<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

目撃、イタチは、やはり!

2024-03-20 14:20:11 | 「遊去の部屋」
<2005年5月3日に投稿>
 4月半ばのことでした。いつもの川岸を散歩していたときです。向こう岸の草むらを茶色いものがちょろちょろ動くのを見ました。向こう岸といってもすぐ近くです。川幅が20mくらいで、向こう側半分は草が茂っていて大雨の時以外はたくさんの生き物たちの棲家になっています。年に数回、濁流が川幅いっぱいに流れることもあるので、そのときには小鳥の巣などは全部流されてしまうのでしょう。それでも生き物たちはそんなことにはめげず、水が引くと、また、たくましく生活を再開しています。
 イタチは、どうなっているのかと思うほど細長い体をしています。そして敏捷に動き回るのですが、妙な癖があって、何秒かに一度ピタリと動きを止めるのです。その度に頭を高く上げてあたりの様子を窺い、すぐにまた行動を再開するという具合で、余計なことですが、ちょっと滑稽でさえあります。実際、川岸の草むらの中にいるときはこちらからは見えないのに、警戒のために頭を上げたときだけ見つかってしまうという、実に奇妙なことになっているのですが、本人は全く気付いていません。
 茶色の頭が草むらからちょろちょろ顔を出して、それがだんだん水際の方にやってきました。そして、水際のすぐ後ろの草の陰からちょっと顔を出すと隠れるように水面を覗き込んでいます。そして、次の瞬間、ひょいと水際の砂のところに飛び出るとそのまま川を泳ぎだしました。50cmくらい泳いだところでじゃぼんと水を撥ねて潜ると、上がってきたときには口に銀色の魚をくわえていました。あっという間の出来事です。そのまま泳いで川岸に戻り、そこでもう一度頭を上げて振り返るようにあたりを見るとすぐに草むらの中に姿を消しました。
 私は、TV番組ですが、前に四国の四万十川でイタチの毛皮を使った漁というのを見たことがあります。それは冬場のウグイ漁で、ウグイのイタチを恐れる習性を利用したものだということでした。本物のイタチの毛皮を棒の先につけて、ウグイの隠れている岩の下に突き込むと大きなウグイが、ゆっくりとですが、逃げ出して来るのです。私が疑問に思ったのは、あの大きな図体のウグイが、失礼ながら、イタチごときに恐れをなすものだろうかということでした。
 今回、イタチが捕らえた魚もせいぜい5,6cmくらいの大きさでした。しかし、イタチが魚を取るということは本当でした。そこで、この溝を埋める仮説です。
 大きなウグイにも子供の時代があります。子供のときは、魚は群れになって過ごします。そのとき、いきなり水面に茶色いものが現れて、水の中に潜ってくると仲間が一匹いなくなった。茶色いものはすぐに消えてしまったが、あたりには得体のしれない匂いが漂い、それが「恐怖」と結びつく。これが生き残ったものの心にトラウマとなって残り、体が大きくなったあとも拭うことができないで、茶色いものとあの匂いを嗅ぐと思わず浮き足立ってしまうという…。魚に足はありませんが、悪しからず。

注)トラウマ trauma 心的外傷、あとにまで残る激しい恐怖などの心理的衝撃や体験。
 こんな心理学の専門用語が一般化するなんておかしな世の中だと思います。私の使っている広辞苑第4版には載っていません。それを、前に中学生が、「それがちょっとしたトラウマで…」と話すのを聞いたことがあります。
 ついでですが、「心的外傷」という表現もよく見るとおもしろいですね。
2005年5月3日


★コメント
 先日もイタチを見ました。山の斜面でガサガサと音がするのでそちらを見ると黄土色の生き物が動いていました。私は気功をしていたのですが、殆ど動かないので生き物がよく出てきます。
 前に山の中の棚田の跡で気功をしているとすぐ下の水路でバシャバシャと水の中を走る音がしました。幅30㎝くらいの狭い流れですが私の前のところでいきなり畔の上に何かが飛び出しました。黄褐色の背中が見え、イタチだなと思った瞬間、何か気配を感じたのか、こちらを振り返ったのです。あの時の驚いた顔は今も忘れません。パニック状態で、脳が対応できなくなったのでしょう。ギョッとした顔で反り返って倒れそうになりましたが後ろに延びた長いしっぽに支えられ、辛うじて転倒は免れました。そして、ぎこちなく体を動かしながら逃げて行ったのです。人間なら「腰を抜かした」というところでしょう。タヌキなら気絶したかも知れないなと思いました。
2024年3月20日


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アイリッシュ・ダンス

2024-02-21 14:15:10 | 「遊去の部屋」
<2008年8月18日に投稿>
(1) ケルトのスプーン
 あり得ないことも起こるものだなぁというのが、正直なところ、実感です。それは、つまり、私が、今、アイリッシュ・ダンスをやっているということです。いや、やっているというほど大げさなものではありませんが、3月に足を突っ込んでしまったので、かれこれ6ヶ月ということになりますか。といっても月に2回くらいのことなので、回数としてはわずかですが、それでも武道や格闘技をやってきた人間にとっては、これは相当ショッキングな出来事です。だから、まだ誰にも話していません。
 そもそもの事の起こりは1枚のCDからでした。ALTのAさんとの話の中でルネッサンス音楽が話題になったことがありました。後日、Aさんは1枚のCDをくれました。そこにはケルト音楽がいっぱい詰っていたのです。私は若いときから『ケルト文化』に興味を持っていました。「森の民、ケルト」、この響きには何か心を惹かれるものがありました。昔はヨーロッパ全体の森に広がって暮らしていたようですが、森の開墾とともに次第に追いやられ、その末裔と呼ばれる人々の多くは、今、アイルランド、スコットランド、ウェールズや北フランスのノルマンディー地方などに住んでいて、そこでゲール語やブルトン語など独自の言語や文化を守ろうとしています。
 ケルト音楽といっても何も特別なものではありません。その地域の人たちが昔から親しんできた音楽です。一度聴けば、『これのことか』とすぐに分かるでしょう。ヴァイオリン(フィドル)の弾き方は特に自由自在で生き生きとしていて、実に喜びに溢れているように聞こえるし、バグパイプも、鳴りっぱなしの音(ドローン)があったり、おもしろい楽器です。また、スプーンのような生活用具を楽器代わりに使うこともあり、音楽と暮らしが密着していることをうかがわせます。
 これは2本のスプーンを使ってカチャカチャ音を出してリズムを取るだけなのですが、これがまたいいのです。私はこの話と演奏を10年くらい前にラジオで聴いたことがありました。すごく気に入ったので何とか自分でもやろうとしましたが、やり方がどうしても分かりませんでした。私がその話をするとAさんはにっこりして机の引出しを開けました。すると、そこには、何と、スプーンの束が入っていたのです。そして、そこからスプーンを2本取り出すとカチャカチャやり始めました。私が知りたかったのは、まさに、それでした。こんな形で長年の謎が解けるとは思ってもみないことでした。しかし、それにしても不思議なのは、彼女の仕事机の引出しに、どうしてそんなにたくさんのスプーンの束が入っていたかということです。
 そのときに彼女はケルトダンサーだということを知ったのですが、私は「ケルトダンス」というものは知りませんでした。私が見たことがないというと、彼女はすぐにパソコンのキーボードを叩き始めました。これがまためちゃめちゃ速い。カチャカチャッカチャと打ち込むと画面に映像が現れました。インターネットで簡単に動画が見られるのですね。それはケルトダンスのライブ録画の映像でした。私は、もう、ただただすごいと思いました。それは、自らの文化の誇りというものを内に秘めた、気高さに溢れるものでした。

(2) セント・パトリック・デイ・パレード
 「3月8日(2008年)に来ませんか。」とAさんが声をかけてくれました。セント・パトリック・デイというのがあることは知っていました。その日にパレードがあるというのも聞いたことはありました。しかし、それが伊勢であるというのは間違いだろうと思いました。もちろん、同じ日に世界中でパレードをするということだから伊勢であってもおかしくはありません。しかし、まさか、伊勢で? そんなこと、私には考えられなかったのです。彼女が町を勘違いしているとしか思えません。そう言うと、自分もパレードに参加してダンスをするといって、カチャカチャカチャ…、するとすぐにそのホームページが出てきました。5年前から始まっていたようです。
 ホームページには怪しげな写真が載っていました。仮装パレードだからアヤシイのは当然ですが、そこにいる人たちは、どう見ても私とは異質な世界の人々に見えたので、はっきり言って、近付きたくないというのが正直な印象でした。だけど、Aさんには、率直に「行かない」とは言いにくかったので「時間があれば…」と婉曲に答えてしまいました。ところが、その日が近付いてくるにつれて、どうも「婉曲な」言い回しは通じていないのではないかという気がしてきたのです。そんなとき新聞にパレードの記事が出ました。そこにはバグパイプの演奏もあると書いてありました。伊勢にバグパイプを吹く人なんているんだろうか。それとも他所から呼ぶのだろうか。私は、生でバグパイプの演奏を聴いたことはなかったし、Aさんのことも気になったので少しだけ顔を出してみようかという気になりました。
 3月8日(土)正午、伊勢神宮外宮出発ということだったので、寒風の中、私は自転車で出かけていきました。外宮の前にはアヤシゲな人たち集まっています。全体の3分の1くらいは外人でした。その集団から少し離れて日本人が集まっています。そして、それら全体を遠巻きにするように、かなり離れたところから神宮の観光客が好奇の目で見ています。神宮の雰囲気とこれほど合わない集団もないだろうと思いました。私はAさんを捜しましたが見当たりません。外国人のところへ行って尋ねてみましたが知らないというし、どうなっているんだろうと思ってきょろきょろしているとバグパイプの人が目に止まりました。頭の先から足の先までスコットランドです。私は自転車を引いてそちらの方へ行きました。
 出発時間は過ぎていましたが、パレードは一向に始まりません。それで私はバグパイプの人に少し話を聞いてみました。めったにない機会なので、この際、気になることは聞いておこうと思ったのです。そうすると、パレードの途中で何度か演奏するということがわかったので、最初の一回だけでも聴いておこうと思い、パレードについて行くことにしました。しかし、何しろ自転車を引いてついて行くわけなので厄介です。早めに切り上げた方がいいだろうと思いました。
 急に騒がしくなったのでそちらを振り返るとその中心にAさんがいました。忘れ物をして、家に取りに行っていたらしいです。それでパレードの出発が遅れていたのでしょう。そちらに行くと、Aさんは大きな声で回りの人を私に紹介してくれました。その中の一人にAさんが教えているアイリッシュ・ダンス・サークルの人がいて、その人にいきなり活動予定のチラシを渡されました。強引な勧誘にたじたじとなりましたが、ここは誤解を生んではいけないと思い、興味がないとはっきり伝えました。が、このとき、勧誘というものはこのくらいの積極性をもってするべきものかもしれない思いました。というのは、私は自分のコンサートのチラシを渡すときにも決して強く宣伝することはないからです。これだけ楽しみの多い時代に、自分がおもしろくないかもしれないと思っているようでは動く人も動いてはくれないでしょう。だけど、実際には、それにも拘わらず、ひょっこり顔を出してくれる人がいるものです。私は、どちらかというと、そちらの方を楽しみにしています。
 パレードが動き出しました。バグパイプが景気よく鳴り出し、「St. Patrick’s Day Parade Ise」と書かれた横断幕を先頭に、楽器を抱えた人や関係者(?)が続き、それから大きなアイルランドの国旗を、戸板を運ぶように、女子高校生が両側に3人ずつ、手に持って続きます。私はこのとき初めてアイルランドの国旗というものを知りました。その後ろから妖精やアマガエルのような緑の服を着た外人やら、仮装した得体の知れない集団がぞろぞろついていきます。私も自転車を引いて後に続きました。
 集団の中に、白いヒゲを生やした聖人の扮装した外人がいました。見事な衣装で、背丈ほどある木の杖を手に持っているのですが、見ると、杖の太い方を下にしています。『ここにもあったか』私は心の中で呟きました。私は子供の頃から、西洋と日本で反対のものが多いことを不思議に思っていました。それで、そのわけを考えるために、取り合えず、反対のものと同じものを、できるだけたくさん見つけようとしていたので、すぐに目が止まったのだと思います。それで、その聖人の所へ行って、あなたの国では杖はそうやって持つのかと聞いてみました。そうしたら、上を見たり下を見たりしてから、「どっちでもいい」と言って、結局、杖を逆さまに持ち替えてしまいました。今から考えると、その人は杖なんか突いたことがなかったのではないかと思います。これは「反対リスト」からは外した方が良さそうです。国民や民族の習慣と個人の癖とを区別しないといけないので、このあたりにも注意が必要です。
 途中で2回、アイリッシュ・ダンスがありました。いわゆる、フォーク・ダンスのようなものです。Aさんが少々(実は、かなり)あやしい日本語で説明し、その場で覚えるのですが、参加者が少なそうにみえたので、これはまずいなと思い、すぐそちらへ行き、輪に入りました。普段なら、こういうことは決してしないのですが、やはり、ここは支えなければならないと思ったからでした。
 パレードの途中でバグパイプの人と話をしていると、「後で吹いてみますか。」と言われました。楽器の好きな人間なら誰でも楽器にさわってみたいと思うものです。私はうれしかったけど、これは当然、社交辞令だと思いました。パレードが終って帰ろうとしていたら、その人が、どうぞ、と言ってバグパイプを私に渡してくれました。その人に教えてもらって抱えたのですが、ふにゃふにゃで形にならず抱えることができません。息を皮袋の中にいっぱい吹き込んで、初めてバグパイプらしい形になるのだということが分かりました。そして、脇に抱えた皮袋を腕で押しながら音を出すのですが、すぐに空気が抜けていくので、口にくわえたパイプからひっきりなしに息を吹き込まねばなりません。演奏している間、休みなく、非音楽的に空気を供給しなければならないのです。すぐに頭が痛くなってきました。酸欠です。フルートを吹いたときもそうでしたが、これはフルートの比ではありません。何でもやってみないとわからないものだなぁと思いました。いい体験になりました。

(3) ダンス・サークル
 例のチラシにアイリッシュ・ダンスの活動予定が記されていました。4月の初めの土曜日に、伊勢神宮の内宮の横の公園で、特別企画の練習があるようです。ちょうど桜が満開です。特別企画なら1回きりです。それなら花見も兼ねてちょっと様子を見に行ってみようかなと思いました。自転車で1時間もあれば着くだろうと予測していたのですが、自転車に乗ると、いつものことですが、トレーニングをしているような走り方になってしまうので早く着いてしまいました。さて、公園には着いたものの、場所がわかりません。公園はかなり広いのです。木もたくさん繁っていて見通しが利かず、自転車でぐるっと回りましたがわかりませんでした。チラシに載っている番号に電話をしてみようと思いましたが、私は携帯電話を持っていません。近頃は公衆電話が殆んど姿を消したので見つけるのが大変です。駐車場の係員に尋ねてみると県営体育館の事務室で借りるしかないだろうといいます。事情を説明するのがめんどうなのでもう一度自転車で捜してみることにしました。
 しばらくして、木に掛かっている大きな布が目に止まりました。赤、白、緑、アイルランドの国旗です。なるほど、こういう手があったか。感心しました。Aさんとパレードのときの人がいて喜んでくれました。それからだんだん人が集まりはじめましたが全員女性で、半分は老人といってもいいでしょう。場違いな所へ来てしまったとの感はありましたが、自分にとっては未知の世界でもあるし、きっと何かしら学ぶことがあるはずだと自分に言い聞かせました。
 このとき驚いたのは、何と言っても、あのにぎやかなケルト音楽に合わせて踊っていたことでした。まさか、あの速い音楽に合わせて踊るとは思いませんでした。私は、ずっと、古い時代の人々の生活感情をつかみたいと思ってきたので、これは何か分かるかも知れないと感じました。これまでは古い絵などを参考にしてそれをつかもうとしてきたのですが、当時の人々がやったように、その音楽に合わせて自分も同じように体を動かせば、絵から得られるものとは違った何かがつかめるに違いありません。
 ただ、ここに一つ問題がありました。私は若いときからずっと単独行動が中心の生き方をしてきました。「集団」あるいは「組織」に所属するということを避けてきたのです。それには理由があるのですが、とにかく、そのことで私は共同して作業をするということが苦手な人間になってしまいました。止むを得ず、属さなければならないときにはひたすら忍耐、そして、解放されるのを心待ちにする始末です。しかし、集団で物事に取り組むとき、個人ではできないような力を発揮することがあるのも事実です。それで自分ももう少しうまく集団に馴染むことができればなぁという考えは以前からありました。今回のアイリッシュ・ダンスを続けている理由の一つがそこにあります。もしかすると、私にとってはこちらのトレーニングの方が意義深いかもしれません。
 「ケルト」をイメージした話はまだ一つしか書いていません。いくつか書きかけたものもあるのですが、人々の生身の生活感情が見えてこないところがあって、結局、全部途中で止まっています。当然、それには理由があるはずです。そこを突き抜けるべく、1,2,3,4,1,2,3,4、…とやっているのです。この前も「ジーグ(古い踊りの一種)」のステップを教えてもらいました。ジーグはバロック音楽の組曲にはたいてい入っています。これまで私は音楽だけを聴いてきたのですが、足の運びを教えてもらって、まさに、「目からウロコ」でした。楽しそうな踊りなのですが、私は楽しそうなものは苦手なのです。気恥ずかしくできません。だけど、考えてみれば、ほんの少し前まで、普通の人々の暮らしは貧しく、日々の労働は辛いものでした。そして、年に数度、祝祭などの「ハレ」の日に、人々はみんなで一緒に喜びを分かち合ったのでしょう。みんなで同じ所作をすることで感情を共有し、それが次第に形になったものがダンスなのだろうと考えています。だから、私もその形をなぞることで当時の人々の喜びをわずかなりとも体感できるのではないかと期待しています。が、しかし、ダンスそのものが目的になることはないでしょう。
2008.8.18

★コメント
 AさんというのはAshleyという名前のカナダ人で、高校でALTとして働いていたのですが、彼女の席は私の隣でした。苗字は一度も呼んだことがないので忘れてしまいました。アシュリーというと「風と共に去りぬ」に出て来る男の人の名前なので、これは男性の名前だと思っていたのですがそうでもないようです。辞書には「男子の名前」と書いてあるのですが…。
 Ashleyに出会ったのはラッキーでした。今、彼女が作ってくれたケルト音楽が入ったCD-Rをかけています。結局、彼女が日本を去るまでの3年くらいケルトダンスを教えてもらっていました。それからはしていなかったのですが、つい最近このステップを日常的に取り入れてみることにしました。ずっと家にいるとどうしても運動不足になります。今は剣道も膝を傷めて半年ほど休止しているし、太極拳だけでは運動量が少ないように思います。それで庭に出てケルトダンスのステップをやってみるとあっという間に息が上がってしまいました。それは足を踏みかえるときに軽いジャンプを伴うからです。ジャンプにはかなりのエネルギーを使うようで、これはいいと思いました。
 3月になるとセントパトリックスデーがあります。St. Patrick’s Day ですが、カタカナで書くときに ’s を「ス」として入れるべきかどうか迷います。初めてこのパレードに行ったときシャムロックの小さなワッペンを渡されました。体のどこかに緑のものを付けなければいけないのだと言います。シャムロックはアイルランド語でクローバーのことだそうです。あるときAshley が四つ葉のクローバーを見つけたことがあると言うので『まさか』と私は思いました。というのはそれは「おはなし」の世界の話であって実際には存在しないと思っていたからです。するとAshleyはあちこち引き出しの捜し始めましたが、結局その時には見つかりませんでした。だけど何度も見つけたことがあるようで驚きました。どうも彼女はクローバーがあると無心に四つ葉のものを探してしまうようです。そしてそれを押し花(葉)にしているらしいのですが…。多分、今も同じでしょう。私は四つ葉のクローバーを見つけたことはありませんが、Ashleyに出会えたことは「幸運」でした。
2024年2月21日


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「やまなし」と私

2024-01-20 14:46:43 | 「遊去の部屋」
<2002年3月25日頃に投稿>
 私が初めて宮沢賢治に出会ったのは小学生のときでした。おそらく5,6年の頃だったと思います。その頃の私は漫画の本が好きで、といっても自分の家ではとても買ってもらえなかったから、いつも見せてもらっていたのですが、漫画の本を買ってもらえる家をみると本当に羨ましく思いました。そんな家に生まれたらどんなにいいだろうとそんなことばかり考えていました。ところが、そんな家がすぐ隣にあったのです。しかも、私と同じ年の子供がいて、生まれた日もたったの1日違うだけだというのに、向こうの家はおもちゃで溢れ、漫画もいっぱいありました。そういうわけで、いつもそこで見せてもらってはいましたが、見せてもらう立場というのは子供なりにも遠慮があって、自分で買えたらどんなにいいか知れないとよく思ったものです。中でも特に好きだったのは「少年」の別冊付録の「鉄人28号」で、この月刊誌が発売される日などは、自分が買うのでもないのに、指折り数えて待ったものです。
 そんなとき、名古屋にいた姉がちょうど帰省することになりました。その連絡の電話を取った私は、これこそ天恵、この機を逃したら二度と自分の漫画を手に入れる日は来ないというほどの意気込みで、姉に漫画の本を買ってきてくれるように懇願しました。それからというもの、一日千秋の思いで姉の帰りを待ちました。というより漫画の本を待ち焦がれていたのです。そして、とうとうその日がやってきて、姉から紙包みを渡されたのですが、実は、その中身が「宮沢賢治童話集」だったのです。漫画の本は一回読んだら終わりだけど、これならずっと読めるから…というのが姉の言でした。今にして考えると、お金を出す方としては、それを有効に生かしたいと考えるのは当然のことだったのかも知れませんが、子供にとっては将来のことなんかどうでもよく、そのとき欲しいものを手に入れることしか頭にありません。私はその紙包みを開くときまでその中身が漫画の本であることを疑いませんでした。何種類かある漫画の本のうちのどれだろうかということだけが頭の中をぐるぐる回っていたのです。そして包み紙を開いた瞬間、望みは儚く消えました。私は心底落胆して声も出ませんでした。

 本は図書館で借りてよく読んでいました。それらはたいてい冒険小説か動物記の類でしたが、おもしろくて時間の経つのも忘れるくらいでした。それに引き換え「宮沢賢治童話集」はどこがいいのかさっぱり分かりません。あっちこっちおもしろそうなところを捜しては読んでみるのですが、どの話もわくわくするようなことはありませんでした。目次で「気のいい火山弾」というのを見たときには、「火山弾」という言葉の響きから天地が裂けるような物語を期待しましたが、読んでみてがっかりしました。
 不幸にもそのようにして出会った童話集でしたが、いい本だと聞かされていたことと表紙が厚くて立派な箱に入っていたこともあって長く本棚に大切に飾ってありました。その背表紙を毎日見て育ったこともあって、いつか宮沢賢治という名前は私にとって馴染みのある響きを持つようになっていきました。

 次に賢治作品に触れたのは大学生のときでした。といっても夜学だったので、昼間はアルバイトをしていましたが、次第に自分というものをどう考えたらいいか分からなくなってきて、そうなるともう学校へも行かなくなり、アルバイトで稼いだお金がなくなるまでアパートにこもって本を読むという毎日になりました。主に、その頃流行の実存主義哲学関連のものが多かったのですが、そのときはその中に答があるものと思っていたのです。こうして2年ほど暗い青春期を過ごしましたが、とうとう完全に行き詰まってしまいました。それで、何もかも放棄したくなっていたとき、どういうものか突然ひらめいたのです。人間の存在は他者とのあらゆる関係の集合体として規定されるのだという考えが浮かびました。それなら自分が他者と結びたい関係を順番にどんどん結んでいけばいいじゃないかということに気付いたのです。当たり前すぎるほど当たり前のことですが、こんなことにもこうした手続きを必要とするところに青春期の特徴があるのでしょう。それで、そのとき頭に浮かんだのが「雨ニモ負ケズ」のあの詩でした。「東ニ病気ノコドモアレバ」から続く数行です。つまり他者とどういう関係をもちたいかということを述べているのです。はっとして、それからというもの、賢治作品を片っ端から読みました。だけど、そのときも、今から思えば<分かりたい>という気持ちの方が勝っていたように思います。

 ここで、一気に25年飛びますが、年に一度の高校の音楽発表会に行ったとき、そこでたまたま教え子に会いました。彼女が高校生のときに朗読をしてもらったことがあったので、機会があればまた何かやろうという話をして別れました。それは単に外交辞令にすぎなかったのですが、車で帰る途中、ふと、彼女の昔の朗読の声を思い出したのです。「あの声」と思った瞬間、突然「やまなし」が頭に浮かんだのです。これだと思いました。
 家に帰るとさっそく本を捜して音作りにかかりました。ところが、これがまたやっかいで、作ろうとすると何故かわざとらしいものになってしまうのです。感じのいいものを作りたいという気持ちがあるので、作ろうとすればするほどわざとらしいものなってしまいます。それで私は先ず自分の気持ちを、いつも行く谷川の小さな川原に持って行きました。そこは「やまなし」の話が本当に起こってもおかしくないようなところです。20年くらい前からよく遊びに行っているところなので目を閉じれば水の流れや岩の位置、木の枝の張り出し具合まで見えてきます。それを思い浮かべて耳をじっと澄ましてみました。そうすると心の中にいろんな音が聞こえてきます。そしてそこで感じた音のイメージを楽器で拾いました。
 次は言葉との組合せでした。頭の中で音のイメージを流しながら言葉を読んでいくのですが、10回、20回と読んでいくに従い、私はこの作品が、それまで自分が思っていたよりもはるかにすばらしいものだということが分かってきました。100回、200回と読んでいくうちに、私は、このとおりの世界が賢治さんの目に見えたのだと確信するようになりました。それをどうやって言葉に表すかというところであちらこちらに賢治さんらしさが出ています。それを感じるたびに生きた賢治さんと話をしているような気分になりました。
 例えば、『波から来る光の網が、底の白い磐の上で美しくゆらゆらのびたりちぢんだりしました。』というところも、普通なら「波から来る」という言葉はつけないでしょう。賢治さんはここで「光の網」が物理的に存在して、それが「波」によるものであることを言わずにはおれなかったのだと思います。もちろん、「波」は「12月」の方で重要な役割をしているわけだから布石と見てもいいわけですが、こんなに美しい描写の中に、その発生の原因までも滑り込ませてしまうところなどはいかにも賢治さんらしいと思います。
 これ以来、私は「光の網」を意識するようになりました。もちろん水の中の光が美しいということは子供のときから知っていました。しかし、それはあるのが当たり前の世界で、山が緑であったり、空が青かったりするのと同じようなものでした。意識して思ったことはありませんでした。それで、その夏、川に泳ぎに行ったとき、私は息を止めて水に浮きながらずっと水の底に映る光の網がゆれるのを見てみました。そして自分が本当に美しい世界に取り囲まれているのだということを初めて自覚したのです。それ以来、美しいものを見つけるのが前よりうまくなったような気がします。それは、それだけしあわせを感じる機会が増えたということです。

 今、私は「やまなし」の英語版に取り組んでいます。翻訳ではありません。英語での朗読です。日本語では、一応、ギターを弾きながら朗読できるようになったので、その日本語のところを英語でやろうというわけです。動機は至って簡単です。外国人の知り合いにも「やまなし」の世界を知ってほしいからなのです。と言いたいところですが、実は、自分がこんなコンサートをやったということを外国人の知り合いに話したとき、日本語では相手に分からないので、つい、口がすべって、予定もないのに、今度英語版を作るつもりだと言ってしまったのです。日本的サービス精神というか日本人的お人好しというか、そんなわけで英語版に取り組むことになりました。
 家にあった英語版の賢治童話集をみると、ちょうどその中に「やまなし」があったので、よし、これで半ば出来たと思いました。まあ、あまり気にしないでください。私はもともと極めて単純な人間なのです。たまたま一時期実存主義に染まったためか、本来の自分を見失ってしまったのです。それでいまだに自分を取り戻せないでいるのですが、何かの拍子にひょいと元々の自分が顔を出すことがあるのです。このときも、出来上がった英語版を演奏しているところまで見えたのですが、細かく読んでいくうちにこれはどうもおかしいぞという部分がいくつも出てきました。どうしてだろうと考えてみるのですが、この翻訳は外国人の手によるもので、どうもそれぞれの場面に合理的な説明を求めていて、理解できないところは自分で補って埋めているようなのです。
 その中の一つを紹介しましょう。「12月」のずっと終わりの方に『やまなしは横になって木の枝にひっかかってとまり、その上には月光の虹がもかもか集まりました。』という部分があります。この「木の枝」が問題です。「 caught in the low-hanging branches of a tree 」と訳されているのですが、これから考えると、訳者は、「木の枝が低く垂れて水の中に入っていて、ちょうどそこにやまなしが流れてきて引っかかった」というように考えていると思うのです。これは、まず、「やまなしは木の枝に引っかかったが、水の中に木の枝があるというのはおかしい。きっとこれは岸辺にある木が水面に覆い被さるように枝を伸ばし、それが水の中にまで入っていて、そこに引っかかったのだ。なるほど。」と考えて納得したのでしょう。
 谷川を歩いていればすぐに分かることなのですが、上流から流れてきた木の枝はあちこちで岩と岩の間に引っかかります。そうするとそこに流れてきた枯草などが次々に引っかかって流れを堰きとめるような形になるのです。こういう光景は谷川のいたるところで見られます。そこへやまなしが流れてきてこの堰にぶつかると上を乗り越えるか下をくぐり抜けるかしなければなりません。この場合は、おそらく流れに押されて下に潜り込んだのでしょう。ところが運悪く十分下まで行く前に、水中で引っかかってしまったのです。それで、くぐり抜けることも出来ないし、どんどん水に押されているから戻って浮かび上がることもできないし…、という中途半端な状態で(何か私の人生のようですが)水中で上下にぷかぷかしていたのです。そのため、やまなしの上の水の流れが乱れて、そこに月光が射し込んだので、光がゆらゆらして見えたということだと思います。それを「月光の虹がもかもか集まった。」とは何という見事な表現でしょう。
 現在、まだ練習中ですが、何とかなりそうだという気がしています。ただ、ギターを弾きながら朗読をするので、指が難しくなると英語の発音がカタカナ化してしまうという点など、多少問題はありますが、90%も伝えられれば上等だ(賢治さん、ごめんなさい)という、自分に甘い乗りで、録音テープを渡す日のことを心に描いて何とか切り抜けてみせるつもりです。

 
★コメント
 日付がないので何時この原稿を書いたのか分かりませんが、最終印刷日が2002年3月25日となっているのでその辺りでしょう。
元生徒に朗読してもらったライブは2000年7月22日に実現しました。このとき私は横でギターを弾きながら『あの声はもう戻って来ないな』と寂しい気分になっていました。彼女はそのとき大学生になっていて既に大人の声に変わっていたのです。私が思い出したのは高校生の時の子供の声だったのですが…。
 その後、自分でギターを弾きながら朗読する練習を始めました。そしてますますこの話が好きになりました。それから2,3年後くらいだと思うのですが、自分の授業の最後の日、テストを返した後の残り時間を使って生徒の前でこれを演奏しました。生徒たちにこのような世界を心の隅に持って大人になっていって欲しいと願ったからでした。それ以来15年くらいは続けたと思います。これについては批判もあったでしょうけど、学校で、「やって良かった」と自分で思うのはこれくらいのものです。
 何年かぶりで「やまなし」を弾いてみました。言葉も音も忘れているところがあり、楽譜でチェックしました。書いておいて良かったと思いました。数回弾くと完全に思い出しました。やはりいい話だなあと思いました。年の初めに、これはなかなかいい滑り出しになりました。
2024年1月20日


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アゲハ蝶とミカンの木

2023-12-20 17:42:49 | 「遊去の部屋」
<2003年11月22日に投稿>
 南側のトタン塀の外側に小さなミカンの木があります。刺があるのでミカンじゃないかもしれませんが、子供のころ、よく似た木が庭に生えているのを見たことがあるので、まだ一度も実をつけたことはありませんが、多分その仲間でしょう。ちょうどトタン塀のやや内側の日の当たらないところに自然に生えてきたのですが、それでも成長して塀の高さくらいまでになりました。そうなると今度は家と塀との間に立ちはだかり通りにくくなってしまいました。しかも刺があるので服や洗濯物が引っかかって破れたりすることまで起こってきました。それで思い切って木を曲げて塀の下をくぐらせ、向こう側に出してやることにしたのです。
 折れるかも知れませんが、そのときには諦めてもらうしかないでしょう。思い切ってぐっと曲げてみましたが、木はぐにゃりと曲がっただけで折れる様子はありません。それで、そのまま塀の下をくぐらせ、無事、南側の日当たりのいいところに出してやることができました。前には畑も広がっているし環境は抜群です。これでミカンの木は体全体で太陽の光を浴びてのびのび成長できるはずです。だから、一度くらいぐにゃりと曲げられたからといって文句を言うこともないと思うのですが、それでもミカンの木は曲げられたときに腹を立てたのか、私は刺で手を傷つけてしまいました。木も若いときは随分柔らかいものだなあと感心しました。
 その後、ミカンの木は南側でどんどん葉を茂らせていきました。塀のこちら側にあったときは葉の色も黒ずんで、どことなく意地悪な面持ちをしていましたが、塀の向こう側に行ってからは葉の緑色はどんどん明るくなり、性格もぐんぐんおおらかになっていくように見えました。これで実をつけてくれさえすれば何も言うことはないと私も内心ちょっと期待したくらいです。
しばらくたって、ある日、ふと、気になり塀の向こうを覗いてみました。普段は塀越しに木の先がちょっと見えるだけです。それで気付かなかったのですが、私はその光景に唖然としてしまいました。アゲハ蝶の幼虫が群がっているのです。葉の半分くらいはすでに食べられてしまいました。こげ茶色の小さいものから緑色の大きなものまでたくさんいます。これではまるでアゲハ蝶の保育園のようです。それにしてもこんなにたくさんいては共倒れになるだろうと思いました。
 数日後、またも私は唖然としてしまいました。今度は葉が一枚もなくなっていたのです。あとには鋭い刺だけが残っていて、まるで針の木のようになってしまいました。しかもあんなにたくさんいた幼虫が1匹も見当たりません。いったいどこに行ってしまったのでしょう。幼虫も行く当てがあったのなら、ここまで食い尽くさずとも、その前に引っ越せばいいのです。それが礼節というものではありませんか。しかし、これも自然の掟なら仕方がないようなものですが、憮然とした様子のミカンの木を見ていると、体中の刺を振り立てて強がっているようにさえ思われ、わざわざ塀の下をくぐらせて本当に済まないことをしてしまったなという気がしました。
 ミカンの木は、それでも健気にまた若い葉を伸ばしはじめました。少しずつ本来の木らしい姿に戻っていくのを見て、南側に出したのはやはり悪いことではなかったのだと私もちょっと安堵したのですが、それも束の間、数日後にはまた幼虫の保育園になっていたのです。蝶が卵を産んで、それが孵って成長するにはあまりにも速すぎると思います。どこかからやって来たのでしょうか。すぐにミカンの木はまたも裸になってしまいました。
 ため息を吐きながら塀の上を見ると、何と、そこにいたのです。アゲハ蝶の幼虫が塀の上を悠々と去っていくではありませんか。憎たらしいことに太って丸々しています。ここはひとつ、ミカンの木の仇を討ってやらないわけにはいかないという気持ちが湧き起こりましたが、これもやはり自然の掟ならば手を出すことは控えなければなりません。それかといって黙って見送るのもミカンの木への義理が立たないので、仕方なく、私は指先で幼虫の頭を軽く押さえてやりました。すると、泡を食った幼虫はいきなり頭からオレンジ色の角を2本突き出しました。そこからぷーんとミカンの香りが立ち上り、その瞬間、一気に40年以上もタイムスリップしてしまったのです。
 裏庭のミカンの木の前で、幼児の私が、夢中になってアゲハ蝶の幼虫の頭を、モグラタタキのように突付いているのです。そのたびに幼虫は2本の鮮やかなオレンジ色の角を突き出すので、大きなミカンの木はあちこちでオレンジ色の花を咲かせたように見えました。あたりには甘酸っぱいミカンの香りが立ち込めて、まるで楽園にでもいるような気分になりました。
そんな記憶の断片が自分の頭に残っていたことは驚きでした。それからここまで、はるばるやって来たものだと思いました。
2003.11.22


★コメント
 今の家に引っ越してから庭に実のなる木を植えました。温州みかんもその一つです。10年経って木は大きくなりました。毎年実がなるのでありがたいです。植えた場所が塀に近かったので北側に曲げるようにして伸ばしていますが、まあ仕方ありません。きちんと考えたつもりでしたが、私のやることは殆どそんなことばかりです。
 この木にも夏になるとアゲハ蝶がやってきます。幼虫の食べる葉の量は凄く、みるみる木が丸裸になります。これも自然だと達観できればいいのですが…、そうも行かず、ハムレット式の煩悶が始まります。辛いです。それで、前に、大きな幼虫を一匹取り、少し離れた所にある伊予柑の木に移してみたことがあります。伊予柑の方は葉がたくさんあったからです。これなら少々食べられても大丈夫だろうと思いました。数時間後見に行ってみると幼虫は木の根元の幹にくっついたままじっとしています。私は葉の上に置いたのですが自分で移動したようです。しばらくしてまた見に行くとやはり同じところにじっとしていました。伊予柑の葉と温州みかんの葉には違いがあるのだろうか。この幼虫は伊予柑の葉では生きていけないのではないか。ああ、またハムレットです。
 仕方がないと思い幼虫を元の温州みかんの木に戻してやりました。今年は実はならないかなと思いましたが、それも自然なら仕方がありません。そのあとどうなったか忘れてしまいましたが毎年ミカンは食べています。多分、これでいいのでしょう。無為自然、無為自然。
2023年12月20日


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山のコンサート

2023-09-19 14:57:43 | 「遊去の部屋」
<2002年6月2日に投稿>
 私はよく山で一晩を過ごします。テントを張ることもあれば車の中で寝ることもあります。たまには真っ暗な森のなかでただじっとしているだけということもあります。若いときには山は登ることが目的でしたが、だんだんと歩くことが自体が楽しくなってきて、それからは気持ちのいいところを見つけると、そこで昼寝をしたりして過ごすことが多くなりました。
 あるとき谷川の小さな川原でキャンプをしていました。石を積んで作った炉で飯を炊き、食事は日の暮れる前に済ませます。とういうのは暗くなってしまうと、炉の火にしてもランプの明かりにしても下から照らすので、肝心の食器の内側は暗くて見えないのです。その上、辺りが暗くなってそこだけに明かりがあるわけですから山じゅうの虫が明かりを目指して飛んできます。そうなるともう何を食べているのやら分かりません。
 晩飯のあとはコーヒーです。これは山用に家で粗さを調節して挽いたものを使います。コーヒーを入れるにも道具がないから家でやるようなわけにはいきません。そこで多少の工夫が必要になるわけですが、これはまた別の機会に回しましょう。
 夕暮れが近づいてくると森は急ににぎやかになってきます。鳥たちが鳴きながら盛んに飛び交い餌を取るからです。これは、おそらく、夕方になるとたくさん虫が飛ぶのでそれを目当てに鳥が飛び回るということでしょうが、この短い時間が過ぎるとすうっと鳥のさえずりが治まって夜になります。
 辺りが暗くなるともう動くことはできないので広げたシートの上に寝転んで水の音やら風の音やらを聞いて過ごします。この季節、つまり初夏の頃は河鹿蛙の声が特にきれいです。まさかこれが蛙の声とは誰も思わないでしょう。初めは何の声かわからず、秋でもないのに虫の声とは奇妙だと思っていましたが、それが蛙の声と分かったときには多少がっかりしたところもありました。あまりにも美しい声なのでそれにふさわしい可憐な生き物を期待するのは無理もないことだと思います。
 この季節は蚊もまだ少ないので過ごしやすいのですが、必ずぎょっとさせられることがあるのです。それは闇の中にすうっと光が現れては消えていくからで、もちろんこれは蛍ですが、一回目にはいつもドキッとさせられます。シートの上にはコーヒーやらお菓子やらが手の届くところに置いてあるので暗闇の中で飲んだり食べたりしながら水の音に混じって聞こえてくる様々な音を聞いて楽しんでいます。星もきれいです。気分が辺りの雰囲気になじんでくると楽器を取り出して鳴らしてみることもありますが、だいたいは静かなのが一番です。
 この日はたまたまウイスキーがあったので炉の残り火でツマミを焼いて一杯飲みながらウクレレを弾いていました。ランプは少し離れたところに炎を小さく絞って置きました。というのは明るくすると光の届くところはよく見えるのですがその外側は全くの暗闇になってしまい回りの様子がつかめなくなるからなのです。逆に明かりを消すと次第に闇に目が慣れてきて森の中でもかなり見えるようになるのです。回りが見えると恐怖心が薄らぐので、変な話ですが火を焚けば焚くほど闇は濃くなり恐怖心は募ることになるのです。
 しばらくしてふとランプの方を見るとランプのすぐ横に蛙が一匹来ていました。じっと座ってこちらを見ています。私は蛙が演奏を聞きにきたとは思いませんでしたが、もしそうだとするとおもしろいので、その蛙を観客にコンサートを始めました。ところが1時間たっても2時間たっても蛙は動きません。じっとこちらを見たまま喉の皮をひくひくさせているだけなのです。蛙というのは実に忍耐強い生き物だということをこのときに知りました。そのうち私も蛙のことは忘れてウイスキーを飲みながらウクレレを弾いていましたが、1時間くらいたってふと蛙の方を見るともうそこには何もいませんでした。とうとう行ったかと思いましたが少々さびしい気もしました。妙なものです。それからまたウクレレを弾きかけたのですが、今度はもう何だか張り合いがなくなってしまいました。それで片付けて寝ようと思い、もう一度ランプの方を見るとさっきとは反対の側の方に蛙がいるのです。体はやや斜めになってはいるもののやはりこちらを見ています。私はもう疲れていたので弾きたくなかったのですが、それでもせっかくなのでアンコールを一曲やって終わりにしました。
 次にそこへ行ったときは蛙が出てくるかどうか楽しみでした。日が暮れてランプを点けるとしばらくしてまた蛙が出てきました。すぐ後ろの芦の茂みにでもいたのでしょうか。私はうれしくなってこの日もずっと楽器を弾いたり歌を歌ったりしていましたが、蛙はその間中ずっと座ってこちらを見ていました。
 その次のときはランプを自分から2mくらいのところに置きました。さあ、来るだろうかと期待していましたが、何と、この日は2匹も出てきました。相変わらず喉の皮をひくひくさせています。しばらくして蛙たちが時々体の向きを変えてはまたこちらに向き直るのに気が付きました。何をしているのかなと思って注意しているとすぐに謎は解けました。蛙たちはランプの明かりに集まってくる虫を食べていたのです。ランプに虫が飛んできてぶつかるとひょいと体の向きを変え、虫と真正面に向かい合い、ぴゅっと舌を伸ばして虫を取っているのです。なぜ体の向きを変えるかというと蛙は首を曲げることができないからなのです。だから蛙は常に相手と正面対決をする生き物なのです。この点は私も見習わなければいけないと思いました。そして食事が終わるとまた私の方に向き直り何事もなかったかのようにじっとこちらを見続けるのでした。つまり、蛙たちにはディナーショーだったわけなのです。
 蛙が出てくる本当の理由は今も分かりません。去年は出て来ませんでした。谷川は美しい声で溢れていましたが、蛙は出て来ませんでした。今年はどうでしょうか。ぜひ出て来て欲しいものだと思います。
2002.6.2


★コメント
 この話は、後に、「谷川の小さな河原のコンサート」としてギター朗読作品にしました。そしてコンサートで発表しているので録音があるはずだと思い、捜してみました。すぐに見つかりました。2017年4月23日となっています。ということは6年前になるわけですが、聴いてびっくり、ひどすぎです。この録音を聴かなかったら「うまく行った」と思っていたことでしょう。記憶というのはこのように美化されていくのかと思いました。もしかすると、コンサートの後、録音を聴いていない可能性もあります。最近感じていることは、録音中に聞いている音と、それを再生して聞く音との間にかなりの違いがあることです。自分で「できた」と思っても録音を聞いてみるとできていないということが普通にあります。演奏時に迷いがあり、そのため表現が際立ってこないこともあります。中途半端なデフォルメは意味をなさないことが殆どですが、自制心が働くためそうなってしまうのでしょう。歌舞伎の隈取りを見るとよくここまで来たものだと思います。
 今回録音を聞いて、これは作り直しだなと思いました。それを楽しめるなら一番いいわけで、できればユーチューブに上げて終了ということもできます。その日が来るのかどうかは分かりませんが…。
2023年9月19日


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