの中を歩いているとき、つまり雲の中ですが、女性のまつ毛に小さな水玉の露が付いて、いつもとは違って見えました。チャーミングだなあと思いました。リーダーの人はたくさん花の名前を知っていて驚きました。理由を尋ねると山には花くらいしかないと言っていました。それほど強くではありませんが「山」というものの印象が心に残りました。

 冬にはここを辞めたのでもう山に行く機会はありませんでした。次のアルバイト先で山登りの経験者に山登りに必要な道具とそれらを売っている店を教えてもらいました。それから登山実用百科という本を買って勉強しました。その中に山の怪奇談が出ていて、その中に平標山での話もありました。それで幻聴や幻覚というものに対する恐れが体に染み込んでしまって、今も山で夜を過ごすのは怖いです。あるとき山で夜中に人の話し声のようなものが聞こえるので確かめに行ったことがあります。結果は、沢に落ちる水から生まれる泡がはじける音でした。

 山登りの道具は揃えたものの、問題はどこの山に行くかです。そこで選んだのが「奥多摩」でした。その名前の響きから何となく安全そうだという気がしたためです。地図を買って広げてみると「鷹ノ巣山」が目に留まりました。1737m。奥多摩駅から5時間くらいとなっています。ここにしよう。
 今、その当時の地図を見て驚いています。コースタイムでは新宿駅から奥多摩駅まで2時間もかかるのです。もっと近いと思っていました。私は赤羽に住んでいたのでそこからの時間も考えると時間切れになるのは目に見えています。だのにそういうことは考えなかったようです。それが若さというものなのでしょうか。行き当たりばったりの要素が多いですね。それで何とかなってきたというのは運が良かったということなのでしょう。

 奥多摩駅を出て山道を登り始め、50分くらい経ったところに小さな集落がありました。地図には絹笠部落と記されています。すでに人は住んでいないようでした。村の外れに祠があったのですが、通り過ぎようとしたとき、ふと気になりました。格子の扉を開けてみると絵馬がたくさん吊り下げられていました。その絵を見てギョッとしました。着物を着た人の顔が全部キツネなのです。私は見てはいけないものを見てしまったような気がしました。
 この話を書き始める前に絵馬について調べてみました。ウィキペディアによると、稲荷神社では狐の絵が描かれることもあると出ていました。なあんだ、そうだったのか。50年間持ち続けていた緊張感がようやく解けました。これまでこの話は、してはいけないように感じていたのです。

 結局、この日はどこまで行ったのか、全く記憶がありません。鷹ノ巣山までは行ってないでしょう。おそらく時間を見て手前で引き返したと思われます。その年のうちに2回この尾根を上っているのですが、秋に友人と登った時には信じられないほどの美しい青空でした。心が吸い取られるような、そんな青で、これ以上のものは見たことがありません。このときは帰りに途中から尾根を離れて奥多摩湖側に降り、水根に出たのですが、運よく最終バスに乗れました。若さゆえか、無謀なことをしたものだと思います。11月の終りには途中でキャンプをしました。知り合いを連れて行ったのですが、相手がすぐにばててしまいました。仕方なく絹笠部落の辺りでテントを張ったのですが、キツネの絵馬のことが頭にあり、気味が悪かったです。そのせいか、寒かったはずなのにその記憶はありません。
 今回、ちょっと調べることでキツネ顔の絵馬に対する畏れが氷解してしまったことに驚いています。こんな簡単に気持ちが変わるとは思っていませんでした。「分かる」ということは凄いことですね。
2023年8月20日

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スケッチブック

2023-03-22 14:10:10 | 「青春期」
 21歳のとき、私は挫折した。5月の終り頃に東京赤羽のアパートを引き払い田舎に帰る。初めて自分で探して借りたアパートで、たったの2年間だが、悶々とした青春期を過ごした部屋だった。そのときには殆ど何もかもに行き詰っていて、あのまま意地を張って東京にいたらどうなっていただろうと考えると挫折して良かったというのが実感です。ちょうど兄貴が出張で東京に来たとき私のアパートに立ち寄り、田舎に帰ることを勧めたのです。「この1年だけは自由にしていいから、それで方向が決まらなかったら就職しろ」と言われました。私はそれを受け入れて実家に帰ったのでした。
 
 その頃、私は「何をするべきか」について悩んでいて、工業大学(第2部、夜間)を休学していました。機械工学を専攻していたのですが、それが自分の肌に合わないことに気付いたからでした。休学したのは一年生の終り頃で、たまたま近くのアパートに住んでいた友人がタバコの火から小火(ボヤ)を出し、その急場を凌ぐのに貯めていた翌年の授業料を貸してあげたのですが、それでようやく私は休学の肚が決まったのでした。
 大学の講義で興味を持てたのは哲学だけでした。それで休学後もアルバイトをしながら哲学の本を読み漁っていたのですが、友人の勧めで、数週間ですが、山梨の農家に住み込んで手伝いをしました。そのときに青空の下で働くことを体験し、それで生物と関係のある仕事をしたいと思ったのです。だけどまだ具体的なイメージはありませんでした。農家での仕事はきつく、農業は無理だろうと思いました。それで生物と関係のある学科に行き直し、生き物と関係のある仕事を探そうと考えたのですが、実際にはアルバイトで生活費を稼ぐのが精一杯で受験勉強は殆どできませんでした。

 東京を発つ日、アパートを後にすると赤羽駅の近くの古本屋に立ち寄り、車中で読むのに本を1冊買いました。「南国群狼伝」、柴田錬三郎、50円でした。何でも良かったのです。そして未練がましく、国電に乗る前に荒川の河原を見に行ったような気がします。それまで近くに川があることも知らなかったのに…。よく晴れたいい天気だったように思いますが、果たして立ち直れるのだろうかという気分でした。
 わざわざ中央線の夜行を選んで乗り、翌朝、塩尻で乗り換えて名古屋に行くつもりでした。早朝の塩尻駅。誰もいません。ホームに朝一番の列車が入ってきて止まったので私はそちらに歩いて行き、前に立ってドアが開くのを待っていると、少しして目の前でその列車が動き出しました。ドアが閉まっていたので私はドアが開くのを待っていたのですが、後で、この辺りではドアは自分で、手で開けて乗るようになっていることを知りました。乗客が一人もいなかったので分からなかったのです。動いていく一番列車を見送りながらゆっくりと悲しみがこみ上げてきました。
 実家の母屋には兄夫婦が暮らしていて私は離れに父と住みました。廊下の隅に机を置き、毎日14時間くらいは勉強しました。このときが生涯で一番勉強したのではないかと思います。が、ただ一つ、残念なことをしてしまいました。全く必要もないのにそれまでの日記類を焼いてしまったのです。実際のところ、そういうまねがしてみたかったというだけのことなのですが、それで東京でのことは分からなくなってしまいました。残念です。

 このところ東京での暮らしを思い出そうとしています。断片的な記憶はあるのですが、その順序が思い出せません。どんなアルバイトをしていたのか、それは何時だったのか、それが分からないのです。ふと、山で、道標の前にキスリング(昔の大きなザック)を置き、スケッチしたことを思い出しました。もしかするとそこに日付が書いてあるかも知れないと思い、そのスケッチブックを捜しました。
 あちこち捜してようやく本棚にそのスケッチブックを見つけました。開けてみると最初のページには赤羽の部屋の窓から見た様子が描いてありました。すぐ前にはシュロの木が描いてあり、その記憶はありませんが間違いなくその通りだったはずです。
 台所のスケッチもありました。ガスコンロの上にヤカンが一つ、横にはフライパンが一つ掛かっているだけです。棚にはボウルと鍋が一つずつ置いてあり、流しの横にはコーヒー用のネルのドリップ。半畳の半分の広さの台所ですが、ここで自炊をしていたのです。栄養失調になるのも当たり前だと思いました。
 そしてもう一枚は机と本棚のスケッチです。秋葉原で買った蛍光灯スタンドとトランジスターラジオ、それにメトロノームが置いてあります。開けた本の横の灰皿には吸いかけのタバコがあり、実家に帰ってからは収入が0になったので禁煙しました。これは良かったと思います。
 他に自画像や端をカットした玉のキャベツなどもありました。切り口の部分は複雑なので描いてありません。2方向からカットしているので、最初は丸なりで千切りし、途中からそれと直交する形で刻んだものと思われますが、どうやって食べていたのだろうか、目玉焼きにでも添えたのか。この頃はまだカメラを持っていませんでした。お陰でスケッチが残っているのですが、今になって手で描いたものはいいなあと思います。

 少しずつ消えた記憶が戻って来ています。その頃に撮ってもらった写真もあるのですが、どうも意図的にそれを見るのを避けていたような気がします。今ではそのときの自分が何を考えていたか殆ど忘れているし、やはり美化されていると思います。当時の生の自分にもう一度出会う旅、これが人生で最期の旅なのかなと思います。スケッチブック、描いておいて良かった!
2023年3月22日


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ある事件

2022-10-23 15:26:21 | 「青春期」
 昭和46年の7月だったと思います。そのとき私は東京で新聞配達をしていました。その新聞店には専業者が数人いて、他は学生のアルバイトでした。配達員は店が借りている近くのアパートに住み込みです。私の場合は三畳間でしたが、個室なので喜んでいました。それまで私の知っていた最小の部屋は四畳半だったので、このとき初めて世の中にこんな小さな部屋のあることを知ったのです。窓ガラスは割れていてテープで止めてありました。私の部屋の前に共同の炊事場があったので湯を沸かしてインスタントコーヒーをがぶがぶ飲んでいたような気がします。ここに5月~8月までの4ヶ月間いましたが、他の部屋の住人の顔を見たことはありませんでした。気配を感じた記憶もないのですが、ガスコンロがマッチで火をつけるタイプのもので、横の缶詰の空き缶にマッチの燃えさしがたくさん入っていたから他に人がいたことは確かです。

 新聞配達の生活にも慣れてきたころ、事件が起こりました。私が店の板間で翌朝の新聞に折り込み(広告のチラシ)を挟んでいると奥の部屋から学生の配達員が出てきました。振り返ると頭から血を流しています。どうしたのかと思っているとばらばらと人が集まってきて病院に連れて行きました。何があったのかは翌日になるまで知りませんでした。
 新聞店の専業者と学生は立場がまるで違います。専業者はその店に流れ込んできたという感じの人たちで、学生は卒業すれば出ていきます。お互いの間には何か疎遠な空気がありました。その日は学生の配達員が将棋盤の上で集金のお金を数えていたそうです。専業者の一人が彼に将棋盤を貸せと言ったところ、彼がもう終わるからと答えたら、いきなりコカ・コーラの瓶で頭をガツンと殴ったらしいのです。そのあと奥から出てきたところを私が見たわけです。
 この件をどうするか。学生の配達員のうち、親しい者5人が集まって相談しました。所長(何故か店長とは呼んでいなかった)に、殴った専業者を辞めさせるように直訴することになり、所長を喫茶店に呼び出しました。そしてその旨を伝え、猶予期間を1カ月としました。もし聞き届けられないのなら全員辞めると告げたのです。所長は了解しました。私たちはこれで解決したと思いました。
 1ヶ月後のちょうどその日、新聞店の様子は普段と何一つ変わりなく、狐につままれたような気分の私。このとき「大人」というものがどういうものかを知りました。私は即座に店を辞めることに決めたのですが、癪だからその前に休みを取ってやろうと思いました。最初の労働条件では10日(?)に一度、輪番制で休みが取れることになっていたのですが、私は4ヶ月間休みなしだったのです。そこでこの際、その分を全部取ってから辞めることにしました。

 8月終わりの1週間、私は周遊券を買って東北の旅に出ました。どういうわけか東北地方に憧れがあり、何のあてもなく盛岡まで行きました。大きめの信玄袋に荷物を詰め込み、友人に借りたジーンズの上着、その下には長袖のシャツで、8月なのにどうしてなのか分かりませんが、旅行に行くときは上着を着るものだと思っていたようです。多分、駅で寝るつもりだったので夜具も兼ねていたのでしょう。途中で、そんなに重ね着をしていて暑くないのかと尋ねられたことを覚えているので間違いないと思います。不思議なのは暑いとは思わなかったような気がすることです。
 夜行で盛岡に着いて駅前の芝生に寝そべって一眠りしました。顔に当たる水滴で目を覚ますと小雨がぱらついていたので駅構内に退避。おそらくそこで小岩井農場のポスターでも見たのでしょう、行ってみることにしました。柵の向こう側にヤギがいました。こちらにやってきたので柵越しに背中の辺りを撫でていると上着を引っ張られる感触がありました。見るとヤギが上着の裾を食べようとしています。危うく借り物の上着をかじられるところ、あわてて引き離しました。帰りがけに売店で牛乳を飲みました。何という濃さだろう、初めて牛乳をうまいと思いました。結局、小岩井農場で覚えているのはこれだけです。
 このあとどうしたのか、記憶は飛んでいるのですが、沼宮内の駅に行ったことは間違いありません。海に行ってみようと思った記憶があります。この駅から国鉄バスで太平洋側の久慈に行こうとしたのです。沼宮内に着いたのは夜でバスは早朝に出ます。私はこの駅で夜を明かすつもりでした。駅のベンチに座っていると下りの最終列車が来て止まりました。私が座ったままでいると駅長がやってきて「最終ですよ」と教えてくれました。私が乗らないと答えると上りはもうありませんよと告げました。「はい」と答えると駅長は怪訝な顔をしたので「明日の朝一番のバスに乗ります」と説明しました。
 今考えてみれば、その当時は山の中の駅だったと思うのですが、そんなところに一人で朝までいるというのは、まあ、ないことでしょう。今なら怪しまれても不思議はないと思いますが、その当時は「不審者」という言葉が使われることはなく、駅長も「若者」らしく感じたようで、駅のまわりの公衆電話や水道の場所など便利なものをいくつか教えてくれました。
 早朝のバスに乗り込み、いざ出発。ですが、朝食はどうしたのだろう。この旅行の間、食事の記憶は一切ありません。このバスが久慈に着くまでには数時間かかるはずです。沼宮内の駅には何もないし、駅を出て買い物に出た記憶もないのです。駅に着いたのは夜だったような気がするのですが、盛岡あたりで何か買い込んでおいたのだろうか、とにかく小岩井農場を出たところで記憶は切れていて、そのあとどうしたのか、おそらく盛岡の駅に戻ったと思いますが、それからどうしたのか不明です。ただ、『海を見たい』と思った記憶はあります。それで沼宮内から国鉄バスで久慈に行こうとしたのですが、それがすぐだったのか、何日か後のことだったのか。さすがに50年前のこととなると断片的にしか記憶は残ってないようです。
 途中に「葛巻」というところがあり、この地名が妙に頭に残りました。そこのバス停から若い女性が乗ってきました。二十歳くらいでしょうか。私は、たぶん、最後部の座席にいたのではないかと思います。その女性は白い半袖のシャツに黒っぽいスカートで、如何にも田舎風の様子で乗り口のところのポールをつかんで立ったままでいました。そして次の停留所で降りたのですが、その白と黒と、斜め後ろから見える彼女の向こうの山並みが「葛巻」という地名の響きと結びついて私の中に濃い印象を残しました。いいなあと思いました。
 久慈の駅でトイレを見るとあまりにも汚くガッカリ、海に行く気もなくなってしまいました。それでどうしたのか。記憶がありません。ただ、そこで日本海側の秋田から山の中を歩いてきたという人に会ったことを覚えているので、おそらくユースホステルのようなところに泊ったのではないかと思います。そこの台所でその人が半分に切ったキュウリをくれて、それをかじったら苦かったのです。「苦い」と言ったらその人が「端まで食べるからだ」と言ったことを覚えています。そしてその人に誘われて平庭高原に行くことになりました。そこで「ジンギスカンをおごってやる」というのです。私は「平庭高原」も「ジンギスカン」も知らなかったのですが翌日バスで一緒に出かけました。
 平庭高原に着いて驚きました。生まれて初めて見る白樺の林。こんな美しいところは見たことがないと思いました。その林の中のレストランでジンギスカンを食べる予定でしたが残念ながら営業していませんでした。バス停のところに売店があったのでそこで何か買って食べたような気がします。帰りのバスまで3時間くらいありました。気が付くと一緒に来た人の姿はどこにも見えず私一人になっていました。ぶらぶら時間をつぶしているとバスの発車時刻近くになって遠くの方に例の人の姿が見えました。どこにいたのか聞くと山に登っていたというのです。そう言ってから出かければいいのに思いながら一緒にバス停のところに行くと大変なことになっていました。崖が崩れて道路がふさがれ、バスが通れなくなっていたのです。乗用車なら通れるということで呼んだのではないかと思いますが、ちょうどやってきたタクシーに相乗りさせてもらって久慈まで戻りました。そしてそのタクシー代で私の財布はからっぽになりました。
 こうなると早く東京に戻るしかありません。三陸海岸沿いに釜石まで行き、そこから東北本線の花巻に出ることにしました。その途中に「遠野」があります。どうもこの地名を知っていたようでそこで途中下車しました。夕方だったせいもあると思いますが、駅の近くをぶらぶらすると材木置き場のようなものがあったりして何か湿っぽい印象を受けました。花巻の駅で一夜を過ごし、翌朝早く宮沢賢治の詩碑のあるところまで行きました。早朝の靄がまだ消え残っている感じがとても印象深かったことを覚えています。

 東京に戻って所長に月末で止めることを告げました。給料の支払いは1カ月後になると言われたので郵送先を伝えましたが、実際は最後の日に払ってくれました。
 直訴した5人で、5年後の9月1日午後1時に駅の東口で会うことを約しました。5年後のその日、そのとき私は大阪にいたのですが、出かけました。誰も来ないだろうと思っていましたが出かけたのです。結果は誰にも会えませんでした。そして50年後の今、この話を書いていて気の付いたことがあります。私が行ったのは「赤羽駅」の東口でした。ここはその後に私が住んだ所で、新聞店のあった場所ではありません。そのことに今まで気付きませんでした。何ということか。そう考えていると次第に「赤羽駅へ行った」の方こそ思い違いであるような気がしてきます。やはり記憶が曖昧です。今更考えても仕方のないことですが、今、連中はどうしていることやら。
2022年10月23日

追伸
 コーラの瓶で頭を殴られた学生の配達員はこの事件のあといなくなりました。私は彼とは事件直前に話をするようになりました。数回話しただけですが、彼もギターを弾いていたようで、音叉で音を合わすとき、音叉を耳のところに持って行き、その音を聞いてハミングのような声を出して音を拾い、それから弦の音を合わせていました。トレモロの話をすると、知り合いにフラメンコをやっている人がいて、その人は「アルハンブラ宮殿の思い出」が難しいということを聞いたのでやってみたら1日でできたようだと言っていました。これからいろいろ話ができると思っていたところだっただけに残念でした。
2022年10月24日



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口の筋肉

2022-07-21 10:08:40 | 「青春期」
 東京暮らしの3年目、私は「何をするべきか」分からなくなっていました。北区赤羽の4畳半のアパートにこもって実存主義の本を読み続ける毎日。キルケゴール、ニーチェ、そして、カミュ、…。物事の本質がはっきりしなくなり、それまでの明解で標語的な価値観はどんどん崩れて行きました。
 私は勘違いしていたのです。大学での哲学の講義が面白かったので夢中になり、すでに大学は休学していたのですが、哲学を勉強すれば自分のするべきことがわかると思いました。そんなわけはないのですが、青春期というのはそのように思い込むところがあります。アルバイトも止めて、金がなくなるまで本を読み続け、金がなくなったらまたアルバイトをするという生活で、昼も夜もなくなってしまいました。あるとき、すっきりと目が覚め、やはり早朝は気持ちがいいなあと思っていたら、話声が聞こえるので外を見ると夕方でした。
 40日くらい経ったときだったか、誰かがドアをノックしました。戸を開けると大学のESSの友人、どうしているのか様子を見に来たというのです。その顔を見たとたんに私の頭の中には話そうと思うことが溢れ出しました。ところが言葉になりません。口が動かない、口の動きが、頭に浮かんだ言葉を発声するのについていけないのです。しかも言おうと思うことが、3つも4つも同時に浮かびます。こんな体験は初めてでした。

 この期間、脳はフル回転していました。しかし言葉を話すことがなかったため口の筋肉が衰えてしまったのでしょう。風邪を引いて3日ほど寝込むと足がふらつくのと同じで、筋肉は使わないとすぐに衰えるようです。考えは一瞬で浮かぶのに、それを言葉にして発声するには時間がかかるわけですが、口の筋肉が弱っていると思うように動かすことができないのでそれだけ言葉の処理能力が低下するわけです。
 焦りました。久しぶりに友人に会って嬉しいのに言葉になりません。だけど10分くらいすると徐々に感覚が戻ってきたようです。部屋でしばらく話をしたあと駅前の酒場へ行ってジンフィズを何杯か飲みました。どちらの顔が赤いか、店のバーテンダーに聞くと「フィフティー・フィフティー」とやられました。なるほどと思ったことを覚えています。そのころには哲学談義はどこへやらで、私の虚無もその程度のことだったのでしょう。

 私は朝、6時前後に目の覚めることが多いのですが、すぐには起きず、横になったままで腹式呼吸法をします。時々ラジオをつけることもあります。その時間帯はFMで「古楽の楽しみ」をやっていました。春になってスイッチを入れるといきなり元気いっぱいの英語が飛び出して来たのです。基礎英語でした。ついにラジオも壊れたかと思いました。FMにセットしてあるのにAM放送が流れているのですから。
 その日はすぐに切ったのですが夜になってラジオをつけると正常です。おかしいなあと思いつつ、2,3日して早朝にラジオをつけるとまた英語です。そのときになって番組の放送時間が変更になったのかと気付きました。そのまま英語を聞いていると簡単な英語なのに聞き取れないところがあります。初歩の初歩なのに、です。それだけにやはり気になります。こんなに分からなくなったのか。それとも前から聞き取れなかったのか。自分で分かると思っていただけなのか。あるいは聞き取れた部分だけを元にして相手の言っていることを推測していただけなのか。

 NHKで「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」という番組があります。いろんな話を5分間にまとめて放送しています。1年くらい前に偶然見つけて、それから「聞き逃し」で聞くようになったのですが、随分多くのことを知ることができました。聞き取れないところは何度でも聞くことができます。だけど、5回聞いても分からない部分はあり、その場合はそのままにするしかありません。そんな箇所でも翌日に聞くと分かったりすることがあるので不思議です。
 録音というと以前はテープでした。語学の勉強に使うにしてもテープを傷めないように気を使っていたので早送りや巻き戻しはできるだけしないようにしていました。それに比べると今はパソコンで秒単位の聞き直しができるのですから隔世の感があります。特に前置詞や複数形の音などを確かめることができるのでピンポイントで何度も聞きます。5分間の番組を聞き終えるのに15分くらいかかることもあり、これはまずいなと思いますが、耳は慣れたはずです。それなのに「基礎英語」で聞き取れない部分があるのにはがっかりしました。

 「聞き逃し」で番組を探している途中、たまたま「英会話タイムトライアル」という10分間の番組を見つけました。タイムトライアル? 何だろうと聞いてみました。こちらには声に出して話す部分があります。話し言葉に出て来る表現が自然だし、声を出してやってみました。『あれ、口が重いぞ。』
 続けるつもりではなかったのですが、何となくやっていると1週間くらいして口の筋肉の変化に気付きました。これは口の筋トレになる。まだ3ヶ月くらいですが朗読がしやすくなってきました。授業をしなくなってから口が動きにくくなったことは感じていたのですが、改めて「筋肉は使わないとだめだ」と知りました。『あのときと同じか。』
 この番組ではイギリス英語の出て来るときがあります。懐かしい響きです。というのは20年前、高校で私の隣の席にイギリス人のALTが1年間いたのです。彼女は大学を卒業したばかりでした。それで私はこの機会に宮沢賢治の「やまなし」のギター朗読英語版を作ろうと彼女に朗読をお願いしました。彼女が日本を去るぎりぎりのところで何とか「The Wild Pear」として録音できました。これが私の最初のCD-Rになり、イギリス英語で入っています。
 この番組では話題としてリバプールの出てきた回がありました。そこで言葉として「ザ・ビートルズ」が出てきたのですが、私には何度聞いても「ルビロ―」としか聞こえないのです。英語の聞き取りでは『自分には限界がある』と思っていたところ、今朝、5時前に起きたのですが天気予報があるかなと思ってラジオのスイッチを入れてみました。そうしたらラジオ深夜便の終わりらしく「最後の曲です」に続いて曲名を紹介しました。それが何と「隆起するモーニング」というのです。また変わったタイトルだなと思いましたが、曲が終わった後で「ビューティフル・モーニングでした」という言葉を聞いた時には、もうどうでもいいという気になりました。

 これから自分の作ったギター朗読作品を録音していこうと考えているのでちょうどよかったです。前は英語も、家で中高生を教えていたので仕事でした。勉強しても分からないことばかりで苦しい仕事でした。それでも教えなければならないというのは辛いです。最初、英語の勉強は楽しかったはずなのに、仕事として受験の英語を扱うようになってから苦痛になったのでしょう。
 やはり自分は外国人ともコミュニケーションを取れるようになりたくて英語に興味を持ったのです。これからそういう機会はなくても、英語の勉強をしていればコミュニケーションを取っているような気分になるので楽しいです。晩年にもいいことはあるようですね。
2022年7月21日


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手相のこと

2022-05-31 14:27:42 | 「青春期」
 NHKのFMシアターを聴いていて<手相>という言葉に耳が止まりました。この言葉を聞いたのは何年ぶりでしょうか。「あいあるあした」という話の中に出てきたのですが、手相という言葉は今では死語のように感じていました。昭和の残骸という響きがします。しかし令和になった今でも自分の運命を知りたいという気持ちは多くの人の心の中に変わりなく存在するのかも知れません。

 私は18歳のときに一度手相を見てもらったことがあります。それは東京に出た直後のことでした。中央線中野駅の北側に、確か「中野ブロードウェイ」という名の通りがあり、夜、そこを歩いていたとき、人通りのないアーケードの道の片隅に手相占いの人を見かけたのです。気になることがいくつかあったのも事実ですが、手相で何かわかるとは思っていませんでした。それなのに何となく見てもらおうという気になったのです。
 確か1000円でした。それはアルバイトの日給に当たるくらいの額でしたから冷やかしというわけでもないと思います。やはり心の底に何かを期待する気持ちがあったのでしょう。
 占い師の人は50代くらいの女性でした。あまりいいことは言われませんでしたが、手相は変わってくるから35歳くらいまでしか分からないということでした。それから20代の間は「35歳」が気になっていましたが、実際に35歳になった時には生きるのに必死で手相のことは全く忘れていました。

 実はこの3年後、21歳のときにもう一度手相を見てもらいました。東京での暮らしに疲れ果て、挫折して田舎に帰り、半年間受験勉強をしました。そのときに、よく当たると評判の手相占いの人のところに行ったのですが、自分では前のときと比較したい気持ちがありました。その人は神社の石垣のところに幕を張って営業していました。幕をめくると老人が小さな椅子に座って本を読んでいました。やはり1000円でした。いろいろ聞いたのですが、最後に、そのときは農学部を受験し直すつもりだったので京都か大阪に行くつもりだと話しました。すると占い師は、方角が悪いから、京都に行けば死ぬかも知れないと言いました。たまたま大阪の方の試験が先にあり、そちらの合格発表があったので京都は受けなかったのですが、今も京都に行ったら死んでいたような気がします。この時にもいいことは何も言われなかったと思います。

 中学生のとき、本屋で手相の本を買い、読み出したことがあります。受験勉強の苦しさや不安から逃れるためかも知れません。そして教室で友人に「高校をすべったら手相占いをする」というようなことを話していたことを覚えています。もちろん「本気で」という次元ではありません。ただ、自分の生命線に途切れているところがあって、その辺りで何かあるかも知れないと思いました。

 手相を見てもらってから50年くらい経つわけで、言われたことのいくつかは当たったかどうか分かります。だけど驚くのは今の自分がそういうことに対する関心を全く失ってしまっていることです。先の残りが見えてきたからかも知れませんが、考えてみれば50年前の段階で今の時代の状況を想像することは不可能だったでしょう。
 パソコンが現れて、それが普及し、今やインターネットで世界中がつながっている時代になっているわけで、人々の社会生活もそれに伴ってどんどん変化して来ました。それに対応して生まれてくる人間関係にはかつてなかった要素も生じています。基本的な要素は依然として存在していてもそこに新たな要素が少し加わることでかつての法則が通じなくなることは十分にあり得ます。
 50年前、「ロボット」や「人工知能」はSFの世界の話でした。それが今は実生活に導入され、暮らしは極めて滑らかで便利になりつつあります。だけど気になるのは、それらが蓄積されたデータ処理の結果に基づいていることです。それは脳の機能の一部であって、その働きの強化でしょう。そうなると歪な発達を遂げた人間の脳のバランスをさらに崩すことになるのではないかと思います。また逆に、車ができてから歩く機能が衰えたように脳自体の発達した部分が退化するかも知れません。

 手のひらを眺めてみました。50年前とあまり変わってないような気がします。よくここまで生きてきたなあという感慨があります。手相も心の風物の一つでしょう。「人間万事塞翁が馬」とはいうものの、望むべくもない災難に見舞われる人はたくさんいます。長い間忘れていましたが、最初の手相のとき「人身事故を起こす」と言われました。これまでのところは無事故ですが、危なかったことは何度もあります。ここはしっかりと気を引き締めていく必要があります。
2022年5月31日


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