<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

「原始人」

2019-09-26 14:26:24 | 「遊去の部屋」
<2010年9月24日投稿>
 先日、「原始人」という本を読みました。高校の図書館の棚で見つけた本で、昭和45年発行のぼろぼろに傷んだ本でした。棚の横を通り過ぎるときチラッと背文字が見えただけなのに、私は手に取ってしまったのです。古い本なので昔の図書カードがまだついていました。昔はそこにある名前を見ながら、この本を読んだのはどんな人だろうとよく想像したものですが、今ではそういうこともなくなってしまい、少しさびしい気がします。名前から何が分かるというわけではありませんが、それを見て、自分もこの本を読み切るぞという気になったものです。見知らぬ人ではあるものの、自分が興味をもった本を一足先に手にしたということで、多少の敬意を払うと同時に同志でもあるような親しみを覚えたことを思い出しました。
 その本を手に取って、私は一瞬、迷いました。どうしてこの本を手に取ってしまったのか。私は子供のころから「未開の地」にあこがれるところがありました。中学3年になるまでは熱帯のジャングルで暮らすことをずっと夢見ていましたが、それを忘れたのは高校の受験勉強を始めたときでした。そのときは、ジャングルには蚊やヒルやダニがうじゃうじゃいることには思いが至らなかったので、今考えると行かなくて良かったと思います。(おそらく、行ったら行ったで、それなりに慣れたと思いますが…。)それで今も「未開」的なものに対しては無意識に体が反応してしまうので、それに対しては反射的に抵抗してしまうところがあるのかもしれません。
 40年も前の図書カードを手に取って眺めながら、読んでみようかと思いました。それは完全に学術的な本でした。小さい文字の資料を満載した本を手にして、本当にみんなこの本を読んだのだろうか思いました。並大抵の気力では読み切れそうにありません。現在ではこの分野も機器の開発が進んで相当な情報が積み上げられているでしょう。しかし、その時点ではまだ発掘資料も限られていて、それを元に仮説を立てたはずで、そういうことなら、その時点で研究者がどう取り組んだかを見ることは、人類を研究する「人間」に触れられるかもしれないと思いました。

 本には初めて聞く人類の名前や、類人猿の祖先の骨と人類の祖先の骨とをどのように見分けるかなどの話がたくさんありました。石器の作り方やその発展段階とどのように使用したかの推論もありました。また、「原始人」は象をかなりたくさん食べているようで、それをどのように捕らえたかということも、発掘されたその骨の配置や地形から推測していました。
そして、本の終わりの章に「人口」を推定している記述がありました。イェール大学のエドワード・S・デイビー氏の推定となっています。それによると、
 ① 200万年前の地球上のヒト科動物は、おそらくアウストラロピテクス(猿人)だけで、その個体数は10万をたいして上回らなかっただろう。
 ② 30万年ほど前、ホモ・エレクトス(原人)の時代の終り頃には、それが100万に達し、
 ③ 2万5千年前のクロマニヨン(新人)の時代には300万以上になった。
 穀物の栽培と家畜の飼育が始まった1万年前から人口は急増します。そして、産業革命の始まった300年前あたりからは人口爆発状態で現在に至るというところでしょうか。

 私が気になったのは200万年前のことです。世界の人口が「10万」ということなら、世界は人類以外の生物で溢れていたということなのでしょうか。食べ物のある限り生物は増殖するだろうから、その時点では人類抜きのバランスの取れた生態系ができ上がっていたことでしょう。どんな生きものが繁栄していたか興味のあるところですが、そのときの人類が、周りに生きものがたくさんいる環境で獲物を求めてわざわざアフリカからアジア、ヨーロッパ、果てはシベリアまで旅をするものだろうか思いました。そして、その後、人類の増えた分だけ、食糧や環境に対する人類の影響をめぐって直接的、間接的に他の生きものが消えていったのでしょう。その増加と減少の割合を見ると、今、とんでもないところに立っているのだなと感じずにはいられませんでした。私にとっても、食べ物に対する姿勢を改めて考え直すいい機会となりました。
2010.9.24


★コメント
 「里芋」のことを考えていて、自分が心を惹かれる理由は、里芋が古代から食べられてきた作物だということではないかと思いました。そうすると私にとっての「古代人」というのは、旧石器時代の終わり頃から縄文にかけて生きた人たちで、定住して生活し、集落を作って暮らした人々ということになります。調理をしたり、食糧を保存する技術も見つけ始めていたことでしょう。「原始人」はそれ以前の人々ということになりそうです。
 原始人ということになるとどのような生活をしていたのか想像がつきません。火を使って肉などを焼いたということはあっただろうと思いますが、それを調理というかどうかは疑問です。どんなことを考えて生きていたのだろうかと思いますが、考えるには言葉が必要です。感情はもちろんありますが、概念を形成するには言葉の発達が不可欠でしょう。限られた言葉でどのようなことを考えていたのでしょうか。

 「昔の暮らし」に興味を持つようになったのは学生時代ではないかと思います。最初は自分の子供時代、つまり、祖父母の頃の暮らし・主に食生活でした。それから昭和の初期、大正、明治と遡って行き、さらに江戸時代以前になると野菜の種類も非常に少なくなってきます。国際的な交流があって様々な地域の作物が伝来するのですから当然のことですが、縄文時代になるとコンニャク芋と里芋くらいしかありません。食べられる野草にしても大部分は外来種ですから今とは種類は違うでしょうが、当時はそれなりの生態系があったのではないかと思います。
 金属の包丁が使えるようになった頃からは調理も少しずつ発達したと思いますが、それ以前はどんな「料理」を食べていたのでしょうか。現在も未開地はありますから、そこでの暮らしが参考になるでしょう。気になるのはそこで暮らす人たちが『こんなものばかり食べたくない。うんざりだ』と感じていたかどうかです。原始人にしても、食べ物が無くなることへの恐怖が先に立つなら食べ物がある喜びは大きいでしょう。
 今、オクラとナスビが毎日取れます。収穫する瞬間は嬉しいのですが食べるときはうんざりした気分になります。里芋も畑に溢れています。その結果、だんだん米抜きの食事が増えてきました。こういう食事もありなんだなあと最近感じるようになりました。少し自由になれた気がします。

2019年9月26日

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