<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

「やまなし」録音秘話

2024-07-20 14:37:47 | 「遊去の部屋」
<2004年12月30日に投稿>
 といっても、何も特別なものではありません。英語版の「 The Wild Pear 」を録音したときの話です。そのときのことは、私が話さない限り誰も知らないわけで、だから、そこでの出来事は片っ端から自動的に秘話になってしまうというわけです。

 2002年7月15日。朝から晴れ上がり午前中に早くも30度を超えた…かどうかは覚えていませんが、とにかく暑い日でした。「 The Wild Pear 」の録音日です。英語版の原稿は3週間くらい前にFに渡してありました。F、と頭文字だけを書くと、とたんに謎めいてくるのはどういうわけでしょうか。今回は「秘話」ということなのでこちらの方がいいかもしれません。Fはイギリス人。一年前に日本にやってきてALTとして高校で働いていたのですが、2,3日後には日本を去ることになっていました。この日は、録音できる最初で最後のチャンスだったのです。

 私は、それまで彼女の朗読を一度も聞いたことがありませんでした。一応、私が英語で録音したテープを渡してあったのですが、それは言葉と音とのタイミングを伝えるためのものでした。果たしてどのくらい伝わっているものやら、それは実際にやってみるまで分かりません。
 LL教室に入って、座る場所やマイクの位置を決めてから、一通り打ち合わせしながらざっと作品全体を流しました。そして、時間の関係で、前半だけを一気に録音することにしました。学校というところは定期的に鐘のなるところです。だから、その間を縫うようにして録音しなくてはなりません。次の鐘が鳴るまでには前半一回分の時間しか残っていませんでした。
 Fは、さっと立ち上がると窓の方へ行き、次々窓を閉め始めました。実は、私は躊躇していたのです。それまで教室の窓は全部開け放してありました。まあ暑いことは暑かったのですが、それはまだ夏の暑さのうちでした。しかし、窓を閉めればとたんに教室は蒸し風呂のようになります。私が1人で録音するのなら何の迷いもなく窓を閉めますが、イギリスのさっぱりした夏しか知らない彼女のことを考えると少々いろんな音が入ってもこのままの方がいいかなという思いがありました。実際、彼女は、慣れない日本の暑さのせいでこの数日食欲も殆どなくしてしまっているようでした。それに彼女はまだ若く、学校を出たばかりで、仕事の上でもふんばらなければならないようなキャリアは全く積んでいなかったので、この録音に対しても、その取り組みに果たしてそれだけの価値を認めてくれているかどうか分かりませんでした。

 Fは大学を卒業してすぐに日本にやってきました。ALTが彼女の最初の職業でした。そして、その関係から生徒にイギリスを紹介するために、初めてイギリスのスコーンを焼いたのです。イギリスにいるときはすべてお母さんがしてくれていたので、これはたいへんと、お母さんからメールでレシピーを送ってもらい、自分のアパートで初めて試し焼きをしたのです。外国のことを勉強して自国のことをよりよく知るようになるというのはよくあることですが、彼女の場合はイギリスでは一度も料理をしたことがなかったそうです。そのためか、初めて自分でスコーンを焼いたときにはちょっと興奮気味にすら見えました。

 ミートパイは彼女の好物の一つです。私は、名前は聞いたことはあるものの実物は知りませんでした。それでそのレシピーを教えてもらい、家で作ってみました。不思議な味でした。本当にこんな味なのか。これでいいんだろうか。それを確かめるために彼女に少し持っていきました。彼女は、ふたを開けると、「わあ、ミートパイ!」といって、一気に全部食べ切ってしまいました。少しは味をみて食べてほしかったのですが、やはりまだ子供だなあというのが私のそのときの印象です。

 彼女が窓を閉め始めたのを見て、私もその気になりました。私は彼女に、途中ミスがあってもそのまま続けて最後まで行くことを告げると、ちょっと気持ちを整えてからプレリュードを弾き始めました。すぐに全身から汗が噴き出しました。汗が流れるのを我慢しながら、これは彼女にはちょっと酷だなと思いました。しかし、彼女の方は緊張していて暑さどころではなかったようでした。終わったとき、彼女は『私がもう一度やりたいのならやってもいい』と言ってくれました。私は、この環境ではとても続けられないと思ったのでクーラーのある図書室に行くことに決めました。

 鐘が鳴り休憩時間になりました。休み時間に、生徒たちで混雑する廊下を、楽器を持って移動するのはちょっと気が引けましたが、4限目の始まる前に移動して録音のセットをしてしまえばたっぷり50分使えるから何とかなるだろうと考えて図書室に急ぎました。図書室のある棟に入ると、外からすごい騒音が聞こえてきました。生徒の声ではありません。耐震工事の音でした。隣は体育館なのですが、屋根といわず壁といわず、あちらでもこちらでもドリルでバリバリと穴を開けています。絶望だと思いましたが、図書室の中に入れば少しは静かになるのではないかと図書室の扉に一縷の望みを託しましたが全くお話になりませんでした。とりあえず一度後半を通してからどうするか考えようと思い、司書の人に許可をもらって録音の準備をしました。
 一通り流した後、どうするか決めなければなりませんでした。LL教室に戻るか、この騒音の中で録音するか。時間はやはり一回分しか残っていません。騒音はあるとは言っても朗読が聞こえないほどではありません。今から歩いてLL教室に戻り、録音のセットをする時間のロスを考えるとここで録音した方がいいだろうと判断しました。それでも少しでも雑音を減らしたかったので、司書の人に理由を話してクーラーを止めてもらいました。
 ドリルの音を気にしながら後半のプレリュードを弾こうとしたときでした。ピタッと音が止んだのです。工事が昼休みに入ったのでした。授業時間は12時半まで続きます。ということはまだ30分あります。15分前に録音を終えてクーラーをつければ昼休みには十分涼しい状態にできるでしょう。千歳一遇のチャンスとはまさにこのことです。顔を見合わせた私たちはこの瞬間に息がピタリと合いました。

 8月に入っても私の練習は続いていました。一日に7,8時間は練習するのですが、それでも録音となるとうまく行きません。そのうちに今度は歯の痛みがどんどんひどくなってきました。歯の痛みは5月くらいからあったのですが、虫歯ではないのです。硬いものを噛んでいるうちにとうとう痛みが引かなくなってしまったのです。これまでは、少し硬いものを噛んで痛みが出ても2,3日すれば治まっていったのに、今回は様子が違います。でもガマンできないほどではありません。それで何とかなだめすかしながらやってきたのですが、ここに来てとうとう言うことを聞かなくなってしまいました。
 鈍痛が出てくると何もできません。ただ、頬に手を当ててうずくまっているしかないのです。ところが、あるとき熱い飲み物を口に含むとしばらくは痛みが和らぐことに気付きました。それからはコーヒーを一口飲んでは練習し、また一口飲んでは練習するという生活になりました。それでも練習の成果が感じられる間はまだ良かったのです。あるところまで来ると「仕上がりの形」というものが見えなくなってしまいました。ああやってもだめ、こうやってもだめで、堂堂巡りを繰り返すだけでした。現在の実力ではここまでということでした。完成させるには、まだ何年か熟成させる必要があるのです。それでとりあえず仮仕上げということで録音することにしました。

 英語版を録音したのにはいくつかのわけがありました。もちろん、ベースにあるのは、この作品を外国の人たちにも是非知ってもらいたいということなのですが、もっと身近な動機としては、Fがイギリスに帰った後でも、これをCDにして図書室に置いておけば、生徒たちが見つけるかも知れません。何かなと思ってかけてみたら、いきなり聞き覚えのある声が出て来る…という仕掛けをしておいたらおもしろいだろうと思ったのです。声色は楽しめても、英語では意味が分からないだろうから日本語版もいるだろうということなので、日本語版は「完成品」でなくてもいいわけです。ライブでは何度もやっているので軽く考えていたのですが、いざ、録音してみると、それはもう聴くに堪えないものでした。それでずるずると深みにはまってしまうことになりました。

 一週間の盆休みを利用して録音に取り組みました。絶望的に思えたり、何とかなりそうな気配がしたり、悶々とした日が続いていましたが、いよいよ時間がなくなってきました。今日か明日かで終わらなければなりません。それは、Fが9月には仕事を探しにドイツに行くことになっていたからです。8月中にイギリスに着かないと彼女がそれを聴くのはクリスマスということになってしまいます。私はまだCDの作り方も知らなかったのでその操作を覚えるのにも時間が必要でした。私は今日で録音を終わりにすることに決めました。
8月19日。かんかん照りの日でした。全部の雨戸を閉め、冷蔵庫のコードをコンセントから外し、電話を「おやすみモード(呼び出し音の出ない状態で、これは特に昼寝のときには便利です。)」にしました。椅子の上にはバスタオルを重ね、足元にもタオルを敷きました。それから熱いコーヒーを用意すると、裸になりました。これならどれだけ汗が流れても問題ありません。もうすでに玉になって汗が流れています。熱いコーヒーを一口含むと、そのまましばらく保ち、歯の痛みが引くのをじっと待ちました。それからMDのスイッチを入れると、意を決してプレリュードを弾き出しました。
当然のことながら、クーラーも扇風機も音のするものは一切ありません。真夏日に雨戸を締め切った部屋の中で、頭は上から蛍光灯に照らされて、殆どのぼせたような状態です。いつもなら演奏を始めると同時に、よそ事が次々と頭に浮んできてそれを止めることができずに苦しむのですが、この日は何かぼんやり考えていたような気はするものの、気が付いたらもう最後に来ていたという感じでした。かえってこの条件が良かったのかも知れません。

 結局、CDが出来上がったのは8月の末でした。機械がうまく動作せずメーカーに問い合わせたりする必要が出てきたため随分手間取ってしまいました。仕上がったCDを初めて聴いたときの喜びは平静さを失うくらいのものでした。機械が壊れてしまったらどうしようという不安が湧き起こり、何枚か複製を作って、それでようやく安心できたくらいです。「駆けつけ3杯」といいますが、私はこのCDを連続5回くらいは繰り返して聴きました。それで気が付いたのですが、CDからは録音のときのあの暑さや歯の痛みなどは全くその気配すら感じることができません。舞台裏が見えてしまってはせっかくの夢もぶち壊しになってしまうことはよく分かっているのですが、それにしてもちょっとさびしい気がしました。

 CDがイギリスに着いたのは彼女がドイツへ出発してしまった後でした。それで彼女がCDを聴いたのは結局クリスマスにイギリスに帰ったときになってしまいました。彼女のメールからは、自分の朗読がCDになってとても喜んでいる様子が伝わってきて、私も作ったかいがあったと思いました。そのときには、私はもう次の作品に取り組んでいましたので、初めてCDを作ったときの興奮はさめてしまい、いつ終わるとも知れない作業に少々疲れ気味になっていたのですが、それを聞くと、私も、あの完成時の興奮を思い出し、すっかり元気になりました。我ながら、つくづくシンプルにできてるなと思います。

 英語版はその後何人かの外国人に聴いてもらうことができました。楽しんでくれていると思います。その印象を聞くたびに私もまた元気をもらっています。そのたびに他の作品も英語版を作ろうと思うのですが、こちらの方は一向に進みません。まだエネルギー不足です。でも数年後にはいくつか完成させたいと思っています。その日のために朝はいつも発音練習から始まります。 She sells sea-shells, sherry and sea-shoes.
2004.12.30


★コメント
 このところ、流れが一気に「やまなし」に向かって進んでいます。今、The Wild Pear のこの時の録音をユーチューブに上げようと準備をしているのですが、20年以上も前の録音がそのまま残っているということ自体不思議な気がします。録音のデータはCD-Rから取りました。Fionaの声、こんなのだったか、録音しておいて良かったなあと思いました。それで今回の記事のことを思い出し、読んでみて、この出来事も一緒に載せたいなあと感じました。実はこの記事の前半は英訳してFionaにメールで送ってあるのです。20年ぶりに、今朝、それを読んでみました。これでいいのかなあ、怪しいが、まあいいか、という部分が何カ所もあります。相手がFionaならおかしな英語も分かってくれると思って書いているのですが、それがユーチューブに出すとなると躊躇する気持ちが起こります。だけどこの録音はこの裏話があってこそ親しめるもののような気がして迷っているのです。考え方によれば、「おかしな英語」自体を楽しむことができる機会になるかも知れないのですが、…。
2024年7月20日

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「やまなし」ライブ

2024-06-21 15:09:59 | 「遊去の部屋」
<2005年8月18日に投稿>
 先日、ライブで「やまなし」を弾きました。これまでに20回くらいはやっています。ギターを弾きながら自分で朗読していますが、もともとは朗読とギターの二人用に作りました。二人で、といっても、相手のことが頭に入ってないとうまく合わせることはできません。それで、一人、ぶつぶつ朗読をしながらギターを弾いているうちに何となく一人でもできそうな気がしてきたのです。
 初回は朗読を頼んで二人でやったのですが、それから一年くらい練習したら何とか一人でできるようになりました。今から思えば「かろうじて」というところではありましたが、そのときは「不可能だ」と思っていたことができたのですから、「かろうじて」でも充分、達成感はあったのです。
 それ以来、一人で朗読しながらギターを弾くという形が定着したのですが、これをきっかけに私の物事への取り組み方が大きく変わったように思います。一つは本の読み方です。若いときは誰でもそうだろうと思うのですが、とにかくたくさん読みたい、読んだ本の数が増えることに一種の喜びを感じるところがあって、本棚の本の数が増えた分だけ自分も大きくなったような気がしたものです。青年期はそれでいいと思っています。裏を返せば、これはそれだけ自分の中身に信をおけるものがないからで、そこを外部の、頼れそうに見えるものでカバーしようというわけでしょう。この傾向は、その「頼れそうに見えるもの」も、実はたいして当てにならない、かなりいい加減なところがあるものだと感じるようになるまで続くのですが、たいていはその前に実生活の方が忙しくなり、そちらに流されてしまうので、何かに行き詰まったり、世の中の枠からはみ出たりしない限り、部分的には感じても全般としてそういうことに気付く機会は少ないだろうと思います。「権威」が幅を利かせられる所以です。
 以前は、同じものを読み返すよりは新しいものを読みたい、つまり、同じものを繰り返し読むことはそれだけ新しいものが読めなくなるわけですから、それは時間の浪費、あるいは新しい世界を知るチャンスの放棄だという気がして仕方がなかったのです。もちろん、一度読んだくらいでその内容をマスターできるわけがないことは分かっていましたが、一回読んで、その内容がどのくらい身につくかの「程度」に関しては全くの誤算であったというしかありません。それに、『一度おもしろいと思った本は何度読んでもおもしろい』なんて夢にも思わなかったことでした。これは映画でもTV番組などでも同じです。『おもしろいものは何度見てもおもしろい』、こんなシンプルな事柄に気付かずに何十年も生きてきたというのは実に浅薄な生き方をしてしまった証でしょう。

 朗読の練習をするときには何百回という単位で読みますが、これは作家本人が読む回数より多いでしょう。だいたい全部覚えてしまいます。楽器を弾きながら読むのはさらに難しいので、全部覚えてからでも百回くらいの通し練習ではどうにもなりません。そうしているうちに、一つ一つの言葉の意味するものがだんだんとその姿を現してきてイメージがどんどん豊かになってくることに気付きました。これは自分で物語を知らず知らずのうちに演出しているためではないかと考えています。たとえば、映画監督や舞台の演出家などは原作を読みながらそれをどのように形に表したらいいかを常に想い描いているわけですが、それに似た作業が何度も何度も読んでいるうちに頭の中で繰り返されているためではないでしょうか。何度読んでもいつも新鮮に感じるのはそのあたりに理由がありそうです。
 言葉は、いったん頭に入っても大抵は言葉のままで、つまり観念として捉えただけで通り過ぎてしまい、その意味するものが、頭の中で具体的にイメージされるということはあまりないと思います。たとえば、「赤い靴」という言葉を聞いたとき、あるいは読んだとき、赤い色と靴を具体的に思い浮かべる人は殆どいないでしょう。そんなことはないと思われるかも知れませんが、「赤い色」といっても実は無数にあるわけで、その中のどの赤をイメージしたかを考えてみればそのあたりはかなり曖昧だということが分かるでしょう。「靴」の場合も同じです。靴も無数にありますが、どんな形の靴をイメージしたか、大きさは、踵は、つま先は、紐は…と考えるとだんだん怪しくなってきます。その点、これが絵に画かれたものならば一目でその両方を受け取ることが可能です。
 言葉も、絵のようではありませんが、「赤い靴」、「赤い靴」と同じ言葉を繰り返し、繰り返し唱えているとだんだんと具体的なイメージ(色や形まで見えなくても、それを見たときに感じる感覚)が伴ってくるものです。このとき頭に浮かんだイメージは、絵とは違って、一人一人違うわけで、それはその人のそれまでの経歴、あるいは経験(つまり、バックグラウンド)を反映したものになっているのです。
 これは脳の働きによるものだと考えています。言語を捉えるとき、それを観念として捉える場所とイメージとして再現する場所がそれぞれ違っていて、両者は互いに連携してはいるのですが、ただ、連動するには、ある程度の「時間」が必要なのではないかと思います。言語は左脳、イメージは右脳という見方をしても構いませんが、両者は同時に働くとは限らないということです。
 言葉の情報は、読むときでも、聞くときでも次から次へと入ってきます。脳は、それを次々と(解析)処理しなければなりません。最初は左脳で観念として捉え、どういうものか理解します。それから次に右脳でその観念に伴うイメージの引き出し作業が行われることになりますが、ここで一つ問題が出てきます。「観念」と「イメージ」ではデータ量に桁違いの差があるのです。パソコンで文字を表示するのと写真を表示するのを比べればかかる時間がまるで違うのと似ています。
 言葉が次々とやってくるときにはそれを次々と観念に置き換えていく必要があるので、その一つ一つをいちいちイメージ化する余裕はありません。それでも、個人的に強い結びつきをもった観念はイメージ化されるので、結局、一人一人が受ける印象はかなり個人差のあるものになってしまいます。同じ言葉を聞いても、ドキンとする人もいれば何とも感じない人もいるわけですから。
 次々と入ってくる言葉から、何が起こっているのかという状況を理解したり、次に自分のするべきことを考えたりというような、日常生活する上で必要な事柄は「観念」として捉えれば充分にこなせます。ところが、「味わう」となるとそうは行きません。ここで言葉に伴うイメージが大きな役割を果たすことになるのですが、このイメージ化の能力は当然のことながらかなりの個人差がありますから、同じ言葉を聞いても、「味わえる」かどうかは人によるということになってしまいます。
 個人差はあるにせよ、言葉を聞いたとき、それをどの程度イメージできるかは、入ってくる情報量にもよるわけで、これを減らせば、つまり、「ゆっくり」話せば、あるいは読めば、イメージ化はよりしっかりと行われるわけですから、聞き手がその余裕を持てるように相手の様子を見ながらゆっくり話せば、その「味わい」は相当違ったものになる可能性があるはずです。
 もう一つは、言葉を発する前に、次に来るものを予想できるような手を打つことです。次に来る状況が明るいものなのか、暗いものなのか、あるいは緊迫した場面なのか、リラックスしたものなのか、そのあたりを音で下準備をしておくとさらにイメージしやすくなるのではないかと考えています。音ではありませんが、和歌の枕詞はその類ではないでしょうか。のびやかな枕詞を聞いているうちに、聞き手の心はしっかりと次の言葉を受け止める準備を整えるわけで、そこへメインの言葉が登場するわけですから、言葉と同時にイメージやそれにまつわる気分なども一気に心に湧き上がるという仕組みになっているのでしょう。中学生のとき「枕詞には意味はない」と習ったことを覚えていますが、そのときには随分無駄なことをするものだと思ったものでした。今では万葉人のその大胆さに感心しています。たった31文字のうち、5文字もこれに割(サ)くというのはただごとではありません。
 いずれにせよ、ここで描かれるイメージは個人的なものになりますから、それからどんな印象を受けるかは個人と強く結びついているわけで、演奏する側としては、ひとりひとりのイメージ化がより強く行われるように工夫を重ね、あとはそれらが一人一人の中でいい実を結ぶように祈るしかありません。

 この「やまなし」の練習も初めは本や楽譜を見ながらしていましたが、弾こうと思ったときにいちいち楽譜を開けたり、本を用意したりするのは面倒です。それに本を見ながらの練習となるとどうしても練習時間が限定されてしまいます。だいたい私は元来面倒くさがり屋です。結局、細部まで全て覚えてしまいました。それ以降、朗読の練習は車を運転しているときや散歩をしているとき、それに風呂に入っているときなどの楽器を持てない時間が使えるようになったので随分余裕ができました。
 ライブでも初めは楽譜(本)を立てていたのですが、3年前くらいから楽譜を立てるのも止めました。楽譜を立てていると全部覚えていてもページの終わりにくればやはりページをめくってしまいます。楽器を弾きながらということもあり、それが次第にうっとうしくなってきました。
 初めて何も見ずにライブをやったときは、とにかく言葉を忘れないか、それが何より心配でした。ところが、いざ始まってみると、聞き手とまともに顔を向かい合わせることになってしまうのでどうもやりにくいことに気付きました。楽譜を立てているときには楽譜の方を見ているので聞き手とまともに顔が合うことはありません。演奏中は頭の中に自分の描くイメージを保ちたいと思うのですが、目の前には現実そのものが控えているのです。目が合ったりするとどうもバツが悪いので視線を合わさないようにするのですが、一人一人の様子は実によく見えます。じっとこちらを見ている人もいれば、腕を組んで考え込むような姿勢をしている人もいます。聞いているのか居眠りしているのかもわかりません。だいたい大勢の前で何かをするとき、相手がおもしろいと思っているか、つまらないと思っているかということをつかむのはそう簡単ではありません。それで演奏中でもそのあたりを探りながら弾いているのですが、それがなかなか掴めず、『こんなことならしない方が良かったかな』という気分になることの方が多いです。私自身は「やまなし」はすばらしい話だと確信しているのですが、それでも『みんながそう思うわけではないだろう』という気がしてくるのです。しかし、いったん始めた以上、途中で止めるわけには行きません。それで、あの手この手で自分自身を励ましながら弾き続けるのですが、残念ながらこれといういい手はないようです。目を閉じて弾くということもしてみましたが、普段そんなことはしないので却って不安な気分になるだけでした。それで、『楽譜を立てるだけでも立てた方が良かったかな、今度はそうしよう』というようなことを考えたりしているうちに終わりになってしまうことが多く、結局、雑念の中をさまよっているだけというのが現状です。
 あるとき、演奏中にふと窓の方を見たことがありました。そこは4階で、広い窓は海に向かって開いています。そこからは、いわゆるリアス式海岸で、静かな海に突き出た半島が入り組んでいくつもの小さな入り江を作っている様子が見えました。そして、その上空ではトンビが3羽、ゆったりと上昇気流に乗って、大きく弧を描きながら旋回しています。時おり、ピーーヒョローーーという間の抜けたような鳴き声も聞こえてきます。白い雲を背に大空を滑るように飛ぶトンビたちの長閑(ノドカ)な様子を見ていたら、一瞬、自分が演奏中であることを忘れてしまいました。演奏は電池の切れかけたオモチャのように止まりかけ、その音にハッと我に返ったのですが、一瞬、立ちくらみをしたときのようにわけがわからなくなりました。
 ほんの1,2秒のことだったと思います。でも、それは自分が如何に精神的に力んでいるかに気付いた瞬間だったのです。「やまなし」はいい作品だから是非それを知ってほしいと思ったり、ここをファンタジックな感じにするにはどう弾けばいいか…などなど。そんなことに気を取られ、自分が作品全体に抱いている気分はどこかに行ってしまっているのです。
 トンビたちは、眼下に広がる海原を眺めながら、耳元を切る風の音を聞いて、『ああ、いい気分だ』とでもいうようにピーーヒョローーーと鳴いているのでしょうか。そして、その気分が私の心に同調して私までいい気分になったのかも知れません。これからは私も自分が作品に抱く心地良さだけを感じつつ弾きつづけてみようかなと思います。そうすれば、中にはそれに同調する人もいるでしょう。おそらく、このあたりに生身の人間の演奏する良さがあるのではないでしょうか。
 その日は、そのあと、特にあわてることもなく演奏を終えることができました。トンビのことを考えながら、カニの親子の話を朗読して、指は指で勝手に弦を弾いている。頭の中はどうなっているのだろうという気がしてきて、そこに聞き手のいろいろな表情をした顔が目に飛び込んでくると、そのちぐはぐさにわけのわからないおかしさがこみ上げてきます。しかし、そういうことは演奏の表面には表れず、流れるままに時間が過ぎ、そして、最後の音を弾いたときには何となくいい心持ちで、今日は弾いて良かったなと思いました。
 これ以降、演奏中に言葉を忘れたり、音を忘れたりすることが増えました。どうしてなのか分かりません。緊張して忘れるというのはよくありますが、私の場合は気が緩み過ぎているみたいです。音としてはその方が聞いていて心地良いはずなのですが、途中で忘れてしまっては仕方がありません。とはいえ、ほんの一瞬のことですから、聞き手も全体の気分としては充分保てると思います。それなら、忘れないようにと神経をビリビリさせるより、少しくらい詰っても、とろっと眠いようなアルファ状態の穏やかな脳で弾き続けた方がいいかなと思います。もちろん、詰らない方がいいに決まっているのですが、それにしてもツマラナイ方がいいとはおかしな話になりました。
2005年8月18日


★コメント
 これは高校で非常勤講師をしていたときの話で、今もよく覚えています。たいていは化学を教えていて、最後の授業の日にはテストを返した後で「やまなし」を弾いていました。「クラムボンは笑ったよ」、たぶん生徒たちは喜んでくれたと思いますが、こうして終われたのは良かったです。
 今回、この記事を取り上げようと思ったのは、陰になった暗い棚の隅が気になって覗いてみると奥の方にMD用のケースを見つけたのです。中には10枚くらい入っていました。取り出してみると、それは教室でのライブ録音でした。2001年3月9日となっています。ついさっき聴いてみました。23年前の録音で、生徒の声も入っています。この時の演奏は初期の形でした。かなり早く朗読もよくありません。まるでへたです。25分もかかるのに、それでも生徒たちは静かに最後まで聴いてくれました。こんなところから始まったのかと思いました。この翌日にも家で録音していて、こちらはかなりマシでした。生徒の前で弾くのはやはり焦るようです。

 実は一昨日「やまなし」を弾きました。86歳になる長姉は去年から体調を悪くしていたのですが、少し良くなってきたということなので兄と次姉と一緒に様子を見に行きました。兄が車を運転し3時間半かかりました。長姉の家の居間で昼ご飯を食べ、いろいろ話をした後にギターを弾いたのですが、「やまなし」を弾こうかなと考えたのは4,5日前のことなので練習する時間はあまりありませんでした。音を思い出すのが精一杯というところです。MDを見つけたことがきっかけで、それまでは違うものを弾こうと考えていたのですが、こうして会えるのは最後になるかも知れない機会ならこの「やまなし」をみんなに聴いてもらおうという気になりました。まあ、うまく行かなくてもこれがいいだろうと思いました。いくつか間違いもありましたが、義兄が喜んでくれたので嬉しかったです。弾きながら、自分にもできることがあって良かったなと思いました。
2024年6月21日

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キャベツはいったいどこがうまいの?

2024-05-22 14:05:11 | 「遊来遊去の雑記帳」
キャベツはいったいどこがうまいの?
<2005年4月24日に投稿>
 冬の間に成長したキャベツが、ちょうど今、食べごろになっています。しっかりと結球して中央には立派な球ができているのですが、そのまわりの葉は鳥に食べられて半分くらいしか残っていません。キャベツは双葉から次第に葉の数を増やし、それらは日光をたくさん受け止められるように大きく葉を広げていくのですが、これらの葉はいかにも丈夫そうな濃い緑色をして、とてもおいしそうには見えません。それらの葉は次第に込み合ってきて、バラの花びらのように中央部を取り囲んできます。それからあとは中央部に内側からどんどん葉がたまり、それが結局キャベツの球になるわけで、人が食べるのはその中央の球だけです。
 畑のキャベツをいつ収穫しようかとみているとおもしろいことに気が付きました。球の部分は全く食べられていないのに外側の硬くてまずそうな葉はどんどん鳥に食べられていくのです。どうせ食べるのなら球の部分の方がおいしいだろうと思うのですが、そちらには見向きもしません。そこで私もそれがちょっと気になりだしました。
 大きく広がった外側の葉では盛んに光合成が行われています。そしてそこで作られた栄養分を蓄える形で内側にキャベツの球を作るのですから、そこを食べれば栄養分をごっそり頂けることになると思っていたのですが、もしかするとそうではないかも知れないという気がしてきました。
 その考察は別にして、外葉をちょっと食べてみましたが、食べられないということはないようです。太い葉脈の部分も少し湯がけば問題はありませんでした。でも、やはり長年の習慣からか、外側の葉を食べるのには抵抗があります。そういうことで、この場合、外側は鳥、内側は私ということで分け合うのがいいだろうという結論に達しました。
 「勝手なことを!」とキャベツには言われそうですが、私の場合、いつもキャベツの内側の球だけを取って、あとはそのまま残しておくのです。そうすると、キャベツはその切り株のところからいくつも新しい芽を伸ばし、時期が来るとそれらの先に一斉に花を咲かせます。そして種を結ぶところまでは引き抜いたりしませんから、そのあたりで妥協してもらうことにしています。
 キャベツは、今、その花芽を伸ばし始めています。ところが、その花芽が小さなブロッコリーのように見えてきて食べられそうなのでちょっと困っています。試しにちょっと湯がいてみたら十分食材になりそうです。それもそのはず、キャベツは菜の花の仲間です。でもキャベツにも命をまっとうさせてやりたいので全部取るようなことはしませんが、いろんな食べ方ができそうです。
2005年4月24日
 
★コメント
 このときはキャベツの苗を買っていました。ノートには前年の9月11日に4本定植と書いてあります。このとき借りていた畑の区画は10坪くらいだったのでたくさん植えるわけには行かなかったのです。これらは冬に外葉を残して球を切り取っていました。そのあと放置しておくと切り株から芽を出して小さなキャベツの球ができます。そして春になるとそれが割れて花芽を出し、薄黄色(クリーム色)の花を咲かせます。その後には種ができるのですが、その種が落ちてそれからキャベツが生えてきたのは見ていません。自生はできないのかなと思います。調べてみればいいだけのことなのですが…。
 今の畑は100坪あるので種から苗を作っています。去年は11月に定植したので春になってからぐんぐん育っています。子供の頃にはキャベツを食べる習慣はありませんでした。それでキャベツに馴染みはなかったのですが数年前にザワークラウトを知り、作るようになりました。これは保存できるのでキャベツもたくさん作っています。ただ、今の季節はアオムシがたくさんいて大変です。ナメクジもいます。植えるのが遅かったので結球するのは梅雨に入ってからです。それで葉を一枚一枚丁寧に洗うのですが、あまりいい気はしません。まあ、自然はこんなものです。これも球を取った後の株は残しておきます。

 この数年、野菜を単品で食べることが増えました。それは「味」とは何かが分からなくなって来たからでした。そのときの調理法に「蒸し炒め(正式名称は知りません)」を使っています。方法は簡単でフライパンに油を引いて刻んだ野菜を入れ、フタをし、火が通ったらフタを取り、かき混ぜて終わりです。かき混ぜる前にナンプラーを数滴入れることが多いのですが、塩だけの場合も、何も入れないこともあります。味をみることが狙いなので余計なことはしないのです。キャベツもこの方法で食べると実にうまいです。調理法の中ではシンプルの極みでしょう。古代人の道具でもできるし、しかも味がよく分かります。今朝は昨日畑で取った玉ねぎを食べました。こういう味だったのか、うまいと思いました。
2024年5月22日


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「まつろわぬ青春の日の行方(9)」 <無肥料栽培と出会う>

2024-04-23 15:51:03 | 「学生時代」
 畑を始める前から、私は既にミミズに興味を持っていたようです。「ミミズの話」という本を買い、読んだ感想がノートに記されています。畑を借りる少し前のことでした。それから新聞で、ミミズを養殖しているという記事を見て、堺市からわざわざ神戸まで見学に行っています。そこで数匹のミミズを分けてもらい自分の部屋で飼育を始めました。これが畑を始める1カ月ほど前のことであったことはノートを見て分かりました。
 この時期に「有機農法」という本も読んでいます。それで、畑を始めたときは有機農法でやるつもりでした。この本の発売所が農文協(農山漁村文化協会)となっていて、それでこの出版社が出している「現代農業」という雑誌を知り、図書館でこの雑誌を読んでいるときに一つの記事に目が留まりました。その記事の著者が岸和田に住んでいるということなので訪ねてみました。そこで初めて「無肥料栽培」という言葉を聞いたのです。これが1976年5月16日のことで、畑を始めてから間もないときでした。
 「無肥料」、そんなことは不可能だと思いました。肥料なしで野菜の育つはずがないというのが当時の私の心境です。それで最初は有機農法を基本にして堆肥を作り、鶏糞なども使いました。やはり、子供の頃の「裏の畑」が私にとっての畑で、これが私にとっての原風景だったのでしょう。

 「有機」とは「無機」に対する言葉でしょう。農業は元々自分たちの食べるものを作ることから始まったわけで、収穫量を増やすために「肥し」を施すようになり、近代になって植物生育の研究から「肥し」の働きを、化学物質を用いて行わせることができるようになったということです。それで、化学肥料を使う方法をそれまでの農法に対して近代農法と呼んでいましたが、次第にその問題点も指摘されるようになりました。そこで無機物質である化学肥料を使わない形で農業を行う人たちが現れ、有機農業と称したのでしょう。これには以前からの農法に戻る場合もありますが、それとは違った農法を模索している場合もあります。どちらも産業として社会に食料を供給するという立場なので、ある程度規模が大きくなります。
 私の場合は「自分の食べるものを作りたい」というだけだったので「食料生産」というような大それた考えはありませんでしたが、農業関係のものを見ていると「産業」として成立するかどうかが「農法」というものの前提条件になっているようでした。

 その頃の私は「科学的なもの」の方が優れているという印象を持っていました。だけど同時に、郷愁や知恵を感じさせる「昔のもの」にも心を惹かれるところがあり、それらの狭間で揺れながら「本」を参考にしていろいろ試して行ったのです。
 有機農法ということで堆肥を作ってみると、材料を切り返して混ぜるとき、もうもうと立つ湯気を見て感動したものです。これが発酵か、効きそうだなと思いました。だけど畑に施すとすぐになくなってしまいます。十分な量の堆肥を作るには膨大な量の草が必要なことを知り、畑に生える草だけでは量的に無理だなと分かりました。そうなると化学肥料か、しかし…。
 「無肥料栽培」という言葉を聞いて以来、無理だとは思いつつもこれがずっと気にかかっていました。『無肥料でできればそれに越したことは無いのだが…。』岸和田の畑は何度も見せてもらいましたが、作物が小さいだけで作り方は普通の畑とあまり変わらないように思いました。結局、私は化学肥料を使いたくないという気持ちだけで「無肥料」になって行ったように思います。農芸化学科の学生であったにもかかわらず、です。

 野原状態で放置してあった場所は草を取って種を播けば何でもたいていよく育ちますが、そのあとだんだん生育は悪くなって行きます。この意味をずっと考えていました。野原状態というのは土地を肥沃にするのだろうかということです。草を取ることで地面に光が当たるようになり、耕すことで土の中に空気が入り、養分の分解が進んで肥料分が増えるという説明もあります。が、実際のところはどうなのでしょうか。
 焼畑も数年続けて生産力が落ちてくると放置して自然状態で「地力」の回復を待つ、といいます。その後、森を焼いたときにできる灰が肥料分になるといいますが、それが何年間ももつとは思えません。やはり放置状態の間に土が肥料分を蓄えたと考える方が合っているような気がします。
 確かに無肥料状態だと野菜の生育は貧弱です。しかしそんな畑でも草はどんどん生えます。これはどういうことなのでしょう。野菜は草に比べて競争力が弱いから、と単純に考えてしまっていいのでしょうか。草が生えている場所は野原に近い状態で自然に近く、それなら生き物がたくさん棲み、地力を回復する過程になっているのではないかと考えたいのですが…。
 草をいろいろ見ているうちに土地によって野菜や草の様子がかなり違うことに気付きました。葉の色や茎の太さなどは場所によってかなり違います。草でも野菜でも、肥料分の多いところに育つものは緑色が濃く、だんだん私にはそれが「毒々しく」感じられるようになってきました。一般的には「立派な」野菜と評価されるものが、です。施肥された畑で育つ野菜は繁茂して力強く見えるのですが、私にはそれがボディビルで作り上げた肉体のように見え、そこからは不自然極まりない異様さを感じてしまいます。が、無肥料だと、「それでも野菜か」と言いたくなるくらいちんちくりんのものまでできます。今の野菜は施肥栽培を前提としている品種だから自然状態で育つのは難しいのでしょう。

 今、畑は大根の白い花でいっぱいです。やがて種をつけて熟すと何処からかカワラヒワが群れでやってきます。そして莢をつついて破り、種を食べるのですが、そのとき種が飛び散ります。その種が発芽してまた大根が生えるので種まきはしていません。つまり自生しているのです。他にもゴボウ、ニラ、ラッキョウ、里芋、コンニャク、ネギやチャイブなどは自生しています。半野原状態の畑の中で草を取りながらそれらの芽を見つけると残しておくのです。所かまわず生えて来るので耕すことも止めてしまいました。野草ではノビルやタンポポをたくさん食べます。イチゴも強いですね。草むらでも平気で増えて行きます。ジャムにするので年中食べています。
 ミミズがたくさんいるのでモグラも多いです。去年は野ネズミに落花生を全部食べられてしまいました。これにはガッカリしましたが、これも自然なら仕方ありません。無為自然。いつの間にか無肥料栽培を通り越して、今は栽培自体の放棄に近付いています。これが自分の終着点かも知れません。
2024年4月23日

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目撃、イタチは、やはり!

2024-03-20 14:20:11 | 「遊去の部屋」
<2005年5月3日に投稿>
 4月半ばのことでした。いつもの川岸を散歩していたときです。向こう岸の草むらを茶色いものがちょろちょろ動くのを見ました。向こう岸といってもすぐ近くです。川幅が20mくらいで、向こう側半分は草が茂っていて大雨の時以外はたくさんの生き物たちの棲家になっています。年に数回、濁流が川幅いっぱいに流れることもあるので、そのときには小鳥の巣などは全部流されてしまうのでしょう。それでも生き物たちはそんなことにはめげず、水が引くと、また、たくましく生活を再開しています。
 イタチは、どうなっているのかと思うほど細長い体をしています。そして敏捷に動き回るのですが、妙な癖があって、何秒かに一度ピタリと動きを止めるのです。その度に頭を高く上げてあたりの様子を窺い、すぐにまた行動を再開するという具合で、余計なことですが、ちょっと滑稽でさえあります。実際、川岸の草むらの中にいるときはこちらからは見えないのに、警戒のために頭を上げたときだけ見つかってしまうという、実に奇妙なことになっているのですが、本人は全く気付いていません。
 茶色の頭が草むらからちょろちょろ顔を出して、それがだんだん水際の方にやってきました。そして、水際のすぐ後ろの草の陰からちょっと顔を出すと隠れるように水面を覗き込んでいます。そして、次の瞬間、ひょいと水際の砂のところに飛び出るとそのまま川を泳ぎだしました。50cmくらい泳いだところでじゃぼんと水を撥ねて潜ると、上がってきたときには口に銀色の魚をくわえていました。あっという間の出来事です。そのまま泳いで川岸に戻り、そこでもう一度頭を上げて振り返るようにあたりを見るとすぐに草むらの中に姿を消しました。
 私は、TV番組ですが、前に四国の四万十川でイタチの毛皮を使った漁というのを見たことがあります。それは冬場のウグイ漁で、ウグイのイタチを恐れる習性を利用したものだということでした。本物のイタチの毛皮を棒の先につけて、ウグイの隠れている岩の下に突き込むと大きなウグイが、ゆっくりとですが、逃げ出して来るのです。私が疑問に思ったのは、あの大きな図体のウグイが、失礼ながら、イタチごときに恐れをなすものだろうかということでした。
 今回、イタチが捕らえた魚もせいぜい5,6cmくらいの大きさでした。しかし、イタチが魚を取るということは本当でした。そこで、この溝を埋める仮説です。
 大きなウグイにも子供の時代があります。子供のときは、魚は群れになって過ごします。そのとき、いきなり水面に茶色いものが現れて、水の中に潜ってくると仲間が一匹いなくなった。茶色いものはすぐに消えてしまったが、あたりには得体のしれない匂いが漂い、それが「恐怖」と結びつく。これが生き残ったものの心にトラウマとなって残り、体が大きくなったあとも拭うことができないで、茶色いものとあの匂いを嗅ぐと思わず浮き足立ってしまうという…。魚に足はありませんが、悪しからず。

注)トラウマ trauma 心的外傷、あとにまで残る激しい恐怖などの心理的衝撃や体験。
 こんな心理学の専門用語が一般化するなんておかしな世の中だと思います。私の使っている広辞苑第4版には載っていません。それを、前に中学生が、「それがちょっとしたトラウマで…」と話すのを聞いたことがあります。
 ついでですが、「心的外傷」という表現もよく見るとおもしろいですね。
2005年5月3日


★コメント
 先日もイタチを見ました。山の斜面でガサガサと音がするのでそちらを見ると黄土色の生き物が動いていました。私は気功をしていたのですが、殆ど動かないので生き物がよく出てきます。
 前に山の中の棚田の跡で気功をしているとすぐ下の水路でバシャバシャと水の中を走る音がしました。幅30㎝くらいの狭い流れですが私の前のところでいきなり畔の上に何かが飛び出しました。黄褐色の背中が見え、イタチだなと思った瞬間、何か気配を感じたのか、こちらを振り返ったのです。あの時の驚いた顔は今も忘れません。パニック状態で、脳が対応できなくなったのでしょう。ギョッとした顔で反り返って倒れそうになりましたが後ろに延びた長いしっぽに支えられ、辛うじて転倒は免れました。そして、ぎこちなく体を動かしながら逃げて行ったのです。人間なら「腰を抜かした」というところでしょう。タヌキなら気絶したかも知れないなと思いました。
2024年3月20日


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