<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

「まつろわぬ青春の日の行方(9)」 <無肥料栽培と出会う>

2024-04-23 15:51:03 | 「学生時代」
 畑を始める前から、私は既にミミズに興味を持っていたようです。「ミミズの話」という本を買い、読んだ感想がノートに記されています。畑を借りる少し前のことでした。それから新聞で、ミミズを養殖しているという記事を見て、堺市からわざわざ神戸まで見学に行っています。そこで数匹のミミズを分けてもらい自分の部屋で飼育を始めました。これが畑を始める1カ月ほど前のことであったことはノートを見て分かりました。
 この時期に「有機農法」という本も読んでいます。それで、畑を始めたときは有機農法でやるつもりでした。この本の発売所が農文協(農山漁村文化協会)となっていて、それでこの出版社が出している「現代農業」という雑誌を知り、図書館でこの雑誌を読んでいるときに一つの記事に目が留まりました。その記事の著者が岸和田に住んでいるということなので訪ねてみました。そこで初めて「無肥料栽培」という言葉を聞いたのです。これが1976年5月16日のことで、畑を始めてから間もないときでした。
 「無肥料」、そんなことは不可能だと思いました。肥料なしで野菜の育つはずがないというのが当時の私の心境です。それで最初は有機農法を基本にして堆肥を作り、鶏糞なども使いました。やはり、子供の頃の「裏の畑」が私にとっての畑で、これが私にとっての原風景だったのでしょう。

 「有機」とは「無機」に対する言葉でしょう。農業は元々自分たちの食べるものを作ることから始まったわけで、収穫量を増やすために「肥し」を施すようになり、近代になって植物生育の研究から「肥し」の働きを、化学物質を用いて行わせることができるようになったということです。それで、化学肥料を使う方法をそれまでの農法に対して近代農法と呼んでいましたが、次第にその問題点も指摘されるようになりました。そこで無機物質である化学肥料を使わない形で農業を行う人たちが現れ、有機農業と称したのでしょう。これには以前からの農法に戻る場合もありますが、それとは違った農法を模索している場合もあります。どちらも産業として社会に食料を供給するという立場なので、ある程度規模が大きくなります。
 私の場合は「自分の食べるものを作りたい」というだけだったので「食料生産」というような大それた考えはありませんでしたが、農業関係のものを見ていると「産業」として成立するかどうかが「農法」というものの前提条件になっているようでした。

 その頃の私は「科学的なもの」の方が優れているという印象を持っていました。だけど同時に、郷愁や知恵を感じさせる「昔のもの」にも心を惹かれるところがあり、それらの狭間で揺れながら「本」を参考にしていろいろ試して行ったのです。
 有機農法ということで堆肥を作ってみると、材料を切り返して混ぜるとき、もうもうと立つ湯気を見て感動したものです。これが発酵か、効きそうだなと思いました。だけど畑に施すとすぐになくなってしまいます。十分な量の堆肥を作るには膨大な量の草が必要なことを知り、畑に生える草だけでは量的に無理だなと分かりました。そうなると化学肥料か、しかし…。
 「無肥料栽培」という言葉を聞いて以来、無理だとは思いつつもこれがずっと気にかかっていました。『無肥料でできればそれに越したことは無いのだが…。』岸和田の畑は何度も見せてもらいましたが、作物が小さいだけで作り方は普通の畑とあまり変わらないように思いました。結局、私は化学肥料を使いたくないという気持ちだけで「無肥料」になって行ったように思います。農芸化学科の学生であったにもかかわらず、です。

 野原状態で放置してあった場所は草を取って種を播けば何でもたいていよく育ちますが、そのあとだんだん生育は悪くなって行きます。この意味をずっと考えていました。野原状態というのは土地を肥沃にするのだろうかということです。草を取ることで地面に光が当たるようになり、耕すことで土の中に空気が入り、養分の分解が進んで肥料分が増えるという説明もあります。が、実際のところはどうなのでしょうか。
 焼畑も数年続けて生産力が落ちてくると放置して自然状態で「地力」の回復を待つ、といいます。その後、森を焼いたときにできる灰が肥料分になるといいますが、それが何年間ももつとは思えません。やはり放置状態の間に土が肥料分を蓄えたと考える方が合っているような気がします。
 確かに無肥料状態だと野菜の生育は貧弱です。しかしそんな畑でも草はどんどん生えます。これはどういうことなのでしょう。野菜は草に比べて競争力が弱いから、と単純に考えてしまっていいのでしょうか。草が生えている場所は野原に近い状態で自然に近く、それなら生き物がたくさん棲み、地力を回復する過程になっているのではないかと考えたいのですが…。
 草をいろいろ見ているうちに土地によって野菜や草の様子がかなり違うことに気付きました。葉の色や茎の太さなどは場所によってかなり違います。草でも野菜でも、肥料分の多いところに育つものは緑色が濃く、だんだん私にはそれが「毒々しく」感じられるようになってきました。一般的には「立派な」野菜と評価されるものが、です。施肥された畑で育つ野菜は繁茂して力強く見えるのですが、私にはそれがボディビルで作り上げた肉体のように見え、そこからは不自然極まりない異様さを感じてしまいます。が、無肥料だと、「それでも野菜か」と言いたくなるくらいちんちくりんのものまでできます。今の野菜は施肥栽培を前提としている品種だから自然状態で育つのは難しいのでしょう。

 今、畑は大根の白い花でいっぱいです。やがて種をつけて熟すと何処からかカワラヒワが群れでやってきます。そして莢をつついて破り、種を食べるのですが、そのとき種が飛び散ります。その種が発芽してまた大根が生えるので種まきはしていません。つまり自生しているのです。他にもゴボウ、ニラ、ラッキョウ、里芋、コンニャク、ネギやチャイブなどは自生しています。半野原状態の畑の中で草を取りながらそれらの芽を見つけると残しておくのです。所かまわず生えて来るので耕すことも止めてしまいました。野草ではノビルやタンポポをたくさん食べます。イチゴも強いですね。草むらでも平気で増えて行きます。ジャムにするので年中食べています。
 ミミズがたくさんいるのでモグラも多いです。去年は野ネズミに落花生を全部食べられてしまいました。これにはガッカリしましたが、これも自然なら仕方ありません。無為自然。いつの間にか無肥料栽培を通り越して、今は栽培自体の放棄に近付いています。これが自分の終着点かも知れません。
2024年4月23日

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まつろわぬ青春の日の行方(8) <畑を始める>

2021-09-30 15:27:45 | 「学生時代」
 子供の頃、家の裏は畑になっていて、祖母がそこで野菜を作っていました。子供の目には随分広く感じましたが、実際はせいぜい50坪くらいのものでしょう。小学生の間はよくそこで遊びました。そして遊びながら見ていた祖母の野菜つくりが私の「畑」のすべてでした。祖母の手伝いをしながら親しんだ野菜畑がいつか私の原風景となったのでしょう。

 初めて借りた畑は溜池のすぐ横にありました。草の生い茂る1反の休耕田は、そのときの私には「荒地」でした。そこの草を抜きながら少しずつ畑にしていくことを私は「開墾」だと思っていました。今からみると馬鹿な話ですが、その時は本当にそう思っていたのです。「開墾」するために鎌を買い、「畑」をするために備中鍬(4つ鍬)と平鍬を買いました。これで私の財政は殆どからっぽになったはずです。なけなしの金を出して買ったこの3つの農具は今も使っていて、高かったけれどもかなり質のいいものだったのではないかと思います。何しろ、その頃にはまだ「ホームセンター」というものはなかったのですから。
 最初は一人で草抜きを始めました。記憶はないのですが、「畑の日誌」を見るとそれがわかります。つくづく紙はすばらしい記録媒体だなあと思いました。と同時にこれほど忘れてしまうものなのかと驚いてもいます。日誌を見るとそのときの様子を思い出せるところと全く思い出せないところがあるのですが、もしかするとこれはその部分の脳細胞が壊れてしまったのかもしれません。そうなるともう二度と思い出すことはないわけで、これは想定外でした。
 これまで思い出せないのは脳内の記録されているところと回路がつながらないためだろうと考えていたのです。記録自体は脳の中にあるのだからそのうちにつながるさと楽観していましたが、記録場所の脳細胞が壊れてしまうことは考えていませんでした。こうなると日誌の価値は格段に上がります。そこに書かれていることは事実であり、かつて実際にあったことなのですが、その多くが今や思い出せなくなっていることに気が付いたというわけです。
 22歳以降の日記は今もあるのですが、それ以前の日記はありません。それはすべて自分で焼き捨ててしまったからです。いろいろな思いがあったとはいうものの、本当のところはそういうまねがしてみたかったということでしょう。つまらないことをしたなと思います。

 日誌には、5月の半ば頃から懐かしい名前が出て来ます。そのとき私は大学のクラブの農問研(農業問題研究会)に属していたのですが、そこのメンバーや同級生の名前があるのです。私が畑を始めたと知って草抜きを手伝いにきてくれたのだと思います。殆どは1回だけなので、そのせいかもしれませんが、まったく記憶がありません。『そんなことがあったのか、いや、確かにあったかもしれない』、その断片がチラッ、チラッと頭の中をかすめるだけで、ノートのありがたさが身に沁みます。
 最初に植えたのは「ピーマンの苗5本、里芋5個、それからジャガイモの皮一枚」です。ジャガイモの皮?おそらく調理中に取り除いたジャガイモの芽をうえてみたのでしょう。これが昭和51年6月12日の出来事です。ジャガイモの皮のその後についての記録はありません。

 次は大豆を播きました。それから4日後、畑に入って行くとハトが飛び立ちました。畝のところに着くと大豆の芽がすべて食べられ、白い軸だけになっています。キュウリなどの他の野菜も鳥や虫の害を受けました。全滅、全滅、全滅の繰り返しだったようですが、「8月16日までに、キュウリが16本とピーマンが10個取れた」と書いてあります。
 すぐ横の畑をやっている爺さんにハトのことを話すとその対策を教えてくれました。畝の上に10cmくらい離して白糸を2本張るというものです。理由を聞いてみると、「鳥は羽が糸に当たるのを嫌うから」ということでした。実際にやってみると効果はあるような、ないようなというところでした。それから40年この方法を続けてきましたが、今の畑で決定的瞬間を目撃してしまいました。大豆の畝に近付いて行ったハトは白糸の前で足を高く上げるとその足で白糸を踏んで押さえ、畝を横切って行ったのです。それ以来、大豆は本葉が出るまで育苗ポットで育て、それから移植するようにしています。ハトは「大豆もやし」の状態ではうまいので食べに来るけど、本葉が出るともううまくないので食べに来ないということを知りました。

 こうしてノートをみると、当時は何も知らなかったことがわかります。私の中の「農業」は祖母の畑であり、それを見ていただけで自分では知っているつもりでいたようです。それから45年が過ぎた今、やはり何も分からないというのが正直な感想です。だけど自分の畑で取れたものを食べて生きているのだから何も分からないということはないのでしょうが、「百姓は何年やっても一年生」という伯父の言葉が身に沁みます。
2021年9月30日

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まつろわぬ青春の日の行方(7) <畑を借りる>

2021-03-27 09:16:03 | 「学生時代」
 「1976年4月28日より畑との関係始まる」―――『畑の日誌』の冒頭にこんな言葉がありました。何でも書いておくものだと思いました。これから考えると私が2回生になった春ということになりますが、畑を借りることになった経緯(いきさつ)は病院のベッドの上から始まります。今から考えてみると、人生は偶然、偶然、偶然の継ぎはぎだらけです。しかもその一つひとつが必然と受け取れるほどの側面を持っているから、人によっては人生観にも大きな影響を及ぼします。

 その頃、私は腰痛があり、近所の医院に通っていました。といっても、お金のかかることでもあるので通ったのは数回です。牽引用のベッドに横になり、10分か、20分くらい腰を引き延ばします。その医院には牽引用のベッドが2つあり、その日は隣にも患者がいました。かなり年配の人だと思いましたが、横になっているのでよくはわかりません。私は誰とでもすぐに話をするところがあるのでそのときも隣の人と横になったまま話し始めました。「農学部の学生で、畑をしたいけど畑がない…」というようなことを話したのだと思います。そこまでは覚えているのですが、その人の名前も家も知らないのに、どうやって畑を借りることができたのかは記憶がありません。

 その頃の日記を捜してみると、ありました、まさにこれです。それによると、その人に会ったのが4月27日の晩で、そのとき私が畑を借りたいと思っていることを話すと「『骨を折ってやろう』と言ってくれた」とあります。翌日の晩に訪ねるともう話をつけてくれてあり休耕田を1反借りられることになりました。微かな記憶の中には、暗い中を自転車か、歩いてか、隣の集落まで行き、そこでその人の家を尋ねながら辿り着くと、玄関の上がり框に腰かけて話をしている様子が残っています。

 翌29日は雨でした。畑の場所を教えてもらうために昼間にその人の家に行くと畑仕事に出ているということでした。畑の場所を教えてもらいそこへ行くとサツマイモの苗を植えているところでした。私は雨の中で畑に入れるような服装ではなかったので畑の脇で苗の植え方を手帳にメモしたりしていました。1時間半ほど待って仕事が終わるとその人は貸してもらえる畑へ連れて行ってくれました。そこは弟さんの畑ということで、私の家からは歩いて10分くらいのところにありました。セイタカアワダチソウがびっしり生えていて、それを抜くことから私の<畑>は始まったのです。

 日記をぱらぱら見ていたら忘れていたことをたくさん思い出しました。もっと詳しく書いておくのだったと思います。当時は後で役立つことがあるとは思わなかったので書いてないことがたくさんあり、そのため意味の分からないところがかなりあります。
 考えてみれば工学部を止めて農学部に入り直したのだから、そのときから農業に関心があったことは間違いありません。そして入学して授業が始まると1回生のときは殆ど一般教養科目ばかりで、農業関係では「概論」があるだけです。それで私は「こんなことをしていていいのか」と思ってしまったのでした。
 次第に精神的に焦ってきて、年明けの頃から自分で畑を借りて野菜を作ってみようとしていたことが日記からわかりました。そのためにいろいろな人を訪ねています。「百姓のことを聞きたい」と母の里の親戚まで訪ねていました。これは日記を見てわかったのですが、今もその記憶はありません。日記によると、「お前は百姓のことを聞きにきたというけど、百姓は何年やっても一年生やで」と言われたと書いてありました。そんなことまでしていたのかと我ながら驚くばかりです。その後も畑を借りられないか、いろいろ人を訪ねて努力していたことが分かりました。が、すべてがだめでした。そして諦めかけていたときに「病院」での出会いがあったのです。それなのに、その間のことを何も覚えていないというのは不思議です。

 これから45年の歳月が流れ、未だに畑は思うようには行きません。しかし、野原のような雑然とした自分の畑が好きなのです。ここに来てようやく自分が整然としたものを苦手とすることに気が付いたというところでしょうか。しかし雑然としたものの行き着く先は収拾のつかない状態です。それが自分の人生の最後の形かもしれません。それはそれで一番自分らしいかなとも思います。
2021年3月27日

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「まつろわぬ青春の日の行方(6)」 <学生は鍛えるべし!>

2018-10-22 08:20:46 | 「学生時代」
 農芸化学科の4回生で、生化学の単位を落としていた学生が3人いました。私もその中の一人でした。必修科目なのでそれを落としていると卒業できません。あるとき3人は教授室に呼び出され、懇々と説教されました。そして、最終試験の通告を受けます。試験範囲は「コーンスタンプの生化学」1冊ということでした。この本は500ページ以上あります。不可能だと思いました。しかし、やるしかありません。試験日までには2か月くらいあったのではないかと思いますが、その日から死に物狂いになりました。その本は今も手元にあります。すべてのページにその痕跡が見られ、荒削りながら、そのときには「生化学」というものがどういう世界なのかはわかるようになりました。そして物事に対する取り組み方を教えられました。
 後から聞いた話ですが(おそらく伸明からだと思います)、試験期日の迫ったある日、出浦先生は生化学の教授のところに「単位をやってほしい」と頼みに行ったというのです。そうしたら教授は「自分は嫌われても、憎まれても、学生は鍛えなければならない、これが自分の使命だ…」というような意味のことを話されたそうで、この言葉はさすがに効きました。おそらく、必死で勉強している私の姿に鬼気迫るものがあったのでしょう。見るに見かねて、出浦先生は教授のところに行ってくれたのでしょうが、教授の話に出浦先生も納得されたのだろうと思います。

 どうしてこういうことになったのかというと、入学当初は私も勉強しました。学びたかったのです。高校を出てから4年の間、工学系の夜間大学に籍を置き、昼間はいろいろなアルバイトをしながら自分のこれからするべき仕事を探り続けていたのです。ようやく農業分野にその進むべき方向性を見い出し、再び受験勉強をして入学した農学部なのですから。
 しかし最初は一般教養が中心です。それはそれで良かったのですが、じれったくなった私は2回生になるころに畑を借りて農業のまね事を始めてしまいました。この辺りから私の興味は大学の授業よりも現場の方に向かい出しました。大学での講義は本を読めば十分であるような気がしたし、その方が自分の勉強の仕方にも合っていると思いました。それで畑に行くことが多くなり、授業にも出なくなりました。その結果、単位は取れず、4回生のときには卒業に必要な単位数の半分しか取れていないありさまでした。

 2回生のころから土壌肥料の研究室には出入りしていました。農業についての質問をするためですが、そのときに助教授の駒井先生から出浦先生を紹介されたのです。有機農業に関心を持ち始めていた私は、大学での授業に興味を失いかけていて大学を止めようかと考えていました。そのことを出浦先生に話すと「大学の4年なんかすぐに終わるよ」と言われました。『そうかもしれない。今のうちにいろんなものを見ておいた方がいいかな』と単純に考えて学生を続けることにしたのでした。
 そんな出来損ないの学生にもきちんと向き合ってくれる人たちが他にもたくさんいました。みんな厳しい時代を生き抜いた辛抱強い人たちで、感謝あるのみです。

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「まつろわぬ青春の日の行方(5)」 <迂闊なことは…>

2018-09-27 15:22:19 | 「学生時代」
 卒論の実験で窒素量を測定するためにケルダール法というものを使いました。これには試料を濃硫酸で加熱するという過程があります。試料を入れた硬質の丸底フラスコを斜めに倒して固定し、それをガスバーナーで加熱します。これまで分析して取り出した10種類ほどの分画が一列に並び、丸底フラスコの中で沸騰しています。私はずらりと並んだフラスコのこちら側でガスバーナーの火力の調節をしていました。フラスコの口は向こう側に向いています。10本の大砲が並んでいるみたいだなと思っていると、その中の一本が突然吹き出しました。そうならないように私は火力を調節していたのですが、一瞬の出来事でした。その試料は3分の1ほどが飛んでしまったので、残りの量を正確に測って、その値から全量を求め、参考資料にできないかと思ったのですが、出浦先生の意見で、その試料は捨てることになりました。
 この実験の前にケルダール法について書かれている資料を渡されました。これを読んでやりなさいということでした。その資料を読んでいるうちに、一か所、腑に落ちないところがありました。どう考えても間違っているとしか思えないのです。それで、出浦先生にその資料を見せて説明したのですが、先生は「ふ~ん」というだけでした。
 1ヶ月ほど経ったとき、先生に「これ」と言ってハガキを渡されました。それはケルダール法の資料の執筆者からのものでした。内容は「確かに誤りと考えられますが、長年この方法が分析に用いられてきているので方法自体には問題はないと思います」というものでした。
 私はもう、このことはすっかり忘れていたのですが、このときに驚いたのは、出浦先生の一連の行動でした。先生は私の説明を聞いて「誤り」を理解したはずです。しかし、そのときには「なるほど」とはいいませんでした。その後、おそらくもう一度自分で考えて、誤りの確信を得たので執筆者に手紙を書いたのです。そして、ハガキが来るまでそのことについて話されることはありませんでした。
 『どうしてそんなことができるのか』、自分ならそのときに思ったことを、その場で、思ったままぺらぺらしゃべっていまいます。私の周りの人も多くは私と同じだと思うのですが、そのとき、「自分の立場」というものを考えながら話す人たちがいることに気付き始めたのでした。
 子供から大人になって社会的な立場を持つようになり、その重要性が増すに従って次第に考えて話すようになるのでしょう。しかし、ここにはかなり性格的なものが拘っていると思います。「思ったままをぺらぺらしゃべる」というのは、やはり、「軽薄さ」を拭えません。私は今もここを抜け出ることができないのですが、それでも気にせず会話を楽しんでいます。

 あるとき、出浦先生から午後に来客があると知らされました。確か、電力会社(?)からだったと思うのですが、そのとき先生は、ある住民訴訟で、裁判所に参考資料を提供していました。それは自然環境に関するものだったのですが、その資料について質問があるということで電力会社から訪ねてきたのです。私が話を聞きたいと申し出ると先生は「いいよ」という返事でした。
 来客時、私はトイレに行っていたので少し遅れて演習室に行きました。ノックしてドアを開けると、折りたたみの長机を挟んで、ダークスーツにネクタイ姿の人が3人、向かい合わせに作業服姿の出浦先生という形で挨拶をしているところでした。先生はすぐに私を紹介してくれました。私は長机の隅に席を取って話の流れを見守りました。
 質問の内容は、先生の提出された資料の中に記された「木の本数」についてでした。大きな図面が綴じられた提出資料には、ある地域の山に生えている木の本数が区画別に記されていたのですが、図面に描かれている木を数えてみると「集計結果」として記されている数と合わないというのです。図面は、地図の上に記された木を表す印で溢れています。何ページにもわたるその膨大な数を数えてみたら3本ほど合わないというのでした。先生は「調べて後で返事させてもらいます」と答え、客は帰りました。
 客の帰った直後に津田先生が演習室に飛び込んできました。「どうやった、どうやった」といつも通りです。出浦先生は「木の本数の集計」が違っていたことを話すと、津田先生は「どうしたんや」と聞きました。すると出浦先生は「数え間違えたんやろ」と答えます。「どうするんや」と津田先生。「そういうことを指摘することで資料の信頼性を落とすのが向こうの狙いやから…」 
 『なるほどな』と私は納得しました。迂闊なことは言えないわけです。

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