<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

「やまなし」と私

2024-01-20 14:46:43 | 「遊去の部屋」
<2002年3月25日頃に投稿>
 私が初めて宮沢賢治に出会ったのは小学生のときでした。おそらく5,6年の頃だったと思います。その頃の私は漫画の本が好きで、といっても自分の家ではとても買ってもらえなかったから、いつも見せてもらっていたのですが、漫画の本を買ってもらえる家をみると本当に羨ましく思いました。そんな家に生まれたらどんなにいいだろうとそんなことばかり考えていました。ところが、そんな家がすぐ隣にあったのです。しかも、私と同じ年の子供がいて、生まれた日もたったの1日違うだけだというのに、向こうの家はおもちゃで溢れ、漫画もいっぱいありました。そういうわけで、いつもそこで見せてもらってはいましたが、見せてもらう立場というのは子供なりにも遠慮があって、自分で買えたらどんなにいいか知れないとよく思ったものです。中でも特に好きだったのは「少年」の別冊付録の「鉄人28号」で、この月刊誌が発売される日などは、自分が買うのでもないのに、指折り数えて待ったものです。
 そんなとき、名古屋にいた姉がちょうど帰省することになりました。その連絡の電話を取った私は、これこそ天恵、この機を逃したら二度と自分の漫画を手に入れる日は来ないというほどの意気込みで、姉に漫画の本を買ってきてくれるように懇願しました。それからというもの、一日千秋の思いで姉の帰りを待ちました。というより漫画の本を待ち焦がれていたのです。そして、とうとうその日がやってきて、姉から紙包みを渡されたのですが、実は、その中身が「宮沢賢治童話集」だったのです。漫画の本は一回読んだら終わりだけど、これならずっと読めるから…というのが姉の言でした。今にして考えると、お金を出す方としては、それを有効に生かしたいと考えるのは当然のことだったのかも知れませんが、子供にとっては将来のことなんかどうでもよく、そのとき欲しいものを手に入れることしか頭にありません。私はその紙包みを開くときまでその中身が漫画の本であることを疑いませんでした。何種類かある漫画の本のうちのどれだろうかということだけが頭の中をぐるぐる回っていたのです。そして包み紙を開いた瞬間、望みは儚く消えました。私は心底落胆して声も出ませんでした。

 本は図書館で借りてよく読んでいました。それらはたいてい冒険小説か動物記の類でしたが、おもしろくて時間の経つのも忘れるくらいでした。それに引き換え「宮沢賢治童話集」はどこがいいのかさっぱり分かりません。あっちこっちおもしろそうなところを捜しては読んでみるのですが、どの話もわくわくするようなことはありませんでした。目次で「気のいい火山弾」というのを見たときには、「火山弾」という言葉の響きから天地が裂けるような物語を期待しましたが、読んでみてがっかりしました。
 不幸にもそのようにして出会った童話集でしたが、いい本だと聞かされていたことと表紙が厚くて立派な箱に入っていたこともあって長く本棚に大切に飾ってありました。その背表紙を毎日見て育ったこともあって、いつか宮沢賢治という名前は私にとって馴染みのある響きを持つようになっていきました。

 次に賢治作品に触れたのは大学生のときでした。といっても夜学だったので、昼間はアルバイトをしていましたが、次第に自分というものをどう考えたらいいか分からなくなってきて、そうなるともう学校へも行かなくなり、アルバイトで稼いだお金がなくなるまでアパートにこもって本を読むという毎日になりました。主に、その頃流行の実存主義哲学関連のものが多かったのですが、そのときはその中に答があるものと思っていたのです。こうして2年ほど暗い青春期を過ごしましたが、とうとう完全に行き詰まってしまいました。それで、何もかも放棄したくなっていたとき、どういうものか突然ひらめいたのです。人間の存在は他者とのあらゆる関係の集合体として規定されるのだという考えが浮かびました。それなら自分が他者と結びたい関係を順番にどんどん結んでいけばいいじゃないかということに気付いたのです。当たり前すぎるほど当たり前のことですが、こんなことにもこうした手続きを必要とするところに青春期の特徴があるのでしょう。それで、そのとき頭に浮かんだのが「雨ニモ負ケズ」のあの詩でした。「東ニ病気ノコドモアレバ」から続く数行です。つまり他者とどういう関係をもちたいかということを述べているのです。はっとして、それからというもの、賢治作品を片っ端から読みました。だけど、そのときも、今から思えば<分かりたい>という気持ちの方が勝っていたように思います。

 ここで、一気に25年飛びますが、年に一度の高校の音楽発表会に行ったとき、そこでたまたま教え子に会いました。彼女が高校生のときに朗読をしてもらったことがあったので、機会があればまた何かやろうという話をして別れました。それは単に外交辞令にすぎなかったのですが、車で帰る途中、ふと、彼女の昔の朗読の声を思い出したのです。「あの声」と思った瞬間、突然「やまなし」が頭に浮かんだのです。これだと思いました。
 家に帰るとさっそく本を捜して音作りにかかりました。ところが、これがまたやっかいで、作ろうとすると何故かわざとらしいものになってしまうのです。感じのいいものを作りたいという気持ちがあるので、作ろうとすればするほどわざとらしいものなってしまいます。それで私は先ず自分の気持ちを、いつも行く谷川の小さな川原に持って行きました。そこは「やまなし」の話が本当に起こってもおかしくないようなところです。20年くらい前からよく遊びに行っているところなので目を閉じれば水の流れや岩の位置、木の枝の張り出し具合まで見えてきます。それを思い浮かべて耳をじっと澄ましてみました。そうすると心の中にいろんな音が聞こえてきます。そしてそこで感じた音のイメージを楽器で拾いました。
 次は言葉との組合せでした。頭の中で音のイメージを流しながら言葉を読んでいくのですが、10回、20回と読んでいくに従い、私はこの作品が、それまで自分が思っていたよりもはるかにすばらしいものだということが分かってきました。100回、200回と読んでいくうちに、私は、このとおりの世界が賢治さんの目に見えたのだと確信するようになりました。それをどうやって言葉に表すかというところであちらこちらに賢治さんらしさが出ています。それを感じるたびに生きた賢治さんと話をしているような気分になりました。
 例えば、『波から来る光の網が、底の白い磐の上で美しくゆらゆらのびたりちぢんだりしました。』というところも、普通なら「波から来る」という言葉はつけないでしょう。賢治さんはここで「光の網」が物理的に存在して、それが「波」によるものであることを言わずにはおれなかったのだと思います。もちろん、「波」は「12月」の方で重要な役割をしているわけだから布石と見てもいいわけですが、こんなに美しい描写の中に、その発生の原因までも滑り込ませてしまうところなどはいかにも賢治さんらしいと思います。
 これ以来、私は「光の網」を意識するようになりました。もちろん水の中の光が美しいということは子供のときから知っていました。しかし、それはあるのが当たり前の世界で、山が緑であったり、空が青かったりするのと同じようなものでした。意識して思ったことはありませんでした。それで、その夏、川に泳ぎに行ったとき、私は息を止めて水に浮きながらずっと水の底に映る光の網がゆれるのを見てみました。そして自分が本当に美しい世界に取り囲まれているのだということを初めて自覚したのです。それ以来、美しいものを見つけるのが前よりうまくなったような気がします。それは、それだけしあわせを感じる機会が増えたということです。

 今、私は「やまなし」の英語版に取り組んでいます。翻訳ではありません。英語での朗読です。日本語では、一応、ギターを弾きながら朗読できるようになったので、その日本語のところを英語でやろうというわけです。動機は至って簡単です。外国人の知り合いにも「やまなし」の世界を知ってほしいからなのです。と言いたいところですが、実は、自分がこんなコンサートをやったということを外国人の知り合いに話したとき、日本語では相手に分からないので、つい、口がすべって、予定もないのに、今度英語版を作るつもりだと言ってしまったのです。日本的サービス精神というか日本人的お人好しというか、そんなわけで英語版に取り組むことになりました。
 家にあった英語版の賢治童話集をみると、ちょうどその中に「やまなし」があったので、よし、これで半ば出来たと思いました。まあ、あまり気にしないでください。私はもともと極めて単純な人間なのです。たまたま一時期実存主義に染まったためか、本来の自分を見失ってしまったのです。それでいまだに自分を取り戻せないでいるのですが、何かの拍子にひょいと元々の自分が顔を出すことがあるのです。このときも、出来上がった英語版を演奏しているところまで見えたのですが、細かく読んでいくうちにこれはどうもおかしいぞという部分がいくつも出てきました。どうしてだろうと考えてみるのですが、この翻訳は外国人の手によるもので、どうもそれぞれの場面に合理的な説明を求めていて、理解できないところは自分で補って埋めているようなのです。
 その中の一つを紹介しましょう。「12月」のずっと終わりの方に『やまなしは横になって木の枝にひっかかってとまり、その上には月光の虹がもかもか集まりました。』という部分があります。この「木の枝」が問題です。「 caught in the low-hanging branches of a tree 」と訳されているのですが、これから考えると、訳者は、「木の枝が低く垂れて水の中に入っていて、ちょうどそこにやまなしが流れてきて引っかかった」というように考えていると思うのです。これは、まず、「やまなしは木の枝に引っかかったが、水の中に木の枝があるというのはおかしい。きっとこれは岸辺にある木が水面に覆い被さるように枝を伸ばし、それが水の中にまで入っていて、そこに引っかかったのだ。なるほど。」と考えて納得したのでしょう。
 谷川を歩いていればすぐに分かることなのですが、上流から流れてきた木の枝はあちこちで岩と岩の間に引っかかります。そうするとそこに流れてきた枯草などが次々に引っかかって流れを堰きとめるような形になるのです。こういう光景は谷川のいたるところで見られます。そこへやまなしが流れてきてこの堰にぶつかると上を乗り越えるか下をくぐり抜けるかしなければなりません。この場合は、おそらく流れに押されて下に潜り込んだのでしょう。ところが運悪く十分下まで行く前に、水中で引っかかってしまったのです。それで、くぐり抜けることも出来ないし、どんどん水に押されているから戻って浮かび上がることもできないし…、という中途半端な状態で(何か私の人生のようですが)水中で上下にぷかぷかしていたのです。そのため、やまなしの上の水の流れが乱れて、そこに月光が射し込んだので、光がゆらゆらして見えたということだと思います。それを「月光の虹がもかもか集まった。」とは何という見事な表現でしょう。
 現在、まだ練習中ですが、何とかなりそうだという気がしています。ただ、ギターを弾きながら朗読をするので、指が難しくなると英語の発音がカタカナ化してしまうという点など、多少問題はありますが、90%も伝えられれば上等だ(賢治さん、ごめんなさい)という、自分に甘い乗りで、録音テープを渡す日のことを心に描いて何とか切り抜けてみせるつもりです。

 
★コメント
 日付がないので何時この原稿を書いたのか分かりませんが、最終印刷日が2002年3月25日となっているのでその辺りでしょう。
元生徒に朗読してもらったライブは2000年7月22日に実現しました。このとき私は横でギターを弾きながら『あの声はもう戻って来ないな』と寂しい気分になっていました。彼女はそのとき大学生になっていて既に大人の声に変わっていたのです。私が思い出したのは高校生の時の子供の声だったのですが…。
 その後、自分でギターを弾きながら朗読する練習を始めました。そしてますますこの話が好きになりました。それから2,3年後くらいだと思うのですが、自分の授業の最後の日、テストを返した後の残り時間を使って生徒の前でこれを演奏しました。生徒たちにこのような世界を心の隅に持って大人になっていって欲しいと願ったからでした。それ以来15年くらいは続けたと思います。これについては批判もあったでしょうけど、学校で、「やって良かった」と自分で思うのはこれくらいのものです。
 何年かぶりで「やまなし」を弾いてみました。言葉も音も忘れているところがあり、楽譜でチェックしました。書いておいて良かったと思いました。数回弾くと完全に思い出しました。やはりいい話だなあと思いました。年の初めに、これはなかなかいい滑り出しになりました。
2024年1月20日


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