<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

まつろわぬ青春の日の行方(7) <畑を借りる>

2021-03-27 09:16:03 | 「学生時代」
 「1976年4月28日より畑との関係始まる」―――『畑の日誌』の冒頭にこんな言葉がありました。何でも書いておくものだと思いました。これから考えると私が2回生になった春ということになりますが、畑を借りることになった経緯(いきさつ)は病院のベッドの上から始まります。今から考えてみると、人生は偶然、偶然、偶然の継ぎはぎだらけです。しかもその一つひとつが必然と受け取れるほどの側面を持っているから、人によっては人生観にも大きな影響を及ぼします。

 その頃、私は腰痛があり、近所の医院に通っていました。といっても、お金のかかることでもあるので通ったのは数回です。牽引用のベッドに横になり、10分か、20分くらい腰を引き延ばします。その医院には牽引用のベッドが2つあり、その日は隣にも患者がいました。かなり年配の人だと思いましたが、横になっているのでよくはわかりません。私は誰とでもすぐに話をするところがあるのでそのときも隣の人と横になったまま話し始めました。「農学部の学生で、畑をしたいけど畑がない…」というようなことを話したのだと思います。そこまでは覚えているのですが、その人の名前も家も知らないのに、どうやって畑を借りることができたのかは記憶がありません。

 その頃の日記を捜してみると、ありました、まさにこれです。それによると、その人に会ったのが4月27日の晩で、そのとき私が畑を借りたいと思っていることを話すと「『骨を折ってやろう』と言ってくれた」とあります。翌日の晩に訪ねるともう話をつけてくれてあり休耕田を1反借りられることになりました。微かな記憶の中には、暗い中を自転車か、歩いてか、隣の集落まで行き、そこでその人の家を尋ねながら辿り着くと、玄関の上がり框に腰かけて話をしている様子が残っています。

 翌29日は雨でした。畑の場所を教えてもらうために昼間にその人の家に行くと畑仕事に出ているということでした。畑の場所を教えてもらいそこへ行くとサツマイモの苗を植えているところでした。私は雨の中で畑に入れるような服装ではなかったので畑の脇で苗の植え方を手帳にメモしたりしていました。1時間半ほど待って仕事が終わるとその人は貸してもらえる畑へ連れて行ってくれました。そこは弟さんの畑ということで、私の家からは歩いて10分くらいのところにありました。セイタカアワダチソウがびっしり生えていて、それを抜くことから私の<畑>は始まったのです。

 日記をぱらぱら見ていたら忘れていたことをたくさん思い出しました。もっと詳しく書いておくのだったと思います。当時は後で役立つことがあるとは思わなかったので書いてないことがたくさんあり、そのため意味の分からないところがかなりあります。
 考えてみれば工学部を止めて農学部に入り直したのだから、そのときから農業に関心があったことは間違いありません。そして入学して授業が始まると1回生のときは殆ど一般教養科目ばかりで、農業関係では「概論」があるだけです。それで私は「こんなことをしていていいのか」と思ってしまったのでした。
 次第に精神的に焦ってきて、年明けの頃から自分で畑を借りて野菜を作ってみようとしていたことが日記からわかりました。そのためにいろいろな人を訪ねています。「百姓のことを聞きたい」と母の里の親戚まで訪ねていました。これは日記を見てわかったのですが、今もその記憶はありません。日記によると、「お前は百姓のことを聞きにきたというけど、百姓は何年やっても一年生やで」と言われたと書いてありました。そんなことまでしていたのかと我ながら驚くばかりです。その後も畑を借りられないか、いろいろ人を訪ねて努力していたことが分かりました。が、すべてがだめでした。そして諦めかけていたときに「病院」での出会いがあったのです。それなのに、その間のことを何も覚えていないというのは不思議です。

 これから45年の歳月が流れ、未だに畑は思うようには行きません。しかし、野原のような雑然とした自分の畑が好きなのです。ここに来てようやく自分が整然としたものを苦手とすることに気が付いたというところでしょうか。しかし雑然としたものの行き着く先は収拾のつかない状態です。それが自分の人生の最後の形かもしれません。それはそれで一番自分らしいかなとも思います。
2021年3月27日

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