<2004年12月30日に投稿>
といっても、何も特別なものではありません。英語版の「 The Wild Pear 」を録音したときの話です。そのときのことは、私が話さない限り誰も知らないわけで、だから、そこでの出来事は片っ端から自動的に秘話になってしまうというわけです。
2002年7月15日。朝から晴れ上がり午前中に早くも30度を超えた…かどうかは覚えていませんが、とにかく暑い日でした。「 The Wild Pear 」の録音日です。英語版の原稿は3週間くらい前にFに渡してありました。F、と頭文字だけを書くと、とたんに謎めいてくるのはどういうわけでしょうか。今回は「秘話」ということなのでこちらの方がいいかもしれません。Fはイギリス人。一年前に日本にやってきてALTとして高校で働いていたのですが、2,3日後には日本を去ることになっていました。この日は、録音できる最初で最後のチャンスだったのです。
私は、それまで彼女の朗読を一度も聞いたことがありませんでした。一応、私が英語で録音したテープを渡してあったのですが、それは言葉と音とのタイミングを伝えるためのものでした。果たしてどのくらい伝わっているものやら、それは実際にやってみるまで分かりません。
LL教室に入って、座る場所やマイクの位置を決めてから、一通り打ち合わせしながらざっと作品全体を流しました。そして、時間の関係で、前半だけを一気に録音することにしました。学校というところは定期的に鐘のなるところです。だから、その間を縫うようにして録音しなくてはなりません。次の鐘が鳴るまでには前半一回分の時間しか残っていませんでした。
Fは、さっと立ち上がると窓の方へ行き、次々窓を閉め始めました。実は、私は躊躇していたのです。それまで教室の窓は全部開け放してありました。まあ暑いことは暑かったのですが、それはまだ夏の暑さのうちでした。しかし、窓を閉めればとたんに教室は蒸し風呂のようになります。私が1人で録音するのなら何の迷いもなく窓を閉めますが、イギリスのさっぱりした夏しか知らない彼女のことを考えると少々いろんな音が入ってもこのままの方がいいかなという思いがありました。実際、彼女は、慣れない日本の暑さのせいでこの数日食欲も殆どなくしてしまっているようでした。それに彼女はまだ若く、学校を出たばかりで、仕事の上でもふんばらなければならないようなキャリアは全く積んでいなかったので、この録音に対しても、その取り組みに果たしてそれだけの価値を認めてくれているかどうか分かりませんでした。
Fは大学を卒業してすぐに日本にやってきました。ALTが彼女の最初の職業でした。そして、その関係から生徒にイギリスを紹介するために、初めてイギリスのスコーンを焼いたのです。イギリスにいるときはすべてお母さんがしてくれていたので、これはたいへんと、お母さんからメールでレシピーを送ってもらい、自分のアパートで初めて試し焼きをしたのです。外国のことを勉強して自国のことをよりよく知るようになるというのはよくあることですが、彼女の場合はイギリスでは一度も料理をしたことがなかったそうです。そのためか、初めて自分でスコーンを焼いたときにはちょっと興奮気味にすら見えました。
ミートパイは彼女の好物の一つです。私は、名前は聞いたことはあるものの実物は知りませんでした。それでそのレシピーを教えてもらい、家で作ってみました。不思議な味でした。本当にこんな味なのか。これでいいんだろうか。それを確かめるために彼女に少し持っていきました。彼女は、ふたを開けると、「わあ、ミートパイ!」といって、一気に全部食べ切ってしまいました。少しは味をみて食べてほしかったのですが、やはりまだ子供だなあというのが私のそのときの印象です。
彼女が窓を閉め始めたのを見て、私もその気になりました。私は彼女に、途中ミスがあってもそのまま続けて最後まで行くことを告げると、ちょっと気持ちを整えてからプレリュードを弾き始めました。すぐに全身から汗が噴き出しました。汗が流れるのを我慢しながら、これは彼女にはちょっと酷だなと思いました。しかし、彼女の方は緊張していて暑さどころではなかったようでした。終わったとき、彼女は『私がもう一度やりたいのならやってもいい』と言ってくれました。私は、この環境ではとても続けられないと思ったのでクーラーのある図書室に行くことに決めました。
鐘が鳴り休憩時間になりました。休み時間に、生徒たちで混雑する廊下を、楽器を持って移動するのはちょっと気が引けましたが、4限目の始まる前に移動して録音のセットをしてしまえばたっぷり50分使えるから何とかなるだろうと考えて図書室に急ぎました。図書室のある棟に入ると、外からすごい騒音が聞こえてきました。生徒の声ではありません。耐震工事の音でした。隣は体育館なのですが、屋根といわず壁といわず、あちらでもこちらでもドリルでバリバリと穴を開けています。絶望だと思いましたが、図書室の中に入れば少しは静かになるのではないかと図書室の扉に一縷の望みを託しましたが全くお話になりませんでした。とりあえず一度後半を通してからどうするか考えようと思い、司書の人に許可をもらって録音の準備をしました。
一通り流した後、どうするか決めなければなりませんでした。LL教室に戻るか、この騒音の中で録音するか。時間はやはり一回分しか残っていません。騒音はあるとは言っても朗読が聞こえないほどではありません。今から歩いてLL教室に戻り、録音のセットをする時間のロスを考えるとここで録音した方がいいだろうと判断しました。それでも少しでも雑音を減らしたかったので、司書の人に理由を話してクーラーを止めてもらいました。
ドリルの音を気にしながら後半のプレリュードを弾こうとしたときでした。ピタッと音が止んだのです。工事が昼休みに入ったのでした。授業時間は12時半まで続きます。ということはまだ30分あります。15分前に録音を終えてクーラーをつければ昼休みには十分涼しい状態にできるでしょう。千歳一遇のチャンスとはまさにこのことです。顔を見合わせた私たちはこの瞬間に息がピタリと合いました。
8月に入っても私の練習は続いていました。一日に7,8時間は練習するのですが、それでも録音となるとうまく行きません。そのうちに今度は歯の痛みがどんどんひどくなってきました。歯の痛みは5月くらいからあったのですが、虫歯ではないのです。硬いものを噛んでいるうちにとうとう痛みが引かなくなってしまったのです。これまでは、少し硬いものを噛んで痛みが出ても2,3日すれば治まっていったのに、今回は様子が違います。でもガマンできないほどではありません。それで何とかなだめすかしながらやってきたのですが、ここに来てとうとう言うことを聞かなくなってしまいました。
鈍痛が出てくると何もできません。ただ、頬に手を当ててうずくまっているしかないのです。ところが、あるとき熱い飲み物を口に含むとしばらくは痛みが和らぐことに気付きました。それからはコーヒーを一口飲んでは練習し、また一口飲んでは練習するという生活になりました。それでも練習の成果が感じられる間はまだ良かったのです。あるところまで来ると「仕上がりの形」というものが見えなくなってしまいました。ああやってもだめ、こうやってもだめで、堂堂巡りを繰り返すだけでした。現在の実力ではここまでということでした。完成させるには、まだ何年か熟成させる必要があるのです。それでとりあえず仮仕上げということで録音することにしました。
英語版を録音したのにはいくつかのわけがありました。もちろん、ベースにあるのは、この作品を外国の人たちにも是非知ってもらいたいということなのですが、もっと身近な動機としては、Fがイギリスに帰った後でも、これをCDにして図書室に置いておけば、生徒たちが見つけるかも知れません。何かなと思ってかけてみたら、いきなり聞き覚えのある声が出て来る…という仕掛けをしておいたらおもしろいだろうと思ったのです。声色は楽しめても、英語では意味が分からないだろうから日本語版もいるだろうということなので、日本語版は「完成品」でなくてもいいわけです。ライブでは何度もやっているので軽く考えていたのですが、いざ、録音してみると、それはもう聴くに堪えないものでした。それでずるずると深みにはまってしまうことになりました。
一週間の盆休みを利用して録音に取り組みました。絶望的に思えたり、何とかなりそうな気配がしたり、悶々とした日が続いていましたが、いよいよ時間がなくなってきました。今日か明日かで終わらなければなりません。それは、Fが9月には仕事を探しにドイツに行くことになっていたからです。8月中にイギリスに着かないと彼女がそれを聴くのはクリスマスということになってしまいます。私はまだCDの作り方も知らなかったのでその操作を覚えるのにも時間が必要でした。私は今日で録音を終わりにすることに決めました。
8月19日。かんかん照りの日でした。全部の雨戸を閉め、冷蔵庫のコードをコンセントから外し、電話を「おやすみモード(呼び出し音の出ない状態で、これは特に昼寝のときには便利です。)」にしました。椅子の上にはバスタオルを重ね、足元にもタオルを敷きました。それから熱いコーヒーを用意すると、裸になりました。これならどれだけ汗が流れても問題ありません。もうすでに玉になって汗が流れています。熱いコーヒーを一口含むと、そのまましばらく保ち、歯の痛みが引くのをじっと待ちました。それからMDのスイッチを入れると、意を決してプレリュードを弾き出しました。
当然のことながら、クーラーも扇風機も音のするものは一切ありません。真夏日に雨戸を締め切った部屋の中で、頭は上から蛍光灯に照らされて、殆どのぼせたような状態です。いつもなら演奏を始めると同時に、よそ事が次々と頭に浮んできてそれを止めることができずに苦しむのですが、この日は何かぼんやり考えていたような気はするものの、気が付いたらもう最後に来ていたという感じでした。かえってこの条件が良かったのかも知れません。
結局、CDが出来上がったのは8月の末でした。機械がうまく動作せずメーカーに問い合わせたりする必要が出てきたため随分手間取ってしまいました。仕上がったCDを初めて聴いたときの喜びは平静さを失うくらいのものでした。機械が壊れてしまったらどうしようという不安が湧き起こり、何枚か複製を作って、それでようやく安心できたくらいです。「駆けつけ3杯」といいますが、私はこのCDを連続5回くらいは繰り返して聴きました。それで気が付いたのですが、CDからは録音のときのあの暑さや歯の痛みなどは全くその気配すら感じることができません。舞台裏が見えてしまってはせっかくの夢もぶち壊しになってしまうことはよく分かっているのですが、それにしてもちょっとさびしい気がしました。
CDがイギリスに着いたのは彼女がドイツへ出発してしまった後でした。それで彼女がCDを聴いたのは結局クリスマスにイギリスに帰ったときになってしまいました。彼女のメールからは、自分の朗読がCDになってとても喜んでいる様子が伝わってきて、私も作ったかいがあったと思いました。そのときには、私はもう次の作品に取り組んでいましたので、初めてCDを作ったときの興奮はさめてしまい、いつ終わるとも知れない作業に少々疲れ気味になっていたのですが、それを聞くと、私も、あの完成時の興奮を思い出し、すっかり元気になりました。我ながら、つくづくシンプルにできてるなと思います。
英語版はその後何人かの外国人に聴いてもらうことができました。楽しんでくれていると思います。その印象を聞くたびに私もまた元気をもらっています。そのたびに他の作品も英語版を作ろうと思うのですが、こちらの方は一向に進みません。まだエネルギー不足です。でも数年後にはいくつか完成させたいと思っています。その日のために朝はいつも発音練習から始まります。 She sells sea-shells, sherry and sea-shoes.
2004.12.30
★コメント
このところ、流れが一気に「やまなし」に向かって進んでいます。今、The Wild Pear のこの時の録音をユーチューブに上げようと準備をしているのですが、20年以上も前の録音がそのまま残っているということ自体不思議な気がします。録音のデータはCD-Rから取りました。Fionaの声、こんなのだったか、録音しておいて良かったなあと思いました。それで今回の記事のことを思い出し、読んでみて、この出来事も一緒に載せたいなあと感じました。実はこの記事の前半は英訳してFionaにメールで送ってあるのです。20年ぶりに、今朝、それを読んでみました。これでいいのかなあ、怪しいが、まあいいか、という部分が何カ所もあります。相手がFionaならおかしな英語も分かってくれると思って書いているのですが、それがユーチューブに出すとなると躊躇する気持ちが起こります。だけどこの録音はこの裏話があってこそ親しめるもののような気がして迷っているのです。考え方によれば、「おかしな英語」自体を楽しむことができる機会になるかも知れないのですが、…。
2024年7月20日
といっても、何も特別なものではありません。英語版の「 The Wild Pear 」を録音したときの話です。そのときのことは、私が話さない限り誰も知らないわけで、だから、そこでの出来事は片っ端から自動的に秘話になってしまうというわけです。
2002年7月15日。朝から晴れ上がり午前中に早くも30度を超えた…かどうかは覚えていませんが、とにかく暑い日でした。「 The Wild Pear 」の録音日です。英語版の原稿は3週間くらい前にFに渡してありました。F、と頭文字だけを書くと、とたんに謎めいてくるのはどういうわけでしょうか。今回は「秘話」ということなのでこちらの方がいいかもしれません。Fはイギリス人。一年前に日本にやってきてALTとして高校で働いていたのですが、2,3日後には日本を去ることになっていました。この日は、録音できる最初で最後のチャンスだったのです。
私は、それまで彼女の朗読を一度も聞いたことがありませんでした。一応、私が英語で録音したテープを渡してあったのですが、それは言葉と音とのタイミングを伝えるためのものでした。果たしてどのくらい伝わっているものやら、それは実際にやってみるまで分かりません。
LL教室に入って、座る場所やマイクの位置を決めてから、一通り打ち合わせしながらざっと作品全体を流しました。そして、時間の関係で、前半だけを一気に録音することにしました。学校というところは定期的に鐘のなるところです。だから、その間を縫うようにして録音しなくてはなりません。次の鐘が鳴るまでには前半一回分の時間しか残っていませんでした。
Fは、さっと立ち上がると窓の方へ行き、次々窓を閉め始めました。実は、私は躊躇していたのです。それまで教室の窓は全部開け放してありました。まあ暑いことは暑かったのですが、それはまだ夏の暑さのうちでした。しかし、窓を閉めればとたんに教室は蒸し風呂のようになります。私が1人で録音するのなら何の迷いもなく窓を閉めますが、イギリスのさっぱりした夏しか知らない彼女のことを考えると少々いろんな音が入ってもこのままの方がいいかなという思いがありました。実際、彼女は、慣れない日本の暑さのせいでこの数日食欲も殆どなくしてしまっているようでした。それに彼女はまだ若く、学校を出たばかりで、仕事の上でもふんばらなければならないようなキャリアは全く積んでいなかったので、この録音に対しても、その取り組みに果たしてそれだけの価値を認めてくれているかどうか分かりませんでした。
Fは大学を卒業してすぐに日本にやってきました。ALTが彼女の最初の職業でした。そして、その関係から生徒にイギリスを紹介するために、初めてイギリスのスコーンを焼いたのです。イギリスにいるときはすべてお母さんがしてくれていたので、これはたいへんと、お母さんからメールでレシピーを送ってもらい、自分のアパートで初めて試し焼きをしたのです。外国のことを勉強して自国のことをよりよく知るようになるというのはよくあることですが、彼女の場合はイギリスでは一度も料理をしたことがなかったそうです。そのためか、初めて自分でスコーンを焼いたときにはちょっと興奮気味にすら見えました。
ミートパイは彼女の好物の一つです。私は、名前は聞いたことはあるものの実物は知りませんでした。それでそのレシピーを教えてもらい、家で作ってみました。不思議な味でした。本当にこんな味なのか。これでいいんだろうか。それを確かめるために彼女に少し持っていきました。彼女は、ふたを開けると、「わあ、ミートパイ!」といって、一気に全部食べ切ってしまいました。少しは味をみて食べてほしかったのですが、やはりまだ子供だなあというのが私のそのときの印象です。
彼女が窓を閉め始めたのを見て、私もその気になりました。私は彼女に、途中ミスがあってもそのまま続けて最後まで行くことを告げると、ちょっと気持ちを整えてからプレリュードを弾き始めました。すぐに全身から汗が噴き出しました。汗が流れるのを我慢しながら、これは彼女にはちょっと酷だなと思いました。しかし、彼女の方は緊張していて暑さどころではなかったようでした。終わったとき、彼女は『私がもう一度やりたいのならやってもいい』と言ってくれました。私は、この環境ではとても続けられないと思ったのでクーラーのある図書室に行くことに決めました。
鐘が鳴り休憩時間になりました。休み時間に、生徒たちで混雑する廊下を、楽器を持って移動するのはちょっと気が引けましたが、4限目の始まる前に移動して録音のセットをしてしまえばたっぷり50分使えるから何とかなるだろうと考えて図書室に急ぎました。図書室のある棟に入ると、外からすごい騒音が聞こえてきました。生徒の声ではありません。耐震工事の音でした。隣は体育館なのですが、屋根といわず壁といわず、あちらでもこちらでもドリルでバリバリと穴を開けています。絶望だと思いましたが、図書室の中に入れば少しは静かになるのではないかと図書室の扉に一縷の望みを託しましたが全くお話になりませんでした。とりあえず一度後半を通してからどうするか考えようと思い、司書の人に許可をもらって録音の準備をしました。
一通り流した後、どうするか決めなければなりませんでした。LL教室に戻るか、この騒音の中で録音するか。時間はやはり一回分しか残っていません。騒音はあるとは言っても朗読が聞こえないほどではありません。今から歩いてLL教室に戻り、録音のセットをする時間のロスを考えるとここで録音した方がいいだろうと判断しました。それでも少しでも雑音を減らしたかったので、司書の人に理由を話してクーラーを止めてもらいました。
ドリルの音を気にしながら後半のプレリュードを弾こうとしたときでした。ピタッと音が止んだのです。工事が昼休みに入ったのでした。授業時間は12時半まで続きます。ということはまだ30分あります。15分前に録音を終えてクーラーをつければ昼休みには十分涼しい状態にできるでしょう。千歳一遇のチャンスとはまさにこのことです。顔を見合わせた私たちはこの瞬間に息がピタリと合いました。
8月に入っても私の練習は続いていました。一日に7,8時間は練習するのですが、それでも録音となるとうまく行きません。そのうちに今度は歯の痛みがどんどんひどくなってきました。歯の痛みは5月くらいからあったのですが、虫歯ではないのです。硬いものを噛んでいるうちにとうとう痛みが引かなくなってしまったのです。これまでは、少し硬いものを噛んで痛みが出ても2,3日すれば治まっていったのに、今回は様子が違います。でもガマンできないほどではありません。それで何とかなだめすかしながらやってきたのですが、ここに来てとうとう言うことを聞かなくなってしまいました。
鈍痛が出てくると何もできません。ただ、頬に手を当ててうずくまっているしかないのです。ところが、あるとき熱い飲み物を口に含むとしばらくは痛みが和らぐことに気付きました。それからはコーヒーを一口飲んでは練習し、また一口飲んでは練習するという生活になりました。それでも練習の成果が感じられる間はまだ良かったのです。あるところまで来ると「仕上がりの形」というものが見えなくなってしまいました。ああやってもだめ、こうやってもだめで、堂堂巡りを繰り返すだけでした。現在の実力ではここまでということでした。完成させるには、まだ何年か熟成させる必要があるのです。それでとりあえず仮仕上げということで録音することにしました。
英語版を録音したのにはいくつかのわけがありました。もちろん、ベースにあるのは、この作品を外国の人たちにも是非知ってもらいたいということなのですが、もっと身近な動機としては、Fがイギリスに帰った後でも、これをCDにして図書室に置いておけば、生徒たちが見つけるかも知れません。何かなと思ってかけてみたら、いきなり聞き覚えのある声が出て来る…という仕掛けをしておいたらおもしろいだろうと思ったのです。声色は楽しめても、英語では意味が分からないだろうから日本語版もいるだろうということなので、日本語版は「完成品」でなくてもいいわけです。ライブでは何度もやっているので軽く考えていたのですが、いざ、録音してみると、それはもう聴くに堪えないものでした。それでずるずると深みにはまってしまうことになりました。
一週間の盆休みを利用して録音に取り組みました。絶望的に思えたり、何とかなりそうな気配がしたり、悶々とした日が続いていましたが、いよいよ時間がなくなってきました。今日か明日かで終わらなければなりません。それは、Fが9月には仕事を探しにドイツに行くことになっていたからです。8月中にイギリスに着かないと彼女がそれを聴くのはクリスマスということになってしまいます。私はまだCDの作り方も知らなかったのでその操作を覚えるのにも時間が必要でした。私は今日で録音を終わりにすることに決めました。
8月19日。かんかん照りの日でした。全部の雨戸を閉め、冷蔵庫のコードをコンセントから外し、電話を「おやすみモード(呼び出し音の出ない状態で、これは特に昼寝のときには便利です。)」にしました。椅子の上にはバスタオルを重ね、足元にもタオルを敷きました。それから熱いコーヒーを用意すると、裸になりました。これならどれだけ汗が流れても問題ありません。もうすでに玉になって汗が流れています。熱いコーヒーを一口含むと、そのまましばらく保ち、歯の痛みが引くのをじっと待ちました。それからMDのスイッチを入れると、意を決してプレリュードを弾き出しました。
当然のことながら、クーラーも扇風機も音のするものは一切ありません。真夏日に雨戸を締め切った部屋の中で、頭は上から蛍光灯に照らされて、殆どのぼせたような状態です。いつもなら演奏を始めると同時に、よそ事が次々と頭に浮んできてそれを止めることができずに苦しむのですが、この日は何かぼんやり考えていたような気はするものの、気が付いたらもう最後に来ていたという感じでした。かえってこの条件が良かったのかも知れません。
結局、CDが出来上がったのは8月の末でした。機械がうまく動作せずメーカーに問い合わせたりする必要が出てきたため随分手間取ってしまいました。仕上がったCDを初めて聴いたときの喜びは平静さを失うくらいのものでした。機械が壊れてしまったらどうしようという不安が湧き起こり、何枚か複製を作って、それでようやく安心できたくらいです。「駆けつけ3杯」といいますが、私はこのCDを連続5回くらいは繰り返して聴きました。それで気が付いたのですが、CDからは録音のときのあの暑さや歯の痛みなどは全くその気配すら感じることができません。舞台裏が見えてしまってはせっかくの夢もぶち壊しになってしまうことはよく分かっているのですが、それにしてもちょっとさびしい気がしました。
CDがイギリスに着いたのは彼女がドイツへ出発してしまった後でした。それで彼女がCDを聴いたのは結局クリスマスにイギリスに帰ったときになってしまいました。彼女のメールからは、自分の朗読がCDになってとても喜んでいる様子が伝わってきて、私も作ったかいがあったと思いました。そのときには、私はもう次の作品に取り組んでいましたので、初めてCDを作ったときの興奮はさめてしまい、いつ終わるとも知れない作業に少々疲れ気味になっていたのですが、それを聞くと、私も、あの完成時の興奮を思い出し、すっかり元気になりました。我ながら、つくづくシンプルにできてるなと思います。
英語版はその後何人かの外国人に聴いてもらうことができました。楽しんでくれていると思います。その印象を聞くたびに私もまた元気をもらっています。そのたびに他の作品も英語版を作ろうと思うのですが、こちらの方は一向に進みません。まだエネルギー不足です。でも数年後にはいくつか完成させたいと思っています。その日のために朝はいつも発音練習から始まります。 She sells sea-shells, sherry and sea-shoes.
2004.12.30
★コメント
このところ、流れが一気に「やまなし」に向かって進んでいます。今、The Wild Pear のこの時の録音をユーチューブに上げようと準備をしているのですが、20年以上も前の録音がそのまま残っているということ自体不思議な気がします。録音のデータはCD-Rから取りました。Fionaの声、こんなのだったか、録音しておいて良かったなあと思いました。それで今回の記事のことを思い出し、読んでみて、この出来事も一緒に載せたいなあと感じました。実はこの記事の前半は英訳してFionaにメールで送ってあるのです。20年ぶりに、今朝、それを読んでみました。これでいいのかなあ、怪しいが、まあいいか、という部分が何カ所もあります。相手がFionaならおかしな英語も分かってくれると思って書いているのですが、それがユーチューブに出すとなると躊躇する気持ちが起こります。だけどこの録音はこの裏話があってこそ親しめるもののような気がして迷っているのです。考え方によれば、「おかしな英語」自体を楽しむことができる機会になるかも知れないのですが、…。
2024年7月20日