<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

クリちゃんのカレーライス

2019-03-31 20:00:34 | 「雑録」
 クリちゃんはカレーが大好きです.それで誕生日に,「今日は何がいい?」とお母さんが聞くと,迷うことなく「カレー!」と答えます.お母さんは,あきれて,「たまには違うものにしたら?」と言いますが,クリちゃんには,誕生日にカレー以外のものなど考えられません.
 今日は誕生日でカレーだと思うと,もう嬉しくて嬉しくて,それで,裏口の戸をガラリと開けたときには勢いがつきすぎて,戸が奥にぶつかり大きな音を立ててしまいました.裏口のすぐ横には犬小屋があって,そこには,ちょうど屋根の庇の影が落ちていました.暑い陽射しを避けて,そこに寝そべっていた犬のリンは,前足の上にちょこんと顎を乗せて,いかにも気だるそうにしていましたが,音がすると戸口の方に向いた耳だけをぴんと立て,そして,そこからクリちゃんが出てくると寝そべったままで尻尾の先だけを2,3度,ゆらりと動かして答えました.クリちゃんは,前にしゃがむとリンの肩をポンポンと叩きました.するとリンはまた尻尾の先を2,3度,ゆっくり動かして,それから,ため息をつくと,今度は欠伸をしながら同時に伸びをして,最後に妙な声を出すと体をぶるぶるっと震わせました.クリちゃんはリンが大好きですが,リンの顔を見ると,どういうものか,黒い鼻を摘んだり,上唇をずり上げて牙をむき出してみたり,また,耳をいじくっていると,何故か,引っ張ったりせずにはおれなくなってくるのでした.リンもしばらくは好きにさせていましたが,やがてゆっくり起き上がると鎖を引きずりながら自分の小屋の中に入って行ってしまいました.

 庭の続きには納屋がありました.それはコールタールで黒く塗られた大きな小屋で,中には鶏がたくさん飼われていました.クリちゃんは入り口の戸に両手を掛けると,体重をいっぱいかけて横に引きました.ゴロゴロという音といっしょに戸が開くと,ぷ~んと生き物のにおいがしました.鶏の餌の挽いたとうもろこしのにおいもします.中は暗く,じめっとしていますが,クリちゃんはここが好きでした.というのは,ここには何でもあったのです.板壁には鋸やら鎌やら針金などが掛けてあったし,道具箱には金槌や釘など,田舎の生活に必要な道具は何でもここにありました.時々,ひよこがいることもありました.ひよこは,空気穴を開けた段ボールの箱にぎっしり詰められてピーピーピーピー鳴いていましたが,鼻を近づけると,温かく湿りを帯びた粉っぽい匂いがして,何だか懐かしい気持ちになりました.
 納屋の中には100羽くらいの鶏がいましたが,1羽ずつケージに入れられ,階段状に上下2段に吊り下げられて,それがずらりと横に並んでいます.クリちゃんが納屋の重い戸を開けはじめたときから鶏はそわそわしはじめ,どうも落ち着かない様子でしたが,クリちゃんがケージに近づいていくと,最初に近くの鶏がクォックオッと鳴きながら羽をばたばたっとしました.すると,それが伝染して,あちらでもこちらでもクォーックォクォックォーッと鳴いてケージの中を動き回り,羽をばたばたさせ始めました.納屋の中の緊張は次第に高まってきましたが,外の明るい光に慣れたクリちゃんの目には,小屋の中は暗くてよく見えません.でも中のことはよく知っているのでクリちゃんは平気でした.ケージの方に無造作に歩いていくと,いきなりガシャンという音がしました.ケージの手前に置いてあった,鶏に水をやるバケツにつまずいてしまったのです.バケツの水は前に飛び出し,バランスを崩したクリちゃんの手は空中を泳ぐようにもがきました.が,すんでのところでケージに引っかかり,何とか倒れずに済みました.しかし,ケージの鶏はたまりません.逃げることのできない鶏は,片足をケージに掛け,首を外に突き出して,引きつったように,クワァーークワァクワァと叫び声を上げ,ケージにへばりつきました.それを合図に,小屋中の鶏は一斉に飛び上がり,頭を打ったり,羽をケージに挟んだままで,もがいたり,小屋の中は大混乱.クリちゃんもびっくりして思わず駆け出してしまいました.そうすると両側のケージからは,キーともギーともつかない叫び声や羽ばたきの音が起こり,それはクリちゃんの少し前を先に走りましたが,突然,目の前がぎらぎらとしたと思ったら,もう小屋の外に飛び出していました.
 クリちゃんは外の明るさに目が眩んだので,思わず手のひらを太陽に向けて目を覆い,そこにしゃがみ込みました.そしてしばらく足元の地面を見ていましたが,よく見ると,あっちでもこっちでも黒い蟻がせかせかせかせかと歩き回っています.クリちゃんはじっとその様子を見ていました.が,どうもわけが分かりません.蟻は少し進むと突然止まり,ちょっと方向を変えるとまた進み,進んだかと思うとまた立ち止まって,向きを変えるとすぐまた進むという具合で,何を考えているのかさっぱり分かりません.それに蟻は,クリちゃんには全く関心を示さず,まるで存在しないかのようでした.クリちゃんはおもしろくありません.それでそっと手を伸ばすと近くにあった石をよいしょと持ち上げました.そして,蟻の進行方向をよぉーく見て,その少し前の方に石をそっと置きました.蟻は石の前まで来ると立ち止まり,頭を上げ下げしながら触覚で触って石を調べています.何んだ,これは.こんなところにこんな石があったかなぁとでも考えているふうで,背伸びをしたり,横の方に回り込んだりしています.そんな蟻を見ていると,クリちゃんは,もう,たまらなくなってきました.それで,石の上の方にそっと指を当てると,いきなり蟻の方にぐらっと揺らせました.驚いた蟻は一度腰を抜かしたように後ろに転げましたが,すぐ立ち直ると,大慌てで反対向きに走り出しました.たくさんある足のリズムはばらばらで,横に転がったり,躓いたりしながら走って行きます.クリちゃんはその様子をしばらく見ていましたが,さっきの石をそっと持ち上げると,その蟻の行く先を見定めて,少し前に静かに置きました.それで蟻はまた巨大な壁にぶつかることになりました.蟻は石の前にピタッと止まると,また触覚を動かし.頭を上げ下げしています.おかしいぞ,これはどこかで見たことがある.どこで見たのかなぁと考えているふうでした.そこで,クリちゃんはまた石の上にそっと指を置くと,見計らって,いきなりぐらっとやりました.蟻は肝を潰したように転げながら走り出します.しばらくクリちゃんはその走る方向を見ていましたが,石を持ってそちらの方に歩いていくと,また蟻の行く道にそっと置きました.蟻は石にぶつかると,今度はもう何も調べようとはせず,いきなり反対を向いて逃げ出しました.それは,もう,助けてくれ,助けてくれと叫んでいるとしか見えません.それを見るとクリちゃんはちょっと可哀想なことをしたなという気がしてきて,もう蟻の前に石を置くのは止めました.

 「はい,クリちゃん」と言って,お母さんはクリちゃんの前にカレーライスを置きました.それはクリちゃん専用の,きれいな花の絵がいっぱい画かれているほうろうの皿に盛られています.白いご飯の上をトロリとおおうカレーからは,やわらかな湯気が後から後から立ち上っていました.さあ,どこから手をつけようか.クリちゃんは迷ってしまいます.皿の端の方にポタリと滴が落ちていたので,そこをスプーンの先で少し擦り取って口に入れました.すると,じわぁ~とカレーの味が口全体に広がりました.『うう~っ』 カレーの味が口の中に広がると同時に嬉しさがこみ上げてきます.次にクリちゃんは少し黒っぽく見える肉をスプーンですくいましたが,それは口には入れずに向こうの方に押しやりました.クリちゃんは肉が大好きです.ですが,それを食べるにはまだ少し時期が早すぎるのでした.この楽しみはもう少しあとに回して,まずは,じゃがいもを口に入れました.じゃがいもは大きく切られているので食べるときには注意が必要です.外側はちょうどいい具合に冷めているのですが,噛んで,じゃがいもの形が崩れると内側は目の玉が飛び出るほど熱いのです.そうなると,もう,口を閉じていることもできなくて,少し口を上に向けて開けたまま,ふうふうしなくてはなりません.それで用心して食べるのですが,実は,このじゃがいものホコホコしたところもクリちゃんは大好きでした.それを呑み込むと喉の中をホコホコしたものが動いていきます.そして,す~っとお腹の方にいくとそこでホコホコしたものが消えて,今度は体全体がホコホコしてくるような気がするのでした.
 『さあ,入ったぞ』とクリちゃんは呟きました.クリちゃんの考えでは,お腹はいくつかの小さな部屋に分かれています.それは,じゃがいもの部屋とかニンジンの部屋とかで,他に玉ねぎの部屋やお肉の部屋もありました.つまり,カレーの材料に合わせて,クリちゃんのお腹にはそれぞれの部屋が用意されているのです.クリちゃんがカレーを一口食べると,それは喉を通り,お腹に入っていきますが,そこからは通路の両側にじゃがいもの部屋やニンジンの部屋が並んでいるので,カレーがじゃがいもの部屋の前を通るとじゃがいもはそこに入って行き,ニンジンの部屋の前を通るとニンジンはそこに入って行きます.玉ねぎも,お肉もそれぞれの部屋に入って行って,それですっかりなくなってしまうというわけでした.
 『さあ』と本格的に食べようとしたときです.クリちゃんはカレーの中にいつもと違うものを見つけました.それは濃い緑色をしていて,あちこちにいくつか散らばっていました.これまでのカレーは黄色をベースにして,半分透き通った玉ねぎ,少し黒っぽい肉,スプーンで割ると乳白色の顔を見せるじゃがいも,そこに唯一カラフルな味を加えているのが赤いニンジンという顔ぶれで,クリちゃんは,これはこれで嫌いではなかったのですが,ちょっと幼稚っぽい気がしていたのでした.そこへ今日は何か知らないが緑が仲間入りしています.それは一気にカレー全体の色彩を引き立てて,一種の調和を生み出しているように見えました.
 「お母さん,これ,何?」
 「ああ,それ? それねぇ,それはピーマンよ.」
 「ピーマン?」
 それはクリちゃんが初めて聞く名前でした.
 「今朝,お隣のおばあさんに頂いたの.裏の畑で取れたんですって.」
 「ふ~ん.」
 クリちゃんはカレーを一口食べました.よく噛むと,口の中でじゃがいものホコホコにカレーがピリッと絡み,そこを玉ねぎの甘味がとろっと包んでいます.クリちゃんは思わずにっこり,そしてシアワセ気分で噛んでいましたが,喉の方がごろごろ鳴ってきたので,仕方なく,ごくりと呑み込みました.カレーは食道の中を降りて行きます.そして,お腹に入ると,ふっと感触が消えました.『入ったな』と思いながらも,クリちゃんの目は,もう,皿の上を走って,これから食べるところを探しています.次にクリちゃんがスプーンを入れたところには,ニンジンと一緒に小さなピーマンの一片がありました.クリちゃんには保守的なところがあります.好きになるとそればっかりなのですが,新しいものにはそれほど積極的ではありません.ピーマンの緑色は,黄色いカレーの中の人参の赤を,実によく引き立てているのですが,味の方はどうなのか見当がつきません.それで用心深く味を見ましたが,どうもよく分かりません.人参の味が強いのとピーマンの切れが小さすぎたのです.それでひとまずそれを呑み込んで,もう少し大きいのを食べてみようとスプーンの先でピーマンをほじくっていましたが,さっき呑み込んだのがお腹の中に入ると『ああっ』と小さく呟いて,クリちゃんはスプーンと止めました.
 『じゃがいもはじゃがいもの部屋に入っていく.ニンジンはニンジンの部屋に.玉ねぎも,お肉もそれぞれの部屋に入っていくけど,ピーマンはどうなるんだろう.ピーマンの部屋は,ピーマンの部屋は‥‥‥ない.ないって言ったって,それは困る‥‥.じゃがいもがなくなって,ニンジンがなくなって,玉ねぎも肉もなくなったら,ピーマンは,ピーマンは行くところがないから残ってしまう‥‥.』
 クリちゃんの頭の中はぐるぐる回り始めました.ジーーーッという虫の鳴くようなような音が聞こえ,辺りは白くなって何だかクラゲのように空間を漂っている気分です.
 『そうか,すると,そこがピーマンの部屋になるんだな.何んだ,そうか.そうだ,そうだ,きっとそうだ.』
 クリちゃんは,ちょっと安心して,スプーンの前にあったピーマンの大きな一片を掬って口に入れました.ちょっと噛んでみましたが,味はどうもよく分かりません.まあ,いいや,と思ってゴクリと呑み込んでしまいました.そのとき,また,クリちゃんのスプーンが止まりました.
 『ピーマンを食べたらピーマンの部屋ができるということは,椎茸を食べたら椎茸の部屋ができるということで,ナスビを食べたらナスビの部屋ができるということか.』 クリちゃんは,実は,これまで自分の考えはカレーにしか当てはめていませんでした.
 『新しいものを食べると新しい部屋が一つできるということは,新しいものを食べるたびに部屋が一つずつ増えていくことになる.そうなるとお腹の中は部屋でいっぱいになってくるぞ.けど,そんなに部屋を作れるのかなぁ.お腹の大きさは決まっているし‥‥‥,ということは一つ一つの部屋が小さくなれば‥‥いいんだ‥‥な.』
 何かすっきりしませんでしたが,スプーンが,さっき向こうに押しやった肉のところにきたので,少し時期が早いという気もしましたが,頭が混乱していることもあって,思わず口に入れてしまいました.じわ~っと口の中の隅々にまで味が広がって行きます.肉を噛んだ瞬間に肉の端にくっついている粒々の脂身が潰れて,ピリッとしたカレーの刺激をやわらげ,そこに玉ねぎの甘味がまろやかに絡んで絶妙の舌ざわり.思わずクリちゃんの頬っぺたがほころびます.一日の終わりの夕映えを見ているときのような満足感が心に広がって,危うくピーマンのことを忘れそうになりました.
 『しかし,待てよ,部屋が小さくなれば,そんなにたくさんは入らない.ということは,新しいものを食べると,それだけ,少しずつしか食べられなくなるわけか.これから色々なものを食べていくと,どんなにおいしくて,もっともっと食べたくても少ししか入らない.それでも,もっと色々食べたら‥‥,あああっ,お仕舞には何も入らなくなるじゃないか‥‥‥』
 「クリちゃん,クリちゃん!」
 お母さんの呼ぶ声でクリちゃんは我にかえりました.そして,お母さんにさっきの自分の考えを話しました.お母さんはにっこり微笑むと言いました.
 「クリちゃん,それはね,一番初めが違ってますよ.」
 「ええっ,あっ,そうか.ええっ,ああ,なぁ~んだ.よ~かった!」
 クリちゃんは,そう呟くと,さっきまでの険しい表情は何処へやらで,嬉しそうに,目をきらきらさせてカレーを口に入れました.

    98.12.2

★コメント
 これは、パソコンでワープロソフトが使えるようになって、文書をプリンターで印刷することが普及し始めた頃に書いた話です。ワープロソフトも実用的なものになり、自分で書いた文章をプリンターで「活字」にできるようになったので単純に喜んでいました。まさに書いて楽しんでいたのです。
 
 最近になって読み返してみました。20年ぶりです。やはり物事は楽しんでやるのが一番だなと思いました。その気分が文面に残っています。今ならいくらでも直せますが、このときの気分が新鮮なので、あえて手を加えないことにしました。

2019年3月31日

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