<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

「やまなし」ライブ

2024-06-21 15:09:59 | 「遊去の部屋」
<2005年8月18日に投稿>
 先日、ライブで「やまなし」を弾きました。これまでに20回くらいはやっています。ギターを弾きながら自分で朗読していますが、もともとは朗読とギターの二人用に作りました。二人で、といっても、相手のことが頭に入ってないとうまく合わせることはできません。それで、一人、ぶつぶつ朗読をしながらギターを弾いているうちに何となく一人でもできそうな気がしてきたのです。
 初回は朗読を頼んで二人でやったのですが、それから一年くらい練習したら何とか一人でできるようになりました。今から思えば「かろうじて」というところではありましたが、そのときは「不可能だ」と思っていたことができたのですから、「かろうじて」でも充分、達成感はあったのです。
 それ以来、一人で朗読しながらギターを弾くという形が定着したのですが、これをきっかけに私の物事への取り組み方が大きく変わったように思います。一つは本の読み方です。若いときは誰でもそうだろうと思うのですが、とにかくたくさん読みたい、読んだ本の数が増えることに一種の喜びを感じるところがあって、本棚の本の数が増えた分だけ自分も大きくなったような気がしたものです。青年期はそれでいいと思っています。裏を返せば、これはそれだけ自分の中身に信をおけるものがないからで、そこを外部の、頼れそうに見えるものでカバーしようというわけでしょう。この傾向は、その「頼れそうに見えるもの」も、実はたいして当てにならない、かなりいい加減なところがあるものだと感じるようになるまで続くのですが、たいていはその前に実生活の方が忙しくなり、そちらに流されてしまうので、何かに行き詰まったり、世の中の枠からはみ出たりしない限り、部分的には感じても全般としてそういうことに気付く機会は少ないだろうと思います。「権威」が幅を利かせられる所以です。
 以前は、同じものを読み返すよりは新しいものを読みたい、つまり、同じものを繰り返し読むことはそれだけ新しいものが読めなくなるわけですから、それは時間の浪費、あるいは新しい世界を知るチャンスの放棄だという気がして仕方がなかったのです。もちろん、一度読んだくらいでその内容をマスターできるわけがないことは分かっていましたが、一回読んで、その内容がどのくらい身につくかの「程度」に関しては全くの誤算であったというしかありません。それに、『一度おもしろいと思った本は何度読んでもおもしろい』なんて夢にも思わなかったことでした。これは映画でもTV番組などでも同じです。『おもしろいものは何度見てもおもしろい』、こんなシンプルな事柄に気付かずに何十年も生きてきたというのは実に浅薄な生き方をしてしまった証でしょう。

 朗読の練習をするときには何百回という単位で読みますが、これは作家本人が読む回数より多いでしょう。だいたい全部覚えてしまいます。楽器を弾きながら読むのはさらに難しいので、全部覚えてからでも百回くらいの通し練習ではどうにもなりません。そうしているうちに、一つ一つの言葉の意味するものがだんだんとその姿を現してきてイメージがどんどん豊かになってくることに気付きました。これは自分で物語を知らず知らずのうちに演出しているためではないかと考えています。たとえば、映画監督や舞台の演出家などは原作を読みながらそれをどのように形に表したらいいかを常に想い描いているわけですが、それに似た作業が何度も何度も読んでいるうちに頭の中で繰り返されているためではないでしょうか。何度読んでもいつも新鮮に感じるのはそのあたりに理由がありそうです。
 言葉は、いったん頭に入っても大抵は言葉のままで、つまり観念として捉えただけで通り過ぎてしまい、その意味するものが、頭の中で具体的にイメージされるということはあまりないと思います。たとえば、「赤い靴」という言葉を聞いたとき、あるいは読んだとき、赤い色と靴を具体的に思い浮かべる人は殆どいないでしょう。そんなことはないと思われるかも知れませんが、「赤い色」といっても実は無数にあるわけで、その中のどの赤をイメージしたかを考えてみればそのあたりはかなり曖昧だということが分かるでしょう。「靴」の場合も同じです。靴も無数にありますが、どんな形の靴をイメージしたか、大きさは、踵は、つま先は、紐は…と考えるとだんだん怪しくなってきます。その点、これが絵に画かれたものならば一目でその両方を受け取ることが可能です。
 言葉も、絵のようではありませんが、「赤い靴」、「赤い靴」と同じ言葉を繰り返し、繰り返し唱えているとだんだんと具体的なイメージ(色や形まで見えなくても、それを見たときに感じる感覚)が伴ってくるものです。このとき頭に浮かんだイメージは、絵とは違って、一人一人違うわけで、それはその人のそれまでの経歴、あるいは経験(つまり、バックグラウンド)を反映したものになっているのです。
 これは脳の働きによるものだと考えています。言語を捉えるとき、それを観念として捉える場所とイメージとして再現する場所がそれぞれ違っていて、両者は互いに連携してはいるのですが、ただ、連動するには、ある程度の「時間」が必要なのではないかと思います。言語は左脳、イメージは右脳という見方をしても構いませんが、両者は同時に働くとは限らないということです。
 言葉の情報は、読むときでも、聞くときでも次から次へと入ってきます。脳は、それを次々と(解析)処理しなければなりません。最初は左脳で観念として捉え、どういうものか理解します。それから次に右脳でその観念に伴うイメージの引き出し作業が行われることになりますが、ここで一つ問題が出てきます。「観念」と「イメージ」ではデータ量に桁違いの差があるのです。パソコンで文字を表示するのと写真を表示するのを比べればかかる時間がまるで違うのと似ています。
 言葉が次々とやってくるときにはそれを次々と観念に置き換えていく必要があるので、その一つ一つをいちいちイメージ化する余裕はありません。それでも、個人的に強い結びつきをもった観念はイメージ化されるので、結局、一人一人が受ける印象はかなり個人差のあるものになってしまいます。同じ言葉を聞いても、ドキンとする人もいれば何とも感じない人もいるわけですから。
 次々と入ってくる言葉から、何が起こっているのかという状況を理解したり、次に自分のするべきことを考えたりというような、日常生活する上で必要な事柄は「観念」として捉えれば充分にこなせます。ところが、「味わう」となるとそうは行きません。ここで言葉に伴うイメージが大きな役割を果たすことになるのですが、このイメージ化の能力は当然のことながらかなりの個人差がありますから、同じ言葉を聞いても、「味わえる」かどうかは人によるということになってしまいます。
 個人差はあるにせよ、言葉を聞いたとき、それをどの程度イメージできるかは、入ってくる情報量にもよるわけで、これを減らせば、つまり、「ゆっくり」話せば、あるいは読めば、イメージ化はよりしっかりと行われるわけですから、聞き手がその余裕を持てるように相手の様子を見ながらゆっくり話せば、その「味わい」は相当違ったものになる可能性があるはずです。
 もう一つは、言葉を発する前に、次に来るものを予想できるような手を打つことです。次に来る状況が明るいものなのか、暗いものなのか、あるいは緊迫した場面なのか、リラックスしたものなのか、そのあたりを音で下準備をしておくとさらにイメージしやすくなるのではないかと考えています。音ではありませんが、和歌の枕詞はその類ではないでしょうか。のびやかな枕詞を聞いているうちに、聞き手の心はしっかりと次の言葉を受け止める準備を整えるわけで、そこへメインの言葉が登場するわけですから、言葉と同時にイメージやそれにまつわる気分なども一気に心に湧き上がるという仕組みになっているのでしょう。中学生のとき「枕詞には意味はない」と習ったことを覚えていますが、そのときには随分無駄なことをするものだと思ったものでした。今では万葉人のその大胆さに感心しています。たった31文字のうち、5文字もこれに割(サ)くというのはただごとではありません。
 いずれにせよ、ここで描かれるイメージは個人的なものになりますから、それからどんな印象を受けるかは個人と強く結びついているわけで、演奏する側としては、ひとりひとりのイメージ化がより強く行われるように工夫を重ね、あとはそれらが一人一人の中でいい実を結ぶように祈るしかありません。

 この「やまなし」の練習も初めは本や楽譜を見ながらしていましたが、弾こうと思ったときにいちいち楽譜を開けたり、本を用意したりするのは面倒です。それに本を見ながらの練習となるとどうしても練習時間が限定されてしまいます。だいたい私は元来面倒くさがり屋です。結局、細部まで全て覚えてしまいました。それ以降、朗読の練習は車を運転しているときや散歩をしているとき、それに風呂に入っているときなどの楽器を持てない時間が使えるようになったので随分余裕ができました。
 ライブでも初めは楽譜(本)を立てていたのですが、3年前くらいから楽譜を立てるのも止めました。楽譜を立てていると全部覚えていてもページの終わりにくればやはりページをめくってしまいます。楽器を弾きながらということもあり、それが次第にうっとうしくなってきました。
 初めて何も見ずにライブをやったときは、とにかく言葉を忘れないか、それが何より心配でした。ところが、いざ始まってみると、聞き手とまともに顔を向かい合わせることになってしまうのでどうもやりにくいことに気付きました。楽譜を立てているときには楽譜の方を見ているので聞き手とまともに顔が合うことはありません。演奏中は頭の中に自分の描くイメージを保ちたいと思うのですが、目の前には現実そのものが控えているのです。目が合ったりするとどうもバツが悪いので視線を合わさないようにするのですが、一人一人の様子は実によく見えます。じっとこちらを見ている人もいれば、腕を組んで考え込むような姿勢をしている人もいます。聞いているのか居眠りしているのかもわかりません。だいたい大勢の前で何かをするとき、相手がおもしろいと思っているか、つまらないと思っているかということをつかむのはそう簡単ではありません。それで演奏中でもそのあたりを探りながら弾いているのですが、それがなかなか掴めず、『こんなことならしない方が良かったかな』という気分になることの方が多いです。私自身は「やまなし」はすばらしい話だと確信しているのですが、それでも『みんながそう思うわけではないだろう』という気がしてくるのです。しかし、いったん始めた以上、途中で止めるわけには行きません。それで、あの手この手で自分自身を励ましながら弾き続けるのですが、残念ながらこれといういい手はないようです。目を閉じて弾くということもしてみましたが、普段そんなことはしないので却って不安な気分になるだけでした。それで、『楽譜を立てるだけでも立てた方が良かったかな、今度はそうしよう』というようなことを考えたりしているうちに終わりになってしまうことが多く、結局、雑念の中をさまよっているだけというのが現状です。
 あるとき、演奏中にふと窓の方を見たことがありました。そこは4階で、広い窓は海に向かって開いています。そこからは、いわゆるリアス式海岸で、静かな海に突き出た半島が入り組んでいくつもの小さな入り江を作っている様子が見えました。そして、その上空ではトンビが3羽、ゆったりと上昇気流に乗って、大きく弧を描きながら旋回しています。時おり、ピーーヒョローーーという間の抜けたような鳴き声も聞こえてきます。白い雲を背に大空を滑るように飛ぶトンビたちの長閑(ノドカ)な様子を見ていたら、一瞬、自分が演奏中であることを忘れてしまいました。演奏は電池の切れかけたオモチャのように止まりかけ、その音にハッと我に返ったのですが、一瞬、立ちくらみをしたときのようにわけがわからなくなりました。
 ほんの1,2秒のことだったと思います。でも、それは自分が如何に精神的に力んでいるかに気付いた瞬間だったのです。「やまなし」はいい作品だから是非それを知ってほしいと思ったり、ここをファンタジックな感じにするにはどう弾けばいいか…などなど。そんなことに気を取られ、自分が作品全体に抱いている気分はどこかに行ってしまっているのです。
 トンビたちは、眼下に広がる海原を眺めながら、耳元を切る風の音を聞いて、『ああ、いい気分だ』とでもいうようにピーーヒョローーーと鳴いているのでしょうか。そして、その気分が私の心に同調して私までいい気分になったのかも知れません。これからは私も自分が作品に抱く心地良さだけを感じつつ弾きつづけてみようかなと思います。そうすれば、中にはそれに同調する人もいるでしょう。おそらく、このあたりに生身の人間の演奏する良さがあるのではないでしょうか。
 その日は、そのあと、特にあわてることもなく演奏を終えることができました。トンビのことを考えながら、カニの親子の話を朗読して、指は指で勝手に弦を弾いている。頭の中はどうなっているのだろうという気がしてきて、そこに聞き手のいろいろな表情をした顔が目に飛び込んでくると、そのちぐはぐさにわけのわからないおかしさがこみ上げてきます。しかし、そういうことは演奏の表面には表れず、流れるままに時間が過ぎ、そして、最後の音を弾いたときには何となくいい心持ちで、今日は弾いて良かったなと思いました。
 これ以降、演奏中に言葉を忘れたり、音を忘れたりすることが増えました。どうしてなのか分かりません。緊張して忘れるというのはよくありますが、私の場合は気が緩み過ぎているみたいです。音としてはその方が聞いていて心地良いはずなのですが、途中で忘れてしまっては仕方がありません。とはいえ、ほんの一瞬のことですから、聞き手も全体の気分としては充分保てると思います。それなら、忘れないようにと神経をビリビリさせるより、少しくらい詰っても、とろっと眠いようなアルファ状態の穏やかな脳で弾き続けた方がいいかなと思います。もちろん、詰らない方がいいに決まっているのですが、それにしてもツマラナイ方がいいとはおかしな話になりました。
2005年8月18日


★コメント
 これは高校で非常勤講師をしていたときの話で、今もよく覚えています。たいていは化学を教えていて、最後の授業の日にはテストを返した後で「やまなし」を弾いていました。「クラムボンは笑ったよ」、たぶん生徒たちは喜んでくれたと思いますが、こうして終われたのは良かったです。
 今回、この記事を取り上げようと思ったのは、陰になった暗い棚の隅が気になって覗いてみると奥の方にMD用のケースを見つけたのです。中には10枚くらい入っていました。取り出してみると、それは教室でのライブ録音でした。2001年3月9日となっています。ついさっき聴いてみました。23年前の録音で、生徒の声も入っています。この時の演奏は初期の形でした。かなり早く朗読もよくありません。まるでへたです。25分もかかるのに、それでも生徒たちは静かに最後まで聴いてくれました。こんなところから始まったのかと思いました。この翌日にも家で録音していて、こちらはかなりマシでした。生徒の前で弾くのはやはり焦るようです。

 実は一昨日「やまなし」を弾きました。86歳になる長姉は去年から体調を悪くしていたのですが、少し良くなってきたということなので兄と次姉と一緒に様子を見に行きました。兄が車を運転し3時間半かかりました。長姉の家の居間で昼ご飯を食べ、いろいろ話をした後にギターを弾いたのですが、「やまなし」を弾こうかなと考えたのは4,5日前のことなので練習する時間はあまりありませんでした。音を思い出すのが精一杯というところです。MDを見つけたことがきっかけで、それまでは違うものを弾こうと考えていたのですが、こうして会えるのは最後になるかも知れない機会ならこの「やまなし」をみんなに聴いてもらおうという気になりました。まあ、うまく行かなくてもこれがいいだろうと思いました。いくつか間違いもありましたが、義兄が喜んでくれたので嬉しかったです。弾きながら、自分にもできることがあって良かったなと思いました。
2024年6月21日

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キャベツはいったいどこがうまいの?

2024-05-22 14:05:11 | 「遊来遊去の雑記帳」
キャベツはいったいどこがうまいの?
<2005年4月24日に投稿>
 冬の間に成長したキャベツが、ちょうど今、食べごろになっています。しっかりと結球して中央には立派な球ができているのですが、そのまわりの葉は鳥に食べられて半分くらいしか残っていません。キャベツは双葉から次第に葉の数を増やし、それらは日光をたくさん受け止められるように大きく葉を広げていくのですが、これらの葉はいかにも丈夫そうな濃い緑色をして、とてもおいしそうには見えません。それらの葉は次第に込み合ってきて、バラの花びらのように中央部を取り囲んできます。それからあとは中央部に内側からどんどん葉がたまり、それが結局キャベツの球になるわけで、人が食べるのはその中央の球だけです。
 畑のキャベツをいつ収穫しようかとみているとおもしろいことに気が付きました。球の部分は全く食べられていないのに外側の硬くてまずそうな葉はどんどん鳥に食べられていくのです。どうせ食べるのなら球の部分の方がおいしいだろうと思うのですが、そちらには見向きもしません。そこで私もそれがちょっと気になりだしました。
 大きく広がった外側の葉では盛んに光合成が行われています。そしてそこで作られた栄養分を蓄える形で内側にキャベツの球を作るのですから、そこを食べれば栄養分をごっそり頂けることになると思っていたのですが、もしかするとそうではないかも知れないという気がしてきました。
 その考察は別にして、外葉をちょっと食べてみましたが、食べられないということはないようです。太い葉脈の部分も少し湯がけば問題はありませんでした。でも、やはり長年の習慣からか、外側の葉を食べるのには抵抗があります。そういうことで、この場合、外側は鳥、内側は私ということで分け合うのがいいだろうという結論に達しました。
 「勝手なことを!」とキャベツには言われそうですが、私の場合、いつもキャベツの内側の球だけを取って、あとはそのまま残しておくのです。そうすると、キャベツはその切り株のところからいくつも新しい芽を伸ばし、時期が来るとそれらの先に一斉に花を咲かせます。そして種を結ぶところまでは引き抜いたりしませんから、そのあたりで妥協してもらうことにしています。
 キャベツは、今、その花芽を伸ばし始めています。ところが、その花芽が小さなブロッコリーのように見えてきて食べられそうなのでちょっと困っています。試しにちょっと湯がいてみたら十分食材になりそうです。それもそのはず、キャベツは菜の花の仲間です。でもキャベツにも命をまっとうさせてやりたいので全部取るようなことはしませんが、いろんな食べ方ができそうです。
2005年4月24日
 
★コメント
 このときはキャベツの苗を買っていました。ノートには前年の9月11日に4本定植と書いてあります。このとき借りていた畑の区画は10坪くらいだったのでたくさん植えるわけには行かなかったのです。これらは冬に外葉を残して球を切り取っていました。そのあと放置しておくと切り株から芽を出して小さなキャベツの球ができます。そして春になるとそれが割れて花芽を出し、薄黄色(クリーム色)の花を咲かせます。その後には種ができるのですが、その種が落ちてそれからキャベツが生えてきたのは見ていません。自生はできないのかなと思います。調べてみればいいだけのことなのですが…。
 今の畑は100坪あるので種から苗を作っています。去年は11月に定植したので春になってからぐんぐん育っています。子供の頃にはキャベツを食べる習慣はありませんでした。それでキャベツに馴染みはなかったのですが数年前にザワークラウトを知り、作るようになりました。これは保存できるのでキャベツもたくさん作っています。ただ、今の季節はアオムシがたくさんいて大変です。ナメクジもいます。植えるのが遅かったので結球するのは梅雨に入ってからです。それで葉を一枚一枚丁寧に洗うのですが、あまりいい気はしません。まあ、自然はこんなものです。これも球を取った後の株は残しておきます。

 この数年、野菜を単品で食べることが増えました。それは「味」とは何かが分からなくなって来たからでした。そのときの調理法に「蒸し炒め(正式名称は知りません)」を使っています。方法は簡単でフライパンに油を引いて刻んだ野菜を入れ、フタをし、火が通ったらフタを取り、かき混ぜて終わりです。かき混ぜる前にナンプラーを数滴入れることが多いのですが、塩だけの場合も、何も入れないこともあります。味をみることが狙いなので余計なことはしないのです。キャベツもこの方法で食べると実にうまいです。調理法の中ではシンプルの極みでしょう。古代人の道具でもできるし、しかも味がよく分かります。今朝は昨日畑で取った玉ねぎを食べました。こういう味だったのか、うまいと思いました。
2024年5月22日


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「まつろわぬ青春の日の行方(9)」 <無肥料栽培と出会う>

2024-04-23 15:51:03 | 「学生時代」
 畑を始める前から、私は既にミミズに興味を持っていたようです。「ミミズの話」という本を買い、読んだ感想がノートに記されています。畑を借りる少し前のことでした。それから新聞で、ミミズを養殖しているという記事を見て、堺市からわざわざ神戸まで見学に行っています。そこで数匹のミミズを分けてもらい自分の部屋で飼育を始めました。これが畑を始める1カ月ほど前のことであったことはノートを見て分かりました。
 この時期に「有機農法」という本も読んでいます。それで、畑を始めたときは有機農法でやるつもりでした。この本の発売所が農文協(農山漁村文化協会)となっていて、それでこの出版社が出している「現代農業」という雑誌を知り、図書館でこの雑誌を読んでいるときに一つの記事に目が留まりました。その記事の著者が岸和田に住んでいるということなので訪ねてみました。そこで初めて「無肥料栽培」という言葉を聞いたのです。これが1976年5月16日のことで、畑を始めてから間もないときでした。
 「無肥料」、そんなことは不可能だと思いました。肥料なしで野菜の育つはずがないというのが当時の私の心境です。それで最初は有機農法を基本にして堆肥を作り、鶏糞なども使いました。やはり、子供の頃の「裏の畑」が私にとっての畑で、これが私にとっての原風景だったのでしょう。

 「有機」とは「無機」に対する言葉でしょう。農業は元々自分たちの食べるものを作ることから始まったわけで、収穫量を増やすために「肥し」を施すようになり、近代になって植物生育の研究から「肥し」の働きを、化学物質を用いて行わせることができるようになったということです。それで、化学肥料を使う方法をそれまでの農法に対して近代農法と呼んでいましたが、次第にその問題点も指摘されるようになりました。そこで無機物質である化学肥料を使わない形で農業を行う人たちが現れ、有機農業と称したのでしょう。これには以前からの農法に戻る場合もありますが、それとは違った農法を模索している場合もあります。どちらも産業として社会に食料を供給するという立場なので、ある程度規模が大きくなります。
 私の場合は「自分の食べるものを作りたい」というだけだったので「食料生産」というような大それた考えはありませんでしたが、農業関係のものを見ていると「産業」として成立するかどうかが「農法」というものの前提条件になっているようでした。

 その頃の私は「科学的なもの」の方が優れているという印象を持っていました。だけど同時に、郷愁や知恵を感じさせる「昔のもの」にも心を惹かれるところがあり、それらの狭間で揺れながら「本」を参考にしていろいろ試して行ったのです。
 有機農法ということで堆肥を作ってみると、材料を切り返して混ぜるとき、もうもうと立つ湯気を見て感動したものです。これが発酵か、効きそうだなと思いました。だけど畑に施すとすぐになくなってしまいます。十分な量の堆肥を作るには膨大な量の草が必要なことを知り、畑に生える草だけでは量的に無理だなと分かりました。そうなると化学肥料か、しかし…。
 「無肥料栽培」という言葉を聞いて以来、無理だとは思いつつもこれがずっと気にかかっていました。『無肥料でできればそれに越したことは無いのだが…。』岸和田の畑は何度も見せてもらいましたが、作物が小さいだけで作り方は普通の畑とあまり変わらないように思いました。結局、私は化学肥料を使いたくないという気持ちだけで「無肥料」になって行ったように思います。農芸化学科の学生であったにもかかわらず、です。

 野原状態で放置してあった場所は草を取って種を播けば何でもたいていよく育ちますが、そのあとだんだん生育は悪くなって行きます。この意味をずっと考えていました。野原状態というのは土地を肥沃にするのだろうかということです。草を取ることで地面に光が当たるようになり、耕すことで土の中に空気が入り、養分の分解が進んで肥料分が増えるという説明もあります。が、実際のところはどうなのでしょうか。
 焼畑も数年続けて生産力が落ちてくると放置して自然状態で「地力」の回復を待つ、といいます。その後、森を焼いたときにできる灰が肥料分になるといいますが、それが何年間ももつとは思えません。やはり放置状態の間に土が肥料分を蓄えたと考える方が合っているような気がします。
 確かに無肥料状態だと野菜の生育は貧弱です。しかしそんな畑でも草はどんどん生えます。これはどういうことなのでしょう。野菜は草に比べて競争力が弱いから、と単純に考えてしまっていいのでしょうか。草が生えている場所は野原に近い状態で自然に近く、それなら生き物がたくさん棲み、地力を回復する過程になっているのではないかと考えたいのですが…。
 草をいろいろ見ているうちに土地によって野菜や草の様子がかなり違うことに気付きました。葉の色や茎の太さなどは場所によってかなり違います。草でも野菜でも、肥料分の多いところに育つものは緑色が濃く、だんだん私にはそれが「毒々しく」感じられるようになってきました。一般的には「立派な」野菜と評価されるものが、です。施肥された畑で育つ野菜は繁茂して力強く見えるのですが、私にはそれがボディビルで作り上げた肉体のように見え、そこからは不自然極まりない異様さを感じてしまいます。が、無肥料だと、「それでも野菜か」と言いたくなるくらいちんちくりんのものまでできます。今の野菜は施肥栽培を前提としている品種だから自然状態で育つのは難しいのでしょう。

 今、畑は大根の白い花でいっぱいです。やがて種をつけて熟すと何処からかカワラヒワが群れでやってきます。そして莢をつついて破り、種を食べるのですが、そのとき種が飛び散ります。その種が発芽してまた大根が生えるので種まきはしていません。つまり自生しているのです。他にもゴボウ、ニラ、ラッキョウ、里芋、コンニャク、ネギやチャイブなどは自生しています。半野原状態の畑の中で草を取りながらそれらの芽を見つけると残しておくのです。所かまわず生えて来るので耕すことも止めてしまいました。野草ではノビルやタンポポをたくさん食べます。イチゴも強いですね。草むらでも平気で増えて行きます。ジャムにするので年中食べています。
 ミミズがたくさんいるのでモグラも多いです。去年は野ネズミに落花生を全部食べられてしまいました。これにはガッカリしましたが、これも自然なら仕方ありません。無為自然。いつの間にか無肥料栽培を通り越して、今は栽培自体の放棄に近付いています。これが自分の終着点かも知れません。
2024年4月23日

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目撃、イタチは、やはり!

2024-03-20 14:20:11 | 「遊去の部屋」
<2005年5月3日に投稿>
 4月半ばのことでした。いつもの川岸を散歩していたときです。向こう岸の草むらを茶色いものがちょろちょろ動くのを見ました。向こう岸といってもすぐ近くです。川幅が20mくらいで、向こう側半分は草が茂っていて大雨の時以外はたくさんの生き物たちの棲家になっています。年に数回、濁流が川幅いっぱいに流れることもあるので、そのときには小鳥の巣などは全部流されてしまうのでしょう。それでも生き物たちはそんなことにはめげず、水が引くと、また、たくましく生活を再開しています。
 イタチは、どうなっているのかと思うほど細長い体をしています。そして敏捷に動き回るのですが、妙な癖があって、何秒かに一度ピタリと動きを止めるのです。その度に頭を高く上げてあたりの様子を窺い、すぐにまた行動を再開するという具合で、余計なことですが、ちょっと滑稽でさえあります。実際、川岸の草むらの中にいるときはこちらからは見えないのに、警戒のために頭を上げたときだけ見つかってしまうという、実に奇妙なことになっているのですが、本人は全く気付いていません。
 茶色の頭が草むらからちょろちょろ顔を出して、それがだんだん水際の方にやってきました。そして、水際のすぐ後ろの草の陰からちょっと顔を出すと隠れるように水面を覗き込んでいます。そして、次の瞬間、ひょいと水際の砂のところに飛び出るとそのまま川を泳ぎだしました。50cmくらい泳いだところでじゃぼんと水を撥ねて潜ると、上がってきたときには口に銀色の魚をくわえていました。あっという間の出来事です。そのまま泳いで川岸に戻り、そこでもう一度頭を上げて振り返るようにあたりを見るとすぐに草むらの中に姿を消しました。
 私は、TV番組ですが、前に四国の四万十川でイタチの毛皮を使った漁というのを見たことがあります。それは冬場のウグイ漁で、ウグイのイタチを恐れる習性を利用したものだということでした。本物のイタチの毛皮を棒の先につけて、ウグイの隠れている岩の下に突き込むと大きなウグイが、ゆっくりとですが、逃げ出して来るのです。私が疑問に思ったのは、あの大きな図体のウグイが、失礼ながら、イタチごときに恐れをなすものだろうかということでした。
 今回、イタチが捕らえた魚もせいぜい5,6cmくらいの大きさでした。しかし、イタチが魚を取るということは本当でした。そこで、この溝を埋める仮説です。
 大きなウグイにも子供の時代があります。子供のときは、魚は群れになって過ごします。そのとき、いきなり水面に茶色いものが現れて、水の中に潜ってくると仲間が一匹いなくなった。茶色いものはすぐに消えてしまったが、あたりには得体のしれない匂いが漂い、それが「恐怖」と結びつく。これが生き残ったものの心にトラウマとなって残り、体が大きくなったあとも拭うことができないで、茶色いものとあの匂いを嗅ぐと思わず浮き足立ってしまうという…。魚に足はありませんが、悪しからず。

注)トラウマ trauma 心的外傷、あとにまで残る激しい恐怖などの心理的衝撃や体験。
 こんな心理学の専門用語が一般化するなんておかしな世の中だと思います。私の使っている広辞苑第4版には載っていません。それを、前に中学生が、「それがちょっとしたトラウマで…」と話すのを聞いたことがあります。
 ついでですが、「心的外傷」という表現もよく見るとおもしろいですね。
2005年5月3日


★コメント
 先日もイタチを見ました。山の斜面でガサガサと音がするのでそちらを見ると黄土色の生き物が動いていました。私は気功をしていたのですが、殆ど動かないので生き物がよく出てきます。
 前に山の中の棚田の跡で気功をしているとすぐ下の水路でバシャバシャと水の中を走る音がしました。幅30㎝くらいの狭い流れですが私の前のところでいきなり畔の上に何かが飛び出しました。黄褐色の背中が見え、イタチだなと思った瞬間、何か気配を感じたのか、こちらを振り返ったのです。あの時の驚いた顔は今も忘れません。パニック状態で、脳が対応できなくなったのでしょう。ギョッとした顔で反り返って倒れそうになりましたが後ろに延びた長いしっぽに支えられ、辛うじて転倒は免れました。そして、ぎこちなく体を動かしながら逃げて行ったのです。人間なら「腰を抜かした」というところでしょう。タヌキなら気絶したかも知れないなと思いました。
2024年3月20日


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アイリッシュ・ダンス

2024-02-21 14:15:10 | 「遊去の部屋」
<2008年8月18日に投稿>
(1) ケルトのスプーン
 あり得ないことも起こるものだなぁというのが、正直なところ、実感です。それは、つまり、私が、今、アイリッシュ・ダンスをやっているということです。いや、やっているというほど大げさなものではありませんが、3月に足を突っ込んでしまったので、かれこれ6ヶ月ということになりますか。といっても月に2回くらいのことなので、回数としてはわずかですが、それでも武道や格闘技をやってきた人間にとっては、これは相当ショッキングな出来事です。だから、まだ誰にも話していません。
 そもそもの事の起こりは1枚のCDからでした。ALTのAさんとの話の中でルネッサンス音楽が話題になったことがありました。後日、Aさんは1枚のCDをくれました。そこにはケルト音楽がいっぱい詰っていたのです。私は若いときから『ケルト文化』に興味を持っていました。「森の民、ケルト」、この響きには何か心を惹かれるものがありました。昔はヨーロッパ全体の森に広がって暮らしていたようですが、森の開墾とともに次第に追いやられ、その末裔と呼ばれる人々の多くは、今、アイルランド、スコットランド、ウェールズや北フランスのノルマンディー地方などに住んでいて、そこでゲール語やブルトン語など独自の言語や文化を守ろうとしています。
 ケルト音楽といっても何も特別なものではありません。その地域の人たちが昔から親しんできた音楽です。一度聴けば、『これのことか』とすぐに分かるでしょう。ヴァイオリン(フィドル)の弾き方は特に自由自在で生き生きとしていて、実に喜びに溢れているように聞こえるし、バグパイプも、鳴りっぱなしの音(ドローン)があったり、おもしろい楽器です。また、スプーンのような生活用具を楽器代わりに使うこともあり、音楽と暮らしが密着していることをうかがわせます。
 これは2本のスプーンを使ってカチャカチャ音を出してリズムを取るだけなのですが、これがまたいいのです。私はこの話と演奏を10年くらい前にラジオで聴いたことがありました。すごく気に入ったので何とか自分でもやろうとしましたが、やり方がどうしても分かりませんでした。私がその話をするとAさんはにっこりして机の引出しを開けました。すると、そこには、何と、スプーンの束が入っていたのです。そして、そこからスプーンを2本取り出すとカチャカチャやり始めました。私が知りたかったのは、まさに、それでした。こんな形で長年の謎が解けるとは思ってもみないことでした。しかし、それにしても不思議なのは、彼女の仕事机の引出しに、どうしてそんなにたくさんのスプーンの束が入っていたかということです。
 そのときに彼女はケルトダンサーだということを知ったのですが、私は「ケルトダンス」というものは知りませんでした。私が見たことがないというと、彼女はすぐにパソコンのキーボードを叩き始めました。これがまためちゃめちゃ速い。カチャカチャッカチャと打ち込むと画面に映像が現れました。インターネットで簡単に動画が見られるのですね。それはケルトダンスのライブ録画の映像でした。私は、もう、ただただすごいと思いました。それは、自らの文化の誇りというものを内に秘めた、気高さに溢れるものでした。

(2) セント・パトリック・デイ・パレード
 「3月8日(2008年)に来ませんか。」とAさんが声をかけてくれました。セント・パトリック・デイというのがあることは知っていました。その日にパレードがあるというのも聞いたことはありました。しかし、それが伊勢であるというのは間違いだろうと思いました。もちろん、同じ日に世界中でパレードをするということだから伊勢であってもおかしくはありません。しかし、まさか、伊勢で? そんなこと、私には考えられなかったのです。彼女が町を勘違いしているとしか思えません。そう言うと、自分もパレードに参加してダンスをするといって、カチャカチャカチャ…、するとすぐにそのホームページが出てきました。5年前から始まっていたようです。
 ホームページには怪しげな写真が載っていました。仮装パレードだからアヤシイのは当然ですが、そこにいる人たちは、どう見ても私とは異質な世界の人々に見えたので、はっきり言って、近付きたくないというのが正直な印象でした。だけど、Aさんには、率直に「行かない」とは言いにくかったので「時間があれば…」と婉曲に答えてしまいました。ところが、その日が近付いてくるにつれて、どうも「婉曲な」言い回しは通じていないのではないかという気がしてきたのです。そんなとき新聞にパレードの記事が出ました。そこにはバグパイプの演奏もあると書いてありました。伊勢にバグパイプを吹く人なんているんだろうか。それとも他所から呼ぶのだろうか。私は、生でバグパイプの演奏を聴いたことはなかったし、Aさんのことも気になったので少しだけ顔を出してみようかという気になりました。
 3月8日(土)正午、伊勢神宮外宮出発ということだったので、寒風の中、私は自転車で出かけていきました。外宮の前にはアヤシゲな人たち集まっています。全体の3分の1くらいは外人でした。その集団から少し離れて日本人が集まっています。そして、それら全体を遠巻きにするように、かなり離れたところから神宮の観光客が好奇の目で見ています。神宮の雰囲気とこれほど合わない集団もないだろうと思いました。私はAさんを捜しましたが見当たりません。外国人のところへ行って尋ねてみましたが知らないというし、どうなっているんだろうと思ってきょろきょろしているとバグパイプの人が目に止まりました。頭の先から足の先までスコットランドです。私は自転車を引いてそちらの方へ行きました。
 出発時間は過ぎていましたが、パレードは一向に始まりません。それで私はバグパイプの人に少し話を聞いてみました。めったにない機会なので、この際、気になることは聞いておこうと思ったのです。そうすると、パレードの途中で何度か演奏するということがわかったので、最初の一回だけでも聴いておこうと思い、パレードについて行くことにしました。しかし、何しろ自転車を引いてついて行くわけなので厄介です。早めに切り上げた方がいいだろうと思いました。
 急に騒がしくなったのでそちらを振り返るとその中心にAさんがいました。忘れ物をして、家に取りに行っていたらしいです。それでパレードの出発が遅れていたのでしょう。そちらに行くと、Aさんは大きな声で回りの人を私に紹介してくれました。その中の一人にAさんが教えているアイリッシュ・ダンス・サークルの人がいて、その人にいきなり活動予定のチラシを渡されました。強引な勧誘にたじたじとなりましたが、ここは誤解を生んではいけないと思い、興味がないとはっきり伝えました。が、このとき、勧誘というものはこのくらいの積極性をもってするべきものかもしれない思いました。というのは、私は自分のコンサートのチラシを渡すときにも決して強く宣伝することはないからです。これだけ楽しみの多い時代に、自分がおもしろくないかもしれないと思っているようでは動く人も動いてはくれないでしょう。だけど、実際には、それにも拘わらず、ひょっこり顔を出してくれる人がいるものです。私は、どちらかというと、そちらの方を楽しみにしています。
 パレードが動き出しました。バグパイプが景気よく鳴り出し、「St. Patrick’s Day Parade Ise」と書かれた横断幕を先頭に、楽器を抱えた人や関係者(?)が続き、それから大きなアイルランドの国旗を、戸板を運ぶように、女子高校生が両側に3人ずつ、手に持って続きます。私はこのとき初めてアイルランドの国旗というものを知りました。その後ろから妖精やアマガエルのような緑の服を着た外人やら、仮装した得体の知れない集団がぞろぞろついていきます。私も自転車を引いて後に続きました。
 集団の中に、白いヒゲを生やした聖人の扮装した外人がいました。見事な衣装で、背丈ほどある木の杖を手に持っているのですが、見ると、杖の太い方を下にしています。『ここにもあったか』私は心の中で呟きました。私は子供の頃から、西洋と日本で反対のものが多いことを不思議に思っていました。それで、そのわけを考えるために、取り合えず、反対のものと同じものを、できるだけたくさん見つけようとしていたので、すぐに目が止まったのだと思います。それで、その聖人の所へ行って、あなたの国では杖はそうやって持つのかと聞いてみました。そうしたら、上を見たり下を見たりしてから、「どっちでもいい」と言って、結局、杖を逆さまに持ち替えてしまいました。今から考えると、その人は杖なんか突いたことがなかったのではないかと思います。これは「反対リスト」からは外した方が良さそうです。国民や民族の習慣と個人の癖とを区別しないといけないので、このあたりにも注意が必要です。
 途中で2回、アイリッシュ・ダンスがありました。いわゆる、フォーク・ダンスのようなものです。Aさんが少々(実は、かなり)あやしい日本語で説明し、その場で覚えるのですが、参加者が少なそうにみえたので、これはまずいなと思い、すぐそちらへ行き、輪に入りました。普段なら、こういうことは決してしないのですが、やはり、ここは支えなければならないと思ったからでした。
 パレードの途中でバグパイプの人と話をしていると、「後で吹いてみますか。」と言われました。楽器の好きな人間なら誰でも楽器にさわってみたいと思うものです。私はうれしかったけど、これは当然、社交辞令だと思いました。パレードが終って帰ろうとしていたら、その人が、どうぞ、と言ってバグパイプを私に渡してくれました。その人に教えてもらって抱えたのですが、ふにゃふにゃで形にならず抱えることができません。息を皮袋の中にいっぱい吹き込んで、初めてバグパイプらしい形になるのだということが分かりました。そして、脇に抱えた皮袋を腕で押しながら音を出すのですが、すぐに空気が抜けていくので、口にくわえたパイプからひっきりなしに息を吹き込まねばなりません。演奏している間、休みなく、非音楽的に空気を供給しなければならないのです。すぐに頭が痛くなってきました。酸欠です。フルートを吹いたときもそうでしたが、これはフルートの比ではありません。何でもやってみないとわからないものだなぁと思いました。いい体験になりました。

(3) ダンス・サークル
 例のチラシにアイリッシュ・ダンスの活動予定が記されていました。4月の初めの土曜日に、伊勢神宮の内宮の横の公園で、特別企画の練習があるようです。ちょうど桜が満開です。特別企画なら1回きりです。それなら花見も兼ねてちょっと様子を見に行ってみようかなと思いました。自転車で1時間もあれば着くだろうと予測していたのですが、自転車に乗ると、いつものことですが、トレーニングをしているような走り方になってしまうので早く着いてしまいました。さて、公園には着いたものの、場所がわかりません。公園はかなり広いのです。木もたくさん繁っていて見通しが利かず、自転車でぐるっと回りましたがわかりませんでした。チラシに載っている番号に電話をしてみようと思いましたが、私は携帯電話を持っていません。近頃は公衆電話が殆んど姿を消したので見つけるのが大変です。駐車場の係員に尋ねてみると県営体育館の事務室で借りるしかないだろうといいます。事情を説明するのがめんどうなのでもう一度自転車で捜してみることにしました。
 しばらくして、木に掛かっている大きな布が目に止まりました。赤、白、緑、アイルランドの国旗です。なるほど、こういう手があったか。感心しました。Aさんとパレードのときの人がいて喜んでくれました。それからだんだん人が集まりはじめましたが全員女性で、半分は老人といってもいいでしょう。場違いな所へ来てしまったとの感はありましたが、自分にとっては未知の世界でもあるし、きっと何かしら学ぶことがあるはずだと自分に言い聞かせました。
 このとき驚いたのは、何と言っても、あのにぎやかなケルト音楽に合わせて踊っていたことでした。まさか、あの速い音楽に合わせて踊るとは思いませんでした。私は、ずっと、古い時代の人々の生活感情をつかみたいと思ってきたので、これは何か分かるかも知れないと感じました。これまでは古い絵などを参考にしてそれをつかもうとしてきたのですが、当時の人々がやったように、その音楽に合わせて自分も同じように体を動かせば、絵から得られるものとは違った何かがつかめるに違いありません。
 ただ、ここに一つ問題がありました。私は若いときからずっと単独行動が中心の生き方をしてきました。「集団」あるいは「組織」に所属するということを避けてきたのです。それには理由があるのですが、とにかく、そのことで私は共同して作業をするということが苦手な人間になってしまいました。止むを得ず、属さなければならないときにはひたすら忍耐、そして、解放されるのを心待ちにする始末です。しかし、集団で物事に取り組むとき、個人ではできないような力を発揮することがあるのも事実です。それで自分ももう少しうまく集団に馴染むことができればなぁという考えは以前からありました。今回のアイリッシュ・ダンスを続けている理由の一つがそこにあります。もしかすると、私にとってはこちらのトレーニングの方が意義深いかもしれません。
 「ケルト」をイメージした話はまだ一つしか書いていません。いくつか書きかけたものもあるのですが、人々の生身の生活感情が見えてこないところがあって、結局、全部途中で止まっています。当然、それには理由があるはずです。そこを突き抜けるべく、1,2,3,4,1,2,3,4、…とやっているのです。この前も「ジーグ(古い踊りの一種)」のステップを教えてもらいました。ジーグはバロック音楽の組曲にはたいてい入っています。これまで私は音楽だけを聴いてきたのですが、足の運びを教えてもらって、まさに、「目からウロコ」でした。楽しそうな踊りなのですが、私は楽しそうなものは苦手なのです。気恥ずかしくできません。だけど、考えてみれば、ほんの少し前まで、普通の人々の暮らしは貧しく、日々の労働は辛いものでした。そして、年に数度、祝祭などの「ハレ」の日に、人々はみんなで一緒に喜びを分かち合ったのでしょう。みんなで同じ所作をすることで感情を共有し、それが次第に形になったものがダンスなのだろうと考えています。だから、私もその形をなぞることで当時の人々の喜びをわずかなりとも体感できるのではないかと期待しています。が、しかし、ダンスそのものが目的になることはないでしょう。
2008.8.18

★コメント
 AさんというのはAshleyという名前のカナダ人で、高校でALTとして働いていたのですが、彼女の席は私の隣でした。苗字は一度も呼んだことがないので忘れてしまいました。アシュリーというと「風と共に去りぬ」に出て来る男の人の名前なので、これは男性の名前だと思っていたのですがそうでもないようです。辞書には「男子の名前」と書いてあるのですが…。
 Ashleyに出会ったのはラッキーでした。今、彼女が作ってくれたケルト音楽が入ったCD-Rをかけています。結局、彼女が日本を去るまでの3年くらいケルトダンスを教えてもらっていました。それからはしていなかったのですが、つい最近このステップを日常的に取り入れてみることにしました。ずっと家にいるとどうしても運動不足になります。今は剣道も膝を傷めて半年ほど休止しているし、太極拳だけでは運動量が少ないように思います。それで庭に出てケルトダンスのステップをやってみるとあっという間に息が上がってしまいました。それは足を踏みかえるときに軽いジャンプを伴うからです。ジャンプにはかなりのエネルギーを使うようで、これはいいと思いました。
 3月になるとセントパトリックスデーがあります。St. Patrick’s Day ですが、カタカナで書くときに ’s を「ス」として入れるべきかどうか迷います。初めてこのパレードに行ったときシャムロックの小さなワッペンを渡されました。体のどこかに緑のものを付けなければいけないのだと言います。シャムロックはアイルランド語でクローバーのことだそうです。あるときAshley が四つ葉のクローバーを見つけたことがあると言うので『まさか』と私は思いました。というのはそれは「おはなし」の世界の話であって実際には存在しないと思っていたからです。するとAshleyはあちこち引き出しの捜し始めましたが、結局その時には見つかりませんでした。だけど何度も見つけたことがあるようで驚きました。どうも彼女はクローバーがあると無心に四つ葉のものを探してしまうようです。そしてそれを押し花(葉)にしているらしいのですが…。多分、今も同じでしょう。私は四つ葉のクローバーを見つけたことはありませんが、Ashleyに出会えたことは「幸運」でした。
2024年2月21日


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