<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

「やまなし」ライブ

2024-06-21 15:09:59 | 「遊去の部屋」
<2005年8月18日に投稿>
 先日、ライブで「やまなし」を弾きました。これまでに20回くらいはやっています。ギターを弾きながら自分で朗読していますが、もともとは朗読とギターの二人用に作りました。二人で、といっても、相手のことが頭に入ってないとうまく合わせることはできません。それで、一人、ぶつぶつ朗読をしながらギターを弾いているうちに何となく一人でもできそうな気がしてきたのです。
 初回は朗読を頼んで二人でやったのですが、それから一年くらい練習したら何とか一人でできるようになりました。今から思えば「かろうじて」というところではありましたが、そのときは「不可能だ」と思っていたことができたのですから、「かろうじて」でも充分、達成感はあったのです。
 それ以来、一人で朗読しながらギターを弾くという形が定着したのですが、これをきっかけに私の物事への取り組み方が大きく変わったように思います。一つは本の読み方です。若いときは誰でもそうだろうと思うのですが、とにかくたくさん読みたい、読んだ本の数が増えることに一種の喜びを感じるところがあって、本棚の本の数が増えた分だけ自分も大きくなったような気がしたものです。青年期はそれでいいと思っています。裏を返せば、これはそれだけ自分の中身に信をおけるものがないからで、そこを外部の、頼れそうに見えるものでカバーしようというわけでしょう。この傾向は、その「頼れそうに見えるもの」も、実はたいして当てにならない、かなりいい加減なところがあるものだと感じるようになるまで続くのですが、たいていはその前に実生活の方が忙しくなり、そちらに流されてしまうので、何かに行き詰まったり、世の中の枠からはみ出たりしない限り、部分的には感じても全般としてそういうことに気付く機会は少ないだろうと思います。「権威」が幅を利かせられる所以です。
 以前は、同じものを読み返すよりは新しいものを読みたい、つまり、同じものを繰り返し読むことはそれだけ新しいものが読めなくなるわけですから、それは時間の浪費、あるいは新しい世界を知るチャンスの放棄だという気がして仕方がなかったのです。もちろん、一度読んだくらいでその内容をマスターできるわけがないことは分かっていましたが、一回読んで、その内容がどのくらい身につくかの「程度」に関しては全くの誤算であったというしかありません。それに、『一度おもしろいと思った本は何度読んでもおもしろい』なんて夢にも思わなかったことでした。これは映画でもTV番組などでも同じです。『おもしろいものは何度見てもおもしろい』、こんなシンプルな事柄に気付かずに何十年も生きてきたというのは実に浅薄な生き方をしてしまった証でしょう。

 朗読の練習をするときには何百回という単位で読みますが、これは作家本人が読む回数より多いでしょう。だいたい全部覚えてしまいます。楽器を弾きながら読むのはさらに難しいので、全部覚えてからでも百回くらいの通し練習ではどうにもなりません。そうしているうちに、一つ一つの言葉の意味するものがだんだんとその姿を現してきてイメージがどんどん豊かになってくることに気付きました。これは自分で物語を知らず知らずのうちに演出しているためではないかと考えています。たとえば、映画監督や舞台の演出家などは原作を読みながらそれをどのように形に表したらいいかを常に想い描いているわけですが、それに似た作業が何度も何度も読んでいるうちに頭の中で繰り返されているためではないでしょうか。何度読んでもいつも新鮮に感じるのはそのあたりに理由がありそうです。
 言葉は、いったん頭に入っても大抵は言葉のままで、つまり観念として捉えただけで通り過ぎてしまい、その意味するものが、頭の中で具体的にイメージされるということはあまりないと思います。たとえば、「赤い靴」という言葉を聞いたとき、あるいは読んだとき、赤い色と靴を具体的に思い浮かべる人は殆どいないでしょう。そんなことはないと思われるかも知れませんが、「赤い色」といっても実は無数にあるわけで、その中のどの赤をイメージしたかを考えてみればそのあたりはかなり曖昧だということが分かるでしょう。「靴」の場合も同じです。靴も無数にありますが、どんな形の靴をイメージしたか、大きさは、踵は、つま先は、紐は…と考えるとだんだん怪しくなってきます。その点、これが絵に画かれたものならば一目でその両方を受け取ることが可能です。
 言葉も、絵のようではありませんが、「赤い靴」、「赤い靴」と同じ言葉を繰り返し、繰り返し唱えているとだんだんと具体的なイメージ(色や形まで見えなくても、それを見たときに感じる感覚)が伴ってくるものです。このとき頭に浮かんだイメージは、絵とは違って、一人一人違うわけで、それはその人のそれまでの経歴、あるいは経験(つまり、バックグラウンド)を反映したものになっているのです。
 これは脳の働きによるものだと考えています。言語を捉えるとき、それを観念として捉える場所とイメージとして再現する場所がそれぞれ違っていて、両者は互いに連携してはいるのですが、ただ、連動するには、ある程度の「時間」が必要なのではないかと思います。言語は左脳、イメージは右脳という見方をしても構いませんが、両者は同時に働くとは限らないということです。
 言葉の情報は、読むときでも、聞くときでも次から次へと入ってきます。脳は、それを次々と(解析)処理しなければなりません。最初は左脳で観念として捉え、どういうものか理解します。それから次に右脳でその観念に伴うイメージの引き出し作業が行われることになりますが、ここで一つ問題が出てきます。「観念」と「イメージ」ではデータ量に桁違いの差があるのです。パソコンで文字を表示するのと写真を表示するのを比べればかかる時間がまるで違うのと似ています。
 言葉が次々とやってくるときにはそれを次々と観念に置き換えていく必要があるので、その一つ一つをいちいちイメージ化する余裕はありません。それでも、個人的に強い結びつきをもった観念はイメージ化されるので、結局、一人一人が受ける印象はかなり個人差のあるものになってしまいます。同じ言葉を聞いても、ドキンとする人もいれば何とも感じない人もいるわけですから。
 次々と入ってくる言葉から、何が起こっているのかという状況を理解したり、次に自分のするべきことを考えたりというような、日常生活する上で必要な事柄は「観念」として捉えれば充分にこなせます。ところが、「味わう」となるとそうは行きません。ここで言葉に伴うイメージが大きな役割を果たすことになるのですが、このイメージ化の能力は当然のことながらかなりの個人差がありますから、同じ言葉を聞いても、「味わえる」かどうかは人によるということになってしまいます。
 個人差はあるにせよ、言葉を聞いたとき、それをどの程度イメージできるかは、入ってくる情報量にもよるわけで、これを減らせば、つまり、「ゆっくり」話せば、あるいは読めば、イメージ化はよりしっかりと行われるわけですから、聞き手がその余裕を持てるように相手の様子を見ながらゆっくり話せば、その「味わい」は相当違ったものになる可能性があるはずです。
 もう一つは、言葉を発する前に、次に来るものを予想できるような手を打つことです。次に来る状況が明るいものなのか、暗いものなのか、あるいは緊迫した場面なのか、リラックスしたものなのか、そのあたりを音で下準備をしておくとさらにイメージしやすくなるのではないかと考えています。音ではありませんが、和歌の枕詞はその類ではないでしょうか。のびやかな枕詞を聞いているうちに、聞き手の心はしっかりと次の言葉を受け止める準備を整えるわけで、そこへメインの言葉が登場するわけですから、言葉と同時にイメージやそれにまつわる気分なども一気に心に湧き上がるという仕組みになっているのでしょう。中学生のとき「枕詞には意味はない」と習ったことを覚えていますが、そのときには随分無駄なことをするものだと思ったものでした。今では万葉人のその大胆さに感心しています。たった31文字のうち、5文字もこれに割(サ)くというのはただごとではありません。
 いずれにせよ、ここで描かれるイメージは個人的なものになりますから、それからどんな印象を受けるかは個人と強く結びついているわけで、演奏する側としては、ひとりひとりのイメージ化がより強く行われるように工夫を重ね、あとはそれらが一人一人の中でいい実を結ぶように祈るしかありません。

 この「やまなし」の練習も初めは本や楽譜を見ながらしていましたが、弾こうと思ったときにいちいち楽譜を開けたり、本を用意したりするのは面倒です。それに本を見ながらの練習となるとどうしても練習時間が限定されてしまいます。だいたい私は元来面倒くさがり屋です。結局、細部まで全て覚えてしまいました。それ以降、朗読の練習は車を運転しているときや散歩をしているとき、それに風呂に入っているときなどの楽器を持てない時間が使えるようになったので随分余裕ができました。
 ライブでも初めは楽譜(本)を立てていたのですが、3年前くらいから楽譜を立てるのも止めました。楽譜を立てていると全部覚えていてもページの終わりにくればやはりページをめくってしまいます。楽器を弾きながらということもあり、それが次第にうっとうしくなってきました。
 初めて何も見ずにライブをやったときは、とにかく言葉を忘れないか、それが何より心配でした。ところが、いざ始まってみると、聞き手とまともに顔を向かい合わせることになってしまうのでどうもやりにくいことに気付きました。楽譜を立てているときには楽譜の方を見ているので聞き手とまともに顔が合うことはありません。演奏中は頭の中に自分の描くイメージを保ちたいと思うのですが、目の前には現実そのものが控えているのです。目が合ったりするとどうもバツが悪いので視線を合わさないようにするのですが、一人一人の様子は実によく見えます。じっとこちらを見ている人もいれば、腕を組んで考え込むような姿勢をしている人もいます。聞いているのか居眠りしているのかもわかりません。だいたい大勢の前で何かをするとき、相手がおもしろいと思っているか、つまらないと思っているかということをつかむのはそう簡単ではありません。それで演奏中でもそのあたりを探りながら弾いているのですが、それがなかなか掴めず、『こんなことならしない方が良かったかな』という気分になることの方が多いです。私自身は「やまなし」はすばらしい話だと確信しているのですが、それでも『みんながそう思うわけではないだろう』という気がしてくるのです。しかし、いったん始めた以上、途中で止めるわけには行きません。それで、あの手この手で自分自身を励ましながら弾き続けるのですが、残念ながらこれといういい手はないようです。目を閉じて弾くということもしてみましたが、普段そんなことはしないので却って不安な気分になるだけでした。それで、『楽譜を立てるだけでも立てた方が良かったかな、今度はそうしよう』というようなことを考えたりしているうちに終わりになってしまうことが多く、結局、雑念の中をさまよっているだけというのが現状です。
 あるとき、演奏中にふと窓の方を見たことがありました。そこは4階で、広い窓は海に向かって開いています。そこからは、いわゆるリアス式海岸で、静かな海に突き出た半島が入り組んでいくつもの小さな入り江を作っている様子が見えました。そして、その上空ではトンビが3羽、ゆったりと上昇気流に乗って、大きく弧を描きながら旋回しています。時おり、ピーーヒョローーーという間の抜けたような鳴き声も聞こえてきます。白い雲を背に大空を滑るように飛ぶトンビたちの長閑(ノドカ)な様子を見ていたら、一瞬、自分が演奏中であることを忘れてしまいました。演奏は電池の切れかけたオモチャのように止まりかけ、その音にハッと我に返ったのですが、一瞬、立ちくらみをしたときのようにわけがわからなくなりました。
 ほんの1,2秒のことだったと思います。でも、それは自分が如何に精神的に力んでいるかに気付いた瞬間だったのです。「やまなし」はいい作品だから是非それを知ってほしいと思ったり、ここをファンタジックな感じにするにはどう弾けばいいか…などなど。そんなことに気を取られ、自分が作品全体に抱いている気分はどこかに行ってしまっているのです。
 トンビたちは、眼下に広がる海原を眺めながら、耳元を切る風の音を聞いて、『ああ、いい気分だ』とでもいうようにピーーヒョローーーと鳴いているのでしょうか。そして、その気分が私の心に同調して私までいい気分になったのかも知れません。これからは私も自分が作品に抱く心地良さだけを感じつつ弾きつづけてみようかなと思います。そうすれば、中にはそれに同調する人もいるでしょう。おそらく、このあたりに生身の人間の演奏する良さがあるのではないでしょうか。
 その日は、そのあと、特にあわてることもなく演奏を終えることができました。トンビのことを考えながら、カニの親子の話を朗読して、指は指で勝手に弦を弾いている。頭の中はどうなっているのだろうという気がしてきて、そこに聞き手のいろいろな表情をした顔が目に飛び込んでくると、そのちぐはぐさにわけのわからないおかしさがこみ上げてきます。しかし、そういうことは演奏の表面には表れず、流れるままに時間が過ぎ、そして、最後の音を弾いたときには何となくいい心持ちで、今日は弾いて良かったなと思いました。
 これ以降、演奏中に言葉を忘れたり、音を忘れたりすることが増えました。どうしてなのか分かりません。緊張して忘れるというのはよくありますが、私の場合は気が緩み過ぎているみたいです。音としてはその方が聞いていて心地良いはずなのですが、途中で忘れてしまっては仕方がありません。とはいえ、ほんの一瞬のことですから、聞き手も全体の気分としては充分保てると思います。それなら、忘れないようにと神経をビリビリさせるより、少しくらい詰っても、とろっと眠いようなアルファ状態の穏やかな脳で弾き続けた方がいいかなと思います。もちろん、詰らない方がいいに決まっているのですが、それにしてもツマラナイ方がいいとはおかしな話になりました。
2005年8月18日


★コメント
 これは高校で非常勤講師をしていたときの話で、今もよく覚えています。たいていは化学を教えていて、最後の授業の日にはテストを返した後で「やまなし」を弾いていました。「クラムボンは笑ったよ」、たぶん生徒たちは喜んでくれたと思いますが、こうして終われたのは良かったです。
 今回、この記事を取り上げようと思ったのは、陰になった暗い棚の隅が気になって覗いてみると奥の方にMD用のケースを見つけたのです。中には10枚くらい入っていました。取り出してみると、それは教室でのライブ録音でした。2001年3月9日となっています。ついさっき聴いてみました。23年前の録音で、生徒の声も入っています。この時の演奏は初期の形でした。かなり早く朗読もよくありません。まるでへたです。25分もかかるのに、それでも生徒たちは静かに最後まで聴いてくれました。こんなところから始まったのかと思いました。この翌日にも家で録音していて、こちらはかなりマシでした。生徒の前で弾くのはやはり焦るようです。

 実は一昨日「やまなし」を弾きました。86歳になる長姉は去年から体調を悪くしていたのですが、少し良くなってきたということなので兄と次姉と一緒に様子を見に行きました。兄が車を運転し3時間半かかりました。長姉の家の居間で昼ご飯を食べ、いろいろ話をした後にギターを弾いたのですが、「やまなし」を弾こうかなと考えたのは4,5日前のことなので練習する時間はあまりありませんでした。音を思い出すのが精一杯というところです。MDを見つけたことがきっかけで、それまでは違うものを弾こうと考えていたのですが、こうして会えるのは最後になるかも知れない機会ならこの「やまなし」をみんなに聴いてもらおうという気になりました。まあ、うまく行かなくてもこれがいいだろうと思いました。いくつか間違いもありましたが、義兄が喜んでくれたので嬉しかったです。弾きながら、自分にもできることがあって良かったなと思いました。
2024年6月21日
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