<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

空想か、妄想か

2022-02-28 12:18:28 | 「青春期」
 東京での最初のアルバイトは大手印刷会社の製本作業でした。居候をさせてもらっているAさんに連れられて行ったのですが、印鑑がいるからと自分の印鑑まで貸してくれました。東京はまだ右も左も分かりません。日給800円くらいだったと思います。工場の門を入ったところにはアルバイトの人の列ができていました。私たちもそこに並びました。言われたようにすればいいということで別に心配はしていなかったのですが、Aさんとは別のところに振り分けられると少々不安になりました。
 私の仕事は実に簡単なものでした。人差し指一本でできるのです。これまでの人生の中で一番易しい仕事と言ってもいいでしょう。製本をする2つの機械の間に立ちます。すると右側の機械から本が一冊ベルトに乗って流れてきます。それはそのまま左側の機械に入っていって次の行程を受けることになっているのですが、その境目で一旦停止するのです。本来ならスムーズに流れるところが、流れない。そのときは百科事典でしたが、おそらく本が重いために次の機械への受け渡しがうまく行かないのではないかと思います。そのまま放置すると、次に流れてきた本がぶつかって2冊一緒に流れ出すのです。そして次の機械の中で2冊はくっついたままぐしゃぐしゃになります。そこで私の出番となり、境目のところで一時停止した百科事典を人差し指で5cmほど左へ押しやる、これが私の仕事でした。
 最初はこんなことでお金がもらえるのかと拍子抜けしたような気持でしたが、数秒毎に流れて来る本を指で押しているうちに頭の中は他のことを考え始めるのです。これはラクだと思っていたのは初めのうちだけで、次第に『こんなことをしていていいのか』という気持ちになり、いつか「心ここにあらず」の状態になります。そしていつの間にか妄想の世界へ…、するとドカンと音がして、気が付くと左の機械で本が2冊ぐしゃぐしゃになっているのです。従業員が飛んできて機械を止め、調整してから再開となるのですが、しばらくするとまた同じことをやってしまうのでした。そのときに叱られるということはありませんでした。不思議でした。オシャカになった本の値段を見ると定価は6000円くらいだったと思います。日給800円でどれだけ損害を出してしまったことか。午後からは別の作業に替えられました。
 帰りにAさんはケーキ屋でショートケーキを2つ買い、自分のバイト料で私の分も払ってくれました。初めてのモンブラン。うまい。これが東京の暮らしかと感激しました。

 パン屋でアルバイトをしていたときのことです。そこはサンドイッチなどたくさんの種類のパンを作っていました。従業員も10人くらいはいたと思います。昼にはたくさんの人がパンを買いに来ました。従業員も昼食はそこのパンを好きなだけ食べてもいいことになっていました。アルバイトニュースで「昼食付」とあるのを見て、私はそれを目当てに行ったのです。
 その頃、私はクラシックを聴き始めたばかりで、オーディオに凝っている友人にダビングしてもらったカセットテープが2つあるだけでした。ラジカセなどはまだなく、カセットテープレコーダーがあるだけで、テープに入っているのはチャイコフスキーの交響曲がいくつか(4,5,6)とラフマニノフのピアノ協奏曲第2番だけです。このラフマニノフを聴いた時、頭のどこかがおかしくなってしまったのだろうと思います。来る日も来る日もこれを聴き続け、ついに頭の中から消すことができなくなってしまったのです。
 パン屋は山手線の駅の構内におしゃれな販売店を持っていました。パン屋から駅までは100mくらいだったと思います。販売店から連絡があると台車にパンを入れた木箱を5段くらい積んで運びます。台車をゴロゴロ押して店に行き、そこに木箱を降ろして、代わりに空の木箱を積んで帰ってくるのです。私がその配達の番になると異変が起こりました。配達を終えてパン屋に戻り木箱を降ろすと、空箱は一番上の箱だけで、下の箱はパンが入ったままになっているのです。そういうことが何度もありました。みんな気味悪く思ったみたいです。
 店を出て台車を押して歩き始めるとすぐに頭の中でラフマニノフのピアノの音が鳴りだします。そうなるともう「心ここにあらず」状態で、目は開いていても見えず、駅前の赤信号にも気付かずに横断歩道を渡りだし、けたたましいクラクションを鳴らされたこともありました。駅の販売店につくと一番上の木箱だけを降ろし、他は忘れて空箱を一つ乗せるとまた台車を押して帰ってくるという始末で、店に戻ってびっくりです。

 これはやはり妄想でしょうか。無意識のうちに頭の中で想念が勝手に動き始めるということは私には日常的なことなのです。物心ついたときからそうではなかったかと思います。気功をしているときも、動功では同じ動作を3回繰り返すのですが、2回目か3回目分からなくことは頻繁にあります。気功では集中力が大切だと言われていますが、集中しているはずなのに気が付くとよそ事を考えているのです。これは授業などでも普通にあることで、集中して聞いていたはずなのに気が付くと居眠りをしているのと似ています。いつそちらの世界に入ったか分からないので打つ手がありません。
 空想の場合、スタートは意識的ではないかと思います。想像もそうでしょう。今から空想する、想像するということで始めると思いますが、私の場合、気が付いたら妄想になっているという感じです。夢と似ていて向こうからやって来るわけで、空想や想像のように能動的なところはありません。何とか止めようとしてもできないので若いときから随分苦しみましたが「考えている」ときにはこれは起こらないようで助かりました。
 だけど自分の気質として、多くの生き物に親しみを覚えることや役に立たないガラクタに愛着を感じるところのあることなどはこれと関係があるような気がします。今ではこれが自分だと思えるようになりました。ようやくです。
2022年2月28日


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